2018年6月21日木曜日

1342「十字10」2018,6,21

 3日の朝を迎えました。快晴で嬉しい始まりです。朝風呂をゆったり頂き、美味しく朝食を食べて8時に出発です。最初の目的地は遠野の早池峰神社です。中山さんと共に何度も訪れていますが、北の要の地です。今回の巡りの箇所で唯一ここだけ中山さんは訪れたことがありますが、他は全て初めてです。

 早池峰神社の紹介です。
「霊峰早池峰の山霊を祀り、併せて早池峰山と共に遠野三山とよばれる石神、六角牛の山霊を祀る。現在の御祭神は瀬織津姫命とされる。
 創祀は大同元年(807年)3月8日。猟師藤蔵(後に始閣と定む)が早池峰山頂に権現垂跡の霊容を拝して発心、山道を 拓いてその年の6月18日山頂に七尺余りの宮を創建して祀ったのが始まり。
 山頂の社は本宮と称し、承和14年(847年)6月18日、藤蔵は薙髪して普賢坊の長子長円坊が本宮の傍に新たに建立した若宮と共に、現在当社の奥宮として祀る。
 嘉祥年間(848年-851年)、天台宗の高僧である慈覚大師(円仁)が奥州巡歴の途次にこの地に至 り、宮寺妙泉寺を創建して坊を大黒坊と称し、不動三尊・大黒一尊各々本尊を別に新山宮と号し、三間四面の宮を建立して早池峯大権現を祀り、脇士として薬師・虚空蔵菩薩を 併祀。
 坊には高弟である持福院(そのため持福院妙泉寺とも)を住職とし、神宮には長円坊を別当とした。祭祀は神仏混淆で盛大に行われ、信仰は県外に及び阿曽沼親綱(遠野阿曽沼氏、文治5年(1189年)奥州征伐後と思われる)の時代に120石が寄進される。
 その後、南部直栄(寛永4年(1627)に遠野に入部)より65石の寄進を受け、計200石となり、明治維新を迎える。排仏棄釈により妙泉寺は廃され、新山宮改め現社号として現在に至る。
 その間、寛治年間(1087年-1094年)に妙泉寺の宗派が天台宗から真言宗にかわり、文治5年(1189年)、火災で全焼するなどを経て、現在の社殿は享保3年(1718年)の建築。東西四十三尺一寸、南北三十三尺七寸、用材は主として楢・栗などを使用している。
 その他、神楽殿、神門、 黒門、社務所などがある。神門は文化年間(1804年-1818年)の建立で、もとは仁王門と称し、仁王を安置していたが、妙泉寺の廃寺とともに土渕の仏師田中円吉作の随神像に替えた。」

 更に妙見、九曜に関した興味深い記載を紹介します。
「遠野の地図上に現れた五芒星の頂点は、早池峰山の頂きを通り北極星を差している。その北極星あるいは北斗七星を神格化したのが妙見菩薩信仰(国土を守り災害をはらう菩薩)であることもわかった。
 早池峰神社はもともと「早池峰妙泉寺」というお寺だった。そこで、妙泉寺のころの早池峰権現、早池峰大神は妙見菩薩のことを指しているのではないかと考え、「妙泉」と「妙見」が、どこか相通じるものがあるのではないかと考え、調べてみた。
 しかし、早池峰山妙泉寺文書には「神殿を建て、十一面観音の垂跡早池峰権現を勧請して中央に安置し、その両側に薬師如来と虚空菩薩を配して脇士とした」と書いてあるだけで、早池峰妙泉寺文書のどこにも、妙見の字は出てこなかった。
「妙」の字を何の関係もなく使用するものだろうか。ただの偶然なのだろうか、と偶然にこだわり続けている。

