今回は立花大敬さんの「大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」」から最新記事を紹介します。
1485 2025.06.02 ~ 1488 2025.06.05
<インタビュー記事より>
Q.当たり前すぎて気づきにくい「幸せ(のエッセンス)」の見出し方があるとするなら、どんな点に気づくと「幸せ」に気づきやすくなると思われますか?
例えば、ないもの・持たないものではなく与えられているものに意識を向ける。どんな自分もありのままで完璧だと思う等。
A.「しあわせ」は、自分以外の人やモノとの「一体感」が得られた時に体験される感情です。
自他を隔てる仕切りがある間は、一体感が得られないので、本当のしあわせを感じることは出来ません。なぜ自他の仕切りが取り去れないのかというと、アタマがはたらき過ぎる、アレコレの思いがアタマの中を駆け巡っているからです。アタマの過度の活動を休ませると、人はしあわせを感じるように、本来そのように出来ているのです。
ですから、しばらくアタマを休めるだけで、しあわせ感を取り戻すことが出来ます。そうなった状態で『ああ、しあわせだなあ』としっかり実感して、その「しあわせ実感」を心に刻み込むようにしてください。そうすると、心さんはその「しあわせ実感」を種にして、あなたの周囲にしあわせ世界を現実化してくれるようになります。
やはり坐禅がアタマを休めるには一番有効な方法だと思いますが、坐禅ばかりしているわけにはいかないので、日常生活で出来るトレーニングを紹介しておきます。
アタマに思いがグルグル回り、煮詰まり始めたら、サッと気をそらす練習をするのです。遠くのもの、たとえば空を見上げたり、山をながめたりするだけで、アタマの悪循環がストップできます。小さいモノ、草花や石ころをみつめて話しかけたり、微笑んだりするだけでしあわせになれます。森林に入って植物が放つ癒やしの気に包まれて下さい。
アタマが暴走を始めたと気付いたら、フッと息を吹いて、その「重い思い」を吐き出すイメージをするというのは神道の「息吹放ち法」です。
日本人は、しあわせを感受する能力が優れています。
カエルがポチャンと池に飛び込んだ一音を聞いただけでも、その音と一体となって無上の喜びを感じることができます。
一服のお茶を静かに味わう、そのひとときにしあわせを感じることができます。日本人は、こういう何気ないひととき、さりげない一動一作にしあわせを体感する修練を積んできた名人なのです。
西欧の人は、春はいいが夏は嫌い、秋はいいが冬は嫌いとアタマで好き嫌いなどと弁別の仕切りを作ります。日本人は春夏秋冬、それぞれに味わいがあると、それぞれの季節と一体となって、無上のしあわせを感じることが出来るのです。(完)
1481 2025.05.27 ~ 1484 2025.05.31
<インタビュー記事より>
Q.50年以上に及ぶ禅道で到達された数々の境地の中で、今、最も後世に伝えられたいと感じておられるメッセージはございますでしょうか。
A.禅を学んで手に入れることが出来た最大の収穫は、『私は私でよかったんだなあ』と、「ありのままの私」に落ち着くことが出来るようになったことだと思います。
若い頃の私は、自分が嫌いでしょうがなかったのです。こんな自分じゃだめだ。もっと立派な人間になりたいと禅に入門したわけです。
でも、いくら坐禅しても、修行しても、もとのままの私で、ちっとも変身出来なかったのです。しばらくは悟りのような境地を体験して『これこそが究極の境地だ、生まれ変わったぞ』と力んでみても、そんな興奮状態もやがて醒めて、またもとのままの「あかんたれの自分」に逆戻りしてしまいます。
そんな時に師匠から「どうしてイヌには仏性がないのか」という公案(禅の問題)を与えられました。これは自分の問題として読みかえたら「どうして大敬には仏性がない(仏になれない)のか」という、当時の私としたら一番切実な問題でもあったのです。この問題は3年掛かりましたがようやく解答が出ました。そして、『私は私でよかったんだ』と腹の底から納得できたのです。
私には仏なんて必要なかったんです。<私が私であること>こそが仏であったからです!
