2019年11月14日木曜日

1856「下北・恐山22」2019.11.14

 昼食はプラザホテルむつ1Fにある下北バルのランチバイキングです。青森の旅も3日目です、毎日の豪華な地元の海産物料理を召し上がっていますので、毛色を変えて、少し調整する意味でお好みバイキングで洋食系をお楽しみいただきました。むつ市大湊は海上自衛隊の基地があり、海軍カレーが有名です。カレーもメニューにありました。


 ゆったりと過ごして八戸駅に向かう帰路に付きます。外は未だ雨が降り続いています。午後の予定の八戸根城跡・八戸市博物館はキャンセルです。皆さんも恐山で既に満腹の様で、もう学びは良さそうです。最後に1か所買い物を兼ねて、八戸市の観光名所になっている八食センターに向かいます。
 ひたすら下北半島を陸奥湾沿いの国道279号線を南下します。途中横浜町を過ぎてから県道24に入り太平洋側に向かいます。途中、六ケ所村の原燃の巨大な施設があります。そのエリアを通ると冷やりと身体が固くなる感じがします。
 少し再処理工場の事を紹介します。

・再処理工場ってなに?
 日本では福島第一原発事故前、54基の原子力発電所が運転していました。原発で発電を終えた核燃料(使用済み燃料)には燃え残りのウラン、プルトニウム、そして「死の灰(核分裂生成物)」が含まれています。日本政府や電力会社は、この使用済み燃料の中にあるプルトニウムを再び原子力発電で再利用する「核燃料サイクル」を、原子力政策の基本としています。そのため使用済み燃料からプルトニウムを取りだすための施設、核燃料再処理工場を青森県六ヶ所村に建設中です。プルトニウムは使用済み燃料に約1%含まれています。六ヶ所再処理工場は1年間で約800トンの使用済み燃料を処理し、約8トンものプルトニウムを分離します。

・続発するトラブル
 2007年3月末、東京電力をはじめとするすべての電力会社で、1万件以上におよぶ原子力発電所や火力発電所等の事故・トラブル隠しが明らかになりました。
 六ヶ所再処理工場でも設備の設計ミスが隠ぺいされていたことが4月18日発覚しました。使用済み燃料貯蔵プールに設置されている第1チャンネルボックス切断装置、燃料取扱装置が安全審査で想定された強い地震によって破壊される可能性があるというのです。これらの設備の耐震補強工事が実施されることになりました。
・六ヶ所再処理工場のコストは11兆円!!
 六ヶ所工場の費用について、当初公表されていたのは建設費だけです。工場は1993年から建設されていますが、この時は約7600億円でした。それが96年には1兆8800億円、99年には2兆1400億円と、2倍、3倍と高騰してきました。 ところが建設開始10年後の2003年、突然、電気事業連合会は「六ヶ所再処理工場の総費用は約11兆円」と公表しました。公表された内訳は、建設費約3兆3700億円、運転・保守費約6兆800億円、工場の解体・廃棄物処理費約2兆2000億円です。建設費だけでも当初計画の4.5倍になっています。そしてそれまで一切説明されなかった運転・保守費、工場の解体・廃棄物処理にも膨大な費用のかかることが明らかになりました。その後もコストは年々上昇し、2018年現在では13兆9300億円と見積もられています。この試算は工場が40年間100%フル稼働、無事故で動くという、ありえないような前提で試算されていますから、実際はこれ以上の額になることは確実です。これは使い道のないプルトニウムのための費用であるにもかかわらず、数世代にわたって国民一人ひとりが負担することになります。

・再処理は廃棄物を増やす!
 政府や電力会社は、「再処理によって廃棄物の量が減る」と宣伝しています。これは大きなウソです。確かに高レベルの使用済み燃料はガラス固化体にすれば小さくなりますが、それと同時に膨大な低レベルの放射性廃棄物が発生します。その量はフランスのラ・アーグ再処理工場では元の使用済み燃料に比べて約15倍、日本の東海再処理工場では約40倍となっています。六ヶ所再処理工場でも、事業申請書から試算すると約7倍の放射性廃棄物の発生が見込まれています。また廃棄物とは見なされない空や海への日常的な放射能の垂れ流しもあります。さらに工場の操業後は、施設全体が放射性廃棄物となってしまいます。これらを含めると再処理工場は、元の使用済み燃料に比べて約200倍もの廃棄物を生み出すという試算値もあります。これらはすべて、再処理を行わなければ発生しない廃棄物です。

