今回は立花大敬さんの「大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」」から最新の記事を紹介します。
1276 2024.04.03 ~ 1297 2024.05.09
Q.人生の目的はなんでしょうか?
A.いのちの可能性を出来る限り伸ばすこと。いのちの領域を出来る限り広げることです(この意志は、すべての人に「根本意志」として内蔵されている)。
Q.ヒトはなぜ「根本意志」を共有し、また個別の「役割意志」を内蔵しているのでしょうか?
A.本来一体のイノチ(人類の魂)で、人体にさまざまな役割を持つ臓器が存在するように、人類全体のイノチが成長するために、各人がそれぞれ別々の役割、使命を与えられています。それが「役割意志」です。
Q.人生の目的を果たすために必要なことは?
A.
① 自己制約の囲い(自己イメージ・世界イメージ)を解き放つ、突破(拡大)することです
② そして、突破(拡大)に必要な生命エネルギーをたくわえることです
Q.イノチの充電をするには?
A.ファン・マトゥス「お前が限界を突破し飛躍するためには「いのちのエネルギー」をしっかり蓄えねばいかん」
弟子「どうやったら「いのちのエネルギー」の充電が出来るんだい」
師「<しないこと>で貯めるんだ。人間は<すること>でいのちをどんどん消耗してゆくのさ」
・すること→世界を固定化する。突破できない壁を強化することになる。
・しないこと→世界を軽くする、世界を柔らかくする、ほどく(解体する)
A.私たちのする坐禅は「しないこと」
(参考文献)『呪師となる-イクストランへの道-』カルロス・カスタネダ(二見書房)
道元禅師のことば「不思善、不思悪(アタマで判断せず)、念想観の測量をやめ(アタマに暴走させず)、作仏を図ることなかれ(いい坐禅をしようなんてアタマで思わないで、ただ、身ひとつで坐りなさい)」
・「しないこと」→「アタマ」でいのちをコントロールしょうとすることをやめ、「カラダ」だけになって坐ること。そうすると、いのちが自ずと充電される。また、おのずと従来の世界と自分(自己イメージ・世界イメージ)が脱落する(「身心脱落(しんしんだつらく))。
・坐禅は「しないこと」。「アタマ」はいつも何かしていたいので途方にくれるがそれでいい。ただ「カラダ」で坐っていればいい。
ファン・マトゥス(師)が、弟子のノートをに放り投げる。探し出せと命じる→師は弟子に「しないこと」をやれと命じる。弟子は何となく立ち上がってノートのもとに一直線に行き、ノートを手にして戻ってきた。
(なぜそんなことができたのですか?)「しないこと」によって、自己制約の囲いを薄くし、生命エネルギーを充電すると、制約の囲いを破って「身」が勝手に適切な動きをしてくれるのです。
弟子がファン・マトゥスの体の強さに感心した時、「人は一度あるレベルの自分の力を得れば、運動とかどんな種類の訓練も不要になる。なぜなら、完全無欠の形をとるのに必要なことは『しないこと』をするだけでいいんだから」
(なぜ?)「しないこと」によっていのちのエネルギーを充電すると、制約の囲いを破って身が勝手に動いて元気にしてくれる
カラッポからだはいいからだ/こんなにシャープに動くのも/こんなにたくみに動くのも カラ(空)のカラダであるからだ/カラッポからだはたから(宝)のからだ
Q.自己制約の束縛を脱するには?