この「私」は、決して奇麗事の、ピカピカ光るところばかり集めた「より抜き大敬さん」じゃないですよ。ビクビク・オロオロ、失敗してクヨクヨしたり、裏切られてベソかいている私も全部を含めた「ありのままの私」です。
ワンちゃんは、ありのままのワンちゃんでよかったんです。頭を剃って、お袈裟を身につけて、電信柱をみてもクンクンしたり、オシッコしたくなったりするのをジッと我慢するなんていう必要はなかったんです。
ワンちゃんには、生まれつきの制限と制約(仏教では、これを「業」といいます)がいっぱいあります。数学の勉強はできないし、空を飛べません。でも、そんなワンちゃんが、自分の持ち前の使える道具を精一杯使いこなして、いきいきと生きています。その精一杯生きて活動している姿が、なんとも美しくてキラキラ輝いています。そんなワンちゃんの姿こそが、本当の「仏さま」であったのです。ですから、「イヌに仏性がない」というのは、「イヌには仏性は必要ない!」という意味だったのです。「イヌはそのままのイヌであればそれでOK!」だったのです。
そして、私が私である(ダメな私、弱い私も含めて)ことに納得して、私であることを受け入れ、許し、愛することが出来るようになった時、私には自覚出来ないことだけれど、なぜか人から見て、私が私という個性を存分に発揮して、いきいき活動しているように見えるらしいのです。それに、私が担当する仕事の実績もドンドンあがるようになってきたのです。なぜそうなのかは、私にはサッパリ分かりません。「私はただ私しているだけ」なのですが…。
私が禅を学んで得た一番の収穫は、『私は私でよかったんだなあ』と心から納得して日々をおくれるようになったところだと思います。
しかし、従来の禅は、あくまで専門道場の修行僧を対象にした「指導システム」です。それでは、私たちのような世俗に生きる人は禅の道を進めないので、私はそれを一般の人も坐ったり、学んだり出来るような形に作り変え、それぞれの立場の人がありのままの自分に落ち着いてイキイキ生きられるように導きたいと思っています。(完)
1480 2025.05.26
Q:なぜ坐禅すれば「しあわせ」になれるのですか?
A.<しあわせの語源>:「仕合わせ」→同じ目標に向けて仲間と連帯し、協力し合って、それぞれの役割を分担して共同作業してゆく。その時の充実感、満足感が、日本人が感じる「しあわせ」。
日本人の「しあわせ」は、個人的なものではなく、仲間との関わりのあり方。
要約すると、仲間との一体感・連帯感・貢献感が感じられる時、人は「しあわせ」を感じる。
あなたの坐禅している<今・ココ>は、お釈迦様や菩薩の<今・ココ>、20数年前から続いている大敬の禅の会に参加して坐禅した人の<今・ココ>も、あなたの坐禅の<今・ココ>に結集している。
そのように、坐禅する人は、過去から現在にいたるたくさんの坐禅実行者が結集して形成されている<安らぎと癒やしの場>に入ることが出来る。そうして、あなたは自分の力で坐禅しているのではなくて、そんな<安らぎと癒やしの場>に身を委ねて坐禅してるんだという、一体感と連帯感を持って坐ることが出来るようになる。また、自分の坐禅がその<安らぎと癒やしの場>の力を補強するという貢献をしているという、貢献感をもって坐ることが出来るようになる。
これまで、坐禅をしたことがない方も、毎日10分でもいいので,坐禅する習慣をつけてほしい。そうすれば、しあわせ人生の扉が開けてくる。
1479 2025.05.24
Q:なぜ坐禅すれば、天とつながるのですか?
A.大敬の伊勢神宮内宮での体験、ヤコブの夢(天に届く梯子、上下する天使たち)
大敬は「コトバの自由」を得た。ヤコブは「戦士のパワーとワザ」を得た。ヤコブは、「イシャラー(勝者)+エル(神の)」=イスラエルのいう名を得た
<今とココとこの身>の鉛直上方に「天の中心(宇宙の中心、アメノミナカヌシ)」がある(いつでも、どこでも)。
坐禅して、<今とココとこの身>に収まると、「天の浮橋(あめのうきはし 天と地(身)を結ぶ意識のエレベーター)」が開通する。
「天」から人に刻々流入している生命エネルギーを「日(ひ)」という。
「日足し(ひたし)」=「養し(ひたし)」 「止む日(やむひ)」=「やまひ(病)」