・再処理工場は「原発1年分の放射能を1日で出す」
 使用済み燃料は膨大な放射能の塊で、人間が近づけば即死してしまうような非常に強力な放射線と高い熱を出し続けます。再処理工場はこんな危険な使用済み燃料をブツ切りにし、大量の化学薬品を使ってプルトニウム、燃え残りのウラン、死の灰(核分裂生成物)に分離する巨大な化学工場です。そのためたとえ事故でなくても、日常的に大量の放射能を放出しなければ運転できません。高さ150メートルの巨大な排気筒からは、クリプトンをはじめとしてトリチウム、ヨウ素、炭素などの気体状放射能が大気中に放出されます。しかし国は、これらの放射能が「空気によって拡散するので問題はない」といっています。また六ヶ所村沖合3kmの海洋放出管の放出口からは、トリチウム、ヨウ素、コバルト、ストロンチウム、セシウム、プルトニウムなど、あらゆる種類の放射能が廃液に混ざって海に捨てられます。これについても国や日本原燃は「大量の海水によって希釈されるので安全」と説明しています。また六ヶ所工場の当初計画ではクリプトンとトリチウムの除去が計画されていましたが、経済的な理由から放棄され全量が放出されます。


2019年11月13日水曜日

1855「下北・恐山21」2019.11.13

 国道279号線の海岸脇の道を進み県道4号線に入り、薬研温泉を通り山越えで恐山に向かいます。冬期間閉鎖の山道を走りますが、未だ雨が降りやみません。下り道になり程なくして恐山が見えてきました。
 受付を済ませ皆さんと総門から入山しますが最初に集合写真をとりました。



雨が強く、風も強く吹く中での参拝になりました。以下は参詣地図、案内です。

 恐山の境内は1周3km程度の参拝コースがあり、徒歩約40分で巡ることができます。その境内には火山岩で形成された136の「地獄」があり、現世で犯した罪の罰を受ける地獄を表しているのだとか。
 恐山で温泉というのは想像できないかもしれませんが、境内を参拝する前に身を清めるためにかつては参拝客全員が入浴していたとか。また、湯治場としても知られ、入湯した人の中には皮膚炎が治ったといった例があるそうです。「冷抜の湯」「古滝の湯」「薬師の湯」は男女別となっており、月替わりで入浴可能な湯が変わるとか。「花染の湯」は混浴で、どの湯も入浴は無料です。

 この天候です、参拝者は少なく閑散としています。初めて参拝の方々は木内さんと同行して菩提寺に向かいました。私は何度も来ていますので、ひとり温泉に入り皆さんの帰りをお待ちしました。温泉は貸し切り状態で良き清めを頂きました。



後で伺ったところ、木内さんは仏ケ浦で遭遇した霊存在達をここで上げられたとのことです。やはり恐山はあの世への入り口だった様です。以前参拝した時、丁度、例大祭の時でイタコの小屋が並び多くの方が列をなしていました。
 恐山は、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場です、各所に祀られる地蔵さん、賽の河原には石積、沢山の風車が見えます。風車は輪廻の象徴であり、お花の代わりに供えるのだそうです。
 地獄巡りでは様々な地獄を巡りますが、硫黄ガスが噴き出しており、稀に藻が発生し、池の水が真っ赤に染まるそうです。私は地獄巡りをあまり好みではないのでほとんど足を踏み入れませんが。


 私は宇曽利湖の奥に見える8つの外輪山の1つ大尽山の山容が気に入っています。綺麗なピラミッド形で極楽浜から進む世界を象徴するようにも感じます。
  

 皆さん濡れながらも参拝出来たようです。私以外に2人の女性が温泉体験出来たようです。一息ついて昼食会場のむつ市に向かいます。
 恐山をでる道の右手に三途の川にかかる太鼓橋があります。悪人には、この橋が針の山に見えて渡れないと言われているとか。「人は死ぬとお山(恐山)へ行く」と信じられていて、死ぬとこの三途川を渡って向こうに行くということなのでしょう。





