2021年9月6日月曜日

2447「家族になった訳」2021.9.6

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月31日「最強の言葉」と2021年09月01日「家族になった訳」の2つの記事を紹介します。


「最強の言葉」


皆さん、この言葉ご存知ですか?「断じて行えば、鬼神も之を避く」 

断固とした態度で行えば、鬼神でさえ、その勢いに気(け)おされて避けて行く。 

と言うことだそうです。 

私は、これを 「ありがとう」の言葉を常に口にして、

 感謝の心で生きている人のことだと思います。 

「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする人に対して、 

どんな人が、 

・蔑み(さげすみ)、

・陥れ(おとしいれ)

・危害を加え

・足を引っ張る

ことができるでしょうか? 

それでは、歴史研究家の 河合敦さんのエッセイをご紹介します。


<引用開始> 引用元


赴任先は知的障がいを持った生徒が通う養護学校で、僕が初めて受け持った子供たちとの出来事です。

その日、子供たち10人、担当の先生3人で、小田原に遠足に行きました。

お昼になり、昼食を食べるお店を探したのですが、どこも13人の団体は入れず、

ようやくあるお店お蕎麦屋さんに入ることができました。

2階の座敷に通され、女性の店員さんが注文を取りに来ました。

ところがメニューに写真がありません。 

子供達は言葉が喋れなかったり、

字が読めなかったりするので、僕が一つひとつ説明していたら、

その店員さんは忙しかったんでしょうね、プイと下へ降りちゃったんです。  

僕はその態度にすごく腹が立ちました。

ようやく注文が決まり、別の店員さんに頼みました。

待っている間、僕たちは畳の座敷にそのまま座らされていたので、

座布団はないかなと押し入れを開けたら、ありました。

僕はそれを出して配り始めました。

そしたら最初の店員さんが血相を変えてやってきて、「これは使わないでください!」と私からひったくり、

別の場所から持ってきた座布団を投げつけるような乱暴さで生徒たちに配り始めたのです。

さすがに僕はブチ切れて、一言、言ってやろうと口を開きかけたその時、

座布団を受け取った勇太(仮名)が「おばさん、ありがとう」と言ったんです。

そしたらほかの子供たちもみんな「ありがとう」「ありがとう」と言い始め、 

言葉が出ない子は手を合わせて頭を下げたのです。

その光景を見た時、僕はもうグッときてしまいました。 

すると、その店員さんは人が変わったように急に優しくなったんです。

それまで忙しくて心に余裕がなかったんでしょうね。

13年後、勇太が亡くなったことを知らせるお母さんからの手紙が来ました。

その中に、葬式に参列された方のコラムが同封されていました。

その方は、13年前に僕が書いたエッセーのことに触れた後、こう綴っていました。

『・・・勇太が発した「ありがとう」の一言で、食堂の店員も河合先生も、 

その場にいた皆が、とても和やかな気分になったという。感動した。

そうか、勇太はそんなこともしたのか、と。

そこに知的障がい者たちの素晴らしさを見た。

白木の棺の横に大書きしてあった「ありがとう」の意味もよくわかった。

息を引き取る直前、何か言いたそうだったので、

お母さんが「ありがとう、なの?」と聞いたら、勇太は頷いたそうだ。

勇太は心から「ありがとう」と言える若者だったのだ」

それを読んで僕は涙が止まりませんでした。

僕の書いたエッセーがずっと彼の家族の支えになっていたんです。

彼は30年という短い生涯を終えたわけですが、

「ありがとう」という言葉は、これからも彼の家族を支えていくと思います。

<引用終了>


どんなに敵意むき出しの人であろうと、 

自分に向けた「ありがとう」という言葉に心を動かされない人はありません。

神さまは、人間の本能の中に 

・ありがとうと言われると(感謝されると)、嬉しい 

という仕組みを入れてくださっているからです。

感謝の心、「ありがとう」の言葉は、 自分の心も安定させ、不安を払しょくしてくれます。 

安心感をもたらしてくれます。 

何故なら、その言霊の生み出す、波動空間に自分自身が包まれ、無意識の内に 

神さまと

・仲良くなった

・融合した(一体化した)

・神さまに愛されている

・宇宙が味方してくれている

そう気付くからです。 

皆様が、内なる神さまに気づき、お幸せになりますように。



「家族になった訳」


世界で一番大切な人なのに・・家族って、どうしてこんなにも難しいものなのでしょうか? 

