今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最近の記事を紹介します。
427 2021.08.29
(総務部長であった時、高3の学年通信に書いた「大宇宙合格!」というタイトルの文章です)
私が禅の道場にいたとき、我が師匠のもとに受験生がやってきた。
「合格できるかどうか心配で、夜も寝られません」
「いったい誰の合格なんだ」
「エッ、もちろん僕のですが…」
「貴様一人くらい、どうなってもいいではないか。ハッ、ハッ、ハッ」
その受験生はスゴスゴ帰っていった。残念ながら、我が師匠の親切は、彼のハートには届かなかったようだ。
“貴様一人ぐらい、どうなってもよい”、これが大宇宙の中にポツンと漂う“1点”にすぎぬ、私たちの実存の真実であろう。
いつ消えてもおかしくない、この“ケシ粒”は、それでも存在している。いや存在しているだけではない。こんなに集中しきって学習に没頭できる時間を持てている。これは、ものすごい奇跡ではないだろうか。
なぜ、この“ケシ粒”は勉強に没頭できるのだろうか。
それは、ご両親や先生方や空気や水や、…高良山や、筑後川や、カエルやミミズや、校庭の石ころが、寄ってたかって、その“ケシ粒1粒”のために尽力し、そんな貴重なひとときを創り出してくれているからではないだろうか。
そうと分かれば、そんな貴重な学びの“ひととき”を下さった大宇宙に感謝し、この
“ひととき”を生かし切らずにおれなくなる。
そうなれば、“自分”という小さな囲いがほどけて、大宇宙、大自然の能力、エネルギーが君を通して流れ出すようになるだろう。大宇宙にバックアップされて、堂々と歩めるようになるだろう。
「いったい、誰の合格なんだ」と問われたら、「もちろん、大宇宙の合格です」と直ちに答えられるようになるだろう。
426 2021.08.28
さて、その一歩の踏み出しが、右に出されるのか、左に向うのか、それは、コチトラの知ったことではありません。
成功の道か、失敗に通ずる道か、アッシに関わりはござんせん。
我がいのちが満ち充ち、あふれ出して、自ずと伸びた道なんだから、それはどんな結果になろうと、人が馬鹿にしようが、笑われようが、納得の道であり、自分にとって、それは最高の道であり、最善の道なのです。
そういう人生の歩み方こそが、『驀直去(まっすぐ行きなされ)』なのです。
425 2021.08.27
右へ行っても、左に進んでも、でんぐり返って泣きべそかいても、
『驀直去(まくじきこ)(まっすぐ行きなされ)』
グズグズ言うな クヨクヨするな
これが、キミだけの道だから キミがキミになる道だから
どこどこまでも『驀直去(まっすぐ行きなされ)』
424 2021.08.26
私の例で、禅語『驀直去(まく じき こ)(まっすぐ行きなされ)』の説明をしておきましょう。
私には自分が書いた文章の記憶がほとんどないのです。ですから、自分の本を読むたびに、『ヘー、こんなこと書いているよ。うまいこと書くもんやなあ。すごいことやなあ』と、驚き、感心します。
これは、どうしてかというと、頭のなかで思考をグルグル回してから文章を仕上げるという、『アタマの知恵』の作業をしていないからだと思います。
そうではなくて、『驀直去(まっすぐ書く)』という書き方をしている。
つまり、我がいのちから満ち溢れてきたものだけを、頭を通すことは通すのですが、そこでモタモタ停滞させず、素通しのようにして、文章に表現するという『アタマ素通し方式』で書いているので、頭にちっとも記憶が残らないのだと思います。
423 2021.08.25
『まだ来ない。なかなか来ない』と、イライラしながら待つとどうなるのでしょうか。
心に『まだ来ない。なかなか来ない』という思いを絶えず刻み込んでゆくことになるので、心さんは、その思いの通りの現実、つまり、『まだ来ない。なかなか来ない』現実を描き出し、現実化します。
ですから、不安の心で、あるいはあせりの心で待つというのは、結局やって来るしあわせを妨げ、遅くしてしまうのです。
だから、もうしあわせの訪れがあるというのは分かりきっているのだから、その時期は神さまにお任せして(ふさわしい時期は神さまがよくご存知)、あなたは日々の生活に充実して、その中にしあわせを見出し、喜びを、楽しみを見出す努力をしながら、有難いなあと感謝しながら生きてゆけばいいんだよというのが、易経『需(じゅ)』の卦の『君子は飲食宴楽しながら待つ』なのです。
