2026年2月28日土曜日

4182「生きる道」2026.2.28

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月14日の記事を紹介します。


「生きる道」


今日は「努力しない生き方」というお話です。

この生き方は、現在の大きな時代の節目のただなかに生きる私たちにとって、

生きる道の方向を指し示してくれています。

私たちは子供のころから「努力しなければならない」そう教わってきました。 

しかし、例えば、子供が不登校になったり、病気したりすると、

途端に不安に陥り、右往左往してしまいます。

それはまるで

・競う

・争う

・比べる

の修羅の世界ですね。

それに対して、 

・競わない、

・比べない、

・争わない

生き方と言うのもあります。

今日は小林正観さんのお嬢様、慶子ちゃんのお話をご紹介します。

慶子ちゃんは知的障害で生まれてきました。

<引用開始> 引用元

ニッコリ笑っていてくれるだけで、まわりを温かくし、光を発している知的障害の長女。

ここに人間の価値がある。

結婚して三年目にやっとできた長女は知的障害児で、努力やがんばることができません。

二十七になりますが、知能でいうと七歳くらいです。

日常生活にはなんの問題もありませんが、自分の名前を漢字で書いたり、

足し算、引き算をしたりなどはできません。

しかし、この子は、自分より立場の弱い人、怪我をしている人を見れば、 

駆け寄って『大丈夫?』と手を貸すような子どもで、

教えられることがたくさんありました。

小学校四年生までは運動会の徒競走が五十メートル、五年生と六年生は百メートルでした。

長女は小学校五年生まで、徒競走はずっとビリでした。

染色体の異状により、脳細胞や体の筋肉が、普通の人の三分の一くらいしか発達しないため、ものを持ったり、走ったり、歩いたりなど、なにかをする能力は三分の一くらいしかありません。

そのため、走るというより速歩きという感じです。

小学校六年生のとき、運動会に行く前、なぜか妻がとても楽しそうでした。

『今日はいつもより楽しそうだね』と言うと、

妻は『初めて徒競走でビリじゃない姿が見られるかもしれない』という返事。

どういうことなのかと尋ねたところ、次のような話しでした。

同級生の女の子が、運動会の一週間前に捻挫をして、

包帯ぐるぐる巻いている状態だったそうです。

誰もが徒競走に出ないだろうと思っていたところ、 

『どうしても走りたい』と言い、困った先生は、最終組で長女と走らせることに。

健常児六人+捻挫した子と長女の合計八人で走ることになりました。

捻挫して、包帯を巻いている子と走ることになり、

『長女が生まれて初めてビリではない姿を見られるかもしれない』と言い、 

ニコニコ笑いながら朝、二人で手をつないで出かけて行きました。

夕方、ニコニコして帰ってきたので、 『どうだった?』と尋ねると、

満面の笑みで、『それがまたビリだったのよね』という答え。

すいぶん楽しそうな顔だったので、経緯を教えてもらいました。

健常児六人が五十メートルくらいのところを走っているとき、 

長女は十五メートルくらいの場所を走っていた。

捻挫をした子は十メートルくらいの地点を走っていたそうです。

長女は、後ろを振り返り、気にしながら前を走っていたところ、

捻挫をした子が『キャッ』と言って転んでしまいました。

それを見た長女は『大丈夫?』と言って逆走し、 

その子を助け上げ、肩を支えながら、一緒にトコトコと走ります。

ゴールする、前に捻挫をした子の肩をポンと押し、

その子が先にゴールしたと、妻は言いました。

九十メートルくらいのところで、

係のお子さんがゴールテープを取り直して張ったそうです。

父兄が二千五百人くらい来ていたそうですが、みんな立ち上がり、

九十メートルあたりからは拍手をして応援してくて、感動的な光景だったと。

長女は捻挫した子を助けながら走ったにもかかわらず

最後のところで、自分は先に行かず、彼女を先にゴールさせたということです。

妻が『それでまたビリだったのよねぇ。そういう子どもだもんねぇ』と笑顔で言うのを、

私は苦笑いして聴いていました。

しかし、その苦笑いしていた顔が、だんだん真顔に。

私は、父親から『努力しないやつはバカだ、クズだ』と何十万回と言われ続けて育ちました。

『どうもそうじゃないみたいだ』と思いながら生きてきたものの、

長女の生き方が父親から教わったこととはまったく違い、衝撃を受けました。

私にとって人生観を根底から覆すような出来事だった。

そのため、一週間考えました。

一週間考えて出た結論は『長女の生き方が正しい』というものでした。

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ただ、私の魂がどちらの生き方を喜んでいるかと考えたときに、

長女の生き方が本質だと思い、喜んでいる自分がいることに気がつきました。

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私たちは、 小・中・高・大学・大学院、会社、社会、家庭というすべてのところで、

・努力しないやつはバカだ、クズだ

・競いあい、比べあい、人より抜きん出ることが立派な人間である

・負けてはいけない

・成功しなければならない 

と教えこまれてきました。

しかし、『人間の価値は、それらとは違うところにある』

この新しい価値観を長女が教えてくれたのです。

長女は、いつもニコニコしていて、私が家に帰ると、眠い目をこすりながら

『お帰り』と言って玄関先で迎えてくれます。

いつもニコニコしていて、楽しそうに、幸せそいうに暮らしています。

『努力しないやつはバカだ、クズだ』という価値観とはまったく違い、

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ただそこにいるだけで、

まわりの人に幸せを感じさせてくれる存在です。

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この子が笑顔でニコニコしているだけで、まわりをとても温かくし、和やかな空気にします。

