2026年1月5日月曜日

4128「愚痴に気づく」2026.1.5

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月25日の記事を紹介します。


「愚痴に気づく」


今日は小林正観さんの、「愚痴に気づく」というお話をご紹介します。 

斎藤一人さんもそうですが、正観さんのお話は、人々の心に届けるために、 

敢えて

・分かりやすく平易な言葉

・お行儀のよくない言葉

・上品に聞こえない言葉

・粗野に聞こえる言葉

を使うことがありますが、どうぞ言葉尻にとらわれずに

その言わんとしている真意を汲んでくださるようにお願いいたします。

<引用開始> 引用元 

人間は、8時間労働を1として、16時間働く人で2人分、

24時間労働する人でも3人分しか働けません。

土日休みを返上して働いても5人分が限度でしょう。

人間対アリの関係を考えてみます。

人間の身長を150センチ、大き目のアリで1.5センチとすると、百倍の違いがあります。

すごく働き者だけれども、周りのアリにトゲトゲしながら、

「自分は3人前働いているのに、あなたたちは全然働かないじゃないか」と怒鳴っているアリがいます。

その百倍大きな力を持っている人間が、このアリは調和を乱しているよねと思い、

このアリをピンセットでつまんで、3メートル先に持っていったとします。

百倍大きな存在から3メートル先まで運ばれたことに、このアリは気がつきません。

このアリはとても興奮しながら巣に帰り、

「周りの景色が一瞬で変わったんだよ」と話すことでしょう。

百倍大きな存在が、全然認識できません。

私たち人間と神様の大きさの違いは、百倍どころではないようです。

人間が考えた数字は、10の68乗(無量大数)までです。

神は、10の68乗以上の力を持っているのでしょう。

この神様に気に入られたら、とても楽しい人生になります。

ただし、神様は、ある方程式に沿って生きている人を非常に応援します。

その方程式を使いこなす人には、味方についてくれます。

神は、気に入らない人に対して、嫌がらせや、復讐することはありません。

ただ、支援をしないだけ。 

自分の力ではなんとか5人分の力を出すことができますが、

10の68乗人分の力を出すことができません。

がんばって5人分働くよりは、神を味方につけたほうが「得」です。

神様に味方になっていただくには、目の前の現象について、

不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わないこと。

そして、目の前に起きる現象について、

・嬉しい、

・楽しい、

・幸せ、

・愛してる、

・大好き、

・ありがとう、

・ついてる

という言葉を言い続けると、

目の前の人も、神様も、宇宙、地球、すべてが味方になってくれます。

親が倒れて5、6年介護をしている人がいます。

その人は5、6年介護をしているあいだに功徳がたくさん溜まっていきます。

ところが、せっかくいままで労力を使って功徳を溜めてきたにもかかわらず、

「なんで私がこんなに苦労をしなくちゃいけないのか」と愚痴を言った瞬間、

溜まっていた功徳がチーンと音をたててゼロになってしまいます。

一般的にいうと、大変なことをやらされているときには、

神がその人を見込んで、その人にポイントをあげているときなのです。

愚痴などを言った瞬間にゼロになってしまうのは、

あまりにも辛いものなので、神様と約束をしました。

それは、愚痴を言ってしまった10秒以内に

「ナシ、ナシ」というと、大丈夫という取り決めです。

愚痴などを言わないようにするには時間が必要ですが、

愚痴を言ったことに気がついたら

99パーセント解決したことになります。

どうも、「気がつくこと」が重要なようです。

私たちは自分の力で生きていると思いがちですが、自分の力はないに等しく、

神様(目に見えない存在)に支えられて生きているのではないでしょうか。

<引用終了>

神様に味方になっていただければ、無敵ですね。 

どんな状況になろうと、安心して信じていられます。 

その秘訣が、目の前の現象について、

不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わないこと。 

そしてどんなことが起きようと、 

それは神様が私たちの魂を輝かせるために下さった現象であること。

つまり、その現象に対して 

嬉しい、楽しい、幸せ、

愛してる、大好き、ありがとう、

ついてる  

という感謝の言葉を投げかけること。 

これだけです。 

愚痴が口癖になってしまった方は、 

気づいたときに、反省し、意識して言わないようにするだけで、 

大分、神様に好かれ、運気が上がるようです。 

一度、試してみませんか?


2026年1月4日日曜日

4127「全ての母親に伝えたい」2026.1.4

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月24日の記事を紹介します。


「全ての母親に伝えたい」


今日は、生前の小林正観さんが高岡で講演した時のお話です。

分かりやすくするために内容を若干補完して掲載します。

<引用開始> 引用元 

正観さんが、生前の40年間の間に 24人の子どもさんに会い、

天国にいた時の記憶を聞いたそうです。

・3歳児が22人

・4歳児が2人

すべて生まれる前の記憶を持つ子供たちです。

生まれる前の状況はどうだったの?

