2022年11月23日水曜日

2889「 国常立尊の復権」2022.11.23

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月15日の記事を紹介します。


「 国常立尊の復権」

ここ数年、国津神の話題が頻繁に出てくるようになりました。

先週行ってきた諏訪大社、タケミナカタもそうですが、私も参拝に行く神社は偶然にも国津神系がほとんどです。 

「国常立尊の復権」と言う言葉は、あの霊的な巨人で大預言者だった出口王仁三郎の言葉です。

国常立尊(クニトコタチノミコト)は国津神の中の最上位の神様です。

今日は、その地球上に初めて現れた神様、国常立尊(クニトコタチノミコト)のお話です。 

日本書紀では冒頭、初めて現れた神として国常立尊(クニトコタチノミコト)が書かれ、造化三神、つまり最高神とされています。 

ちなみに古事記では少し異なり、最初の神様は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。


結美大学の小名木善行先生のお話では

古くから日本のメジャーな正史(せいし)と言えば日本書紀でした。

戦後GHQの敗戦教育で日本人の魂を弱体化するために

神話教育が禁止され、日本書紀も禁止されました。

そのため代わりに戦後は「古事記」が学ばれるようになりました。

日本書紀と古事記はともに8世紀のはじめにまとめられた歴史書です。

「古事記」は、飛鳥時代に天武天皇が、暗記が得意な28歳の側近、稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて、天皇家の歴史である「帝紀(ていき)」と、豪族の神話や伝承である「旧辞(きゅうじ)」を暗記させたといいます。

そして、太安万侶(おおのやすまろ)が稗田阿礼がそらんじる内容を文字に書き起こし完成させました。

それに対し「日本書紀」が用いた資料は、『古事記』と較べはるかに多彩で「帝紀」「旧辞」のほか、朝廷の記録や個人の手記、中国の史書、さらに朝鮮半島に関しては、「百済記」等も用いられています。

朝廷の日々の記録に基づく記述も増え、記述の信憑性を高めています。

伊勢外宮の祭神は国祖・国常立尊とされています

どのような神話も最初の序文に一番大切なことが書かれています。

日本書紀では序文に下記のことが書いてあります。

・天も地も混とんとして、まだ分かれていない時

・正(明るく清らかなもの、陽気なもの)邪(重くて暗いもの、陰気なもの)が、まだ分かれていない時

・陽気なものは薄くたなびいて行き、天になった

・重く濁ったものは、下に沈んで行って、地になった

そしてここからが重要なのですが、そこに聖なるものとして国常立尊という神が現れた。

世界中どの国でも神様は一点のしみも無い存在であって天に在る者とされ、

絶対的に清らかな存在とされていますが、

私たちの住むこの日本では全く異なります。 

全き清らかな、そして聖なる天の中ではなく・・

清らかな「天」と、重くて濁った「地」

その両方混ざった場所で、最初の神が生まれた・・とされています。

つまり神様の中にさえ

・清らかな聖なるものと

・重くて濁ったもの

その両方が存在していると、序文で宣言しているのです。

まさに私たち日本人の中に流れている縄文のDNAそのものの考え方です。

決して、「良き者、悪き者」と二元論で区別し、悪しき者は、征服し切り取り、消滅させよ・・

と言う精神ではなく、悪しき者も、大きな心で抱き参らす・・という考え方です。

 

そしてこの序文が意味することは私たちの肉体には心がある。

心は時に様々思い悩んだり苦しむことがある(重く濁る)。

肉体は重くて濁った「地」でできている。

重くて濁ったものの中に「心」がある。

だから心も重く濁ってしまうことがある。

それは神様も同じ。 

神様も両方でできているから。

その重くて濁った「地」でできた肉体の中には

清らかな聖なるもの、朗らかなものも宿っている・・

肉体と、心と、魂(霊 ヒと読みます)で神様も私たちも成り立っている。

私たちは人間ですから重くて濁ったものがあるため、

辛くて落ち込んでしまったり、心が濁ってしまって、弱ってしまうこともあります。

でも同時に心の中に「清らかな聖なるもの」も存在しています。

落ち込む時ばかりでなく、美しき天使のような温かな心を持つこともできる。

そのような温かな魂(霊)を、全ての人が心の中に持っている・・

そう日本書紀では国常立尊の誕生を基に後の世の私達に伝えています。

では、節分にまつわる国常立尊のお話をご紹介します。 

さて豆まきでは、皆さんのお宅ではなんと言いながら撒きますか?

