私が指導しているカルチャーセンターの真向法体操教室に2018年5月から参加している伊藤勝司さんがおられます。彼は青森県八戸市から2018年4月に仙台に転居してこられていて、カルチャーセンターの新聞で真向法の新たな開講を直前に知り参加申し込み下さいました。
後で伺ったところによると、仙台に来たら安心して通える歯科医院を探していたそうで、インターネットで検索して私の名前はご存知でした。その名前を真向法体操講師で見たので、早速に受講を申し込まれた様です。そして私の出身高校の大先輩で、高校の同級生に私の親戚の方もいた様で、仙台に来るにあたって色々情報をお持ちだったようです。
そんな縁で真向法はまじめに継続し実習されて少しずつ上達してきています。天命塾のセミナー、勉強会、座禅断食会にも継続して参加下さり、NGO仙台テンメイ、そして生体システム実践研究会にも入会下さっています。ありがたい理解者、協力者、諸々の先輩として身近な存在になってきています。
その伊藤さんは長く小学校の教師、校長先生として活躍されていました。今は既に退職されて第2の人生を謳歌されているのですが、彼のライフワークの1つに地元、八戸市出身の大先達で曹洞宗総持寺貫首、曹洞宗管長を歴任された西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師の足跡、生き方、実績の研究があります。
その研究を纏められてこの新年、2019年1月11日に「西有穆山という生き方」を大法輪閣から出版されたのです。伊藤さんが八戸におられる頃に会長を成されていた西有穆山禅師顕彰会の協力の元に編著されたものです。
本の紹介には
「難解といわれた『正法眼蔵』の扉を開き、没後百年の今も故郷・八戸に顕彰会があり、多くの人々に慕われている近代禅界の巨壁の言葉と逸話 」
本の帯には以下の様に記されています。
「近代における『正法眼蔵』の第一人者にして無私と清貧・陰徳の生涯を貫いた傑僧。現代人の生きる指針となる穆山禅師自身や弟子たちが語った師の言葉と逸話の集大成。」
更に帯の裏には以下の様にあります。
「わしがお便所掃除をしようとすると、穆山師が、「きさまには、まだお便所掃除はできない」そう言われた。「汚いから掃除をするというのだろう。その根性のあるうちは掃除はできない」と言われて、穆山師は80歳になるまで、ご自分でお便所掃除をしておられた。
浄と不浄を対峙させているうちは、お便所をかえって汚すのだ。
西有穆山禅師の略歴です。
文政4年(1821年)に八戸に生まれる。天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、天保12年(1841年)に江戸に出て吉祥寺旃檀林学寮に入る。小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行。東京の宗参寺、桐生の鳳仙寺を経て、横浜にある總持寺の出張所監院、本山貫首代理になる。明治33年(1900年)に横浜に西有寺を創建、翌年に總持寺貫首に選ばれる。翌明治35年(1902年)に曹洞宗管長となった。明治38年(1905年)に横浜に引退、明治43年(1910年)12月4日に遷化。
著書は第1章「西有穆山という生き方」、第2章「西有穆山の仏法」、第3章「正法眼蔵を守り伝えた西有穆山」、第4章「人を育てる」、第5章「西有穆山の伝説」、第6章「西有穆山の備忘録」の構成になっています。傑僧として、人間として如何に生きるか貴重な至源がちりばめられていて、奥深い世界を知れる素晴らしい内容です。著書からを一部紹介します。
「お悟りが腹の中にあると毒」
西有穆山の句に「掃除して 箒のこすな 花の下」というのがあった。
仕事が済んだら仕事を振り返るな。それが、どうだ、きれいになったろう。と、どうも箒が残ってはならない。お悟りが腹のなかにあると、そのお悟りは毒だ。自分を殺す毒になる。
悟らねばならないが、それを持っていると毒になるから棄ててしまいなされ。
そして後ろを振り返らず、前を望み待つことなく、毎日の行動のいたる所において、自分が主人公となって、それが即心是仏だ。気に入るの、気に入らないの、好きだ、嫌いだ。そのような事は、仏の言うべき事で無い。
それだから朝から晩まで、仏から仏に続き、仏から仏に続き、仏の1日だ。
「箒のこすな、陰徳に徹した西有穆山」
西有穆山は「正法眼蔵」を解釈出来る若手僧侶を数多く育てた事、廃仏毀釈の流れに敢然と立ち向かった事、多大の金銭を社会に喜捨した事などを自分では一切語っていない。弟子たちにも余分な事は話すな、と命じていたことだろう。
まさに陰徳に徹し、名利、名聞をむさぼらず、母との約束である智徳兼備の一禅僧のままに天寿を全うしたのではないだろうか。西有穆山の言行の伝が失われることを危惧した弟子が書き残した小伝が平成になってから世に出て来た。そこには、穆山の陰徳も記録されていた。