2021年9月30日木曜日

2471「さよならのあとに」 2021.9.30

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月26日「謙虚な心、闇の心」

2021年09月27日「さよならのあとに」の2つの記事を紹介します。


「謙虚な心、闇の心」


今日は仏陀(釈尊)の弟子のなかで、一番頭が悪く、愚かだといわれていた、

周利槃特(しゅりはんどく、チューダ・パンタカ)という人のお話をします。 

私たちは、日々の生活の中で

・何かと自慢し、マウンティングを取ろうとしたり

・陰で人の悪口を言い、相対的に自分は優れた者と認められたいと思ったり

・他人の話にすぐ口をはさみ、「自分は、自分は」と認められたがったり

・凄い人と知り合いだと自慢したり

・人の幸せを喜ばず、陰で足を引っ張ろうとしたり 

無意識のうち、強い自我に心に闇を広げる者もいます。

 

私たちだれもが、心のクセや条件反射で同じような悪魔の意識に支配される時もあります。

生きている間は肉体に付随する感情や生存本能があるため、どんな聖人君子であっても、

それは免れないことかもしれません。 

ですが、ふと、そのことに気づいた時、

直ぐに方向転換をしないと、ビッシリと罪穢れに覆われてしまいます。 

それでは、一番愚かな弟子だったチューダ・パンタカのお話です。

<引用開始> 引用元


仏陀(釈尊)の弟子のなかで、一番頭が悪く、愚かだといわれていたのが、

この周利槃特(しゅりはんどく、チューダ・パンタカ)という人です。

どのくらい愚かだったかというと、

ときどき自分の名前すら忘れてしまうほど、頭が悪かったそうです。

周りの弟子達からバカにされていた周利槃特は、あまりの自分の

愚かさを嘆いて、仏弟子をやめようと思って仏陀のもとを訪れます。

「仏陀よ、私はあまりに愚かなので、もうここにはいられません・・・」

その時、仏陀が彼にこう言います・・・

「自分を愚かだと知っている者は愚かではない、

自分を賢いと思い上がっている者が、本当の愚か者である」

すっかり弟子をやめようと思っていた槃特は一瞬キョトンとします。

そして、仏陀はこう続けます・・・

「おまえの一番大好きなことはなんだね?」

槃特は、「はい、私はそうじが好きです」とこたえました。

「そうか、おまえは多くのことを憶えられないようだから、

その大好きなそうじをしながら、このように唱えるがよい」

「塵を払い、垢を除かん」(ちりをはらい、あかをのぞかん)

「はい、それなら、私にもできそうです!」

「そうか、ではがんばるのだよ・・・」

仏陀にそういわれて、嬉しくなった槃特は、たまに忘れそうになりながらも、

「塵を払わん、垢を除かん」(ちりをはらわん、あかをのぞかん)

と唱えながら、箒をもってそうじをしていきます。

一年、二年、五年、十年、二十年と、ひたすらにやっていきます・・・

その姿勢に、始めはバカにしていた他の弟子達も、次第に彼に一目を置くようになります。

やがては、仏陀からいわれたことを、ただ黙々と、直向きに、

淡々とやり続けるその姿に、槃特を心から尊敬するようになりました。

そして、ついに槃特は、仏教でいうところの「阿羅漢(アラカン)」の境地に到達します。

「阿羅漢」とは、反省修行をおこなって、心の汚れや曇りを落とし、

第一段階の悟りを得ることです。

ある日、釈尊は、大衆を前にしてこう言いました。

「悟りを開くということは、なにもたくさん覚えることでは決してない。

たとえわずかなことでも、徹底して行うことが大切なのだ。」

「見よ。周利槃特は箒で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか!・・・」 

<引用終了>

 

イエスもこう仰いました。

あなたがたの中で、人よりも偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。 

あなたがたの中で、人の先に立ちたいと思う者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。

 私が、私がと、何が何でも人に注目され、尊敬を得たいと思うよりも、 

・謙虚な人、

・進んで人々のために奉仕しようとする者

・決して目立って表に立とうとはせず、人知れず縁の下の力持ちに徹しようとする者

神様は全部見ていらっしゃいますから、そんな人を愛するのではないでしょうか?

そんな人に、まず幸せになって欲しいと思うのではないでしょうか? 

もう心の時代 物ではなく、一人一人の心が大切にされる時代に入っています。 

悪しき心は誰にでもあります。 

ですが、それに気づいた時、心から反省し、改めようとするのか?

