2014年1月29日水曜日

276「倭、ヤマト2」2014,1,27

 1月11日朝、「不二(富士)は晴れたり日本晴れ」、東海道新幹線車中から綺麗に富士山が見えました。これから訪れるヤマト所縁の地を巡る旅には幸先良いことです。


 先のブログで触れたように
「崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、天照大神と倭大国魂神を皇居の外に写して天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(かさぬいむら)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。」
とあります。
 豊鍬入姫命から倭姫命が引き継ぎ、最終地、伊勢神宮に斎宮するまでおよそ90年かけて100か所程を転々としますが最初に祀られた処が笠縫邑は現在の檜原(ひばら)神社です。
 檜原神社は三輪山の麓で狭井神社の北、山の辺の道沿いにあり、大神神社の摂社になっています。境内入口には注連縄柱が立っていて良くみられる鳥居とは趣が違い、古くからの祀り方と思われます。さらに本殿、拝殿が無く三輪鳥居が並んであります。三輪山の磐座をご神体としています。この地では最も古く格も高い神社です。御祭神は天照大神、伊奘諾尊、伊奘冊尊です。




 大神神社はこの時期でもこんなにもと思うほどの、信じられないくらいの沢山の参拝客で大混雑でしたが、檜原神社は数えるほどの方々でゆったり参拝できました。自然の中に溶け込み鎮座して、凛とした空気が漂う神々しい場でした。

更に倭大国魂神については
「倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。」
 とありましたが、その大(倭)和(おおやまと)神社は長岡崎から遷座されて今は天理市にあります。檜原神社から下った程近いところにありました。神社の御由緒には御祭神は日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)でとあります。日本と書いてヤマトと読ませています。
 ウイキぺディアによると
「平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。」
「戦艦大和とには、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。」

 大和神社(おおやまと)は以下の3柱を祀ります。中殿:倭大国魂大神(やまと・おおくにたま)、左殿:八千戈大神(やちほこ)大国主の別称、右殿:御年大神です。出雲の神、国津神を祀っています。
 鳥居から長い参道を進みますが参拝客はほとんどいません。閑散としてかなり新しい社の印象はぬぐえません。綺麗にされていますが、伊勢神宮と並ぶ最古の神社で、延喜式には「大和坐大国魂神社」と記されている、大和一国の国御魂(くにみたま)を祭る名神大社であるのですが寂しい限りです。



 大和神社と檜原神社の間に纒向遺跡、箸塚古墳があります。纒向遺跡については以下の記載があります。
「三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。建設された主時期は3世紀で、前方後円墳発祥の地とされている。邪馬台国に比定する意見もあり、箸墓古墳などの6つの古墳を持つ。」
 そして箸塚古墳は以下の通りです。
「箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(邪馬台国畿内説)説もある。
 現在は宮内庁により、第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみこと おおいちのはか)として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。」
 箸墓古墳は全長278m、高さ30mの大きな前方後円墳ですがひっそりとしていました。

 この古墳は倭の名を頂く第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の墓と成っています。
やはり先に触れたように大物主神と深いかかわりがあります。
「崇神天皇7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。」
 大物主神を大神神社に祀ることで治まったとのこと、そもそも大物主神はどのような神なのでしょうか。ウイキぺディアによると
「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神。大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。」
 更に倭迹迹日百襲姫命は巫女で以下の史実があります。
「崇神紀十年の条に有名な箸墓伝説が記されている。倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻となるが、大物主の本体が蛇であることを知って驚き、倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだ。箸墓古墳は、彼女の墓と伝わる。」

 ヤマト王権がスサノウの子の饒速日命(にぎはやひのみこと)から国譲りをされて成立しました。
 崇神天皇は宮中に天照大神と倭大国魂神のどちらもお祭りし、天神地祇を奉戴していたのに災いが起きます。崇神天皇五年には国内に疫病が多発し、民の大半が死亡し、同六年には百姓が流離、反逆するなどして国内が大混乱します。天照大神は天津神で、倭大国魂神は国津神で出雲神で、崇神天皇は天津神の子孫です。

 宮中から自らの皇祖神の天照大神を出して、崇神天皇の皇女に檜原神社に祀らせますが、結果的に90年も鎮座できる場が定まらなかったことは不思議な事です。更に崇神天皇の皇女に出雲神の大国主神と言われる倭大国魂神を祀っても収まらない。
 皇祖神天照大神、大国主を祀っても収まらないとすると祟りの原因をどう捉えたらよいのか。
 そうこうする時に孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り託宣がありました。上記の通りに大田田根子に大物主神を、倭大国魂神をその子孫に祀らせることで災いが沈静化します。実質的にヤマト王権が祭政が執れて安定してきます。
 祟りは征服者としてヤマト王権が国津神、地主神を取り上げたしまったことに起因しているのでしょう。それぞれの神をそれぞれの末裔に奉戴させることで本来の天神地祇を祀る事が出来ました。
 果たして大物主神は如何なる神だったのか、「倭国の域(さかい)の内に所居る神」と言われ、国津神でも出雲の神がヤマトに来る前からの国津神、地主神であったと言われます。やがて天皇家では先ず国津神、地主神を祀り、皇祖神、天津神の天照大神を遠く離した状態で天照大神の託宣を得ることなく祭りが成されたようです。

 しかし以下のような記載がありました。
「天皇は物部氏から権力を奪ったため、物部氏の系譜である天照大神や大国主神を畏れたのではないだろうか。
 これは、崇神天皇の系譜が天照大神に繋がっていないことを示している。自身の直系の先祖であれば、国内に災いが起きても、それが原因とは考えないだろう。天皇は物部氏から権力を奪った負い目があるから畏れて外に出したのだ。
 石上神社の物部の呪詞と、宮中の鎮魂祭の呪詞が同じであることからも、天皇家が物部氏に取って代わったことが分かる。
 前記のように、伊弉諾尊・伊弉冉尊から始まる神話は、もともと物部氏の神話であったが、それを天皇の祖先に結びつけるため、記紀の編纂時に国譲りの物語が創られたと考えられる。」
 果たして真実は解りませんが、ヤマト王権成立時の情報の残る地を楽しめました。