亀岡市街地を抜けて郊外の田園にある御神体山の御蔭山の麓に鎮座していました。御神石の夫婦岩で写真を撮るアベックもいて、さすが縁結びの神様で有名です。参拝の方々で御神水の真名井の水、拝殿奥にある磐座、瀧、等々のパワースポット巡りの方々も沢山です。山、磐、瀧、水と自然の存在を祀った古い聖地です。
拝殿の前には大八洲国国祖神社(おおやしまのくにのみおやのじんじゃ)と書かれた駒札がありますが、大八洲國とは日本のことで、国をお産みになられた国祖、大国主命が祀られている神社ということです。
同じく大国主命を祀る、島根県の出雲大社は昨年60年遷宮をしましたがそこも縁結びの神で有名です。その出雲大社は実は古来から杵築大社と呼ばれていました。その杵築大社が出雲大社と名乗り始めたのは明治4年になってからです。その為、この出雲大神宮はそれまで出雲神社と名乗っていたのを出雲大神宮と言うようになったとのこと。ですから江戸時代までは出雲と言えば出雲大神宮を指していて、それゆえに「元出雲」とも呼ばれているとのことです。何故に名称変更が成されたのかなと思います。
出雲大神宮の由緒は以下の通りです。
「当宮は大国主命とその后神、三穂津姫命御二柱の御神格を併せて主祭神と称え祀り、丹波國に御鎮座なされています。(他に天津彦根命・天夷鳥命を祀るという説もあります)。
殊に三穂津姫命は天祖高皇産霊神の娘神で、大国主命国譲りの砌、天祖の命により后神となられました。
天地結びの神、即ち縁結びの由緒は叉ここに発するもので、俗称元出雲の所以であります。
日本建国は国譲りの神事に拠るところですが、丹波国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり、此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮です。
古来大平和の御神意に拠り、国と国人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤く、崇神天皇再興の後、社伝によれば元明天皇和銅二(709)年に初めて社殿を造営。
現社殿は鎌倉末期の建立にして(旧国宝・現重要文化財)それ以前は御神体山の御陰山を奉斎し、古来より今尚禁足の地であります。
又御陰山は元々国常立尊のお鎮まりになられる聖地と伝えられています。」
この由緒を読むと何点か疑問が起こります。
御祭神は大国主命と后神の三穂津姫命です。三穂津姫命は天祖高皇産霊神の娘神で、大国主命国譲りで、天祖の命により后神となった。大国主命は国津神で、天祖高皇産霊神の娘三穂津姫命は天津神です。つまりは大国主命は国譲りという中で、天津神の支配下にはいり、后に常に監視される状態にあったと言えます。
更に崇神天皇再興の後、とありますが崇神天皇に付いてはこれまで再々記していますが倭、ヤヤマト王権の要の天皇です。崇神天皇の略歴に以下のようにあります。
「崇神天皇10年9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。
しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。
崇神天皇11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。」
この丹波の地は、大和政権に服従する前は、出雲や吉備と同じようにひとつの古代地域国家として存在していたようです。しかし崇神天皇の時に服従させようと四道将軍を遠征させ吉備と同じように、出雲が服従する前に大和政権に服従した地域のようです。
『丹波国風土記』逸文には
「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中(708-715)、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記されており、大国主命を出雲大神宮より島根に分霊したということが載っています。
元明天皇は天智天皇の皇女で、天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃です。記紀神話の創世時期に合わせて杵築大社は霊亀二年(716年)に創建されています。大国主命が亡くなって800年後です。出雲の国譲り神話では大国主命は国譲りと引き換えに大きな社を要求したとあります。果たして日本の創世の記紀神話は事実なのか神話なのか、それに合わせて事象を創世しているのかと素朴に思います。
記紀神話に登場する日本の神々はユダヤ神話に登場する神々と相似しています。何とも不思議なくらいに数も事象も似た内容です。ルーツが同じなのか、その事実を知ってひな形ととして活用して神話を創作したのか真偽は解りません。しかし記紀を作成した意図は日本の起源の正統性を記す事であり、統治者の思惑が明らかにあり、以後それで歴史を正史として教化して行くことです。記紀以外の古代の書物をを偽書扱いとし、神社の御祭神の名を変えたりして来ていて、少なくても日本では1300年以上にわたり成功していると言えます。
大和心、大和魂、大和撫子などの言葉を普通に使っていますが、ヤマト王権が誕生し創世のある時代の天皇が治めていた地の名前、倭、ヤマト、大和が使われるのでしょうか。都としては一番長いのは平安京ですが平安心とは言いません。そのルーツは以下のように記されています。
「大和(やまと)は、日本の異名。大倭・大日本(おおやまと)という雅称も指す。大和朝廷が五畿の一つ大和(現在の奈良県)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は2字用いることが定められ[1]、倭と通じる和の字に「大」を冠して「大和」と書くように取り決められた」
ここでも元明天皇の名が出ています。
さてヤマト、大和、日本を冠する人物としてはヤマトタケル(日本武尊・倭建命、景行天皇2年 - 43年[)がいます。第12代景行天皇の皇子で第14代仲哀天皇の父です。(詳しくはウイキぺディアを参照ください。)
ヤマトタケルの以下の歌は有名です。
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
東国遠征を終えて非業の死を遂げるのですがその病魔に侵されて伊勢鈴鹿の地でヤマトを偲んで読んだものです。
ヤマトタケルの名はヤマトを建てたミコトの意味ですが、ヤマト建国に係った存在のように思えます。その存在にも些か不思議なこと、興味深い事があります。