・上から見下ろしていた。

・お母さんがとても楽しそうに色々喋っていたので話し相手になったら

  すごく楽しそうと思ったら生まれちゃった。

・上から見ていたら、いつもお母さんが悲しそうで 寂しそうな顔をしていた。

  話し相手になってあげようと思ったら生まれちゃった。

・お母さんがいつもいつも男の人に泣かされていた。いつも寂しそうで悲しそうだったから

 応援 支援してあげようと思ったらお母さんのところに生まれちゃった。

 いつも泣かしていた人は お父さんだった。

全部のお話に共通していたことは

・お母さんの味方をしよう。

・お母さんを励ましたくて。

・お母さんの話の相手に。

・お母さんの応援 味方に。

お父さんのお話は、一人も出て来ませんでした。

正観さんは仰いました。

感動的な結果です。

全ての母親に伝えたい。

究極の感謝の対象(生まれてきてくれた子供たち)がそこにある。

もし皆さんが、このことを受け入れることができたとしたら・・・

もう二度と、子供たちを怒ることは無くなると思います。

子供たちは、「お母さんの 味方をしてあげたい」

そう言って生まれてきました。

それなのに

・あれが気に入らない。

・これが気に入らない。

・もっと勉強ができれば。

・もっと健康であれば。

気に入らないところをあげ連ねて

「何であなたは そうなの?」

責め続けている自分(母親)であったなら

今日のこの瞬間に、胸に手を当てて考えてみたほうがいいと思います。

母親を 

・励ますために 

・力づけるために

・笑顔で 話し相手になってあげるために

こどもは全部そういうつもりで生まれてきました。

男の親は その母親の精神的な安定と、経済的な安定のための存在。

特に精神的な安定のために 

女性がこの男性なら

安心して子どもを産めて 育てることができる。

この人の子どもなら 産みたい。

そのような精神的な安定のために、存在するみたいです。

怒鳴ったり イラついたりしないための安定剤らしい。

<引用終了>

男の親は出番が、あまりありませんが、

愛する奥さんと、子供たちの幸せ、そして笑顔のためであれば

どんな辛い状況も、耐え忍び、乗り越えていけるかもしれません。

母と子、

魂と魂の濃密な結びつきです。

そしておい互いが、研ぎ石の役割を果たしています。

ギリギリと、私たち親の悪い所、自分勝手なところ

そんなところを、デフォルメして見せてくれます。

まるでヤスリ(研ぎ石)のように、容赦なく、

私たちの心を削り、魂を輝かせようとします。 

そのことに気づき、感謝の気持ちを持てた時、

子供たちの生まれて来た目的の大半が達成された時です。

お互いが、魂の底から喜びあえる瞬間です。

海老蔵さんも、生まれる前の記憶(天国)があるとNHKの番組「プロフェショナル」で告白しています。 

魂の目的が達成された時、

そのために設定してきた環境は解除され、 

生まれる前の仲の良かった、

愛に溢れた2つの魂の交わりに戻っていくことでしょう。 

もう 悩む必要も苦しむ必要もなくなります。 

全てのカギは「感謝の気持ち」を持てるかどうかにかかっています。


2026年1月3日土曜日

4126「希林さんのできた訳」2026.1.3

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月23日の記事を紹介します。


「希林さんのできた訳」


樹木希林さんは、若いころから内田裕也さんと共に、法華経の「希心会」と言う会に属していたそうです。

大変良心的な会で、一世帯の月会費が、たったの100円。 

希林さんは、旧芸名は悠木千帆でしたが、その名前をオークションに出品し、

新しい名前、希林の名は希心会の一字を受けたのだそうです。 

日本では、敗戦後、占領軍の指導のもと、日本人の精神的支柱を破壊するために、宗教的なものは、全て否定され、忌み嫌うものとされて来ましたが、そんなことは決してなく、

もし悪いところがあるとすれば、それは 

・お金儲け、

・全面依存させ、精神の自立をさせない(一生の金づるにするため)

・他の考えを認めず、攻撃する

などに陥れば、非難されてしかるべきですが、

古くから日本に根付いていた信仰の心は、決して悪いものではないと思います。 

世界の常識では、誰でも、信仰する教え・考えを持ち、

多くの日本人のように「私は無宗教です」などと言えば、人格を疑われるほどです。

さて、希林さんですが、

若いころからブッダの教え「法華経」を信じていたからだけでなく、 

その素晴らしい考え方、生きる覚悟は、どうも、ガンを患ってから身に付いたようです。

次にインタビューの記事をご紹介します。 

10代、20代の不登校・ひきこもり当事者とともに、樹木さんに3時間のインタビューをした『不登校新聞』の編集長・石井志昂さんが追悼の思いを込めてつづっています。 

<引用開始> 引用元

石井:私が取材したいと思ったのは、映画『神宮希林』のなかで、

夫・内田裕也さんについて 

「ああいう御しがたい存在は自分を映す鏡になる」と話していたからなんです。 

これは不登校にも通じる話だな、と。

樹木:あの話はお釈迦さんがそう言ってたんです。

お釈迦さんの弟子でダイバダッタという人がいます。 

でも、この人がお釈迦さんの邪魔ばっかりする、というか、お釈迦さんの命さえ狙ったりする。 

お釈迦さんもこれにはそうとう悩んだらしいですが、ある日、ブッダは「ダイバダッタは

自分が悟りを得るために難を与えてくれる存在なんだ」と悟るんです。

私は「なんで夫と別れないの」とよく聞かれますが、私にとってはありがたい存在です。

ありがたいというのは漢字で書くと 

「有難い」、 難が有る、と書きます。 

人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら

成熟していくためなんじゃないでしょうか。

今日、みなさんから話を聞きたいと思っていただけたのは、

私がたくさんのダイバダッタに出会ってきたからだと思います。 

もちろん私自身がダイバダッタだったときもあります。 

ダイバダッタに出会う、あるいは自分がそうなってしまう、

そういう難の多い人生を、卑屈になるのではなく、受けとめ方を変える。 

自分にとって具体的に、不本意なことをしてくる存在を、

師として先生として受けとめる。

受けとめ方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。

石井:そう思うきっかけはなにかあったのでしょうか?

樹木:やっぱりがんになったのは大きかった気がします。 

ただ、この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、

不自由になります。 

腰が重くなって、目がかすんで針に糸も通らなくなっていく。 

でもね、それでいいの。

こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。

若くても不自由なことはたくさんあると思います。

(=自分の自由にならないことは沢山ある)

それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。

でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、 

不自由なまま、おもしろがっていく。 

それが大事なんじゃないかと思うんです。 

<引用終了> 

全身、ガンに侵され、そうなったら誰でも、自分のいのちと向き合うしかありません。

そんなことでもない限り、私たちは、自分は何のために生まれて来たのか?