「早池峰神社に九曜紋があった。伝承では、九曜は平家が伝えたものらしく、日月星の光が集まったもので、その中に妙見様が現れたことにある。なので、遠野の千葉家は妙見信仰だった。秩父にも妙見信仰が伝わるが、妙見さまは、亀に乗ってくるが水甕だろう。
 北斗七星、北極星信仰である妙見様は、海を航海してきた民の信仰だと思われる。インドでは、九曜は星、天体のことで7つと他に2つの天体があるといわれ、その二つは実際にあった天体らしい…。しかし、妙見様とはどんな姿であったかなども、説明できない。
 そうなると、どうしても次元の違う話になってくる。この世は三次元だからお手上げになる。だから誰も説明ができないし、何も残されていない、と思う。しかし、私には早池峰神社を歩いている間、ずっと次元が違う世界だと思えてならなかった。だから、何も感じないし、何も残っていないと感じる静けさがある。その静けさは、何も残されていないのではなく、三次元であることの無力さにあると思う。物質文明の人工的なモノが、いかに浅く、はかないものであるかを感じる、ものさびしい静けさにある。でも水神だけは祀るようにしている世界だけは残っている。それが母なる大地母神であると。それが早池峰の女神なんだと思うのです。」

 朝の境内には誰もいません。九輪草が可憐な花を咲かせて、エゾハルゼミの合唱が響き渡り、私たちを迎えてくれました。そしてカッコーも鳴いています。


 本殿前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「更なる進みへ、皆々共に参り行くは嬉しき事なり。
 緩やかなる、たおやかに、悠々と進みて参りませ。
 揺らがぬそれぞれ、ただただひとつなり。」8:50





2018年6月20日水曜日

1341「十字9」2018,6,20

 この貞任山・五郎作山・石仏山を抜ける山道では熊、カモシカ、狐など野生動物に遭遇しました。そして帰路は丁度、日暮れに時刻にあたり北の早池峰山などの山々、西の端に沈む綺麗な夕陽に出逢えました。車を止めて自然の妙、微細なエネルギーの光を満喫しました。ありがたいご褒美です。今日1日の恵みの感謝です。





新山石割桜の所のお言葉に「北より参るを受け止めて、多くへ 配るこの地なり。」とあります。北に付いてこの地に関わる、妙見への興味深い表記を見つけましたので紹介します。

「北(あべ)
 遠野の北に聳える早池峯山の上空には、北極星と北斗七星が輝く事からなのか、北辰であり妙見信仰とも結び付く山である。その早池峯山にはいくつかの安倍氏の伝承が伝わっているのも、安倍氏が早池峰信仰をしていたからに他ならない。そしてその安倍氏の出自が、未だにわかっていないのが現状だ。
 安倍氏は蝦夷の豪族である事から、もしかしてアイヌの血を引いているのではないかとされたが、平泉金色堂に祀られていた安倍氏を祖とする奥州藤原氏のミイラのDNAを解析したところ、アイヌ系のDNAは無かったようである。また神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として長髄彦がいるが、その兄弟である安日彦(あびひこ)が安倍氏の祖ではないかとも云われる。安倍は「アビ」であり、火を意味するという。それが確かなら、安倍は火を意識して作られた氏名という事になる。
 ところで気になるのは、早池峯がかなり北を意識された山であるという事。ただ、早池峯の古くは東峯という山名だったという説は、以前に自分が否定した。東とは太陽の昇る意を含むもので、現実的にそれが適用になるには岩手県の内陸部である花巻地域から盛岡地域にかけて望む早池峯に限っての事である為、それは恐らく南部氏の意向を汲みとった山名であったと思われる。水沢の正法寺の裏山を早池峯と称して、毎年正月に参拝するのは、北に鎮座する本来の早池峯山の遥拝所であった為だ。
 また、大迫の早池峯神社の向きが、遠野の早池峯神社に建てられたのも、遠野側の早池峯神社を経由して、北に鎮座する早池峯山を遥拝する為だった。南部氏が力を示す以前に建てられた大迫の早池峯神社が北を意識していながら"東峯"という山名であったとされるのは、東という漢字の用法からやはりおかしいのである。
 日蓮宗総本山久遠寺の山号は、身延山(みのぶさん)である。その身延山の山号は、妙見にちなんでいるという。その身延(みのぶ)とは「みのべ」の転訛であり、本来「みなのあへ」からきているとされる。「みなのあへ」の「み」は「三」であり、「な」は「四」であると。 
 四三の星(しそうのほし)と呼ばれる星があるが、これは古くから伝わる北斗七星の古語になる。三と四の組み合わせで浮かぶのは、北斗七星。身延山が妙見を意識してのものならば、それはすんなり受け入れられる。そして「みなのあへ」の「あへ」とは、「北」そのものを云う言葉であった。「あへ」は濁点が付いて「あべ」にも転訛する。つまり「あべ」という言葉そのものが古来、北を意味していたという事になる。「あべ」が「北」を意味する言葉であるなら、"安倍貞任"が"魁偉"という北斗七星を意味する名称で呼ばれた事も、すんなり受け入れられるのだ。そして北に鎮座する早池峯山に、やはり北そのものを意味する安倍氏の伝承が存在するのも当然の事であった。
 現在、遠野・釜石・大槌の三地区にまたがって風車が建てられている風力発電の施設は、遠野側から向うと、貞任山・五郎作山・石仏山と連なって新山へと行き着く。ところでこの新山だが気になるのは、新山神社というものが岩手県にいくつも存在するのだ。この新山神社の殆どは早池峯を信仰する神社であるのが一般的になっている。」