A.ファン・マトゥス「自分とか世界なんていうものは、みんな解釈、ひとつの見方なんだ。子供のころからそんな見方を大人から繰り返し教え込まれていて、ついに「その世界のメンバー」になっちまったんだ。そんな自分や世界を一度止めにゃあならんのだ」
→「世界を止める」=「自己イメージ、世界イメージ」を脱落させる(身心脱落)
ファン・マトゥスが教える「世界(自己イメージ、世界イメージ)を止める」ための方法
① 履歴を消す
・自分の履歴(過去の歩みの記憶)が自分の未来を縛る
・人に履歴を知られると、人の偏見があなたの現在、未来を縛ってしまう
・本当は、刻々死んで、刻々新生している(刹那消滅=持続している世界、自己なんて本当はないんだ)
② 一本足打法(今・ココ)を生きる
ファン・マトゥス「人生の歩み方には二つの道しかない。すべてのモノゴトを確かでリアルなものとして、しっかり計画をたてて決めた道を歩んでゆくのが一つ。わしはそんな人生にゃアキアキしている。何の魅力も感じない。もうひとつの道は、人生には何も確実なものなんてない。前にも後にも道なんてない。そしてなにもかも不確実で見通せない世界に住みながら、そこにつま先立ち(一本足)しているように油断せずにいるさ。何でも知っているというようにふるまうよりは、どのヤブにウサギやコヨーテが隠れているか知らないでゾクゾク・ワクワクしているほうがずっと素晴らしい人生だと思わないかい。そこから見るとすべての出来事が神秘的でいきいき輝いて美しいんだ」
僕の前に道はない 僕の後ろにも道はない/僕の一歩が道となり 次の一歩が道となる/
僕が道だ 僕が道だ
③ 型にはまらない生活をする
・生活のパターン(ルーチィンワーク)を少し変えてみよう
「おまえの連続性(ルーチィン)は、お前を幸福にも力強くもしない」
型にはまらない生活をすると、六感の「感性」が研ぎ澄まされる。直感力が働くようになる。
④ 自尊心を捨てる
・自分だけが特別だと思えば、世界や他人と切り離されたちっぽけな自分でしか生きられない。
「おまえが、自分は世界中で一番大事なものだなどと思っとるかぎり、まわりの世界を本当に理解することは出来ない。おまえは目隠しされた馬みたいなもんだ。あらゆるものから切り離された自分しか見えんのだ」
・植物に話しかける訓練(それが好きだという気持ちとそれが自分と平等なんだという気持ちで会話する)
⑤ 死を仲間とする
・死はいつもわしらの左側、腕を伸ばせば届くところにいる
・死にアドバイスを求める
「それが自分の最後の戦いだと知っとるときの行為は力強い。自分がしとることが、地上での最後の戦いになるかも知れないと充分承知してやると、そこには焼き尽くすほどの幸福感が届く」
自分(大敬)の音声を聴いていて分かったのですが、とても能弁とは言えませんね。ボソボソ、トツトツと、たどたどしい語り口ですね。
でも、それがいい。「先生のお話しを聞いているとなんだかとてもホッと安心できます」という人もいらっしゃるんですね。不思議だなあと思います。
ある若い弟子が友達の運転でどこかに向っていて、その弟子が、ある精神世界の有名な先生のお話しを録音したものを流したのだそうです。
すると、その友達は「やめて!それを聴いていると運転に集中出来なくなる」と言ったのだそうです。
それで、ストップして、しばらくして大敬の話を流したのだそうです。すると、その友達は「ああ、これなら大丈夫。運転の邪魔にならない」と言ったそうです。
面白いですね。何が違うのでしょう。
恐らく、この有名な精神世界の先生のお話が入るアタマの場所と、運転に使うアタマの場所が一緒なので、お互いに邪魔をするのでしょうね。
大敬の話は、アタマには入らないようです。アタマを素通りして、イノチの内側にそのまま届くので、アタマの邪魔はしないのだと思います。
ということは、大敬の話はアタマの肥やし(勉強)にはならないということかも知れません。でも不思議ですね。大敬が学校の先生をやっていた時は、大敬が教えると生徒の成績がとても上がったものなのです。
だから、大敬は教科書の内容だけを教えていたのではなく、「安心」も一緒に教えていたのだと思います。「安心」さえ出来たら、人は勝手に伸びてゆくように出来ているのだと思います。
坐禅会で大敬がお話しすると、よくコクリコクリしている方がいます。
そんな方は頑なで人の話が素直に聞けないという人であったり、アタマが働きすぎて、大敬の話をアタマで処理しようとしてしまう人だったりするので、神様がそんな方はいったん眠らせて、アタマが過剰に働かないようにして、イノチの奥底まで大敬のコトバの響きを届かせようとしておられるのだと思います。
だから私(大敬)は居眠りされている人がいらっしゃると、シメシメと思います。
「立花大敬オーディオ・ライブラリー」(パンローリング社)を池田光さんや西端努斗夢さんの尽力で第1巻から50巻まで出してくださっているのですが、「先生のCDを夜眠りながら聴くことにしています。そうするとよく眠れるのです」とおっしゃる方も結構いらっしゃいます。
睡眠薬に頼られるより、大敬のCDで眠れるんだったらその方がいいし、本人のアタマは意識がなくても、大敬の「安心の響き」はしっかりイノチの奥まで届いていて、そこにしっかり種子として植え込まれるので、いざ必要な時にしっかり発動してくれるのですから、こんな睡眠学習もなかなか有効なのです。(完)
1274 2024.04.01 ~ 1275 2024.04.02
Q.神々が「ヒト」を地上世界の降ろした目的は?