考えないかもしれません。 

希林さんは、内田裕也さんという、ダイバダッタに出会い苦労し、

ガンというダイバダッタに出会い、人生を深く味わい、

そうして、人生の奥深さ、醍醐味を身につけたのかもしれませんね。 

私たちの人生で出会う、一見不幸な出来事 

・事故

・病気

・別れ

・貧困

・死

それさえも、私たちの人生を輝かせてくれる、舞台装置に過ぎません。 

悩み苦しみ、呪いの言葉で、 相対するのではなく、

感謝の心で、望みたいものですね。 

そうしてこそ、このような不幸に見える出来事も、私たちの魂にとって、

意味のある出来事に変化します。 

ちなみに、提婆達多(ダイバダッタ)は、生きながらにして地獄に堕ちた、

悪人の代表とされていましたが、経典の提婆達多品において、

提婆達多こそ実はブッダの前世において師であったと明かされ、 

未来において、その成仏(仏・悟りを開くこと)を保証されています。 

樹木希林さんにとっての、内田裕也さん。

皆さんにも、そんな

・自分の思い通りにならない

・目に障る

・言うことを聞かない

・自分の理想とはかけ離れた言動をする

・自分の思う「普通」や「当たり前」とは違う

のようなご家族はいらっしゃいますか?

それとも、同僚や友人に、そのような方はいらっしゃいますか?

そのような人こそ、ブッダの弟子だったダイバダッタのような人かもしれません。

・とっても嫌な人、

・顔も見たくない人

・会えば文句を言いたくなる人

・憂鬱になる人

・苦しみの種

かもしれません。

ですが、その人が居てくれるからこそ、悩み苦しみ、悲しみを味わうことになりますが、

ご自分の魂を揺さぶり、深く熟考を促し、

魂の深みを味あわせてくださっているのでは、ありませんか?

その人が存在するからこそ、

・生まれて来た目的

・生きる目的

・神様のこと

を深く考えるようになったのではありませんか?

まさにダイバダッタです。

ブッダは、この時悟ります。

この人は実は有難い存在だったのだと。 

そう思えた時、魂の闇は明け、光が差し込み、悩みは悩みでなくなり、

苦しみも、苦しみではなくなり、

感謝の中に幸福な人生を歩めるのではないでしょうか。 

この時、確実に、神々の大きな恩寵が動き出すことでしょう。 


2026年1月2日金曜日

4125「青空ひろば」2026.1.2

今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


1619 2025.12.04  ~ 1620 2025.12.05

<「現成公案(げんじょう こうあん)」の意味>

① 君が現に体験(現成)している事柄は、すべて神(公)によって配慮された、君の魂の成長のために、もっともふさわしい出来事(案)なのだ。

(応用)イライラする時、うまく事が運ばない時、「現成公案、現成公案、…」と呪文のように称えるといい。

② 君が今おかれた時と場所(現)にイノチの重心をしっかり載せて行動(成)してゆけば(フラフラ過去や未来や他の人やモノに意識を漂わせることがなければ)、君の行動に、神の配慮(智慧)や神力が自然と加わり(公)、それによって、あなたの行動は宇宙全体にとって、君や周囲の人やモノや組織にとって、最善、最適な行動・考案(案)となるのだ。→トランスパーソナル(個人性を超える能力が発揮できるようになる)(


<「現成公案」の巻 超要点訳>

君が未知の分野の仕事を手掛けることになったとしよう。

その時、始めは仕事の要領がさっぱり分からず、「ウロウロ・オドオド・ギクシャク」の連続であろう。このような状態を「迷」と呼ぶことにしよう。

やがて、君は仕事の要領を覚え、その仕事に我を忘れて没頭出来、成果を上げることが出来るようになったとする。その時、「スラスラ・スイスイ・ピタピタ」と最高の仕事を決めてゆけるだろう。この状態を「悟」と呼ぶことにしよう。

ただし、この「迷」と「悟」には、価値判断は含まれておらず、単なる記号である、ということに注意して欲しい。

なぜならば、イノチが順当に成長進化している時は、今の状態に満足せず、絶えず新しい分野の仕事にチャレンジすることになるからだ。

そうなると、結局君は「ウロウロ・オドオド」の「迷の足」と「スラスラ・ピタピタ」の「悟の足」を交互に繰り出しながら、前進・成長してゆくことになる。だから、「迷」と「悟」は、イノチの前進・進化のためには同等の価値があり、大切なパートナーであり、いずれか一方が欠けても、イノチはこれ以上の進歩・前進が出来なくなってしまうのだ。

「迷」と「悟」は隔絶した状態なのであろうか?いや、そうではない。

「悟」の状態にあったとして、その状態を手放したくないと執着すれば、それは「迷」である。

また、「迷」の状態にあったとして、それを厭わずに、今の「迷」の状態にしっかり腰を据えて取り組んでゆけるようになれば、それが「悟」である。

つまり、「悟」のコインの裏面には「迷」と書かれており、「迷」のコインの裏面には「悟」と書かれているのだ。そして、それは同じ「イノチの本体」という名のコインの表裏なのである。

「イノチの本体」は、「迷」も「悟」も厭うことなく、それぞれの存在を認め、許し、抱擁し、有効に活用して転進してゆきつつある。

そんな「イノチの本体」の方針に素直に従えるようになった状態を「大悟」といい、あるいは「大迷」というのである。

そのように、「悟」も「迷」も、厭うことなく、執着することなく認め、抱擁することが出来る「大悟」・「大迷」の境地になることができれば、君がこれまで嫌って、我が魂から締め出し、追放してしまっていた、君が弱点や欠点だと思って否定していた部分でさえも、そのまま受容出来るようになり、受容でき、許し、愛せるようになると、弱点や欠点であったはずの君の魂の断片が、君の「イノチの本体」に復帰し、君のために有効な働きをしてくれるようになるのである。

何が君の人生の道行きを妨害するのであろうか。

それは、君の否定的な、誤った「自己イメージ」なのである。

「自己イメージ」が間違っていると、幻想の制約・制限が君を縛り、また誤った「他者イメージ」、「世界イメージ」を持つことになって、君の人生を重苦しくしてしまう。

であるから、君が開放され、自由闊達に自己実現を目指せる人生を生きたいのであれば、誤った、幻想の「自己イメージ」を解消しなければならない。

そのためには、どうすればいいのだろうか。

げんに現われている課題(現成)に、我を忘れて取り組む覚悟を決めればいい。そうすれば、「我を忘れて」いるのであるから、その時、君を束縛する「自己イメージ」は消えており、そうなれば、大宇宙(公・神仏・全体生命)の智慧やエネルギーが、即、流入してきて、君を通して働くようになってくる。