実は、「鬼は内~ 福は内~」が本当は正しいのではないかと言われています。

節分の日は、日本の国祖、国常立尊が世界の艮(うしとら)の方角、

つまり日本の地に封印された日と言われています。

国常立大神(くにとこたちのおおかみ)は、『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記されています。

この国常立大神は、地球の原初の頃、地上の修理固成に苦労されていた、

「ミロク大神」と「伊邪那岐命」の2神を助ける形で、地上に降臨しました。

国常立大神自身も龍神であったようですが、他にも数多くの龍神眷属を引き連れてやってきたそうです。

その後も国常立大神は、地球の総司令官として活躍し続けたようですが、 

次第にその厳格さゆえに、他の眷属神(八百万神)から不平がもれ始め、 

世界の東北(=艮)の地にあたる日本列島に封印されてしまう事になります。 

それ以来、国常立大神は、艮の金神、すなわち「祟り神」として恐れられ、

また、疎まれるようにもなり、その存在すらも忘れ去られてしまう事になります。

封印、つまり排除された神とは、まさに戦後、日本が置かれた立場と同じです。

国常立大神の排除の事情は、出口王仁三郎『霊界物語』によれば、以下のようであったようです。

 

国常立大神の厳格さに嫌気がさした八百万神々や、悪神と化していた盤古大神と

大自在天神らによって地上は大変乱れてきました。

そこで国常立尊はやむを得ず、天に向つて救援を要請しました。

天では

・天照大御神、

・日の大神(いざなぎのみこと)、

・月の大神(いざなみのみこと)、

この三体の大神が、地の高天原に降臨し、 

国常立尊の神政および幽政のお手伝いをすることになりました。

国常立尊は畏(おそ)れ謹(つつし)み、三体の大神を迎えました。

しかし地上は国常立尊の神政は勢力を失い、盤古大神および大自在天神の勢力は強く、

ついには国常立尊に対して、御退位を迫る勢いでした。

天の御三体の大神は、地上の暴悪なる神々に向かって、なだめ、あるいは訓(さと)し、

天則に従うべきことを丁寧に説きたましたが、時節は悪神に有利であり、

いはゆる悪盛んにして、天に勝つ。という状態でした。

ここに国常立尊は神議(かむはか)りにはかられて、 

髪を抜きとり、手を切りとり、骨を断ち、筋を千切(ちぎ)り、手足所(てあしところ)を異(こと)にするやうな惨酷な処刑を甘んじて受けたまいました。

ですが国常立尊は宇宙の大原霊神(おほもとがみ)でしたので、一旦肉体は四分五裂しても、

直ちにもとの肉体に復ってしまうのでした。

暴悪なる神々は、盤古大神と大自在天神とを押し立て、遮二無二に己の要求を貫徹しようとし、天の御三体の大神様の御舎(みあらか)まで汚してしまうことになったのです。

その結果、ついに国常立尊に退隠の命令が下ることになりました。

さて天の三体の大神様は、国常立尊は自分の家臣となって居ますが、元来は国常立尊は大元の祖神であり、御三体の大神様といえども、国常立尊をご自身で生んだ関係がありますので、

心情としては国常立尊を退隠させることは忍びなかったのです。 

ですが時節のやむなきを覚り、涙を流しつつ勇気を持って、しばらくは八百万の神々の進言を、認めることになりました。

その時、天の大神様は、国常立尊に対して後日の再起を、以心伝心で伝え、国常立尊に退隠をお命じになり、天に帰られました。

 

その後、盤古大神を擁立する一派と、大自在天神を押立つる一派とは、烈(はげ)しく覇権を争い、ついに盤古大神の党派が勝ち幽政(霊界)の全権を握ることになりました。

一方、国常立尊は自分の妻神である坤金神(ひつじさるのこんじん)と、

大地の主宰神(金勝要神 きんかつかねのかみ) 