小学校を卒業するとき、校長先生が次のようなコメントを書いてくれました。

『慶子さんの、笑顔とありがとうという言葉は、学校の中で最高のものでした。 

これほど笑顔とありがとうの言葉が似合う子どもはいなかった』と。

私は父親から

・がんばらないヤツはバカだ、クズだ 

と何十万回と言われて育ってきました。 

長女が生まれてこなければ、ずっとその価値観で過ごしていたでしょう。

しかし、わが家に知的障害児の子どもが生まれてくれたおかげで、 

人間の価値は、努力すること、がんばることではない、と教えられました。

長女は、ニッコリ笑っていてくれているだけで、 

まわりをとても温かくし、光を発しています。

ここに人間の価値があると教えに来てくれたのです。

<引用終了>

2つの道のお話でした。

良い悪い、正しい、間違いと言うことは無いと思うのです。

人それぞれの人生ですから、ある方は、必死に努力し勝ち抜いて、 

人より地位や名誉、お金を得る道が好きかもしれません。

ですが、いつも心が追い詰められ、

・もっともっと努力しなければ

・努力をやめたらおしまいだ

・一回失敗したら「負け犬だ」

などと思ってしまったら、きっと神さまから頂いた純粋な魂が濁ってしまいますね。

人と競わずとも、いつも精神的に追い詰められて「もっと上へ」と、馬車馬のごとく

精神的にゆとりのない生き方でなくとも、神さまは私たち全ての人に 

生きる道を準備してくださっています。

それは私たちが生まれる前に、神さまと一緒に決めてきた道です。

私たちは小鳥たちのように、運命の流れに身を任せ、全てに「ありがとう」と、

感謝して生きていれば、上手に生きられるようになっています。

・お金持ちだから、

・地位や名誉があるから、

・大きな外車に乗っているから、

・広い家に住んでいるから、

・偏差値の高い学校を出たから・・ 

幸せなのではないと思うのです。

私たちの本当の幸せは、ブッダが説いた般若心経の教えのように

全ての自分に起こってくるコト。 

良いことも悪いことも、肯定して受け入れ

そして感謝することで、得られるのかもしれませんね。

自分に起こってくる全てのコトは、私たちが生まれる前に、神さまと一緒に、

私たちの魂の成長のために、一番必要なものとして、人生の必要な時期に起こるように。

自分で人生に組み込んで、この地球に生まれてきたのですから。


2026年2月27日金曜日

4181「2026年、世界の舞台は日本になる」2026.2.27

 今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2026年2月23日の記事を紹介します。


「2026年、世界の舞台は日本になる」


こんにちは。

澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。

 

さて、みなさまご存じのとおり、今年の青森(津軽)の積雪は尋常ではなく

半ば強制的に自宅待機を強いられ、まさに灯火管制が敷かれている様相

そのものでございました。

また突然の衆議院解散選挙といい、交通や生活体系が、

麻痺してしまう程の異常気象といい、一体何がどうなっているのやら、

いまだに狐にでもつままれたような、そんな奇妙な感覚が続いております。 

お陰様で大雪の峠は越えましたが、世の中はまだ予断を許さない不安定な情勢が

続いているような、そんな気がしております。 

澤野さんからも一言いただきました。

  

今回、第37回青森講演会は、残念ながら中止という判断になりました。

私はどんなことがあっても大体辿り着けるのですが、

来場されます皆様の安全を考慮いたしますと、

無理をして開催をすることは賢明な選択であるとはいえません。 

このようなアクシデントはその瞬間だけを見るならば、

非常に残念なことではありますが、

同時に、長期的視点で見ることができるのなら、

それは往々にして最適な結果となることが予想されます。

困難なアクシデントは、得てして想像もしない成長をもたらします。

でもそれがどのようなものかはまだわかりません。

私は自分自身の人生を振り返ってすべてそうでしたから。 

もう一度それをやれと言われたら到底無理なことも、

無我夢中で走り抜けている時にはできていた。 

毎回、何の問題も障害も無く、無風でできたことなど一度もありません。

毎回、何かしらあるものです。

みなさんも同じでしょう。

今回の中止という決定は衝撃的なものでありましたが、

それに比肩する、あるいはそれ以上の大きな直観の横溢がありました。

ですので、すべてはパーフェクトなのだということ。

すべては私の与り知らぬ領域で、調整がなされているのだと思います。

私は「適切な結果」を設定しているだけです。

途中のルートはいかようにも再設定なり、微調整が加わるでしょう。

それが楽しみでなりません。

本州東北最奥の地である青森。

666の中枢を担う弘前、そしてヤハウェを纏う八戸。 

そして津軽は大和朝廷の坂上田村麻呂と、最後まで神通力で抵抗し戦った、

縄文蝦夷の女酋長「目六面長」(メルクオモナガ)の地。 

今回のあの豪雪も、見方を変えればいよいよこの列島の秘密が、

詳らかにされていく大きなきっかけかもしれない。 

それはかまびすしい号砲などではなく、ただ静かにしんしんと積もることによる、

静謐な空間、己との向き合いの時。

そこからもたらされる直観、それが合図となる。 

青森講演会主催の小野裕美子さんも、この厳しい冬を乗り越え、

その神通力をより確かなものとしたことでしょう。 

となれば、次回の青森講演会は、なお一層、楽しみだということになる。

3月にまたみなさんにお会いできることを楽しみにしています! 

澤野大樹 2026年2月23日

 

澤野さん、ありがとうございました。

3月もよろしくお願いいたします。 

 

『日の丸』は蝦夷の旗印


この度の中止に伴う一連の出来事では、参加者様のあたたかい寛容なるご対応に

助けられました。

本当に感謝しております。

お陰様で、当地方もようやく春の兆しが見えて参りました。

堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、厳しい冬を乗り越えた感で一杯です。

まことに感無量。思わず涙が出そうになりました。

そして今回、

まさか、講演会中止に踏み込む事になろうとは、予想だにしておりませんでしたが、

中止となった事で、次回の講演会に繋がる、あさっての方向からやってきた驚愕の内容が

澤野さんによって執筆され、計り知れない大いなる奇跡に、

また目頭が熱くなっていたところでございます。

 

第1回青森講演会から、少しも取りこぼすことなく

脈々と繋がっている大スペクタクル快進撃!

過去と現在と未来が同時進行する、

いまだかつて誰も見たことのない、聞いたこともない

ものすごい歴史ドラマが始まっておりますよ。

3月は心機一転、清々しい春とともにお迎えいたしたいと思います。

ご来場を心よりお待ちしております。

 