422 2021.08.24
裁きは天にあり。裁きはあなたの役割ではありません。
あなたは、狡賢く振舞う人を非難したり、腹を立てたりしてはいけません。
そんな非難や腹立ちの心の波動は、天のひびきと遠いので、その非難の心が天の恵みを遠ざけてしまいます。
生真面目で正しい人が、貧乏であったり、不幸であったりするのはそのためです。
421 2021.08.23
これは何の本で読んだか忘れましたが、あるヨーロッパの国のアマゾン探検隊の話です。
現地のインディオをポーターとして荷物を運ばせていました。
彼らはとってもよく働いてくれて、予定よりずいぶん行程がはかどって喜んでいましたところ、ある朝、出発しようとしても、インディオたちが輪になって座ったまま動こうとしないのです。
それで隊長は困ってしまって、支払いの増額を約束してもだめなのです。ついに、銃を取り出しておどしてもどうしても動かない状態が何日も続きました。
ところがある朝、インディオたちは突然立ち上がって出発し、どんどんペースがあがって、予定通り目的地に着くことができました。
後ほど彼らと親密になって、言葉も少し分かるようになった隊員が、なぜ動かなかったのかたずねると、次のように答えたということです。
「はじめの進みはすこし速く行き過ぎて、魂を残して、身体だけが前に行ってしまった。だから、魂が追いついてくるのを、静かに待っていたんだ。数日待って、ようやく魂が追いついて身体と一体化したので出発したんだ」
もし、『魂を残して、身体だけが前に行ってしまう』状態を、そのまま続けていれば、きっと何か大変な事件に巻き込まれていたはずなのです。
人ごとではなくて、アタマだけ先行して、カラダや魂を置き去りにして前進しているようなことはありませんか? 気を付けましょうね。
420 2021.08.22
(高校に勤めていた時、「図書館報」に書いた文章の一節です)
『人生の名著』というテーマで文章を書けということですが、なかなか難しい。
とりあえず、若いときからずっと何十回と読み続けている本を思い返してみますと、何と三冊しかありませんでした。
『新約聖書』と『法華経(妙法蓮華経)』と『論語』です。
実にありふれた選択ということになってしまい気が引けますが、人生の、その時々で、感銘を受けた本は多々ありましたが、結局この三冊だけが生き残っているということなのでしかたがありません。
いずれも「音読」して読んでいるというのも面白いと思います。
「音読」は黙読に比べ、大脳を大いに活性化するという実験結果が続々出ています。
その辺に興味がある方は、『脳と音読』川島隆太+安達忠夫(講談社現代新書)などがあります。この川島先生は東北大学で大脳の研究をされている方だそうです。
先生は宮沢賢治の作品を長らく読んでこられましたが、もう一つ、彼の精神世界と一体化出来ない違和感があると感じてこられました。
ところが、ある会で宮沢作品の朗読を聞いたのです。
すると、状況が一転しました。冬の東北の寒々した、しかし澄み切った荒野、そこにいる動物たち、そんな強い視覚的イメージが現われました。賢治の心の世界がパッと目の前に広がったのです。
賢治の精神世界がはっきり捉えられ、ひとつになれました。
音読には読んでいる方だけでなく、聞いている方の大脳をも活性化するのだということが、これで分かりますね。「お母さんの絵本読み聞かせ」は、やはり子供の成長のためには大きな効果があるのです。
419 2021.08.21
弱い自分たちなんだという現実を、強がり言っていないで素直に受け入れ、こうでなければならないという理想をすっかり放棄して、カラッポになった時、そんな謙虚な者たちには、必ず天の援けがやってきます。
『人がいらないと捨てた石の断片が、世界を支える土台石になった』(聖書)のでしたね。
418 2021.08.20
『断碑(だんぴ)、古路(ころ)に横(よこ)たう』という禅語があります。
古びた、苔むした石碑の断片が路傍に横たわっているのです。
すっかり破壊されて破片化してしまっているし、苔むしてもいるので、もう文字は読めないんですね。だから、まったく値打ちがないようにみえます。
しかし、そのように見るのは、それは表面的な『アタマの見方』なんですね。
永遠無限からの見方、奥ゆかしい『いのちの見方』はまた別なのです。
苔むして、文字が読めなくなればなるほど、侘び寂びてしみじみと美しいということがありますね。