 恐山入口近く道の右手山中に鬼岩があり、門番の役割をしているようです。雨ですからそのまま通り過ぎましたが以前にあわ歌の中山博さんと訪問した時の写真を紹介します。その時のお言葉は以下でした。
「正して、正して、正して参られ。
 是よりもこの地を訪ねる多きの方々、皆々、正して参られませ。
 ここより大きなる北よりの気を発して参られ。」


429「北方来光2」2015,5,8
http://tenmei999.blogspot.com/2015/05/429201558.html


2019年11月12日火曜日

1854「下北・恐山20」2019.11.12

 23日は夜半から降り出した雨が本降りです。台風17号の影響です。天気は終日この雨の予報ですので、当初の予定は大幅に変更を余儀なくされました。皆さんにもその旨お伝えし、朝風呂をゆったり頂き、美味しい朝食に心身は満たされ、8時半過ぎにゆっくりと宿を出発しました。
 当初予定していた薬研渓流と釜臥山展望台はキャンセルです。ですから午前中は恐山だけです。恐山は以下の様に紹介されています。

「恐山    むつ市田名部字宇曽利山3-2
 恐山菩提寺は青森県むつ市田名部字宇曽利山に境内を構えている曹洞宗の寺院です。
 恐山は日本三大霊地(恐山・川原毛地獄・立山)、日本三大霊場(恐山・白山・立山)、日本三大霊山(比叡山・高野山・恐山)の1つに数えられています。
恐山の地名の由来はアイヌ語のウッシュロ(湾)説、ウサツオロスプリ(灰の多く降る山)説などがあり、それが訛りウソリ=宇曽利=恐(おそれ)になったとも言われています。
 恐山菩提寺の創建は平安時代の貞観4年(862)に慈覚大師円仁(第3代天台座主・入唐八家)が"東方行程30余日の所に霊地があり地蔵尊像を安置せよ"という霊夢により東北巡錫を行い山寺立石寺(山形県山形市)を開山し、次いでこの地を訪れ恐山を開山したと伝えられています(一説には慈覚大師が魚を咥えた鵜が山を越えるのを見て恐山を見つけたとも言われています)。

 ただし、慈覚大師円仁が東国に巡錫で訪れたのは天長6年(829)から天長9年(832)の事で、貞観4年(862)時点では天台宗の座主として62歳という高齢を迎え貞観6年(864)に比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)で64歳で死去した事から恐山菩提寺の開山は伝承の域を出ません。
 弟子が境内を整備して円仁を勧請開山したとも考えられますが、当時津軽地域が朝廷の支配下にあったかどうかは疑問があり、延長5年(927)に朝廷が名社として認識していた神社を列記した延喜式神名帳には津軽地方の神社は一社として記載されておらず、その他の資料では9世紀の津軽地方にはエミシによる大勢力が存在していた事が窺える記載がある為、寺院として成立するのは時代的には下がると思われます。

 一方、恐山は火山活動により現実世界とは異なる景観や硫黄による独特な臭いなどがあり、下北半島の住民にとっては古くから霊山として信仰の対象となり、特に祖霊信仰が盛んになると、死者の霊魂が恐山に集まり、イタコを通して死者と言葉を交わす事が出来るといった独特の風習が生まれました。さらに、仏教が下北半島まで浸透すると、恐山の景観が三途の川の畔になぞられ地蔵信仰が盛んになりました。
 当初、恐山金剛寺と号して天台宗の修業道場として繁栄しましたが室町時代の康正年間(1455~1457年)に起こった蛎崎の乱(南部氏と蛎崎氏:後の松前氏との争乱)の兵火によって焼失し一時衰退、その後、享禄3年(1530)聚覚和尚が再興し寺号を釜臥山菩提寺と改称します(聚覚和尚は大永2年:1522年、八戸根城南部家の庇護の下、恐山菩提寺の本坊となる円通寺を開山しています)。戦国時代には八戸根城南部氏(本城:根城)に庇護され、戦国時代の永禄年間(1558~1570年)には南部政栄によって堂宇の修築と境内の整備が行われ寺運も隆盛しています。