 宿泊先は遠野市内の私たちの定宿、あえりあ遠野です。到着は19時15分過ぎています。チェックインしてお風呂を頂き、美味しい遠野産ホップを使ったビールに喉を潤し美味しい食事を頂きました。2次会もロビーを占有して1時間楽しみました。



2018年6月19日火曜日

1340「十字8」2018,6,19

 この新山に付いて記したものを抜粋して紹介します。
「新山からの早池峰&薬師
 大槌に属する新山牧場からの展望は、北に早池峰と薬師を遠望し、東に大槌湾。そして釜石に聳える仙盤山や片羽山に、六角牛山をも見渡すできる事のできる見事な展望地となっている。

 この一連の山々の麓に、安倍貞任の末裔が逃げ延び、移り住んだと云われる。初神に住んでいた貞任の末裔と云われる及川氏に話を伺うと、現在の初神には誰も住んでおらず、安倍貞任が祀っていた星の宮神社も、今では祭事は行われていないとの事。星の宮神社御神体も定かでは無いとの事だが、ただ昔から伝えられている事は、星の宮神社は星を祀っているというよりも、"空・山・川・石・大地・海"の自然を祀っていたのだという。

 新山では、桜の木を愛でているかのようだ。全てを紹介できないが、いくつもの桜の木に、名前が添えられ保護されている。写真の石割桜は、北を背にした山の神を祀る鳥居を潜った中に、巨石と共に並んでいる。
 桜は"コノ花"とも云い、火の粉でもあったようだ。巨石の傍に、もしくはタタラ跡に桜が植えられるのも、金の精製の過程の象徴であるからかもしれない。ところでこの貞任山から新山にかけて気付くのは、早池峰&薬師が見事に見えるという事だ。
 貞任山には荒覇吐神社があるという事だが、ここで考える。貞任の祭祀とは、自然崇拝であったようだ。つまり朝廷側が普及させた木造の社を持つものではなく、自然祭祀であったのだと思う。
 遠野の西にある種山もまた貞任の遺跡を確認できるのだが、巨石を二つ並べた間に早池峰が見える。神社とは"神の社"の意であるが、これは何も木造で建てなくてもいい筈だ。つまり石を並べたものでも、じゅうぶん神社として成り立ったのではないだろうか?
 つまり種山の頂きの巨石を考えた場合、その巨石から見えるものが信仰の対象であり、その信仰の対象を枠取った巨石こそが神社そのものであったのだと思う。そして安倍貞任は、その巨石の中に何を見たのか?という事になるのだが、やはりそれは早池峯であろう。
 新山(しんざん)は音読みであり、近代になってそう読まれたのだろう。つまり新山の本来は「にいやま」か「あらやま」であったと思う。「荒川の道」で記したが、荒は山伏などの用語では、砂鉄などの金を表す意でもあった。つまり新山神社の殆どが早池峰を祀る神社である事から、新山とは"あらやま"であり、早池峰とは金の山の中心であったのだと思う。
 だからこそ、安倍貞任の祭祀や伝説には早池峰が付随する。安倍貞任の築いた文化や歴史の中心が早池峯であったのではなかろうか?つまりだ…この貞任山でいう荒覇吐神社とは、早池峰を祀る神社の意ではなかったろうか?」
https://dostoev.exblog.jp/14682132/