なぜそんなものが美しいのかというと、断片となり、摩滅すればするほど、作品の全体像が判然せず、刻まれた文章も読めないので、そうであればこそ、『石』という本体だけが、現象のあれこれの姿、文字に誤魔化されることなく、はっきりと見えてくるということがあるからです。
実は、私は川井信一先生の石像が大好きなのです。
どこが気に入っているのかというと、川井先生の作品では、『石』という素材が生かされているからです。
仏を彫っても、地蔵を彫っても、仏や地蔵が厚かましくしゃしゃり出て、本体の『石』を消し去って、殺してしまっているということがないのです。
川井先生は、そういう『石』という本質を失わないようにしながら、仏や、人や、石灯篭など・・・、さまざまなものをしっかり表現してくださっています。だから、作品に永久(とわ)な感じがするのですね。
417 2021.08.19
以下の人生の目標を忘れないようにしましょう。
自身の魂を成長させること。
人と人をつないでゆくこと。
価値あるものを後世に残すこと。
もし、あなたの今の仕事が経済的に潤わせるものであっても、もし、それによって、あなたの魂に喜びが無く、ともに働く人のいのちも消耗させるものであるならば、それは、人生の浪費なのです。
今はよくてもそんな仕事をしていれば、必ず行き詰まる時がきます。そんないのちエネルギーの消耗、浪費をやめて、思い切って、自分とスタッフたちのやりがいと喜びを生み出すような仕事に移行してゆけば、仕事の領域が大きく広がってゆくでしょう。
416 2021.08.18
21世紀は『融合の世紀』です。人と人をつなぐ方向の仕事は上手くいきますが、人と人を離反させるような仕事は、いったんは上手くいくように見えても、きっと行き詰まることになるでしょう。
415 2021.08.17
『もうだめだ。絶望だ!』と、自暴自棄になるのはあなたの思いこみ、間違いです。
あなただけの力で仕事をしているのではなく、「オーナー神さま」の従業員として、あなたは働いているのだから、困ったときは「神(オーナー)頼み」でいいのです。
困った事態の報告を済ませたあとは、神様の責任で、事態を収拾して下さるでしょう。それを信じて、目の前の仕事を精一杯しながら、静かに待っていればいいのです。
414 2021.08.16
仕事が忙しくて、家族が顔を合わせたり、話しあったり、遊んだりする時間がなく、家庭が冷え切っているなどというのは本末転倒ですね。
父親鳥が一生懸命えさを運ぶ(仕事に精出す)のは、家族を養うため、えさを運び、家族を養うのが喜びなんです。それが、仕事の本来の意義ですね。
それなのに、仕事が大変で夫婦別れをするなんていうのは、いのちの本能に違反する行為です。
そんなお父さんは思いきって仕事をカットして、家族と一緒の時間を増やしてみて下さい。
そうすると、グンといのちの重心がしっかり取れるようになって、そうすると、短時間で効率的な仕事が出来るようになるのです。家族とのいのちの一体感が仕事を後押ししてくれるようになるのです。
413 2021.08.15
たっぷり時間をかけたから、沢山仕事をしたということにはなりません。成果は仕事をした時間に比例しないのです。
一生懸命努力しているつもりでも、心が燃え尽きてしまっていては、ちっとも効率があがりません。
私の場合は、『ああ、燃え尽きてきたなあ』と気がついたら、仕事を中断して(こういう時ほど仕事をストップすることが難しいものなんですよね。惰性でズルズル仕事を続けてしまうものです)思い切って坐禅します。
坐禅といっても、力んでするものでなく、坐禅という姿勢(の有効性)を信じてただ坐る『養いの坐禅』です。
そうすると、自然といのちが充電されてきます。たっぷり充電して、『さあ、これでよし!』となったら、再び、戦場(仕事場)へと跳び出してゆくのです。このように、充電しては戦い、イノチを養っては働くという循環サイクルが確立していれば、もう大丈夫です。
412 2021.08.14
<sport>という単語は、<dis>+<port>だそうで、<dis>は『離れて』という意味、<port>は『運ばれて』という意味です。つまり、スポーツとは、日常、現実から離れること、別の世界に運ばれることなのです。坐禅だって、結局『現実世界を離れて、別の次元に運ばれる体験』、そうしてイノチをレフレッシュし、再充電するものなのですから、スポーツの一種といえそうですね。