この人生は「表現の場」である。しかし、うまく表現しなければならない、成果が上がる表現を目指さなければならないというのではない。

うまい、へたではなく、君にしか出来ない表現を追求し、努力してゆかねばならない。

そして、もし、君独自の表現が出来るようになれば(現成)、その時、君の作品に大宇宙の影が、永遠と普遍の影が宿っているであろう(公)。

君が実現し成就した作品によって、多くの人やモノたちが、祝福され、福祉を与えられることになろう(案)。

それが、私が言わんとする「現成公案」なのである。


1616 2025.11.30 ~1618 2025.12.02 

法華経の前半は「授記物語」です。「授記」とは、お釈迦様が人々に「君たちは将来必ず仏に成れるよ」と保証のコトバを授けることをいいます。

これをさらに掘り下げて考察してみると、個々の魂が「人類の魂」から枝分かれして出発した時に、母体である「人類の魂」から、個々の存在すべてに分与された精神遺伝子に、<どこまでも高く伸び、可能性を広げていって、やがて、すべての個々のイノチと融合一体化して「人類の魂」に復帰する>と書き込まれたのです。これこそがどの存在にも最初から埋め込まれていた授記で、これを「根本授記」と呼んでおきましょう。

しかし、この「根本授記遺伝子」は潜在していて、「縁」に触れることによって、はじめて本格的に発動し、作用し始めることが出来るのです。それで、「仏種従縁起(ぶっしゅ じゅう えんぎ、仏種は縁より起こる)」と説かれています。

・因(根本授記)→縁(世尊の授記など)・修行も縁(坐禅や聴聞、読経など)→果(「ひとついのち」にゴールイン)

「根本授記」は、意識化されることによって、スイッチが入り、本格的に作動し始めるのです。


<道元禅師 正法眼蔵『授記』の巻の要約>

君の頭で認識できないからといって「私は授記されていない」などと思い込んではいけない。

また、「修行の功が満ちて悟ることが出来、その時に「授記」が得られるのだ。「授記」を得るのはそんなに容易いことではない。悟りも体験したことがない、修行も未熟な君のような人間が、簡単に「授記」を得られるはずがないのだ」などという誤った説、偏見をもつ者に惑わされてはならない。

自分に自覚できなくても、君はすでに「授記」を頂いているのだ。

いや、「授記」が、君をこの地上世界に生み出し、生かし、歩ませているのだ。

君が住む世界環境もすべて、「授記」が君の成長のために用意し、セッティングしてくださったものなのだ。

太郎君も花子さんも、山も川も、イヌ君もネコさんも、みんな「授記」の産物なんだということを忘れないようにしよう。

君が坐禅したり、お経を称えたりしているのも、遠い、遠い昔に、君が「授記」を得ていなければ現成するはずがないのだ。坐禅したり、お経を称えたりする行は、自分がやろうとしてやれることではないのだから。

師から教えを聞いて、喜ぶことが出来るのも「得授記者」だからこそのことなんだ。

君が生まれ、楽しいこと、悲しいこと、腹立たしいこと、涙をながすようなこと、それらをいっぱい体験して、そして死に、また次の生を得る。これらの「生死去来」のすべてを「授記」が導いてくれているのだ。

法華経にこうある。「釈迦牟尼仏が薬王菩薩に告げられた『また、私が地上世界を去った後に、若し妙法蓮華経を聞いて、あるいは法華経の一節、一文章、一単語だけでも聞いて、わずか一念でも随喜する者がいたとしたら、私は彼に授記することにしよう』」

このように、君はすでに「授記」を授かっている者だからこそ、法華経の教えに随喜できるのである。君たちの過去・現在・未来は、「授記」中にあり、「授記」に抱擁され、育まれつつある「過去・現在・未来」なのだ(「授記時間」の中に私たちは生きて、歩んでいる)。

維摩経にはこうある。「もし彌勒(みろく)がお釈迦様から授記を授かったとするならば、一切衆生もまた授記を得ているはずだ。なぜならば、彌勒と一切衆生は「ひとついのち」、つまり「一体のイノチ」なのだから、彌勒が授記を授かったならば、その時、一切衆生も同時に授記を得たはずなのだ」

一切衆生が同時に授記を得たのでなければ、彌勒の授記はまだ本物ではないということだ。しかし、彌勒の未来における成仏は世尊がしっかり保証されているのであるから、一切衆生の未来における成仏も同時に世尊によって保証、確定されているのだ。

さあ、これで納得できたであろう。授記こそがよく一切をあらしめているのだということを、「授記」の中で君たちは生活しているのだということを。(完)


1614 2025.11.28 ~1615 2025.11.29 (前日の続き)

Q.「成仏」とは?

A.イノチはひとつ、ヒトはひとりしかいないと悟るのが成仏です。

「ほとけ」とは「ほどける」ことで、自他を分け隔てている「囲い」を解いてしまって、「生き通し」になるのが「仏の成る」ことなのです。(続く)


般若心経の末尾の陀羅尼は「ギャーテー(着いた) ギャーテー(着いた) ハーラーギャーテー(仏というゴールに着いた) ハラソウギャーテー(仏というゴールに、残らずみんな一緒に到着した) ボージーソワカ(素晴らしい達成よ、めでたし)」と説かれています。

また、他のお経には「奇なるかな、奇なるかな。我と大地有情と同時成道、山川草木悉皆成仏(さんせん そうもく しっかい じょうぶつ)」とあります。

自分だけが成仏して、他の人はまだというのは、本当の成仏ではありません。なぜなら、イノチはひとつで生き通し。世界に一人でも苦しんでいる人がいれば、自分はまだ本当に安らげていないのだから、仏には成れていないのです。

そこで、「私は何度でも地上世界に戻ってきて、すべての人を救済しましょう、みんなで一緒に仏というゴールに到着しましょう」という誓願が自然と心の底から湧き上がるようになるのです。この境地になったのが「菩薩」です。


2026年1月1日木曜日

4124「許し 幸せになるために」2026.1.1

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月22日の記事を紹介します。


「許し 幸せになるために」


今日のテーマは「許し」です。 

以前書いたことがあったのですが、最近また再掲したほうが良いと思いましたので、

加筆して掲載します。

本当の、心からの幸せを得るために、何が邪魔をしているのか? 