 新山高原の石割り桜の周囲はツツジが群生していますが、既に枯れ始めていました。巨石の割れた間に見事に桜の木が聳えています。巨石の上に小さな石塔が祀られてあり、そこへの石の階段に縦に並んであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「北より参るを受け止めて、多くへ 配るこの地なり。
 響きも光も、皆々ひとつ。
 生まれ出で来る新たなるを送りませ。」18:08




 既に18時を過ぎています。この地は携帯の圏外でホテルに連絡が付きません。早々に帰路に着きました。


2018年6月18日月曜日

1339「十字7」2018,6,18

 猫山の紹介です。
「「右 岳に至る」。古道跡の傍らに建つ石碑に刻まれた文字から、かつて、合石が早池峰山へ向かう人々にとって交通の要所であったことが窺えます。また、非常に古い時代のものとされる石英混じりの石に「南無阿弥陀仏」と彫られた供養碑もあり、一説によれば、これは外川目一帯で盛んであった金の採掘に関わった人々を供養しているものだ、とも云われています。集落には、江戸時代に起源をもつ合石神楽が伝承されています。
 合石集落の奥にある猫山は、標高920メートルの花崗岩の山です。頂上からは、雄大な早池峰連峰が一望できます。昔の人々は、里から猫山を見て、奇岩や巨岩が連なる様子を「猫山の石景」と呼んだようです。
 猫山の石景の代表的な石としては、合石の地名の語源とされ、まるで包丁で割ったような姿の巨石「合石(あせし)」。
 周囲21メートル、付き出た石の下には50人ほど入ることができる空間を持つ「覗石(のぞきいし)」などがあります。山腹では、明治時代に、珍しいモリブデン鉱石を採掘しており、宮沢賢治の作品「風の又三郎」に登場するモリブデンに絡むストーリーとよく似ていることが指摘されています。」
http://www.act.jpn.org/nekoyama/shuraku/awaseishi.html

 集落から林道に入り、悪路を5キロ程登ります。途中、巨石が点在しています。20分程でしょうか、車に揺られて「のぞき石」に到着です。ひさしの様に飛び出た巨石の姿に皆さん驚きです。蛙の様にも見えるのですが何故こんな姿になったのか不思議です。
 沢山の蝉の鳴き声が出迎えてくれました。木々の間からの太陽の光も心地良い感じです。石の上に上ったり、暫し散策し自然のエネルギーを満喫しました。






 のぞき石の底辺部にある平たい巨石の上であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「大事になさりて、この光を。
 皆々様のその身に入れて、大いなるその身の全てに伝えませ。
 新たなるなり。
 この光は響きと共に是よりを現す。
 うたかたは流し行く。」16:02

 のぞき石を後に、山を下ります。次の目的地は新山高原の石割り桜の巨石です。遠野市内を経て貞任高原を目指して国道340号線を北上します。市内を抜けて進むと前方の山頂に風力発電機が林立し、連なっているのが見えます。その山をぬう様に進むのです。
 山口の水車小屋に向かう様に国道340号線から右にまがり、水車小屋への分岐を左にすすみます。この道路はスリーグリーンラインと言われ、貞任山・五郎作山・石仏山と連なった山道を新山へと行きます。東西に連なる山々の峯を走り太平洋の大槌町に抜ける知る人ぞ知るドライブコースです。途中にウインドファーム、風力発電が沢山林立しているその直ぐ下を通り抜けて行きます。そこから早池峰山の眺望は素晴らしいものがあります。







 