澤野大樹氏青森講演会主催

小野 裕美子


2026年2月26日木曜日

4180「優しさは真実(正義)に勝る」2026.2.26

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月13日の記事を紹介します。


「優しさは真実(正義)に勝る」


今日は、以前掲載した記事ですが、必要な方がいらっしゃるようなので、

少し加筆・修正して掲載いたします。

私たち人間は弱いものです。

・正しくありたい

・優しくしたい

・笑顔でいたい

・人の役に立ちたい

そう願っていても、何時も弱い心が頭をもたげます。 

また逆に、

・私は正しい

・私の言う通りに動いて・・ 

と、無意識のうちにマウンティングしてしまい、

自分勝手な正義感を振り回し、

・人を批判し

・糾弾し

・追い詰め 

または、感情を外には出さなくとも、心モヤモヤしたり。 

そして、

・自分勝手な価値観に沿って、家族を含め、他人を動かそうとします。 

そして、人がそれに従わないと

・猛烈に批判を浴びせ

・憎み

・足を引っ張り

・仕返しをしようとします 

または第三者に告げ口し、自分は正しい、相手は間違っているという

お墨付きを得て、モヤモヤを解消させようとしたりします。 

また、心弱い私たちは、 

何が正しいか、分ってはいても,

なかなか一歩踏み出せないでいます。

生きている間は、ずっとその葛藤かもしれません。

でも諦めないでください。

みんながそうなんです。 

そこが出発点なんです。

ブッダがこう仰いました。

・嘘をつけないような人になっては いけない

・優しさは真実に勝る

ブッダの仰りたかったことは、

相手を思いやる優しさや、調和の為の嘘は、

真実(正義)よりも尊い・・ と言う事を仰ったのでした。 

また、こうも仰りました。

捨戒の法

ブッダが仰るには、仏教徒が戒律を破るとき、 

いま仏教を捨てます、と天に向かって言います。

そして、酒を飲んだり、戒律を破る。

その後、また仏門に帰依します、と言って戻れば、それで良いのだよ。

ブッダは人間の弱さを知っていました。

そして温かい目で人間を見ていました。

過ちを見て、人を切り捨てるようなことはなさいませんでした。

人を追い詰めることはなさいませんでした。

ブッダは戒律重視ではなく、優しさ(慈悲)を教えていたからです。 

次に良寛さんのエピソードをご紹介します。

良寛さんの甥に、馬之助という放蕩息子がいました。

良寛の弟の由之は息子の放蕩に困り果てて、兄の良寛さんに説教を依頼します。

良寛さんは故郷の由之の家に出向き、馬之助の前に座らせられましたが、

酒を飲んでばかりで、いつまでたっても説教しませんでした。

とうとう三日目の朝「わしはもう帰る」と言って良寛さんは家を出ようとしました。

そのとき馬之助の母は馬之助に、

良寛の草鞋の紐を結んであげるように言いつけました。

馬之助は言われるまま草鞋の紐を結び始めますが、 

それでも良寛さんは黙ったまま。

と、そのとき馬之助は、自分の首に何かが、落ちてくるのを感じました。

見上げると、そこには目に一杯涙をためた良寛さんの顔がありました。

それをきっかけに、たったこれだけの出来事をきっかけに 

馬之助の放蕩は、すっかりやんだということです。

良寛さんは、馬之助の心の

・苦しさや

・悲しさや

・それを放蕩で紛らわせざるをえない 苛立ち

をただじっと見ていました。

煩悩だと知りつつも、煩悩に引きずり回されるのが私たち心弱い人間です。

人間の悲しさ、苦しみは、いつでもそこから生まれてきます。

悲しみを持った人に、

自分勝手な価値観を押し付けたり、くどくどと説教したり、

良寛さんは、そのような事はしませんでした。

ただ馬之助とともに、じっと悲しみ続けるだけでした。

馬之助の父親の由之や母親は、息子の表面的な損得や、

世間体から心配したかもしれません。

ですが、

馬之助の心と、じっと一緒にいてあげたのは、良寛さんでした。 

人は弱いものです。

いくら正しい道を示されても、

「こうであるべきだ」と正論を教えていただいても、

なかなかそう簡単に行きません。

でも本当はそうしたいのです。心では分かっていますから。

そして、それが自分には簡単にはできないとわかると、

結局あきらめてしまい、また元の苦難の日々に埋もれてしまいます。

正しい道を示されても何の役にも立ちません。 

ですが、良寛さんのように心を理解し、心に寄り添い、

「今のままでも、良いんだよ」と、見守ってくださる人がそばに居れば、 

私たちは徐々に、光の方向に進んでいけるかもしれません。 

心弱い私たちは、煩悩で、あちこち頭をぶつけながら、

人に迷惑かけながら、お世話になりながら、

だんだんと、あちこち角が取れて、おかげ様の心が芽生えてくるでしょう。 

そして、

・おかげ様

・お互い様 

の感謝の心が芽生えた時、その辛く、苦しい経験をしたがゆえに、

同じような苦しみ、悲しみの中にある人の

心の内を理解して、良寛さんのように寄り添えるのかもしれませんね。


2026年2月25日水曜日

4179「心暖かな者」2026.2.25

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月12日の記事を紹介します。


「心暖かな者」


私たちはよく、誰かにこう動いて欲しいとか、、 

自分の都合の良いように、相手が動いてくれることを望みます。 

そして、そうならないと、失敗したのは、うまくいかなかったのは、 

あの人のせいだと、相手を恨んだり、憎んだりします。 

ですが、私たちは決して

相手を自分の都合よく動かすことなどできません。

たとえ家族であっても。 

今日は、小林正観さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元 

「もっと言うことを聞く子になって欲しい」とか、

「もっと理解のある親になって欲しい」と言う人、たくさんいると思います。

しかし、相手に変わってもらいたいと言っている間はダメでしょう、

自分が変わらない限りは。

自分が、相手に対して、

・気に入らない

・おまえは間違っている

・ああしなさい、こうしなさい

と言っていたなら、人間関係はどんどん悪くなります。

絶対に話など聞いてはくれません。

人間関係が悪い状態で、あれをこうしろ、

これを解決しろと言っても、ダメなのです。

まず、人間関係を作ることでしょう。

親だから偉い、と思うのではなくて、

相手から信頼され、慕われるという関係になったほうが良いと思います。

皆さんが学校で教わってきた解決方法は、自分の考えを、

・いかに論理的に組み立てるかとか、

・いかに説得力を持たせるか

ということだったと思います。

論理と説得力で相手を説き伏せるやり方です。

それで解決できているのならそれでも良いのですが、

もしも行き詰っているとしたなら、解決方法が一つあるのです。

それは、「やわらかな、あたたかい人間関係を作ること」

そして、その第一歩は、心がこもっていなくてもいいから、

「ありがとう」を言ってしまうこと。

ずーっと「ありがとう」を言って、感謝をし続けていく。

そうすると、人間関係が変わります。

「ありがとう」というのは、その人の

「在るがまま」を全部認めてあげるということです。

あなたが人間関係を作りたいと思っている人のことを考えてみてください。

その人が、こっちの方にきたら「ありがとう」と言えるけど、

こっちではなく、向こうへ行ってしまうのなら

「ありがとうとは言えない」ならば、人間関係は作れません。

その人が持っている性格や行動のすべてを含めて、

あなたが、ありがとうと言えるようになれるかどうかです。

人間関係ができてしまうと、個々の問題は問題ではなくなります。

それができていないから、多くのトラブルや問題の解決は、皆、

・どちらが正しいか

・どちらが論理的であるか

・どちらに説得力があるか

という方向に話がいってしまいます。

・正しいことを言えばわかってもらえるとか、

・正義はいつか必ず勝つのだとか、

私たちはそう教えられてきました。

正しいものが強いのではなく、

「心優しく温かな方が強い」のです。

人間関係があたたかいものでできていれば、

問題がどんどんクリアされていきます。

しかし、人間関係が作られていなければ、

いくら正しいことをこちらが主張しても問題は解決しません。 

<引用終了>

正しい者ではなく、心優しく温かな者の方が強い! 

理屈や理論の正しさではなく、

温かな気持ちを持つ者が強い・・ 

温かな気持ちとは、どんな気持ちでしょうか? 