 菩提寺の本尊は恐山を開山した慈覚大師円仁が彫刻したと伝わる地蔵菩薩像で、その脇には江戸時代初期の寛文7年(1667)に恐山を訪れたと思われる円空(現在の岐阜県出身の僧侶で、独特な風合いのある木像を彫刻しながら全国を行脚した。)が彫刻した十一面観音立像と観音菩薩半跏思惟像が安置されています。
 江戸時代後期の寛政4年(1792)に恐山を訪れた江戸時代の紀行家菅江真澄も円仁の地蔵菩薩や円空の仏像、境内の様子を日記「牧の冬枯れ」「奥の浦々」などに記載しています。菅江真澄は下北半島(むつ市)に2年半滞在し恐山には合計5度訪れ、当時は「山の湯」と呼ばれ、霊場であると共に湯治場でもあり修験者と遊女らしき女性などがいたとされ真澄も温泉や宇曽利湖の舟遊びなどで楽しんだようです。南部藩下北地方行政の拠点だった田名部代官所と恐山との間には恐山街道が整備された為、街道を利用して多くの住民が参拝や湯治に訪れていたようです。
 恐山菩提寺山門は比較的新しい建物で、入母屋、本瓦葺、五間三戸、桁行5間、張間2間、十二脚二重楼門、下層部左右には金剛力士像、上層部には五百羅漢像が安置され、「霊場恐山」の山号額が掲げられています。


 恐山山地は宇曽利湖(恐山湖)を取り囲む釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山の総称でその形状から蓮華八葉(仏が座る蓮の花の弁が8枚であることから、仏教の聖地に例えられています。)に例えられ、宇曽利湖はその火山活動で出来たカルデラ湖と言われています。
 恐山は1万年以上前に噴火したと言われる休火山の為、周囲では現在でも水蒸気や火山性ガスの噴出が盛んで、植物が育たなく硫黄臭と荒涼とした景観は地獄のような印象を受けます。
 恐山の境内は荒涼とした景観から死後の世界に例えられ、宇曽利湖の浜辺は極楽浜、正津川は三途川と称され死んだ人間は恐山に集まりやがて浄化して天に昇ると信じられています。その為、恐山の例祭には口寄と呼ばれるイタコが死者の御霊を呼び死者の話しをするといった行為が現在でも行われ、下北半島周辺の地域では一生に一度は恐山に参らなければならないとして多くの人達が集まるそうです。
 又、その景観は、あの世とこの世の境目にある賽の河原に見立てられ、両親より早死し親不孝だった子供が成仏する為に積んだ小石を模した石塔が数多く設けられています。
 恐山菩提寺は田名部海辺三十三観音霊場第33番札所、北国八十八ヶ所霊場第64番(札所本尊:地蔵菩薩)。に選定されています。山号:釜臥山。宗派:曹洞宗。本尊:地蔵菩薩。」

2019年11月11日月曜日

1853「下北・恐山19」2019.11.11

 国道338号線を更に北上します。目指すは本州最北端の大間崎です。以下の様に紹介されています。

「大間崎           大間町大字大間字大間平
 大間崎は下北半島の西北に位置し本州の最北端の岬です。対岸である北海道の汐首岬とは約18kmで対し本州、北海道との最短地点とされます。大間崎沖合い600m先には潮流の速い水道の「クキド瀬戸」を挟んで弁天島があり大間埼灯台が設置されています。
 大間崎は石川啄木縁の地とされ「 東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 」の歌は弁天島のことを詠んだものではないかと言われています。
 又、隣接する大間漁港はマグロの一本釣りとしても有名で、季節になると津軽海峡にやってくる大マグロを求めて町中が活気づきます。大間崎の先端には「ここ本州最北の地」の石碑が立ち、北緯41度33分・東経140度54分を示し、周囲にも多くの石碑やモニュメントが建てられています。下北半島国立公園。」

 岬に立つと目の前に、こんなに近くに北海道が見えるのには驚きです。案内板によると函館山、函館市街が見えるではありませんか。


 夕暮れ時であまり観光客が居ませんでしたので、ゆったり本最北端の碑を見て写真に納め、マグロのモニュメントで乗ってみたりして戯れ、楽しく遊んでいました。皆さん何故かハイテンションになった様で何が無くても笑顔なのです。最北端ということで解放されたのでしょうか。