2018年6月17日日曜日

1338「十字6」2018,6,17

 大いなる光をいただき、ひとつとなり、満たされた皆さんには自然に和みの笑顔が輝いています。秋田県大仙市から次なる目的地は岩手県花巻市です。車は秋田自動車道を車は軽快に進みます。その車中でこの神宮寺のことが話題になりました。
 私が神宮寺岳を知り程なくして、この地を震源地とする大きな地震が起きています。その事を伝えると、中山さんは直ぐにその地震のことを検索されました。何しろ、1日のお言葉に揺らぎがあったからです。
「明日の光は新しきぞよ。揺らぎて参るぞ。この地は全てが揺らぐ。
 その時、この身が発する音はあ~。揺らぎは赤き山にあり。」

 最初に1914年のものが出てきました。
「秋田仙北地震は、1914年3月15日午前4時59分44秒、秋田県仙北郡(現・大仙市、旧・西仙北町)を震源として発生した。別名を強首地震(こわくびじしん)という。地震の規模はM6.4-7.1。
 秋田市で最大震度の5を記録したほか、北海道から東海地方にかけて震度1以上の揺れを観測した。震度の数値はそう大きくはないが、94名の死者を出した。当時、各地の震度をまんべんなく測定する体制はとられていなかったため、仙北地方の震度の記録はないが、全潰率と全半潰率から求めた震度分布では、強首村で震度7程度の非常に強い揺れがあったと見られている。」

 私の知っているものは数年前のです。更に調べてみると昨年2017年の地震の記事が出てきました。
「秋田県内陸で強い地震 大仙市神宮寺で震度5強
 9月8日22時23分、秋田県を中心に強い地震がありました。気象庁によると、秋田県大仙市神宮寺で震度5強。 震源地は秋田県内陸南部で、地震の規模はマグニチュード5.3と推定されています。この地震による津波の心配はありません。」

「速報 大仙市神宮寺の地震 未明から続発中 街部のため注意 2017/9/13(水) 午前 5:55
 九月十三日 未明から再び活動が活発になつています。最大は 今日午前四時の地震で マグニチュードは3.4 深さ10.2km。メカニズム解は 北西から南西に伸張力の横ずれ型断層地震です。暫定 震源は 大仙市神宮寺字新丁。大仙市大曲で 震度3.2」
 
 何故、この地が震源地に成るのか不思議です。この場所も地球の中心に繋がる重要な箇所なのかも知れません。昼食予定の時間を過ぎていますが致し方ありません。でも全てが順調です。

 昼食は13時過ぎに花巻市東和町の道の駅の中のレストラン日高見で盛岡冷麺+ミニ寿司のランチを頂きました。皆さん冷麺が美味しいとご満悦です。


時間が押していますので午後の行動開始です。目指す目的地は花巻市大迫町外川目第7地割の合石集落を超えて猫山にある「のぞき石」です。

 猫山は宮沢賢治の「風の又三郎」のモデルになった山とのことで、賢治に所縁がありそうです。大迫町には「早池峰と賢治の展示館~猫の事務所~」があります。展示館は旧稗貫郡役所を復元したもので、宮沢賢治の童話「猫の事務所」のモデルではないかと言われております。そこには風の又三郎の舞台ともいわれる猫山のモリブデン鉱石などを展示しています。猫様がユニークで結構楽しめるのです。


 今回は猫の事務所はスルーですが以前に見学した時の写真などを紹介します。









2018年6月16日土曜日

1337「十字5」2018,6,16

 実は仙台を出ての車中で中山さんから、「昨日、1日に「揺らぎは赤き山にあり」と言う言葉があったのですが、今回の巡りで赤い山はありますかね?」と尋ねられたのでした。赤い山?・・・です。巡る行程の中で山を思い浮かべていました。神宮寺岳くらいしかないのですが赤い山ではないし。でとりあえず「山は猫山と神宮寺岳くらいしかないので神宮寺岳でしょうかね。」と答えていました。
 その中山さんのお言葉は以下です。

「定めたるはこの身なれば、新たなる響きを発せば、
 ひ、うる、うる、うる
 明日の光は新しきぞよ。揺らぎて参るぞ。
 この地は全てが揺らぐ。その時、この身が発する音はあ~。
 揺らぎは赤き山にあり。」22:44

