2019年1月14日月曜日

1549「会津6」2019,1,14


 大和川酒造では皆さんお酒やつまみを買い求めていました。私も今夜の2次会用に純米大吟醸弥右衛門と純米辛口弥右衛門の1升瓶を仕入れました。
 雨はまだ止まず、逆に雨が強く降り続いています。次の目的地、喜多方市内にある新宮熊野神社に向かいました。 
 この地にこの様な神社があるのかと思う程に立派なものです。神社受付には貸出用の傘が沢山用意されていますので大助かりです。参道を進むと正面に社が見えます。左手には葉を落とした大イチョウがありますが、地面は黄金を敷き詰めた様で、銀杏の葉の黄色の絨毯は長床と相まって見事な景色です。皆さんこんなのは見た事が無いと驚きの世界です。






この神社の紹介は以下の様です。

「古の歴史と文化がいまも色濃く残る、福島県喜多方市慶徳町新宮にある『新宮熊野神社』は、応徳3(1085)年に造宮。日本の聖地のひとつにとされた熊野三山を祭る神社には、鎌倉初期に建立された国指定の重要文化財である、内部に仕切りや建具のない吹き抜け構造の壮大な建物「長床」や、喜多方市天然記念物に指定されている「大イチョウ」。また県指定の重文の木造「文殊菩薩騎獅像」。国指定の重文の「同鉢」など歴史と文化的価値のある神社となります。

 壁も扉もない吹き抜けの壮大な建物『長床』:修験者が厳しい修業に励んだ道場として使われたこともあったと伝えられている国指定の重要文化財『長床』。直径1尺5寸(約45cm)の円柱44本が10尺(303cm)の等間隔、5列に並び、周りには壁も扉もない吹き抜けの壮大な建物。当時は神楽等の祭礼としても使われたと伝えられています。

 神社の神木になっている樹齢約800年といわれる『大イチョウ』:長床前には樹齢約800年ともいわれる、高さ30m、胸高の幹回り7.73mの神社の神木になっている『大イチョウ』があり、秋には辺り一面を黄金の絨毯に染め上げ、四季折々に拝殿「長床」を彩る光景は見事。落葉後も黄色いじゅうたんのような様が美しく沢山の観光客を魅了しています。また毎年11月に期間限定で行われるライトアップは、幻想的な輝きに、しばし時を忘れてしまうかもしれません

 獅子のお腹の下をくぐることができる『文殊菩薩騎獅像』:新宮熊野神社の宝物殿の中央にある県指定重要文化財『文殊菩薩坐像』は、獅子も含めた高さは287.4センチ。知恵の菩薩様と知られ、獅子のお腹の下をくぐることができれば頭が良くなると言われ、受験生や選挙前に政治家が必勝を祈願しに多く訪れます。また撮影も自由です。」

 長床の奥には熊野神社の本殿があり、本宮・新宮・那智の熊野三山が祀られています。皆さんで参拝して帰りに宝物殿を見学しました。







文殊菩薩座像は見事なものです。この神社の歴史は以下の様です。

「平安時代後期の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後、寛治3年(1089年)後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという。この時、同時に熊野本宮社を岩沢村(喜多方市上三宮町)、熊野那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に遷座・造営したが、後年、この2社は新宮社に遷され、現在、神社には本宮・新宮・那智の3社が祀られている。
 最盛期には300余の末社や寺院・霊堂が立ち並び、100人以上の神職がいたというが、12世紀末に越後の城長茂の押領により一時衰退した。その後、源頼朝によって200町歩の領田を与えられて再び勢力を取り戻した。奥州合戦後に会津を与えられた佐原義連の孫・時連は神社の北東に新宮城を築いて新宮氏を名乗り、これ以後約200年間会津盆地北西部(現在の喜多方市一帯)を支配することとなった。新宮氏は神社を守護神として崇め、多くの神器を寄進し、神社の保護に努めた。新宮氏が蘆名氏に滅ぼされると、後ろ盾を失ったことから神社は衰退していき、16世紀後半になると戦乱に巻き込まれた影響もあって社殿は荒れ果てたものになっていたという。
 慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時に50石を支給されたが、慶長16年(1611年)の会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった。その後、慶長19年(1614年)、蒲生忠郷によってかつてのものよりも一回り小さい拝殿(長床)が再建され、会津松平氏時代は祈願所とされ、度々藩主の代参が行われた。明治時代初めに廃仏毀釈のあおりを受けて多くの仏像や文化財が失われてしまったが、神社は存続し、現在は神社近辺の集落住民で結成された保存会によって維持管理されている。」