 暫し、海、空に繰り広げられる光彩、日輪など光の輝きを楽しみました。なにやらケムトレイルの様なものも見えましたが。その後は店じまい始めたお土産屋さんで買い物を楽しみました。マグロのお土産品を買っていましたが、今夜の二次会用につまみも買い足しました。

 宿に向かいました。風間浦村下風呂温泉の下風呂観光ホテル 三浦屋さんが宿泊先です。

下風呂温泉郷の紹介です。
「本州北の果ての海沿い 青森県下北半島 風間浦村に、幾百年ものあいだ湯治場として親しまれてきた『下風呂温泉郷』がある。 
「ああ、湯が滲みて来る。本州の北の果ての海っぱたで、雪の降り積る温泉旅館の浴槽に沈んで、俺はいま硫黄の匂いを嗅いでいる。」作家・井上靖の小説『海峡』の一節である。 
 昭和33年3月9日、「ここなら渡鳥の声が聞ける」と紹介された井上靖が、津軽海峡に面した下風呂温泉郷を訪れ、『海峡』の終局を執筆したのであった。 
 背後には山が迫り、目の前には津軽海峡が広がる。山海に挟まれたわずかな土地に宿がひしめく下風呂温泉郷は古くから温泉地として知られ、多くの湯治客でにぎわったという。潮の香りに織り交ざる硫黄のにおいに出迎えられ、新鮮な海の幸に舌鼓を打つ。 津軽海峡の水平線に見えるのは夜の空と海とを照らすイカ釣り漁船の漁り火。 小説に描かれていたような情緒あふれる温泉郷が今もなお残っていて、昔と変わらず聞こえてくる潮騒の心地よい響きは旅人の癒しとなる。 室町から続く名湯のある下風呂温泉郷は旅の疲れを解きほぐす「やすらぎの場」。」  

 三浦屋さんは新装間もない建物でこじんまりしていますが良いお宿でした。乳白色の硫黄泉の天然露天風呂からは津軽海峡が見え、イカ漁の季節は漁火が見える事でしょう。料理は生ウニもまたまた出て、新鮮な魚介類に皆さん大喜びです。お酒も進み、今夜も2次会が深夜まで盛り上がりました。

2019年11月10日日曜日

1852「下北・恐山18」2019.11.10

 次の目的地、佐井村の願掛け岩には国道338号線を北上します。展望台から少し北に進むと道路上の電線を野生猿が歩いているではありませんか。その前には群れをなして悠然と道路脇を歩いています。脇ノ沢町に野猿公苑がありニホンザルの日本の北限とされていますが、優に20キロ以上も北です。野猿天国、楽園なのでしょうか。






 海岸沿いの道から遠くに巨大な岩が斜めに聳えています。



二つの岩の間は入り江になっていて案内板があり、そこに縁結びの鍵を掛けて吊るすチェーンが仕掛けられています。


以下の様に紹介されています。

「願掛け岩          佐井村矢越
 願掛岩は青森県下北郡佐井村大字佐井字矢越に位置する名勝です。願掛岩は見ようによっては男女が抱き合っているような姿をしている為、古くから恋愛成就の信仰の対象となってきました。
 江戸時代の紀行家"菅江真澄"が寛政4年(1792)に願掛岩を訪れた際、この地には願掛岩に建立されている稲荷社と八幡社の鳥居に 桜の枝を鍵として掛け、異性に自分の想いが通じるように願を掛ける風習があることを記しています。その為、この大岩が願掛岩や鍵掛岩と呼ばれたそうです。
 又、津軽海峡から見ると航海の目印にもなった為、漁業関係者が崇敬され信仰の対象になりました。又、願掛岩の下には鳴海要吉の「 あそこにも みちはあるのだ頭垂れ ひとひとりゆく猿がなく浜 」の歌碑(文字:秋田雨雀)が立てられています。」