特に、理不尽とも思える辛い出来事を経験した人に、

何故、幸せになれない人が多いのか?

それは、憎しみの心が、幸せが来るのを邪魔をしているせいかもしれません。  

誰かを許すこと、それは神さまから、自分が許されること

誰かを何時までも許さないこと、

それは、いつまでも、自分で自分を許さないこと 

神さまから、自分が許してもらえないこと

人を許さない限り、

自分を許さない限り

幸せになるのは、難しいようです。

さて、愛媛県西条市に「のらねこ学かん」という、知的障碍者のための通所施設があります。 

ここを自費で運営し、ハンディのある人たちの人生の花を開かせている、

塩見志満子さんという方が居られます。

今日は塩見さんのお話です。

<引用開始> 引用元

塩見さんの人生は、まさに試練に次ぐ試練の連続でした。 

壮絶かつ感動的な人生体験、そこから掴まれた信条を学ぼうと、

いま全国各地から講演の依頼が舞い込んでいます。 

塩見さんが語った

「降りかかる逆境と試練が、私の人生の花を咲かせた」とは──。

──そこから学かんの立ち上げまでは、どのように進むのですか。

1つのきっかけとなったのは、私が38歳の時に、小学2年生の長男を白血病で失ったことです。

白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。

「痛い、痛い」と叫ぶと脊髄から髄液を抜く。 

そうすると痛みが少し和らぐ。 

それを繰り返すわけですよ。

ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、そんなこと言う子じゃないんですが 

「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」と大声で叫んだんです。 

主治医の先生は30代のとても立派な方で

「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と手を震わせておられた。

長男はその2か月半後に亡くなりました。

49日が済んだ後、主人と2人、お世話をかけたその主治医の先生に

御礼を言うために病院に行きました。

ところが、いらっしゃらないんです。 

聞いてみたら、長男が死んだ後、 

「僕は小児がんの研究をするためにアメリカに渡る」と

すぐにその病院を辞められたと。 

私たちは「ボロ医者」という長男の一言が、この先生をいたく傷つけたかもしれないと思うと、申し訳なさでいっぱいでした。

後で知ったのには、その先生は10年間アメリカで小児がんの研究をした後、 

小児がんの権威となり日本の国立小児病院に帰ってこられたそうです。 

いま思い出しても本当に素敵な先生でしたね。

──そうでしたか。

長男が小学2年生で亡くなりましたので、4人兄弟姉妹の末っ子の二男が3年生になった時、私たちは「ああこの子は大丈夫じゃ。お兄ちゃんのように死んだりはしない」と喜んでいたんです。

ところが、その二男もその年の夏にプールの時間に沈んで亡くなってしまった。

長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。

──プールの事故で突然。

近くの高校に勤めていた私のもとに 、「はよう来てください」と連絡があって、タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。

子供たちが集まってきて「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。

「どうしたんや」と聞いたら10分の休み時間に、誰かに背中を押されて、

コンクリートに頭をぶつけて、 沈んでしまったと話してくれました。

母親は馬鹿ですね。

「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、学校も友達も絶対に許さんぞ」

という怒りが込み上げてくるんです。

新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、同じく高校の教師だった主人が

大泣きしながら駆けつけてきました。

そして、私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。

「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。 

犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、

過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、という罪を背負って生きてかないかん。

わしらは死んだ子を、いつかは忘れることがあるけん、わしら2人が我慢しようや。

うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、

校医の先生に心臓麻痺で死んだ という診断書さえ書いてもろうたら、 

学校も友達も許してやれるやないか。そうしようや。そうしようや」

私はビックリしてしもうて、この人は何を言うんやろかと。

だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、仕方がないと思いました。それで

許したんです。

友達も、学校も。

──普通の人にはできないことだと思います。

こんな時、男性は強いと思いましたね。

でも、いま考えたらお父さんの言うとおりでした。 

争うてお金をもろうたり、裁判して勝ってそれが何になる。

許してあげてよかったなぁと思うのは、 

命日の7月2日に墓前に花がない年が1年もないんです。

30年も前の話なのに、毎年友達が花を手向けて、タワシで墓を磨いてくれている。

もし、私があの時学校を訴えていたら、お金はもらえても、 

こんな優しい人を育てることはできなかった。

そういう人が生活する町には できなかった。

心からそう思います。

<引用終了>

さて、子供が夭逝(ようせい)=早く亡くなる、と言うのには、大きな大きな意味があるそうです。

両親や、周りの人に気付きを与えるため・・・。

塩見志満子さんのお子様たちの場合には、小児がんの研究者。

そしてご両親の「許し」という崇高な行為と、 

その後、ご自身の「知的障碍者のための通所施設」の自主運営に続いて行きました。

お子様2人も早くに無くされることは、大変な悲しみだと思います。

子を持つ親として十分察しできます。

ですが、その悲しみを悲しみのまま、憎しみを残すことなく、許し、 

ご自分の心の中の黒い霧を払われ、世の中に尽くす所まで進められたのは

素晴らしいことだと思います。 

私達は、とかく、人を憎んだり、恨んだり、仕返ししようとしたりします。 

「同じ苦しみを味あわせてやる」

また社会全体を憎しみの対象とします。

ですが、仕返しは、私達がやることではありません。

それは神様の領域のお話です。

「復讐するは我にあり」の 我とは 神様のことです。

人を許すこと 

自分自身も許すこと 

人を愛すること

大変 難しいことかもしれませんが、 

それは私達のハートの中に居らっしゃる神さまの特性です。 

私達も、今はできなくとも、その神さまのように

いつか、いつか、振る舞うことが出来るはずです。

あなたには、許せない人はいますか?