・優しい思いやりの気持ち

・許し合うお互い様の気持ち

・おかげ様の感謝の気持ち  

誰かに笑顔で、「ありがとう」と言われれば、

心の共鳴現象が起きて、

きっと、心が温かくなり、味方になってしまいますね。 

些細なことは気にならなくなり、相手の立場に立って

協調して行こうという気持ちも芽生えてきますね。 

敵だった者が、一瞬で味方に変わります。 

これから地球が向かおうとする、高度に進化した宇宙文明は、

神々の世界のように、このような温かな心の人たちが生み出す

調和した世界なのでしょう。 

地球が精神性を重視する世界に舵を切った今、 

私たちは、個々ひとりひとり、自分の心の赴くままに、 

自分の心の波長に同調する世界に、進んでいくことでしょう。 

あなたは

どちらの世界に進みたいですか? 


2026年2月24日火曜日

4178「ほんとの愛」2026.2.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月11日の記事を紹介します。


「ほんとの愛」


今日は、私たち人間が、誤解しがちな「愛」についてです。

私たちは、

「愛」と、

「執着」、「依存」をごっちゃにしがちです。 

ですが、それは全く違うものです。 

一方は、 (愛)

魂を自由にし、軽くしてくれますが、 

もう一方は、(執着、依存)

魂を縛り、どんどん活力を奪ってしまいます。 

地球が霊的に分裂しようとする今  

この違いは決定的です。

ですが、もちろん、個人の好みによって、

ご自分の行きたい道を選べばよいだけです。

良い悪いはありません。

自分が幸せになるのは、他の人次第・・ 

その意味は、 

・子供であったり

・妻であったり

・夫であったり

・何かのリーダーであったり 

常に、自分の内面(内に居らっしゃる神さま)ではなく、

他人の方にフォーカスしている状態。 

あの人が、、あの人が、、あの人が。。

の他人への依存の状態 

例えば、子供が対象であれば

・子供が元気で

・成績がよく

・運動能力があって

・優しく、親切で

・友達に囲まれていれば・・

私は、幸せ・・   子供を愛している。

そうでない状態の時には 

私は、悲しく、幸せにはなれない。

子供は、悩みの種。うっとおしい存在 

でも、それは、本当の愛ではないし

依存と執着の対象でしかありません。 

何物にも依存せず、執着せず、自分で考え、判断し、

自分の道を、自分で歩み出そうとする人。 

逆に、何事も、執着する人の視点に置き換え、

そこから見た景色、フィルターを通し、

判断を委ね、手放し、依存し、執着する人。 

この魂の方向性の違いは決定的です。 

自分以外の他人は、決して本当の意味で、私たちを救ってはくれません。 

魂は永遠です。 

そして「愛」は

宇宙で一番、高いエネルギーを持っています。

この魂の向かう方向性の違いは、波長の違いを生みます。 

波長の違うものは、混じり合うことがありません。

ですから、今の時代、地球が分裂し、

それぞれの人々が住むにふさわしい

地球が用意されていると言われています。 

ブッダやイエス、空海など、

人間の進化に寄与してきた進化した魂たちは、 

長い時を経ながら、様々に人類にアプローチしてきました。 

その目的は、人類の精神性の向上です。 

決して見えない世界うんぬん 

の話はしませんでした。 

精神、つまり魂の波長を繊細にすることです。

私たちを神々の波長に近付けるためです。 

私たちは、誕生と死を繰り返し、

様々な経験を積み、

様々な感情を味わってきました。 

それは、全て精神性の向上のためです。  

そのために、縁ある魂達に頼み、

様々な役割を演じてもらっています。 

・病気がちの子供

・意地悪、パワハラ、モラハラをする上司

・モラルの破たんした配偶者

そのような境遇を通じ、

私たちは、段々と、魂の自由を勝ち取ってきました。 

魂は、本来、神さまと同じく自由闊達で、

活き活きとして、創造性に富み、幸せで、

自分の周りの状況に左右されません。 

人生は夢幻のごとく・・

とは、そのような意味です。 

祓い清めるとは、魂の本来の状態を、表すことです。 

全ては、見える世界も、見えない世界も、

私たちの、心が作り出す世界だからです。

私たちの中には、どなたにも神さまがいらっしゃいます。 

神さまと、普段から会話することは大切なことです。 

ご自分の中の神さまを信じ、

自分の足で、しっかりと大地を踏みしめ立ち上がり 

周りに居る人に、優しさや、思いやり、

笑顔を向けて差し上げたいですね。


2026年2月23日月曜日

4177「青空ひろば」2026.2.23

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。


1675 2026.02.12 

<大敬の自己制約突破法> 

① 自分の腕、能力を信じない。

② 大自然は善意で出来ていて、私を養おう、育てよう、導こうとしてくださっていると信じる。

③ 捨て身で跳び出す。きっと大自然が身を支えて運んでくださると信じて。


1674 2026.02.11 

<自己限定・自己制約の心の分類>

① 時間にこだわる限定 ② 空間・距離にこだわる限定 ③ 大小にこだわる限定 ④ 数量にこだわる限定 ⑤ 上下・尊卑にこだわる限定

⑥ 有無にこだわる限定 ⑦ 生死にこだわる限定 ⑧ 自他にこだわる限定

<自己限定・制約の心を突破するための禅の公案>

① 時間にこだわる限定を突破する公案

『三千年前の釈迦と今・ココで、握手してみよ』

② 空間・距離にこだわる限定を突破する公案

『<伊勢の海 千尋(ちひろ)の底の細石(さざれいし) 袖(そで)ぬらさずに 取るよしもがな>さて、その石を袖もぬらさないで取って来い』

③ 大小にこだわる限定を突破する公案

『ドアの鍵穴を通って来い』

④ 数量にこだわる限定を突破する公案

『空には星がいくつある』

⑤ 上下・尊卑にこだわる限定を突破する公案

『釈迦も達磨もアイツの召使い。アイツとは誰のことか』

⑥ 有無にこだわる限定を突破する公案

『どうして達磨には鬚がない』

⑦ 生死にこだわる限定を突破する公案

『お父さん・お母さんが生まれる以前の君はどんな顔だったのか。その顔をここで出してみよ』

⑧ 自他にこだわる限定を突破する公案 

『富士山を歩かせてみよ』


1673 2026.02.10 

黒住宗忠公「ひとくちに申せば、<常祓(じょうばらい)>という事をお忘れなく、これを生かしてお使いになるより外に道はないと思います。寝ても覚めても御心のはらい一筋です」

(註)心にくもり(自己限定の心)が生じたら、その瞬間に息をフッと強くふきだして、そのひと吹きで心のくもりを吹き払ってしまう方法。


1672 2026.02.09

<『運を味方にする達人』中谷彰宏(メディア・ファクトリー)より>

「その道一筋にやっている人より「はずみ」でやってるやつのエネルギーのほうが凄いことがある。何の計算も、意識もないのが「はずみ」だ。だから強いのだ。

「はずみ」は勢いを持っている。「はずみ」は、こつこつした地味な積み重ねを、一気に飛び越える。「はずみ」はジャンプ力だ。早く夢を実現するには、「はずみ」の力をいかに利用するかだ。うまくはずむには、体の余計な力を抜いて、思い切り人生のいたずらに身をゆだねてみることだ」


1671 2026.02.08 

<大敬がこれまで抱え込んでいた自己限定>

・45歳という年齢(この歳じゃどこも雇ってくれるはずがない)→イノチには年齢なんてないんだぞ!