「明日の光は新しきぞよ。揺らぎて参るぞ。揺らぎは赤き山にあり。」です。これは頭の片隅に置いておく必要があります。先ほどの青龍大権現ではなさそうです。
 
 改めて神宮寺岳(副川岳)の概要を紹介します。
「神宮寺岳はその山容が秀麗で、角度によっては綺麗な三角錐をしている事から古代自然崇拝の対象になっていたと推定されています。奈良時代に入り大和朝廷の権力が出羽国まで進出すると、当時は当地域が蝦夷との国境だった可能性が高く、秀麗だった神宮寺岳(当時は副川岳と呼ばれていたと思われます。)の山頂に副川神社を勧請し北方の守護神としたと思われます。
 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された所謂式内社は秋田県内では副川神社、波宇志別神社(保呂羽山)、塩湯彦神社(御岳山)の3社しかなく、重要視されていた事が窺えます。中世に入ると神仏習合し熊野信仰なども絡み修験の地となり、さらに八幡信仰が合わさった事で次第に副川神社本来の信仰が薄れていきました。その後、里宮だったとされる宮が八幡神社となり信仰が移った為、副川神社の存在が失われ、神宮寺岳の山頂の宮は何時しか嶽六所神社と呼ばれるようになりました。副川神社と嶽六所神社の関係は不詳ですが、嶽六所神社の創建は大宝年間(701~04)に勧請したとも、坂上田村麻呂が勧請したとも伝えられています。 
 祭神は六所明神(稻倉魂神、五十猛命、金山毘古命、高彦根命、大己貴命、事代主命)で副川神社が祀っていたとさえる「杉生の神」とも異なります。正徳4年(1714)、久保田藩4代藩主佐竹義格は古社の再興に尽力しましたが、副川神社は神宮寺岳では無く、現在の八郎潟町の高岳山山頂に再興しています。当時、副川神社の信仰は廃れ、古社地が判明出来なかった為、政治的な理由で遷座したされ、後にこの事が理由に郡名を変更したとも云われています(延喜式神名帳には社地が山本郡だった為、新たに再興した副川神社が鎮座する土地も山本郡でなければならないという理屈、逆に言えば現在の大仙市や仙北郡は古代には山本郡と呼ばれていた地域。)。又、戊辰戦争の舞台の1つでもあり、官軍だった久保田藩は神宮寺に本営を設けて神宮寺岳を要塞化させ、進軍してきた庄内軍と激しい攻防戦が繰り広げました。」

 大仙市神宮寺の雄物川の中川原コミュニティー公園の河岸から、雄物川越しに神宮寺岳の神奈備山としての全容を見れます。美しい姿です。自然を崇拝した古人には神宿る山と写り、大事にして崇め讃えたことがうなずけます。山麓には縄文時代の遺跡の小沢遺跡もあります。
 神宮寺岳の存在を知り、何度か足を運んで探索し、その中でベストなビュウポイント、あわ歌を響かせるに適した場所がここです。公園には野球場がありますが、川岸の道路から川岸にある船着場のような空間があり階段で川岸に下りられます。






 そこに陣取り、川岸から立ち上がる端整な神宮寺岳を真正面に見、燦燦と輝く太陽の光を浴び、雄物川の豊かな水の流れ、川面にきらきら輝く光を楽しみました。座り込んでいた中山さんが真っ赤だと言います。私には普通の景色なのですが、中山さんには全景が赤のスクリーンの中の様です。「昨日のお言葉の「赤き山」はここだ。」と言います。
 最初にお言葉があり、その後、皆さんであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「助くるなり。
 今より開くはるかなるへの道、響きて伝える。
 〜あわ歌〜
 この光、この時にしっかり受け取りてくだされ。
 大いなるものなり。
 千載一遇、今日の日、この時ぞ。
 両手を 差し出し、共々ひとつとなられませ。
 光の子、大いに喜び、ここへと参り来た。
 嬉しきなり。」12:35

千載一遇の時、この場に光の子が集まり来たようです。嬉しきなりです。