A.大祓詞には「豊葦原(創造力が旺盛で)の水穂(ゆたかで潤いのある)の国を、安国(やすらかで)と、平けく(平等な国家となるよう)知ろしめせ(努めなさい)と、事依さし奉りき(委託された)」とあります。
日本(世界人類)を高天原の「うつし(映し、写し、移し)」の国にしなさい、というのが私たちに与えられた天命(命 ミコト)なのです。
地上世界の神は「ヒト」が使命を果たすためのサポーター(同行二人)です。(完)
1272 2024.03.30 ~ 1273 2024.03.31
「白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじ ざぜんわさん)」より
「因果一如(いんがいちにょ)の門ひらけ」:そう思えばそうなる
「無二無三の道なほし」:ゴールが同じと知れば最適の道が歩める
「無相の相を相として」:どんな形の器にもぴったり収まる
「行も帰るも餘所ならず」:いつでもどこでも宇宙の中心にいる
「無念の念を念として」:カラッポだから次々いい案が浮かぶ
「謡ふも舞ふも法の聲」:いつもどこでも「神流楽(かんながら)」
「三昧無礙(さんまい むげ)の空ひろく」:三昧=「万物一体」、無礙=「障害物なし」
「四智圓明の月さえん」
「四智(しち)」とは
(1)大円鏡智:「いのちはひとつなり」と知る智慧
(2)平等性智:「どのいのちも上下、尊卑がなく平等に尊い存在だ」と知る智慧
(3)妙観察智:平等だけれど一様ではなく、それぞれ異なった特長や使命をもっているのだ」と知る智慧
(4)成所作智:「以上の三つの智慧をその場、その時、その人にあわせて一番適切な行動がとれる」という智慧(完)
1264 2024.03.21 ~ 1271 2024.03.29
黒住宗忠公のお言葉
(1)おそれながら、ご自身をご自身と思われず、天地のものと思われれば、ただありがたいばかりになります。
(2)お心に歳をよらせず、万事天地自然にうち任せて、いつまでも「子供の心」を離れず、形のことはお忘れになって、お暮らしになれば、自然とおかげは現われましょう。
(3)行くも帰るも生も死も天地。
(4)何事も何事も、一切天にお任せなされれば、まことに不思議とうまく参るものです。
(5)「形は病気に任せ、心は天照大御神と一体という心になりなさい。心だけがまずさっぱり平癒されたら、形も自然と治ってしまうでしょう」と話しましたところ、不思議なるかな、26年の病がその場でお治りになって、まことに夢のようです。
(6)大難と思っていたことも、天命のままにお任せしていれば、結局は有難いことだったんだとなることがよくございます。ここを考えると、「難有り」が「有り難し」なのです。
(7)心ひとつ開け(ひらけ)ますと、一つも苦しみはありません。何につけても楽しく、ありがたいことばかりです。
(8)みな天のなさることですから、何事も勤まらないということはございません。(完)
1261 2024.03.18 ~ 1263 2024.03.20
沢庵禅師が柳生宗矩(むねのり)に与えた書『不動智神妙録(ふどうち しんみょうろく)』より
<不動智>とは、「不動と申しても、石か木のように動かないという意味ではありません。向こうへも、左へも、右へも、十方八方へ、身心が動きたいように動きながら、ちっとも止まらない心を『不動智』といいます。物一目見て、その心を止めないのを不動といいます」
<千手観音>も、「一つの手に心が止まってしまえば、他の手は皆用に立ちません。どの手にも心を止めないから、すべての手が皆用に立つのです」
「とかく、心の置き処はありません。どこであっても、一箇所に心を置いてしまえば、余(ほか)の方への働きが皆欠けてしまいます」
「臍(へそ)の下に押し込めて余所へ心をやらないというは、レベルの低い段階の稽古の位(くらい)です。臍の下に押し込んで余所にやるまいとすれば、やるまいと思う心に、心を取られて、先の用に欠けて、殊の外不自由になってしまいます」
「『では、心をどこに置けばいいのですか』
我(沢庵禅師)答えていわく『どこにも心を置かなければ、心は我身いっぱいに行きわたりて、全体に伸び広がってあるので、手が必要な時は、手の用を叶え、足が必要な時は、足の用を叶え、目が必要な時には、目の用を叶え、その必要な部署に心が行きわたって存在しているので、その時、その時、その場所、その場所の働きに叶うのです』」 (完)