・過去の重苦しいみじめな経歴(定職に就いていたのはわずかな期間のみ)→イノチはいつも真っ新、経歴なんてないんだぞ! 

・物理という科目を教えたことがない→イノチには積み重ねるものはナイ。必要な時に必要なモノや才能も必ずやってくるように出来ているんだぞ!

・アタマの善し悪し(なんせ九州一の進学校だから、僕の能力で教えられるだろうか)→能力の才富は二重底、三重底。切りがない、必要に応じて発動することになっているんだぞ!

日頃はウジウジ、クヨクヨしていても、いざという時に、アタマを外して、とっさに本来のイノチに戻って、即行動に移せるようになったのです。


1670 2026.02.07

シッダールタは、一生懸命、眼を吊り上げて、夜も横にならず、食事もろくに取らず、肋骨がハッキリ見えるほどガリガリになって猛修行していました。でもちっとも成果が上がらず、いつまでたっても悟りが現われなかったのです。そんな不甲斐ない自分を責める毎日でした。

そして、ついにもうダメだと絶望し、修行を断念して、バタンと大地に横たわってしまいました。自分の無力さを受け入れざるを得なかったのです。

数日間、このまま死んでしまいたいと、何もしないでジッと横になっていました。

そうすると、自分を支えてくれている「大地」のぬくもりに気付くようになりました。

『生きなさい』とささやく、励ましの声が、どこからか聞こえてきました。天から大地から、生かそう、生かそうとする霊的なエネルギーが注ぎ込まれてくるのを実感できました。そうすると、生きるために必要な食料や衣類などを提供してくれる人も現われ出しました。

そして、次のような声が聞こえてきました。

『君に、今現に起こっていること(悟れない、仏になれないでいるという現状)は、宇宙全体(神仏)が、世界や君の進化向上にとって、今・ココで、このような状態(悟れない、仏になれない)でいることが、最善最適なものなんだと配慮し、手配して下さった、愛のプレゼントなのだということを、素直に認め、受け入れなさい。

そのように、今の状態をそのまま受け入れることが出来た、そのそこからが本当の修行のスタートなんだよ。

これまでは、君は自分の努力で修行しているんだと思っていたんだろう。君が自力で悟ろうとしていたんだろう。それが間違いなんだよ。 

君が修行するんじゃないんだよ。天や大地や山や空や海や、みんなが寄ってたかって、君を前に前にと歩ませるのだよ。後押しし、手を引いて一緒に歩んでくださっているのだよ』

そうなのでした。自分が修行しているのではありませんでした。また、悟るために、仏となるために修行しているのでもありませんでした。

大宇宙の促しのまま、イノチの催しのまま、ただ感謝して、結果を求めず、ただ坐禅していったらいいのでした。

悟りが開けなくても、仏になれなくても、今・ココでこのように坐禅させて頂いている。その天地からの奇跡的な恩恵に感謝して、結果を求めず、ただ坐ることが出来るようになったのです。

このようにして、シッダールタは、再び歩みはじめました。その歩みの一歩、一歩から宇宙全体に光が放たれるようになり、その光を見て、宇宙中の天人たちが集まってきて、シッダールタの尊い修行を祝福し、讃美したのです。

シッダールタの歩みは、ただ一歩、一歩にイノチの重心を据えた歩みで、先を思わず、後を振り返らず、わき見をせず、一歩、一歩にしっかり体重を乗せて歩けるようになったのです。

ところが、もう悟りたいなんていう目標は、とうに忘れ去っていたのに、気付いてみればいつの間にかゴールインして釈迦牟尼仏になっていたということです。


1669 2026.02.06 

<舞い>

天上の光輝の中で/私の闇は消えてしまい/天上の慈しみの中で/私の悲しみは融けてしまい/天上の広がりのなかで/私のエゴはくだけてしまい/天上の調べの中で/私はただよう/ただよう、ただよう/流れのままに/まあるく、まあるく/円をえがく/とぎれることのない/決してとぎれることのない/天上の舞いを…


1668 2026.02.05 

<大地の春>

人間を相手にするな/経典を相手にするな/大地の上に直(じか)に坐せよ/大地のぬくもりに直に融けこめ/萌え出(い)ずる生命(いのち)の息吹(いぶき)を/さざめく大気の喜びを/体いっぱいに吸いこめ


1667 2026.02.04 

<「能力の才富(さいふ)」の多層構造>

→「自我の囲い」が、薄くなったり、拡大することによって、才富の底が破れて、下の層までアクセス出来るようになる。

第1層の才富:生まれつきの能力、現世の努力で獲得した能力

第2層の才富:過去世で獲得した能力

第3層の才富:類(グループ)魂や民族魂、人類魂が獲得してきた能力

第4層の才富:「アカシックレコード」(世界記憶)


2026年2月22日日曜日

4176「心の感度」2026.2.22

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月09日の記事を紹介します。


「心の感度」


私たちは、3つの世界の中で同時に生きています。

・見える世界(物理的な次元)

・見えない世界(黄泉の国)