「願掛岩(がんかけいわ)は、まぐろの一本釣りで知られる本州最北端の大間崎から国道338号を約20km南下した佐井村矢越岬の突端にある。休日のせいだろうか、国道ですれ違う車はほとんどなく、所々に現われる集落でも人の姿を見かけることはまれである。
 ここ40~50年の間に、下北半島西回りの道路網は整備された。昭和42年(1967)年に佐井村の磯谷集落~牛滝集落間に海岸林道が完成。同43年、佐井村~川内町を結ぶ県道「かもしかライン」が開通。同45年、佐井村~大畑町を結ぶ「あすなろライン」が開通。同57年(1982)には大間~脇野沢~川内間(海峡ライン・338号線)が国道に昇格した。自然が刻んだ奇岩の景勝を気軽に堪能できるのも、この道路網のお陰といえる。
 それでも冬期になれば、ここは「陸の孤島」と化してしまう。国道338号線の佐井村~脇野沢間は雪で通行止めとなり、地域のライフラインは青森~脇野沢~牛滝~福浦~佐井の港を結ぶ高速船「シィライン」を頼らざるを得ない。この航路は国の離島航路補助制度に基づき運航されている。本州の一部であっても、離島としての扱いを受けなければ立ち行かない。それほどの僻遠の地なのである。

 しかし、菅江真澄が訪れた江戸時代後半の佐井村の様子は、今と異なり大層にぎわっていたようだ。当時、この地は南部盛岡藩の所領だった。享和3年(1803)、このころ蝦夷地周辺にロシア船がしきりと来航するようになり、幕府は海防策として佐井湊を函館への渡航地と位置づける。以来、廻船問屋も定着し、南部檜と海産物の積出港として佐井の村は繁栄を極めたという。
 今から220年余り前の寛政5年(1793)4月1日(新暦5月10日)、桜の好きな真澄は、佐井の港から小舟をこぎだし、牛滝の磯と浦山の桜を巡っている。佐井村逗留時には村長・坂井某の世話になり、江戸で蘭医杉田玄白に学んだ村の医者・三上温(日露戦争に軍医として従軍した三上剛太郎の曽祖父)と親しく交遊している。
 4日、おだやかな朝なぎの日、真澄は三上温とともに、ふたたび佐井港から舟をくり出し浦々を遊覧している。福浦(仏ヶ浦の北)で三上温と別れ、帰路はここから歩き、その途上にある願掛岩に立ち寄った。そのときの記載が「奥の浦うら」にある。

 「矢越のこちらに雌矢越石、雄矢越石といって、その高さ百尋(五〇〇尺以上)ばかりの、そびえたっている大岩があった。小さい祠がふたつあるのは、ほんたの神(誉田別命、八幡社)、やふねとようけひめ(八船豊受姫)を祭るという。二つの鳥居に木の枝をかぎにしてうちかけてあるのは、懸想(けそう)するひとの願いであるという。それでここを神掛といい、また鍵懸ともかくのであろうか。……」
 また解説には、「鍵かけ」について
 「木の枝を鍵状にしたものを鳥居や神木などに投げあげて、うまくかかると願望がかなうという俗信は奥羽地方にあり、神占いとして行なわれていた。」とある(『菅江真澄遊覧記』「奥の浦うら」東洋文庫より)。
 ついで、中山太郎編『日本民俗学辞典』で「鍵かけ」を調べてみると、
 「鍵懸と云ふのは、津軽の山中では屡々見受ける俗習であつて、即ち木の双股になったものを高い木の枝に投げ掛けるのである。主として男女懸想する占ひである。うまく投げかければ念願成就、幾度やつても出来ない時は失望するさうであつて、錦木の風俗を更に碎いた行事である。鍵懸は神掛けかと疑う人もあったが、此のかんがけは今はまったくやらないと云う話である(津軽旧事談)」とあった。