憎しみをたぎらせている相手はいますか? 

それとも、特定の人ではなく

世の中を、憎んでいらっしゃいますか? 

誰かのことを許せれば、それは、神さまの前において、自分自身を許すことになります。

自分自身を愛することに繋がります。 

自分自身を愛することができたなら、私たちは、また一つ、

心の世界において、神さまに近付くことになります。 

何時までも憎しみに、しがみついた 暗黒の世界

そしてもう一方は、愛と許しの 光の世界。 

心の分かれ道です。

どちらに進まれますか。 

先に亡くなった家族や、ご先祖の方々は、残された私たちに、

どちらを望んでいらっしゃるでしょうか? 

そして、あえて理不尽に見える逆境を準備された神さまは、

何を望んで、そうされたのでしょうか?


2025年12月31日水曜日

4123「私たちが元居た所」2025.12.31

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月21日の記事を紹介します。


「私たちが元居た所」


今日は、皆さん忘れてはいますが、私たちが生まれる前に居た世界 

そして亡くなった後に、帰る世界のことを書きたいと思います。 

日本人は、世界の他の国々とは異なり、

縄文の昔から、死後の世界(神々の世界=黄泉の国)と、

私たち生きている者の世界が、密接にかかわり合い、 

コミュニケーションを取りながら生活してきました。 

能の幽玄の世界がそれを表し、また柳田国男の遠野物語などは、現代の日本人に、

その心を取り戻して欲しく、いえ、取り戻さねば国が亡びると・・書かれたものです。 

また、皆さんの中には

もう先に神々の国である黄泉の国に帰られたお子さんや、ご家族が居るかもしれません。

または、ご本人が、もうすぐ帰ろうとしている方もいるかもしれません。 

今日のお話は、その世界が、どんなに神々に近い場所であったか。

全てと繋がった感覚を持って、生きていたか。 

そこは決して暗く冷たく、孤独な世界ではありません。 

・時間、空間の制約のない世界

・愛と思いやりの世界

・光の世界

・調和の世界であったか。 

なぜ、そんな素晴らしい世界から、この苦しみだらけのように見える地球に来たのか。 

ここ地球で、何を得たかったのか。

考えてみる、思い出してみる、良い材料になるかもしれません。 

1981年4月27日 オートバイ事故で、

臨死体験をしている最中の高木善之さんの体験談です。

大手術している所や、家族が嘆き悲しんでいる姿を空中から眺め、 

そして意思疎通が出来ないことを悟った後の出来事です。

<引用開始>

行かなきゃあ でも行きたくない でも行かなきゃあ  

そんな思いで手足をバタバタと動かしてもがいているような感覚。

今、僕はあの病室で死んだのだ。 

この思いは、強烈だった。

死ぬって、こんなことだったのか。

激しいショックだった。

しかし、やがてその事実を受け入れた。

事実は、受け入れざるを得ない。

そして嵐が静まった。 

穏やかになった。

もう何もしなくていいんだ もう全てが終わったんだ

そう思うと、不思議と気持ちが楽になった。

苦しみが去り、私はなめらかに上昇し始めた。 

今までの、もがきや、もつれがなくなり、ス―ッとのぼっていく。  

私の人生は 今 終わった。

したかったこともたくさんある。

でも、出来なかったこともたくさんある。

家族はどうなるんだろうか?

仲間達はどうなるんだろうか?

もっと優しくしておけばよかった。

もっと仲良くしておけばよかった。

ごめんね ・・・  でも 仕方がない。 

もう苦しむこともジタバタすることもない。

あれこれ考えることもない。

何もかもが終わったのだ。 

今、私は死んだのだ。

さよなら みんな さよなら

ありがとう みんな ありがとう

■宇宙へと■

地球が・・・

苦しみが無くなり、なめらかに上昇し始めた。

次第に高度が増し、目の前の風景が遠くなる。

河原の両岸が寄ってきて狭まり小さくなる。

山々も集まってきて小さくなり・・・ 

やがて、四国が見えて小さくなる。

日本が小さくなり、そして、ついに目の前に地球が現れる。

これが、地球なんだ。

これが僕が生きた地球なんだ!

強烈な衝撃! 強烈な映像!

その美しさ! その大きさ!

その厳粛さ! その圧倒的な迫力!

その偉大さ~その美しさに感動!!!

幸せ 満足 充足 至福 の感覚。

突然、激しいショックを感じた。 

それは、思い出した衝撃。 

長い間悩み続けた問いを思い出した衝撃。

誰もが必ず考え、そして、答えが見つからず 

やがて、あきらめてしまう 問い。

自分とは何か 

どこから来たのか 

そして、どこへ行くのか ゛

■光の中へ■

今、目の前に巨大な地球。

本物の地球~三次元の地球! 