・心の世界 

一番大きくて、全てを包括し、大事なのが心の世界です。

心の世界こそが、見える世界、見えない世界を包括した世界の現実を作り出します。

ですので、ご自分の心の浄化こそが、全ての根本であり、

永遠に続く幸福を作り出すことができます。

決してどこかの誰かが、やってくれることではありません。

目に見える、物に執着したり、

目に見えない霊的な物ばかりに心をフォーカスさせるよりも、 

まずは、自分の心の洗濯こそが、重要だと思います。 

私たち人間は「考える葦である」などと言われます。

ただ、毎日を、食べて寝て、暮らしているわけではありません。

生活するため、生きるためだけに、働いているわけではありません。 

生きている間に、様々な事件が起こります。

様々な人との出会いと別れがあります。 

誰かと友達になります。

長く続く友達もいれば、あっという間に分かれる人もいます。 

愛や友情を交わし合う人もいれば、憎しみ、罵り合う人もいます。 

それは全て、この世で、いろんな経験をして、いろんな感情を味わうためです。 

子供たちに対する、大規模なアンケート調査でも明らかなように、 

これらの出来事は全て生まれる前に、もう決めてから出てきます。

ですので、乗り越えられない試練や苦難は、絶対に設定してきません。 

全ての目的が、その経験を通じ、魂の豊さを経験するためです。

心の感度を上げるためです。

さて、今日は。そのような観点から

「卒業式」にまつわるお話をご紹介します。

子どもたちの”いじめ”が深刻な社会問題になり、国会でも取り上げられる昨今、 

心温まるお話しです。

<引用開始>

小松まり子さんというお母さんがおられて、

その方のお子さんの足が不自由で、小学校の六年間、車椅子で通っていたんです。

六年間・・車椅子の後押しをしたのは、近所の子どもたちでした。  

毎日当番を決めて、登下校の後押しをしたのです。  

来年から中学・・

みんなと同じ中学に行けると思ったら・・ 

教育委員会から

「お宅のお子さんは体が不自由だから、設備の整った肢体不自由児の中学校に、

転校してください」って言われたのです。

ご両親は納得されたのですが、友達は納得しませんでした。 

六年間一緒に通ったんだから、中学も一緒でいたい・・ 

署名運動までして嘆願した。

「エレベーターが無くても、トイレに1人で入れなくても、僕らがいます・・  

車椅子を担いででもやります」って言うんです。  

そんな約束までして・・

また三年間、一緒に中学に通ったのです。

三年生の最後の日・・卒業式の日に、一緒に卒業したかったのですが、

 身体不自由なうえに弱かったものですから  

風邪を引いて卒業式に出られなくなったのです。

いつものように迎えに来た友達に、 

ベランダから「九年間ありがとう!」とお礼を言った。 

『じゃ・・お前の卒業証書貰ってきてやるよ』と、友達は登校していった。

お父さんも「今日は早く帰るから・・一緒に卒業を祝おう」と言って出かけた。

お昼にチャイムが鳴ったので、お母さんがドアを開けたら・・

お父さんではなかったんですね。

卒業式を終えられた校長先生が、 

卒業証書を、わざわさ息子さんのために持ってこられ・・

各学年で担任をされた先生方も・・  

小学校からズ~と車椅子を押してくれた生徒たちも・・

一緒に来てくれたのです。

校長先生は

『お子さんのお部屋で、卒業式をやらせてください・・』 とおっゃった。  

みんな部屋に集まった・・

お子さんを前に、校長先生が卒業証書を読んでくれた。 

先生方は「よく頑張ったね!」と握手し、友達は、周りを囲んで校歌を歌ってくれた。

お子さんは、車椅子に座って証書を握りしめ、泣いていました。 

お父さんもお母さんも、涙が溢れて止まりませんでした。  

お父さんは、部屋のみんなに、喉を詰まらせながら、お礼を言いました。

『息子は・・

皆さんの心温まる援助のお蔭で、無事小学校と中学校の両方を卒業できました・・

何を学んだかは 本人に聞かないと分かりませんが・・

人から受ける優しさほど、人の心を豊かにしてくれるものはない・・  

ということを学んでくれたら、それだけで十分です』

NHKふれあいトークより

<引用終了>

家の実家は、もう何十年も前に衰退してしまいましたが、着物の町でした。

亡くなった父も小さいながらも、着物の染め物工場をやっていました。

私が中学卒業する頃、私と同級だった特別支援学級に通っていた男の子が、

卒業と同時に家の染め物工場で働くことになりました。

彼の障害は身体の方ではなく、勉強が少し人より遅れると言う障害でした。

(でも、やっぱり心は凄く純粋!!)

父は、その同級生を雇って仕事を教えることになりました。

私はというと、まだ働くどころか、親の脛かじりの高校生です。

今となっては、父がどういう気持ちだったのかは解りません。 

そんな父を尊敬しています。

九年間、車椅子を押し続けてもらった少年。

少年のお父様が言うように、 

何事にも変えられないほどの素晴らしい体験を通して、それまで以上に

優しく思いやりある、人生に変わられたと思います。

ですが、もしかしたら 

それ以上に「心の豊かさ」を手にいれたのは、九年間車椅子を押し続けた、

 同級生たちかもしれないですね。。 

お互い様、お陰様。 

有難いことですね。

こんな仕組み、こんな経験をさせて下さる、 

全てをディレクションしてくださった神様に感謝です。 

私たちは、こんな風に、色んな出来事、いろんな人との、出会い、別れを通じ 

魂を震わせ、良いことも悪いことも、様々な経験を通じ、

人を思いやる心の感度を上げて、魂を輝かせているのかもしれませんね。


2026年2月21日土曜日

4175「健康になりたかったら」2026.2.21

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月06日の記事を紹介します。


「健康になりたかったら」


今日は健康について、私達日本人が古来から持っているDNA

縄文の時代から続く古神道の立場から書きたいと思います。 

驚くことに小学生で山幸彦の神様の魂を持つトキ君のお話と、全く同じです。 

「健康になりたかったら」というテーマです。 

尊敬する葉室頼昭さんの言葉からご紹介します。 

葉室頼昭さんは、もともと形成外科医でしたが

医師として仕事をしながら神職の資格を取り、 

最後は奈良・春日大社の宮司をも務めたという異色の経歴の持ち主です。 

しかも、日本の形成外科の草分け的な存在として、

多くの奇形を持つお子さんの顔を傷つけることなく再生させるなど、

温かな愛情を持って、立派なお仕事をしました。

また、東洋医学を尊重し、それを上手く治療方法の中に導入していました。 

葉室さん、医学博士でしたが、西洋的な知識だけでなく、

ご専門の東洋医学、そして晩年、神職の最高峰まで上り詰めた神道の知識により、 

彼の健康法は、簡単に言うとこうなります。 

「東洋医学において、どうやったら健康になるかというのは、

西洋医学でいう健康法とは全然違うことです。 

ジョギングをしたら健康になるとか、こんな食べ物を食べたら、

健康になるとかいうことではなくて、全くそんなこととは違って、

宇宙の仕組みから見て、どうやったら健康になるかということです。 

だからまず第一に、生かされているということに感謝しなさい。 

自分で生きていると思うから、病気するんですよ。 

(中略) 

だから病気は、鍼を刺したり、手術をしたら、 

それでいいというのではない。 

まず神さま、祖先に感謝しなさい。 

(中略) 

