「16万人の『原発難民』を生んだ福島に、原発との共存はない」。「福島の脱原発はイデオロギーではない」。これらの言葉を、自らのHP上に掲げる、「会津電力」。
「県内の電力エネルギー需要を、再生可能エネルギーのみで賄うことを可能にする体制づくりを理念とする」、福島現地から上げられた狼煙に、否が応にも期待は膨らみます。本年度3月11日には小泉純一郎元首相を招いての講演会を開催したことからも伝わる、その本気度。
会津電力を牽引するのは、福島県喜多方市で寛政2年(1790年)から続く大和川酒造の9代目当主、佐藤弥右衛門氏。開口一番、「『やられたら、やり返す』ということですよ」との言葉から、痛快インタビュー、始まりました。
佐藤弥右衛門(以下、佐藤):人間なんて単純だから、そんなきれいな正義で生きてるものでもなんでもない。でも今回ばかりは、喧嘩するには相手がデカ過ぎて、こっちも力付けないと、叩き潰されちゃう(笑)。
—まさに今日、伺いたかったお話です。
佐藤:根底にあるのはそこですよ。そこはみんな、同じ気持ちです。ただ目の前に国や東京電力がいて、「このやろう」ってわけにはなかなかいかない(笑)。
—その時に最も有効な力は、これはすでに弥右衛門さん、会津電力がやられているように、状況を具体的にすすめてしまうことかと思います。
佐藤:そう、やることですよね。民主主義的な手法は、日本人は訓練されていない。残念ながら地方議会をみて、それは国もそうだけど、私はそこに期待していないんです。
それよりも、今まで自分たちが地域社会の中でやってきた手法。自らやって、そのことで具体的に経済が変わったりしていくことの方が、私たちは経済人だから、早い。それで、その時にそこにあるのは「地域の自立」です。だって、市町村は果ての果てまで国の言いなりでしょう?
—中央の顔色を窺いながらしか、物事をすすめられない。
佐藤:そもそも地域から新しいことを始めるなんて、できないんだから。金をもらったって、使い方から何から管理され、逆に依存型になっちゃって。そこはやっぱり「民から出て、それを自治体がフォローする」というのが一番なんです。
私はこの「蔵の町」もやってきた。そういう意味で言うと、蔵の保存や再生をしながら、それで観光客も来る。そこから ラーメンとか、地域の文化と皆さんが出会うわけです。
実は足もとに、地域の財産が眠っている。アタマから大事なキーワードがいくつも出てきて、その一つは、「民主主義が日本に馴染んでない」こと。そして、「地方から中央への依存体質」。では、どうすれば本当の意味での「地域の自立」は、実現するのか。
弥右衛門さんはまず、ご自身のルーツについて聞かせてくれました。
佐藤:私は、原発事故があってもなくても、「日本はどうも弱くなったな」という気がしてたんですよ。
ーそれは地域を超えて、日本が?
佐藤:それなりに私も、喜多方での「蔵の再生利活用」、「町並み保存」はやってきて、それも多くあるうちの、一つの地域資源でしょう?
蔵からはじまって、一度ここに来れば「何か食べものを」となるわけで、ラーメンは地域資源というか、地元の食堂文化。メニューの中で、ラーメンにたまたまスポットがあたったわけです。
昭和56年かな、私の親父が、今会社で使っている蔵も、壊される予定だったものを、約150メートル先から引いてきて、本格的な復元をしました。作業に2年半くらいかかりましたが、当時で人口3万6千人の町で、世帯数が1万1千。そこに蔵が約2600。つまり4、5軒に1つの割合で蔵があって、それを保存することで、いわゆる「ハードとしての蔵」が成立した。
明治、大正、昭和と、ここは田園都市で農産物も非常に豊かで、麦に大豆、お米に発酵、醸造文化もあって、近代になると養蚕も入ってきた。鉄道も、磐越西線がいったん若松に入って戻ってくるでしょう?明治の後半から大正のはじめ、本当は別の方角に行く予定だった列車を旦那衆、商人衆がみんなで「鉄道をこっちに持ってこい」って運動をして、金を出し合って、こっちに向けたんです。
だからここはそういう商人と蔵の町で、蔵は商人たちの気概だった。一丁前の旦那になるためには、まず仕事用の蔵をつくり、それは酒蔵だったり保存用であり、次に蔵座敷をつくる。それはつまり、余力の部分です。そこで余裕を見せると同時に、教養も身に付けないといけない。書も絵も勉強して、お茶もお花もって話になるわけです。それで、そこまでいってはじめて「旦那」と言われた。
—その渦中も、大和川酒造はずっとここ、喜多方にあり続けてきた。
佐藤:今の話は戊辰戦争以降、明治の喜多方が力を付けてくる時代の話です。そうやって旦那衆が競い合う様に力を付けていく中で、商売にも力を入れ、今度は名前に、「様」と付けられる旦那はなかなかいない。そうなるには、社会貢献をしないとならない。
—今でいう CSR ですね。
佐藤:「鉄道をひいてくるぞ」という時は、「旦那衆頼むぞ」と。鉄道なんていうのは町の財政じゃできないから、証文を15、6人で押すわけです。あと、喜多方には2本の川が走ってるんだけど、例えば洪水で橋が流されると「橋かけたいんだけど、半分金出せ」と、くる(笑)。でも実際自分の米も運べないから、しぶしぶ出す。そういう時代が明治とか大正ですね。
—弥右衛門さんの曾祖父くらいのお話でしょうか。
佐藤:もう1代前くらいかな。とにかくそういうことをやりながら、町づくり、地域づくりを、商人は稼ぎながら考えるし、あとは男は「様」付けで呼ばれたくなるわけでしょう? 会津藩はもともと、保科正之公 以降、制度やシステム、教育に産業、経済に社会、文化も豊かだったわけですよ。それで蔵が喜多方にあったわけですが、時代の中で蔵なんて御用済みになり、みんな壊されてショーウィンドウになっていった。でも、その時壊される蔵を見て、親父が「ちょっと待て」と。高度経済成長期、みんなが「喜多方から蔵がなくなる」と意識し始めて、そこで「蔵を残すこと」で、左官とか大工の仕事もそうだけど、ハードを残せばソフトとして、昔ながらの文化もついてくる。
それまで喜多方は観光を目指した町ではないので、はじめてメディアに取り上げられ、年間20万人くらいが来るようになったんです。そして、当時のNHKが「ラーメンの香り漂う蔵の町」ってキャッチコピーを考えてくれて、火がつくと。
要するに、民から始まったんですよ。