 「男願掛け」「女願掛け」と呼ばれる2つの巨大な岩塊からなる願掛岩は、見方によっては男女が抱き合っている姿に見えるというが、どこから眺めればそのような姿に見えるのか。これは縁結びの岩とされる俗信から生まれた見立絵と思われる。
 願掛岩は、鍵掛(かぎかけ)岩、神掛(かんかけ)岩とも呼ばれているが、「ガン」「カギ」「カケ」はともに崖を意味し、崩壊地形を表わすとされる。『地名用語語源辞典』(東京堂出版)にも、「かぎかけ〔鍵掛〕カギ、カケともに崖の意」「かんかけ〔鍵掛、鐘掛、鉤掛、神懸、上掛〕崩崖のこと。ガンカケと同じか。」「がんかけ〔雁掛〕岩壁、絶壁、断崖のくずれ」とある。
 矢越というの集落名も、由来はアイヌ語の「ヤ・グシ」にあるとされ、ヤは陸地または岡の意、グシは通るの意で、海岸線まで迫る断崖絶壁により、浜は通れぬため岡の上を通ったことから名付けられたという。佐井村一帯が急峻な海崖よりなる崩壊地形なのである。
 真澄の描いた絵図からも、海岸に鋭く聳え立つこの岩が、海上からの絶好のメルクマールであることが分かる。古くは航海の安全を祈る“神の依り着く岩”として、船人の信仰を集め、ムラの守り神として崇敬されいたのだろう。村の観光スポットとして、すっかり縁結びの神様にされているが、断崖地形を表す「ガンカケ」が、恋愛成就の「ガンカケ」に転じたのは、後世になってのことと思われる。
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/ao_gankake/gankake.htm

菅江真澄の絵図『やこしの坂を下る」(『奥の浦々』)
「左井のみなとより やこしのさかをくだりて、
いなりのやしろ 八幡のやしろならびてあり」
案内板より
津軽海峡に突き出る願掛岩

  

2019年11月9日土曜日

1851「下北・恐山17」2019.11.9

 仏ケ浦の散策です。階段をおりて浜の正面には船着き場でその右手には屏風岩、岩龍岩があります。




 左手には双鶏門、天龍岩があります。その先には如来の首です。蓬莱山に登ろうとする方もいたり、想い思いにあっちを見て、こっちを見て、未知との遭遇、不思議体験です。









 木内さんは色々な異次元存在の来訪を受けている様です。少し辛そうですが致し方ないのでしょう。この地を一度は訪れたい、との願いでしたから、この地の無形、有形とのコンタクトです。ここには海からの多くの御霊が沢山流れ着いている様だと言います。
 思うに海からはこの奇岩等は昔から確認されていたと思います。しかし、陸路は何時ごろで来たのか、相当時代を下ってからでしょう。
 先に紹介したように仏ヶ浦の由来はアイヌ語の「ホトケウタ:仏のいる浜」と言います。果たしてアイヌが仏教的な思想を抱いていたのか分かりませんが冥土に向かい、導く霊存在をこの地に見たのでしょう。
 そこでは津軽海峡を三途の川、白浜を賽の河原に見立てた信仰があります。この世で亡くなった者は仏ヶ浦を通って旅立つ、という言い伝えもありますが、それは彼岸と此岸の境界、つまり三途の川であり、その河原は賽の河原との捉え方です。
 そして極楽浄土を思わせる名称が付けられています。岩の名称は人の想い、かなり後世の物と思います。記事には、江戸時代に流れ着いたお地蔵様を祀ったことから、仏ヶ浦信仰が始まったともあります。
 いずれにしても周辺の海流や地形・地質と関わり、長年の風雨と波によって削られた岩々は、鬼か神でなければ創ることができないと思える、仏ヶ浦独特の霊験あらたかな空間が人々に信仰が根付かせたのでしょう。
 古くは恐山の参拝の帰り仏ヶ浦に寄る人達も多くいたと言います。地蔵尊信仰の人々は23日に恐山の地蔵堂にこもり、翌24日は四里の山谷を歩き、仏ウタに降り、この地蔵堂に参詣するのが慣わしだった様です。地蔵菩薩は、仏教の六道輪廻の思想から、六道のそれぞれを六種の地蔵(六地蔵)が守護するという説があり、十三仏のご詠歌を唱えたとのことです.

 皆さんと如来の首で集合写真を撮りました。


 帰路の登りは難儀です。皆さん頑張り車に帰り着きました。一息ついて出発です。程なく行くと仏ケ浦展望台があります。ここから仏ケ浦を北方向の全景を見下ろせます。素晴らしい眺望です。陸の果てです。