2019年1月16日水曜日

1551「会津8」2019,1,16

 お腹を満たして午後の巡りのスタートです。最初の目的地は会津美里町にある伊佐須美神社(いさすみ)です。この神社は歴史的にみても由緒あるもので陸奥国二宮です。
途中で大きな虹を見ることができました。これも善き徴と皆さんで喜びました。


 会津の聖地と言われる伊佐須美神社は四道将軍の父子がそれぞれの道をたどり、東北道各地を平定した後、この地で出会ったことから「会津」という地名が起こったと伝えられています。
 この四道将軍神話は、この地に中央の農耕技術や先進文化が伝えられたことを物語るもので、会津文化発祥の地であるといえます。会津美里町は豊穣の土地であり、理想郷と言われています。
 未だ雨が降り続いていて寒さが身に沁みます。本殿など消失していて仮殿です。茶店で蒸したての粟餅を皆さんで頂きました。




 以下は神社の詳しい紹介です。        
「伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)は、福島県大沼郡会津美里町にある神社。会津六詣出の一社で、会津総鎮守。参拝すれば、御朱印を頂ける。『延喜式神名帳』にある「伊佐須美神社(陸奥国・会津郡)」に比定される式内社(名神大社)。陸奥国二宮で、近代社格では国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。
「会津」という地名は、『古事記』にも記される、第10代崇神天皇の時に派遣された四道将軍のうちの二人、北陸道を進んだ大毘古命(おおひこのみこと、大彦命)と東海道を進んだその子である建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと、武渟川別)が合流したことに因む。この父子が会津の開拓神を祀ったのが当社の創祀。
 御祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命の四柱で、「伊佐須美大神」「伊佐須美大明神」と総称される。
 社伝によると、大毘古命と建沼河別命の父子が会津で農耕技術・先進文化を伝えた後、国家鎮護のために福島県・新潟県境付近の天津嶽(御神楽岳)に国土開拓の祖神である伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉斎した。
 その後は博士山、明神ヶ岳を経て、第29代欽明天皇13年(552年)に高田南原(高天原)に遷座。そして欽明天皇21年(560年)に現在地の高田東原に遷座し、社殿を創建した。
 その際、大宮司は上官の安部宿禰能基、中官は左官に赤吉宿禰公惟と右官に黒田宿禰道実の2人、さらに神主9人や検校ら多数の神官があり奉仕に携わったという。このうち黒田宿禰は建沼河別命の弟と伝える。
 国史での初見は承和10年(843年)で、「伊佐酒美神」の神階が無位から従五位下に昇叙されたと見える。陸奥国会津郡及び耶麻郡においては唯一の名神大社。
 会津郡の式内社は二社で、当社の他、蚕養国神社があるのみ。また、『和名抄』に見える地名として当地は「会津郡屋代郷」に比定されるが、この「屋代(やしろ)」とは「社」すなわち伊佐須美神社に由来するとされる。
『朝野群載』では、康和5年(1103年)6月10日において、陸奥国の代表的な神社の一つと記述されている。
 中世には陸奥国二宮の地位にあったとされる。社地としては、中世には蘆名氏から300貫文を、近世には会津藩主の松平氏から30石を受けた。会津大鎮守六社の一つとした、いわゆる会津六社の一社。
 別当寺として暦応2年(1339年)の開基という清滝寺が存在したが、寛文7年(1667年)の神社改めで社地からは除かれている。
 明治6年(1873年)6月13日に国幣中社に列した。また明治33年(1900年)から大正5年(1916年)には、会津藩主松平容保次男の松平健雄が宮司に就いた。
 現在、「全国一の宮会」に加盟しており、新一の宮として岩代国一宮である。
 なお、当社は臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に「日本神社100選補遺」として掲載されている。また、進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
 平成20年(2008年)10月3日に火災により拝殿・授与所が焼失、同年10月29日にも火災で本殿・神楽殿・神饌所などが全焼した。
 奥宮は会津美里町西本字明神岳に所在し、明神ヶ岳山頂付近の東側に石祠が鎮座する。
 5月5日には砂山祭(すなやままつり)が行われる。会津地方は古くから塩を求めることが容易でなかったため、塩に不自由しないための祈願として塩を作る神事。
 7月12日には御田植祭(おたうえまつり)が行われる。古くから「伊勢の朝田植、高田の昼田植、熱田の夕田植」と称され、「日本三大田植」の一つとされる。
 なお、似たようなものに、日本三大御田植祭があるが、これは、香取神宮(千葉県香取市)、伊雑宮(三重県伊勢市)、住吉大社(大阪府大阪市)の御田植祭を指し、別のものと考えられる。」