立体の地球が圧倒的な迫力で語りかけてくる。

それを見たとたん、激しい衝撃。

生きている。

地球は生きていたんだ。 

魂が揺すぶられる。

感動の涙がこみあげてくる。

今、自分が変わりつつあることがはっきり分かる。

自分が、地球と宇宙とつながっていくような感覚。

ついに分かった。

一生問い続けた 問い。

自分とは何か どこから来たのか そしてどこへ行くのか  

その答えをついに見つけたのだ。  

感動的な答え。 

それは、光。 

すべては ひとつ。 

命は光であり、光の世界から来て、光の世界に帰る。

すべての生命は、一つにつながっている。

ああ、分かった・・・ 

これが分かればすべて分かる。

何のために生まれてきたのかも分かる。 

どのように生きればいいのかも分かる。 

なぜ、こんな簡単な事が、分からなかったのでろう。

すべては一つ。

すべてはつながっているのだ。 

すべての 謎 が解けた。 

すべて 分かった。

もう 何もいらない。

安心 安らぎ 満足 本望 もう 何もいらない。

安心して いくことができる。

安心して 帰ることができる。 

もう 何も いらない。

もう 何も いらない。

暗黒の宇宙の中で、地球だけが美しく輝いている。

周りがゆっくりと明るくなり、音響が湧き上がってくる。

光は、次第に輝きを増し、ハ-モニ-は強まってくる。 

やがて、激しい眩しさに何も見えなくなり、轟音に包まれて、何も聞こえなくなる。

ああ、今から光の世界に帰るのだ。 

自分の周りの強烈な光が、四方八方に飛び散っていく。

光の世界に入って行く・・・

■光の世界■

ここには、何もない。

物質的なものは、何もない。 

しかし ここにはすべてがある。

過去 現在 未来 のすべてがある。

未来永劫がある。 

永遠がある。 

めくるめく~光の波。

無数の映像~無数のフラッシュ。  

自分の過去現在未来のフラッシュ。

自分の未来。

再生-地球環境-平和運動-そして死

<引用終了>

高木さんは、その後生還します。

そしてパナソニックの研究員を辞め、「地球と調和する小さい社会」を目指す

ネットワーク『地球村』(NGO)を作り、ずっと活動されています。

今、生きている私たちは、このような「光の世界」から来たことを忘れ、

日々の生活に忙殺されています。

そして、日々起きる色々な出来事に、一喜一憂して生活しています。

この世界から、地球に生まれる時に、神さまと約束してきたことや、

地球でやりたかったことなど、すっかり忘れています。

それは私たちがここでの生活によって、より深く学べるように、

自ら記憶を一旦消去して来ているために、仕方のないことです。

ですがその代りに、目的遂行のために、様々な出来事が、

身の回りにベストなタイミングで、起こるようにしてあります。

様々な人との出会いがセッティングされており、

その出会いにより、沢山の感情を味わえるようになされています。

喜びも悲しみも、愛情も憎しみも、家族や、友人、同僚などが、その役割を担います。

そして私たちは、予定した寿命が尽きると、予定していた死因により、

元の光の世界に戻って行きます。

私たちは、この「光の世界」から、ここにやって来ました。

すべては一つ、すべては繋がっている世界からやってきました。

それはここ地球でしか味わえない、様々な感情を味わうこと。

魂を向上させること。

人を助けるためです。

あなたは、あと何年したら、そこに戻りますか?

この地球で、沢山の経験をしましたか?

沢山の感情を、味わいましたか?

人に優しくしましたか?

人を憎みましたか?

笑顔を人に向けましたか?

人を愛しましたか?

感謝することは、できましたか?

お陰さまの気持ちで生きてきましたか? 

決して、恨み、つらみ、憎しみの心に囚われたまま

肉体を脱ぐことがありませんように・・・ 

肉体を脱いだ後の世界は 心の世界そのままです。

心の内が、自分を取り巻く世界、現実になります。 

この物質次元に生きていた時よりも、明確にそれが現れてきます。 

どうか皆さんが、内に居らっしゃる神さまに気付き、本来の美しき心を思い出し、 

お幸せになれますように。


2025年12月30日火曜日

4122「心を受け取る」20025.12.30

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月20日の記事を紹介します。


「心を受け取る」


誰かが何かをプレゼントくださった時、もしそれが、自分の嫌いなものだったら

「なんでこんなもの」と嫌な顔するのか?

それとも、相手の方の心をおもんばかり、その人が プレゼントを選ぶ時

・私の笑顔を想像して、選んでくれた物であるから

・私の喜ぶ顔が見たいと思ってくださったから

と物ではなく、相手の方の、その心を受け取って、

笑顔で喜んで、それを受け取るのか? 

あなたはどちらですか?

その時は嫌な顔をしなくとも、相手がいなくなった途端、

ゴミ箱行き・・なんてことはありませんか?

今日は、このことに関して、ブッダのお話をします。

ブッダが亡くなる直接的な原因は「毒キノコ」でした。

<引用開始> 引用元

翌日のこと、仏陀はアーナンダと数名の弟子を連れて、鍛冶職人のチュンダの家に向かった。

仏陀たちは、作法に従って、席についた。食卓には、地方の村にしては豪勢な食事が並んでいた。

食事も終わろうとしていた時、チュンダが言った。

「最後になりますが、とても珍しいキノコのスープを用意いたしました。是非、お召し上がりください」

食卓にそのスープが並べられた。

すると仏陀が

「このスープは、修行者には食べられない。如来しか食べてはいけないものだ。すべて私の前におきなさい」

といったのだ。そして、仏陀一人でアーナンダら修行者に出されたスープを食べてしまったのだった。

その仏陀の姿を見て、修行僧たちは心の中で

(世尊にしては珍しい。いったいどういうことだ)