本当のホンネでは、愛し、愛されているのに誰よりも家族のことを深く、愛しているのに・・

憎しみ合う人たちも多い・・・

今日はそんなテーマです。


結婚するまでは、他人同志だった二人。

・生活感、

・価値観、

・金銭感覚、

・物事の受け取り方も 

まるで違う者同士。

結婚し、家庭を作り、お互いに同じ方向を見つめ、協力し、助け合い、 

貧しい中でも工夫して、小さな幸せを見つけ、笑いながら幸せに暮らして行きたい。

子供が生まれれば、二人で協力し、慈しんで育てたい。

お互いに歳をとり、白髪になり、元居た世界に帰るまで・・

そう思っていたのに、実際は家族だから苦しめ合っている

そんな現実が、なんと多いことか。

家族だから、期待や要求をぶつけ、干渉し、支配しようとする。

家族だから、罵り、傷つけ、暴力を振るう。

家族だから、残酷さや支配欲、身勝手さをさらけ出す。

ブッダは2500年前に、家族が抱える悩みの中に、 業という大きな理由を見つけました。

ブッダが生きていた時代にお弟子さんだった小林正観さんが家族について次のように仰っています。

<引用開始>


みなさんは、家族は長く一緒にいて自分の主張をし合うことが仲よしの証拠だと思っているところがあります。でも、私はそのように、家族をとらえていません。

家族とは、他人に対して言わなくてすむ、わがままを、目の前の家族という名の特別な存在に対しても言わないという訓練の場なのだと考えています。

あることを他人から言われたときに、その他人に対しては

腹を立てたり、怒ったり、怒鳴ったり、いら立ったりしない。

ところが、同じ言葉を夫や妻、子どもから言われたら、ものすごく激昂(げきこう)して、

腹を立てて、怒って、怒鳴りまくってしまうという人はいませんか?


つまり、この人には甘えていいという特別な感情を持っているわけです。もしここで、踏みとどまることができるなら、その人は忍耐力というのを持っているわけです。

自分で自分の感情が、制御できているんですね。

それが、ある人との関係では制御できて、コントロールできるのに、別の人との関係では

コントロールできないというのは、制御ができないのではなくて、制御をしないのです。

家族だから、妻だから、夫だからという理由で制御しないのは、甘えているという意味で

それを幼児性といいます。結婚というのは、幼児性の克服のための訓練の場なのです。

そこのところに気がつかない限り、多分穏やかな家庭生活というのを得ることはできません。

家族というのは、わがままを言い合うために存在するのではなく、わがままを言えるような

人間関係が目の前にあって、それでもなおかつそのわがままを言わないために存在するのです。言わないということは大人になるということです。

この話をしたらある人がこう言いました。「それではストレスをどこで発散するんだ」と。

もう一度いいます。家庭というのはストレスを発散する場ではありません。

幼児性でわがままを振りまきたくなる状況設定をされているのが家庭。

そこで自分がいかに幼児性を振りまかないで、それを克服していくかということ。これは業(ごう)というものですけれど、その業の克服のために、家庭というものが存在するのです。

家庭というところは、人間が成長する場所なのですね。

幼児性というものを克服するために家庭が存在するということがわかってくると、子どもとの関係、親と子の関係というものも見えてきます。

実は親が子どもを育てているのではなくて、子どもが親を育てにきているということに気がつきます。

結婚した時に、自分だけのわがままで生きてきた人生から相手が一人増えるわけです。

妻や夫という名の家族が。そして、子どもができたときにはもう一人別な存在が、できてきます。

妻や夫や子どもが自分の思いどおりにならなかったりすると、感情をかき乱されます。

そのときに、どんなことがあってもいら立たないということの訓練の場として、実は家庭というものが存在する。

ですから、家庭はわがままを言うところではないし、ストレスを発散する場ではないのです。

<引用終了>


日常の生活の中で幼児性を目にする機会は良くあります。

・上司が部下に怒鳴る

・妻に暴言を吐き、暴力を振るう

・年配者が若者に暴言を吐く

・飲食店や小売店で、「お金を払っているから私はお客だ」と威張ったり、

 怒鳴ったり、いら立ったりする

相手がいなくとも、こんな「幼児性」もあります。

・いつも自分だけが我慢している(すれば良い)と思っている、言っている

・ちょっとしたことに不平不満を感じ、ため息をつく、愚痴を言う

・いじける

そういう人には、すべて幼児性があります。どんなに偉そうなことを言おうと、我慢ができなくて、わがままで自分さえよければいいという、甘えが抜けない。それはまるで幼児と一緒です。幼児性のある人は、わがままを振りまきたくなる状況設定をされている場、つまり家庭では、自己をコントロールすることが難しくなります。

幼児性があるから、ものすごく激昂(げきこう)し、腹を立てて怒ったり、怒鳴りまくってしまいます。

でも、正観さんが仰るように、その家庭の中でこそ、その幼児性に気付き、そして穏やかな気持ちでいられるよう、自分自身で、コントロールできるようになりたいものです。

家庭だからこそ、その自分の幼児性がデフォルメされて表現されています。

それに早く気付けるように・・

自分の中の、幼児性に気付けるように・・・

そしてお互いに同じ方向を見つめ、協力し助け合い、貧しい中でも工夫して、小さな幸せを見つけ、笑いながら、みんな、仲良く幸せに暮らして行きたいですね。

それが、家族と言う単位を作った神さまの優しい、計らい、目的なのですから。