それとも、楽な道、つまり、今まで通り見て見ぬふりをして、やり過ごすのか? 

道は分かれ、行きつく先は全く異なる場所となります。


美しい地球

  

自我の限りを尽くした人々の地球はこうなるかもしれません。私たちの心こそが、生きる世界を構築し、その世界を天国にも、地獄にさえも変えてしまいます。



「さよならのあとに」


今日は、事故で両腕を無くしてしまったけれど、そのことをきっかけに、

大切な、人の優しさに気づくことができた。そんなお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元


十月二十四日、熊本県の大野勝彦さんが、

星野富弘さんに会う為に大間々へお越しになりました。

星野富弘さんは、中学校の体育の先生でしたが、

クラブ活動の指導中の墜落事故で頸髄を損傷、手足の自由を失ってしまいます。

その後に奮起なさり、口に筆をくわえて文や絵を書き始め、

作品展を開いたり、雑誌や新聞に詩画作品やエッセイを連載していらっしゃる方です。

熊本の大野さんは、五町歩の田畑にハウスの野菜を栽培していましたが、

平成元年、農作業のトラクターに手を挟まれ両手を切断してしまいました。

何の前ぶれもなく始まった手無しの生活に幸せが音をたてて崩れてゆくのを感じたそうです。その時、大野さんが一番こころを痛めたのは三人の子供達のことでした。

大野さんは奥さんと相談して

「子供達が病室に来たら、楽しい話だけをしよう」と決めました。

子供達が来ると部屋の中は笑い声でいっぱいになりました。

子供達が帰り、病室に元の静けさが戻ると

「子供達は、俺の両手切断のことでショックを受けていないようだ」と安心したそうです。

でも、お見舞いに来た近所のおばさんが

「勝彦さんの長男の隆君は、毎日夕方になると玄関の前に座って頭を抱え込んで、

暗くなっても何時間も動かない。意地らしくてかわいそう」と涙声で教えてくれました。

 

子供達は病院に行く道すがら

「お父さんのところへ行ったら、楽しい話だけをしよう」と話し合っていたのです。

大野さんはその時、家族の優しさに胸いっぱいの幸せを感じたそうです。

星野富弘さんの


わたしは傷をもっている 

でもその傷のところから、

あなたの優しさがしみてくる


という詩画に深く感動した大野さんは今、義手で筆を持ち、素敵な絵や詩を書いて

多くの人に生きる勇気と優しさを与えてくれています。

大野さんの名刺の裏には


しあわせは気づいたときから始まる。

本当はしあわせなんだけどさよならのあとで気づくの


と書いてありました。

<引用終了>


私たちは、みんな生まれる時に今世では、何をしよう・・・ 

と、目的を持って生まれてくるそうです。 

その目的のために、ご縁のある方と、いつ、どのようなシチュエーションで、出会うか、分かれるか・・など 細かなところまで、固く約束してくるそうです。 

その目的のためなら、 

・病気

・事故

・貧困

・別離

など、一般的につらく悲しい出来事も全く苦にならないのだそうです。

もちろん肉体を持つ身としては当たり前に、苦しいのですが、 永遠の魂のレベル 

つまり、生きている私たちのすぐそばで見守っている高次の意識の私たちは、

その乗り越えた先、目的を果たした先にある、永遠の魂の喜びを知っていますから 

一時の三次元での苦痛よりも目的遂行を喜んでいます。

高い意識レベルにある魂は時に、自分の人生を犠牲にして、他の方の

魂の覚醒に協力することもあるそうです。 

・病気

・事故

・子供たちの早すぎる死

などは、このような目的であることが多いようです。 

今回ご紹介した大野さんは両手の切断という辛く苦しい経験をしました。 未来への希望も失ったかもしれません。でも、それをきっかけに、今まで気づかなかった、家族の優しさや愛を身をもって経験することができました。 お子様たちもきっとつらい経験を乗り越え人の気持ちのわかる、優しい大人に育つことでしょう。父の代わりにと・・責任感の強い大人に育つでしょう。

きっと、そのお父さんの事故をきっかけに普通の人では経験できなかったことを経験し、 

回りから頼られ、愛される人間に育っていくことでしょう。

そうなった時、お父さんの辛く悲しい事故も

決して無駄なものではなかったことになります。 

自己を人生に予定して組み込んで生まれて来たかいがあるというものです。