人間の体はただのモノじゃないんだから、 

手術したら勝手に治るかというと、治らないんです。 

治すだけの力が出てこなければ治らないでしょう。 

栄養を取ったってだめです。 

やはり全てのものの根本となる感謝によって、 

・宇宙からもらっている、

・祖先からもらっている 

エネルギーを出さなければ、本当には治りません。」

誤解してはいけないのは、

「病気を治したかったら、宇宙や祖先に感謝しろ」と

言っているのではない、ということ。

それは「取り引き」であって、真の謙虚さ、本物の感謝ではない。

病気を治すため、ではなく、自分が生きていること自体に感謝すること、

そうすれば、自分を生かしめているものに対する、

感謝の念が、自ずからあふれ出てくるし、

そうすれば結果として、人生がよくなっていくものなのだ、

と葉室さんは仰います。 

私たち日本人にとって、神道とは、宗教ではありません。 

日本人の美しき心そのものです。 

教祖もいません、教義もありません。 

心を縛る者もいません。 

依存させる者もいません。

私たち日本人は、古来から、神様も祖先も、そして我々も、

一つに繋がっているという考え方をします。

日本人は神様を信じるというより、 神様を敬う民族でした。 

最高のもの、最上のものを、神さまに捧げるという、

素晴らしい敬神のこころを、日本の民族は持っていました。

貧しき時代には、最高のものを、神様に奉納、捧げるということは、

大変だったことでしょう。

でも、それを行ってきたところに、日本人の純粋さ、神を敬う心がありました。

戦後、そのような心を徹底的に、破壊するために、様々な試みがなされ 

「神さま」と言っただけで、毛嫌いされる、そんな世の中になりました。 

日本人の精神的な支柱を破壊する工作が効を奏した結果です。

ですが、神さまを敬う心、自然を敬う心、そしてひいては人々を敬い、

・お陰さま

・お互いさま 

そんな気持ちで生きて来た、古来からの日本人の純粋な心を、

私たち日本人は、知らなければいけないし、

そして、未来を担う子供たちに、伝えていかなければいけない、

大切な心、真心だと思います。

日本人は、西洋のように、白か黒か? 

神さまを信じるとか、信じないかという民族ではなく、 

神さまを敬う、一体となろうとする民族だからです。 

あなたの心、血は、そのような古き良き祖先たち、

私たちを生み、育ててくださった人々の、純粋なDNAを受け継いでいますか? 


2026年2月20日金曜日

4174「シリウスと瀬織津姫」2026.2.20

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月04日の記事を紹介します。


「シリウスと瀬織津姫」


私たちは今、時代の転換点を生きています。 

うお座の時代から、みずがめ座の時代に変わり、

私たちは、一人一人の心の中に神様がいらっしゃる

このことを知る時代に変わりました。 

うお座の時代は、物質的拡大の必要性から 、

大本の神様は、一定期間の期限を切った上で、悪魔的な存在の台頭を容認してきました。

また陰陽で言えば陽の時代から、陰の時代、つまり黄泉の国=精神性が

最も重要視される時代に変わりました。 

それとともに、古より、黄泉の国(神々の世界)と繋がった

日本の時代の幕開けが始まったわけです。

天津神よりもずっと以前から、縄文の人々ともにあった、国津神 

瀬織津姫(セオリツヒメ)や国之常立神(クニトコタチノミコト)が

クローズアップされてきたのもそのためです。 

また宇宙的な視点で見れば、プレアデス等の陽の星々から、

陰(見えない世界、静謐の世界)の要素の強いシリウスが人々に広く浸透してきました。

それでは、今日はシリウスと、瀬織津姫のお話です。 

大祓祝詞に出てこられる瀬織津姫について書いてみたいと思います。 

瀬織津姫は、

・水の神様

・滝の神様

・龍の神様

と言われていますが、記紀(古事記・日本書紀)に名前はでてきません。

古の時代、藤原氏の祖先、つまり中臣氏(代々 祭祀を司っていた家系)の

どなたかに神々が降りて伝えられたという、 

「大祓祝詞」に出てくる祓戸四柱神の一人です。 

祓戸四神とは、 

①瀬織津比咩(せおりつひめ)  → 禍事・罪・穢れを川から海へ流す

②速開都比咩(はやあきつひめ) → 海に流した禍事・罪・穢れを飲み込む

③氣吹戸主(いぶきどぬし)   → 速開津比咩が飲み込んだ禍事・罪・穢れを根の国底の国に吹放つ

④速佐須良比咩(はやさすらひめ)→ 根の国・底の国の禍事・罪・穢れを神々の清らかなエネルギーに変換して地上へ戻す

つまり罪穢れを、決して滅ぼし消し去る(西洋の思想)のではなく 

縄文の心(古来 日本の心)の通り、

例え悪であっても、一旦受け入れて、黄泉の国を通じ循環させ、

清らかなエネルギーに変えてしまうのが祓戸四柱神です。 

まさに私たちに日本人の和の精神(縄文の心)です。 

西暦700年代、日本書紀や、古事記などの成立に伴い、

日本古来の神様であった、「瀬織津姫」は封印(記載から除外)され、

力を矮小化されて伝えられてきました。

歴史は常に時の権力者によって書き換えられます。

瀬織津姫が封印されてきた理由は、 

一説では、女帝の持統天皇即位の正当性を示すために

伊勢神宮に祭られていた天照大神を男神から女神に性別変更したため、 

男神の天照大神と並祭されてきた瀬織津姫が邪魔になった。

ですが、その信ぴょう性はもちろん、今となっては推測の域を出ないものです。 

「瀬織津姫」は日本では

・菊理媛神、

・ミズハノメノミコト、

・市杵島姫命、

・弁財天  

等の水の神や熊野権現が瀬織津姫と同一神とされています。

はっきり判っているだけでも500近くある瀬織津姫を祀る神社の他、

全国で3000社以上ある熊野神社や、白山神社、厳島神社 等、

知らないうちに祭神がすり替えられた神社を含めると、

この女神が1300年前までどれほどの大神であったかが窺われます。

水の神様であり龍神様でもある瀬織津姫には浄化し、祓い清める働きがあります

以下の記事の元ソースは、

「坂本政道 ベールを脱いだ日本古代史 高次意識トートが語る」からで、

知恵の神トートからの情報です。(詳しくは、そちらをご覧ください) 

瀬織津姫は、沢山の別名があります。 観音菩薩、白山姫、アラハバキ、。。。

シリウスからの、日本古来の姫様です。

が、天武天皇の時代に多くの神々と一緒に封印されていたそうです。

十一面観音の形による封印。

封印したことを詫びる供養が今でも行われています。

東大寺二月堂の修二会で、752年以来毎年続いています。

正式名称を「十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)といいます。

2千年前に大和族(アマテラス族)が渡来してきた時、 

彼らはネガティブなオリオン系宇宙人と交流していたため、 

三輪山一帯に侵入した時に、

オリオン人はシリウス人(龍型宇宙人)を封印したそうです。 

オリオン星人は好戦的で攻撃的な性格を持っています。

正確には、封印と言うよりも自ら三輪山に身を隠した・・

と言う方が正しいかもしれません。

ですが、その封印が、数年前に解かれたそうです。

それはこの坂本さんのトート情報だけでなく、 

全く別の情報ソースである浅川嘉富さん著作の

「龍蛇族直系の日本人よ!」にも記載されています。 

神界から直接地球にやってきた少年の話として・・・

古代、縄文の時代より、私たちと関わりのあった、

シリウス系の龍の神々が自由になれた・・

今起きている国常立命の復権と同じく。

と言う事は、これから新しいミロクの世の出現が期待されます。

ですが、それはダライラマが言うように 

決して 神々任せではなく、私たち一人一人の行動があってこその事だと思います。

私たちが今できることは何か? 