および宰相神(さいしやうがみ)大八洲彦命(おほやしまひこのみこと)、

その他の有力なる神人とともに、わびしく配所(はいしよ)に退去しました。

以上が、国常立尊が艮(うしとら)の地、

つまり日本に封印されたいきさつです。(出口王仁三郎の『霊界物語』より) 

そして引退の日、つまり封印された日が、節分です。

国常立尊が封印された後、万神達は国祖の威霊が再び出現するのを恐れ、七五三縄(しめなわ)を張りめぐらし、 「煎豆に花が咲くまで出てくるな」と呪いの言葉を投げかけました。(いった豆から芽が出てくるはずがありません)

さらにその封印の力を強力にするために、節分の日に「鬼は外、福は内」と唱えさせました。 

鬼とはもちろん国常立尊のことです。

節分には、日本中がこの言霊を唱えます。

従ってどれほどの威力か測りしれません。

また節分に炒り豆をまくのには、炒り豆をまいても花など咲くはずもありません。

国常立尊を復活させない「まじない」としての意味があるのだそうです。

ですが、天の三体の大神様は、国常立尊に引退勧告を出すときに、後日の再起を固く約束されました。

さて、その後日の再起とは何時のことでしょうか?

以前 「3千年王国の始まり」 の記事でも書きましたが、出口王仁三郎の予言によれば、

2010年より人間の精神性に関する立替え・立直しが始まっています。

ですが神々のやり方は、その最中には、全く私たちが気付かない方法で、進められていきます。

多くの人が期待するような派手で、ドラマチックな、天変地異のようなやり方ではないと思います。 

人の心に働きかけるのです。

働きかけられた無数の人々は、自らも知らないうちに、有機的に、ジャストなタイミングで、つながります。

あるテーマで集められた人は、同時期に、同じようなことに興味を抱きます。

   

また自ら発している波長が同じであるため、同調して集合するわけですが、 

それは、まさに偶然の出会いと思えるかもしれません。

ですが、それは、確実に神々によって計画された出会いです。 

世の中に大きな変化が起こるときは、たくさんのテーマが同時で進行しますから、

テーマごとに人が集めらます。 

神々の計画に、後ろを向く人もいるでしょう。 

・変化を嫌う人

・心の世界を認めたくない人

・今だけ、金だけ、自分だけの人 

ですが、そんな人たちも、類は友を呼ぶ波長の法則により、同じ考えの人たちが集まることでしょう。 

まさに変化の時代には、そのような人々を、あぶり出し、目立たさせる効果もあります。

今、そのような変化が起きています。 

世の中の変化、全ては、私たち一人一人の心が決めています。

愛する家族であっても、同じ道を行くとは限りません。

大きな変化でさえも、その最中、渦中の人には気づきません。 

後の世の人が指摘することです。

気付いたら、いつの間にかミロクの世が始まっていた・・ そんな形であろうと思います。

決して、どちらの道が良くて、どちらが悪いのではありません。

その人の持つ好みとか嗜好性によって、

進むべき道がドンドン鮮明に分かれて来ているのではないかと思います。

そしてその道は、今までであれば再び交わることもあったけれど、

今の地球での時空間では、もう交わらないのではないかと感じています。

でもそれは悲劇ではなく、自分の好きな道、目的地が鮮明になり、

そこへ向かうがための別れでしかありません。

そして、自分で定めた目的地にちゃんと着くには、

・自分がどうしたいのか?

・何をしたいのか?

・どう生きたいのか?

人に流されず、人に頼らず依存せず。 

自分の信じる道を進む勇気を出してみてください。

私たち一人一人は、神さまに見守られています。

ですから自分の意思・心で決めて進んで行くことができます。

自分の人生は人に頼り、決めてもらうのではなく、自分で決めて進んで行かねばなりません。

できるなら、心に張り付いた沢山の灰汁(アク)を少しずつ落とし、 

ピュアな心で、内に居らっしゃる神さまと歩んで行きたいものですね。