2021年9月28日火曜日

2469「無明の霧」2021.9.28

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月22日「無明の霧」と2021年09月23日「惜しみなく与える」の2つの記事を紹介します


「無明の霧」

今日は 竹之高地不動社裏手の神の山にある「天空農園」で育てたサツマイモを

フードバンクを通じ、ひとり親世帯や、食に困っている世帯にご寄付してきました。

春に苗を植え、真夏には、水やり、イノシシ対策を行って、無事収穫。

今年はこんなに取れました。綺麗に洗って干して、甘く熟成されるよう、1月待って、

無事、今日の日を迎えました。ご寄付くださった皆様、ありがとうございました。 

コロナや、世界的な不況の影響で食料配布を希望する世帯が急に増えてきました。 

満足にご飯を食べれない子供たちも沢山います。

そんな皆さんが、笑顔で毎日を希望を持って過ごすことができますように。

天空農園でのサツマイモの栽培は皆さん、もちろんボランティアです。 

「させていただく」精神で、やって頂いています。

天空農園は神の山本当に神様がいらっしゃいます。


夏至の日の天空農園からの眺め。

夏至の早朝には山の神様に、お祈りさせていただきました。

汗水たらし、畝を開墾して、サツマイモをたくさん植えて、真夏の盛りに、水やりを欠かさず、生命力あふれる草たちに手こずりながら、皆さん、文句ひとつ言わず笑顔で手伝ってくださいました。

  

何処かの誰かのために、「させていただく」ということを 何だか損をした、と考える人もいるかもしれませんが、物質的なことしか見ていなければ 

・お金を出すだけで損をした

・自分のためではないのに労力かけて、時間をかけて損をした

そう思うかもしれませんが、ですが、

・時が至り

・機が熟し

無明の霧が晴れた世界に足を踏み入れた人にとって、全ての生命体は、繋がって一つであり、

他人のためにしたことは自分のためにしたこと。 

一見、他人にために損をしたように見えることであっても、

時と場所を変え、必ず自分に帰ってくること。それも何倍にもなって帰ってくること。

それは、 

・良いことも

・悪いことも(いじわる、悪口、不平不満、裏切り)

同じように 自分に帰ってくること。

神々が全て見ていらっしゃること。

その神々は、私たちの内にいらっしゃること。 

人知れず良きことをすれば、神々が喜び、内なる自分自身も喜ぶこと。 

心が喜びと平安に包まれること。 

その幸せは、自分だけでなく、家族や、子供たち、子孫、そして既に亡くなった祖先にまで影響すること。宇宙にこだますること 

無明の霧の中から抜け出すことができた人にとって、このことは当たり前のことであり、 

その法則の中で生きています。

全ての生命体は、繋がっており、本当は一つであること。

これは、ブッダの時代から言われています。 仏教が日本に入ってきた時から高僧たちや、親鸞や空海などを通じ述べられてきた真実です。

いま、世界は「精神性の復活」の時代を迎え、神仕組みにより、私たちのエネルギーは再び、内側、つまり自分自身の心に向けられる時代になってきました。

多くの方々の無明が取り払われようとしています。 

「させていただく」精神は身近に、そして簡単に、私たちの心を、神々に近づけてくれます。 

損をするどころか、何倍もの幸福を連れて、私たちのところに戻ってきます。

皆様が、ご自分の心の内にいらっしゃる神さまに気づかれて、お幸せになれますように。

 


「惜しみなく与える」


今日は南蔵院住職の林覚乗さんの言葉をご紹介します。 

世の中にひとりしかいない自分、かけがえのない自分が、

他人の目や、他人にどう思われるのか?

ではなく、

・どのような生き方をしているか、

・どのような思いの持ち方をしているか、

それさえしっかりと、自分でわかっていれば、それでいいのだというお話です。

<引用開始> 引用元 


ある本にこんな話が載っていました。

中年の奥さんが街を歩いていると、若い男がパンクの修理をしていたそうです。

「パンクですか」と奥さんは声をかけました。

すると、返ってきた言葉は、「見りゃわかるだろ、お前、あほか」

「パンクですか」という言葉に、「大変でしょうね、お困りでしょうね」という思いを込めたつもりが、相手には一切通じなかったのです。

「残念でたまりません」と奥さんは述懐していました。

私は、交通安全協会にときどき講師として呼ばれるのですが、

そのときに、いつもこの話を取りあげます。

そしてその後で、ちょっとしたシミュレーションを行うのです。

車に乗って大きな道路を走っている場面をまず想像します。

あっ、脇道から車が出てきました。こちらの流れの中に入ってこようとしています。

譲って、前に入れてあげることにしました。

その際、相手がクラクションを鳴らしてくれたり、

手を振ってくれたり、にっこり笑ってくれたりすると、

「ああ、止まってあげてよかったな。いいことをしたな」と思います。

ところが、相手が素知らぬ顔でそのまま行ってしまったとしたら、何か損をしたような、無駄なことをしたような気になって、腹立たしくさえ思ってしまいませんか?

でも、大事なことは、譲ってあげることのできた自分なのです。

そんな優しさを持っていた自分をほめることができればいいのです。

それが、ほとんどのひとは、止まってあげたのだらから、

・あなたは手を振るべきだ、

・クラクションを鳴らすべきだ、

・にっこり笑うべきだ 

というような思いを、先に持ってしまうのです。

求めるのではない、自分自身が相手にいい出会いを与えたかどうかということ、

それだけあればいいのだと思いたいものです。


ノートルダム大学の渡辺和子さんは、著書の中でこうおっしゃっています。

「あなたがほほえみをあげるときに、

ほほえみを返してくれなかったひとは、ほほえみを持っていないのだ。

あなたは持っているのだから与えてあげなさい。

優しい言葉をかけたときに返してくれなかったひとは、

優しい言葉を持っていないのだ。

あなたは持っているのでしょう。

惜しみなく与えてあげなさい。

それがあなたの素晴らしさでしょう」

世の中にひとりしかいない自分、かけがえのない自分、

そんな自分がどのような生き方をしているか、

思いの持ち方をしているか、 

その自己確認をすればいいのではないでしょうか。

<引用終了>


自分がかけた

・優しい言葉

・思いやり 

それらに対して、感謝の反応がないと

私たちは、途端に、「仏」が「鬼」の心に変わってしまいます。 

ですが、渡辺さんが仰るように大切なことは、 

相手の反応ではなく、そのような行動をすることのできた、自分の心かもしれません。 

最後にマザーテレサの言葉をご紹介します。 


人は不合理、非論理、利己的です 気にすることなく、人を愛しなさい


あなたが善を行うと 利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

気にすることなく、善を行いなさい


目的を達しようとするとき 邪魔立てする人に出会うでしょう

気にすることなく、やり遂げなさい


善い行いをしても おそらく次の日には忘れられるでしょう

気にすることなく、し続けなさい


あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう

気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい

 

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう

気にすることなく、作り続けなさい


助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう

気にすることなく、助け続けなさい


あなたの中の最良のものを、世に与え続けなさい けり返されるかもしれません

でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい


気にすることなく、最良のものを与え続けなさい

『最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。』