2019年1月20日日曜日

1555「会津12」2019,1,20

 児島さんの所を出て宿泊先の昭和村を目指します。児島さんも今日は私達と一緒に宿泊しますので、木内さんを助手席に同乗して先導してくれます。流石に地元の道に精通していて助かりました。
 昭和温泉「しらかば荘」には16時過ぎに到着です。


皆さん先ずは温泉に入って寛いで頂きました。しらかば荘は敷地内に自家源泉のある天然温泉100%の掛け流し温泉で、湯量豊富な温泉は肌あたりも優しく、湯冷めしにくい温まりのお湯です。しかし露天風呂はあまりの熱さで女性たちは入れなかった様です。

 17時過ぎから講話がありました。「昭和村で生きる意味」と題して道の駅からむし織の里しょうわ駅長の舟木容子さんのお話しです。舟木さんはからむし織の織姫として20年以上前に昭和村に来て、以来この地で活躍しています。以下、内容を紹介します。 




「昭和村で生きる意味」 
 私は生まれ、育ちは埼玉県浦和市です。20歳の時に昭和村にからむし織をする為に来ました。昭和村のからむしは300年前から栽培されていて新潟に出荷されていました。越後上布、小地谷縮として織り上げ、高級な織物として流通していました。
 昭和村では昭和49年から織物をスタートしました。昭和村は栽培が主ですが、当時人口2200人で後継者が減少してきていました。からむし織の織姫体験制度が25年前にスタートしてその1期生として村に来ました。
 その時の織姫は10名いました。その時、栽培から織まで全工程を体験しました。ホームステイをしてその家の娘の様な感じで生活していました。村の各部落ごとに行事があり今でもそれは消えないであります。
 その織姫10人の内、役場でも残ると思ってもいなかった2人が村に残ったのです。翌年は8人が残りました。しかし残っても村で仕事があるわけでもなく、指導補助員をしていました。初めて昭和村に来た人はこの地の言葉が分からないので伝えたりしていました。

 昭和村に来て2年目に村の方と結婚をしました。6年間は専業主婦をしていましたが畑をやりたくなり、子育てをしながらからむし織を始めました。今、村にある「からむし織の里しょうわ」道の駅は出来て4年目ですが、その前の物産館から関わっていました。私のからむし織の技術はまだ向上していません。1年で2反織れるかどうかです。からむしは3年かけて糸を作り、織るのです。
 私は気負っていないし、使命感も無く今、ここで生きています。これまでこの村の畑を守っていたおじいさん、おばあさんの気持ちを伝えて行くのが役目かと思っています。その方々のリアルな言葉を聞いていたのは私位で、もうすでに皆さん亡くなってしましました。

 村の産物を道の駅で売っています。みんな手作り品で、専業農家がいないので余りもの位ですが、ここのその技術を残したいと思います。今は、冬は積雪2m位ですが昔は4mもありました。この場所は山間で風が無いので、雪がしんしんと降るので暖かいのです。
そしてこの地には文化が残っているので素晴らしいと思います。村でのかすみ草の栽培は日本の8割のシェア―で、年商4億です。最高に気候が良いです。
 矢の原湿原があり水はけが良い。蕎麦と種イモ、じゃがいも採れます。ここは標高650mで焼き畑をして有機肥料でまらむしを栽培している、日本唯一のからむしです。昭和村のからむしは国の重要文化財となっています。」

 お話しを伺い、木内さん、児島さんも参加して楽しいお話会に成りました。地元で生きている方のお話しは興味深いものです。山一つの所に住む児島さんはこの地の風土、生き様を良く知っていて的確な意見を述べていました。

 夕食は地元の食材を活かした美味しい料理です。最後に上がり蕎麦ならぬ、児島さんから差し入れの矢の原で取れた蕎麦を皆さんで頂きました。美味しいのです。皆さん感動の声が上がります。






 蕎麦アレルギーのGさんが私の所に来て、「この蕎麦なら食べてみたいと思いますがどうでしょうか?」と言います。蕎麦にきわみの中山水を差して大丈夫だよ、伝えましたが、Gさんは初めて美味しく蕎麦を食べる事が出来ました。又一つ世界が広がった良き体験でした。

 2次会は私達の部屋で大和川酒造のお酒を頂きました。私は眠くてしょうがなかったのですがどうにか最後まで参加出来ました。無事に1日目を終え、深い眠りに就きました。