(世尊はどうされたのだ。あまりにもいやしいではないか・・・)などと思っていた。 

仏陀は、そうした修行僧の心の中を見抜いてはいたが、何も答えず

「残ったスープは、家の隅に穴を掘って埋めてしまうこと。決して、誰も食べてはならない」

とチュンダにきつく命じたのだった。

チュンダの家で、食事を済ませ、一通りの教えを説いた仏陀は、

「他の長者の接待は断るように。すぐに旅に出る。クシナガラを目指そう」

とアーナンダに告げた。 

仏陀たちは、果樹園で修行をしていたの残りの修行僧たちと合流し、旅へと出たのだった。

その途中、仏陀に異変が起きた。激しい腹痛と嘔吐が襲ったのだ。

仏陀は、歩くことができなくなり、木の傍らに身体を横たえた。

「しばらく一人にしてくれ」

仏陀はそういうと、静かに眠り始めた。

その様子を見て、アーナンダたちは一安心し、仏陀のそばを離れたのであった。

しばらくして、不気味な笑い声が響いた。しかし、その声は仏陀にしか聞こえないものだった。

「うわははは。仏陀よ、約束の3カ月が来た。お前ももう終わりだ」

注:マーラーとは悪魔のこと

「マーラか。そろそろ現れるころだと思っていた。約束のことは覚えている。

だからこそ、あの毒キノコのスープを私が引き受けたのだ」

「わははは。バカなヤツだ。わざわざ自分から死を選ぶとは。

あんなものは、弟子に食わせればよかったのだ」

「マーラよ、お前は勘違いをしている。毒キノコのスープはきっかけにしか過ぎない。

あのスープを私が口にしなくても、私には別のことで死が訪れよう。 

それがわかっていて、なぜあのスープを避ける必要があろうか?。

肉体の死へのきっかけを先に延ばせば、さらに苦しみは増大するであろう。 

ましてや、毒キノコのスープとわかっていて、弟子に飲ませる者がいようか?。

マーラよ、お前は何が欲しいのだ?。

私の死が欲しいのであろう?。ならば、静かに待つがよい」 

「ふん、死にかけのくせにエラそうなことを言うな!。

ふっふっふ、しかし、チュンダも罪な奴よ。仏陀を殺した者になるのだからな。 

毒キノコのスープを飲ませ、ブッダを殺した犯人はチュンダだ。

あの者は、多くの人々から罵られ、そしられ、叩かれてひどい目にあうだろう。 

それもお前があのスープを飲んだからだ。

お前が飲まなければ、チュンダも罪を犯さずに済んだものを。

チュンダは、これで地獄行きだな。最も苦しい地獄行きだ。

お前がそうしたのだ、仏陀。お前のおかげで、チュンダは苦しむことになるのだ。

わはははは」

「黙れマーラよ。口を慎むがよい。

チュンダは、地獄に行かぬ。むしろ天界へ生まれ変わるであろう。

仏陀に最後の接待をした者して、大きな功徳を得たのだ。チュンダには罪はない。 

毒キノコのスープが食卓に出たのは、すべて自然の導きであり、真理なのだ」

「くっそ!、あーいえばこー言いやがる。

死にそうでフラフラのくせして、偉そうなこというな!」

「マーラよ。そんな悪態しかつけないとは、見苦しいものだ。哀れなものだ、マーラよ。

私の肉体の死は間もなく汝のものだ。それまで静かに待つがいい」 

そういうと、仏陀の顔色がにわかに戻ったようだった。仏陀は起き上がった。

従者のアーナンダは、

「世尊のこの体調不良は、チュンダのキノコのスープが原因ではありませんか。 

もしそうならば・・・」と仏陀に尋ねた。

「アーナンダよ。私は、もう食事はしない。

水のみを口にする。したがって、チュンダの食事は如来が取った最後の食事である。 

如来の最初に食事を供養した者と如来に最後に食事を供養した者は、同等の功徳を得る。

よいか、誰も決してチュンダを責めてはならぬ。

チュンダには私から話をしよう」と仏陀は、力強く答えたのであった。

仏陀が病で倒れた、と聞いたチュンダは、「もしや・・・」と思っていた。

もしかしたら、あのキノコのスープにあたったのではないかと思い、

どうしていいのかわからず、家の中に閉じこもってしまっていた。 

仏陀の体調が悪いのは、チュンダのせいではないか、という噂もそろそろ出始めていたのだ。

アーナンダは、チュンダの家に行き、

仏陀が快方に向かっているから来るようにと告げた。

チュンダは、大いに喜び、仏陀の元へと向かった。

仏陀は、木にもたれながら、チュンダに優しく話をした。

「チュンダよ、汝の接待は大変良いものであった。気に病むではない。

しかし、キノコには、毒のあるものがある。有毒か無毒かは、専門家にしかわからない。

今後は、山で取ったキノコの料理は控えるがいいであろう。

今まで誰も死者が出なかったのは、たまたま運が良かっただけのことである。

キノコを食べたいのならば、市場で買ってきたほうがよい。 

よいか、チュンダ。汝には罪はない。

私は汝の接待を受けなくても、寿命がやってくるのだ。 

汝の接待を受けなかった場合、おそらくは毒蛇にかまれていたことであろう。 

死というものはそういうものである。 

それが来るときは、山に逃げても海に潜っても、

どこへ逃げ隠れしても、逃れることはできないのだよ。 

だからこそ、今を大切に生きることが必要なのだ。 

チュンダよ、汝、罪を犯さず、善行をし、布施の心を忘れず勤めなさい」

チュンダは、涙を流して喜んだのであった。 

<引用終了> 

ブッダは既に完全なる悟りを開き、宇宙の真理を把握していましたので、 

鍛冶職人のチュンダの接待のキノコスープが、

毒であることは十分にわかっていました。

ですが、ブッダは敢えてそれを拒まず、 

ブッダ達を喜ばせたい、笑顔になっていただきたいというチェンダの心を受け取り、 

お飲みになりました。 

そして亡くなりました。

ですが、決してチェンダを責めることなく、逆に栄誉を与えたのです。

とかく私たちは目に見えるものしか把握できないために物を見て、

・自分に必要の無い物

・嫌いな物

であれば、決して贈ってくださった、その人の心を見ることなく、

嫌な顔したり、すぐに捨てたりと邪見に扱うかもしれません。

私たちは心が織りなす世界に生きています。 

見える世界も、その後ろに控える、広大な見えない世界も、

全ては、私たちのこの小さな体の「心の中」にあります。 

心こそが、全ての世界を包括するものです。 

私たちの起きている全ての現実は、実は私たちの心が決めています。 

心が変われば、全ての世界が変わります。

私たちの心が、温かな思いやりや愛で満たされていれば、

全世界が、そのような暖かな世界に一瞬で変わることでしょう。 

誰かの悪口ばかりを言い回り、憎しみや疑心暗鬼、嫉妬の心でいれば、

全世界が、自分を責め立てる修羅の世界に変わることでしょう。 

どんな時も、相手の方の心を推し量り、大切にしたいものですね。 

物質である物は、そのずっとずっと後からついてきます。 

イエスの黄金律ではこう言っています。

「自分のして欲しいことを、相手の方にして差し上げなさい」 

皆さんが、ご自分の心の中にいらっしゃる神さまに気づき、

お幸せになりますように。