それは、きっと

・見えない力ある人に頼ったり、

・有名な神社・仏閣、神々に頼ったり

・不思議な現象・能力に頼ったりするのではなく、

自分の心の持ち方の問題だと思います。 

・一歩一歩、心の塵を祓い

・感謝の気持ちで日々を過ごし、

・身近な周りの方々と、お互い様、おかげ様の優しい気持ちで生きていく。

これらを日々一つづつ行動に移して行けば、

今も見守り続けてくださっている縄文の神々と協力して

地に足の着いた方法で、美しい世界を作ることが出来るかもしれません。


2026年2月19日木曜日

4173「私のいのち」2026.2.19

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月03日の記事を紹介します。


「私のいのち」


今日は「命の大切さ」についてのお話です。 

私たちの周りには、一つとして、

・いらない命

・無駄な命

・軽蔑してもよい命

・尊厳を踏みにじってもよい命

などありません。 

私たちは、周りの全ての命と繋がり、

生かされ、そして育まれて来ました。 

沖縄の音楽の先生、下地なを美さんが、

いじめによる苦しみから自殺する子供達を愁い、 

子どもたちに歌を通して、命の大切さを伝えようと、 

オリジナルソング「つながるいのち」を作詞作曲されました。

ご紹介します。 転載元 

尊い子供達の命の灯が、一¬つでも消えませぬように・・

つながる いのち  下地なを美


なぜ生まれたの だれもが思うの

ひとり寂しい時 そっと涙ぐむ

あの星の光が 私に言うの

大丈夫 守ってる ひとりじゃないよ

ひとりじゃないよ 私のいのち  

今は寂しくても 泣かないで歩こう

つながってきた 私のいのち

大切に守って 明日へとつなごう

ポツンと座わってる 蛍のような

私のこの灯り だれも消さないで

生まれたその訳を 星は知ってる

この世で光りなさい 

授けられたの

授けられたの 私の光

今はちっぽけだけど 輝いているんだ

つながってきた 私のいのち

大切に守って 明日へとつなごう

私のこの腕が 私の足が

共に今生きている 支えてくれる

この胸の鼓動が 私に言うの

大丈夫 守ってる ひとりじゃないよ

ひとりじゃないよ つながるいのち  

億千万の星 巡って生まれた

つながってきた 私のいのち

大切に守って 明日へとつなごう

ひとりじゃないよ 私のいのち 

つながっているんだ 私の明日へ

<転載終了>

いじめが原因で

自ら命を断つ子供たちがいます。

いじめは、本人だけでなく、様々な影響を周囲に及ぼします。

そしてその影響力は、長期間にわたります。

大切に大切に育ててきた我が子が、

苦しんでいる姿を見る親も、心に深い深い傷を負います。

いじめは、子供たちだけの問題ではなく、大人の間でも発生しています。

いじめや、心ない言葉、悪意、嫉妬、疑心暗鬼、誹謗中傷、 

そのようなもので、傷つく人が沢山います。

そして何より、いじめた本人も、

いつか、同じ苦しみを味わう時が来るでしょう。

与えたものが、受け取るもの。 

私たちの住む宇宙には、その法則があるからです。

つながる いのち・・・

目の前の命を、しっかりと見つめること 

・家族、友人、同僚

・好きな人

・嫌いな人

・目の前に立ちはだかる人

・邪魔をする人

・足を引っ張る人

・悪口、陰口を言う人

・意地悪をする人

・疑う人 

・私たちを、無条件に信じ、愛してくれる動物たち 

・季節ごとに、美しい顔を見せてくれる植物

・春夏秋冬、優しさ、厳しさを見せてくれる自然  

・私たちを慈しみ育んでくれる 地球 

私たちは、沢山のかけがえのない命に囲まれています。 

どれ一つが欠けても、今の私たちには なれませんでした。 

みんな尊い、尊い存在です。 

大切な命です。 

皆さんと、皆さんのご家族が、そして、お友達が、 

お幸せでありますように。 

輝く笑顔でありますように。 


2026年2月18日水曜日

4172「青空ひろば」2026.2.18

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


1656 2026.01.21 ~ 1566 2026.02.03 

<江戸時代の禅僧、鈴木正三老師の言葉集>

(1)仏像の<機(気,波動)>を受けるということをよく知るべきである。しかし、ボーッと仏像に向かっているだけでは<機>は移らない。しっかり仏像を見つめて、目を閉じてもそのイメージがしっかり心に刻印されて消えないというほどになれば、仏像の<機>が移って(映って)、その仏像が持つ働きを現象に現してゆくことができるようになる。

たとえば、不動や仁王の像からは、勇猛精進の機を受けて、それを生活の中で体現してゆけるし、観音の像からは、慈悲抱擁の機を与えられて、それを人や動植物への愛として表現してゆけるようになるのである。


(2)修行とは、<機(気,生命力)>を養い立てるためのものだ。だから古人も「長養」と言われたのだ。決して機(気)を減らしてはいけない。

「無理行」をしたり、時間ばかり長い「抜け殻坐禅」をすると、機(気)が減って病いとなり、気が狂うものがたくさんいる。ただ、機を養い立てて、イノチの根源から自然と真実心が湧き上がってくるようにしなさい。


(3)石平山の禅道場に籠もる僧が、師(鈴木正三老師)のもとに挨拶にやって来た「まず、道中は油断なく心を守り、古塚があれば施餓鬼(せがき)を称え、弔って通りなさい。塚に残る亡魂はたしかにあるものだ。疎かに思ってはならない。是が一つ。

また、かしこに到っても、何の変哲もないものだ。何かが変わると期待してはならない。これが一つ。

今時の出家は無信心で、小用の後、手も洗わず経巻を取ったりするが、かしこではそんなことはしてくれるな。身心清浄にして、礼拝誦経し、神仏に道心を祈り、萬霊を弔い、自己の功徳を積みなさい。<善悪ともに本に報いる理>をよく知りなさい。是が一つ。

また、和合僧といって、僧は和合を守って、衆と交わらねばならない。その故は、人悪き者は、先ず居処につまるものだ。ただ、人に負けておれば、どこにいっても住み好いのである。是が一つ。

また、かの寺に住んで、近隣の徳高き人をたずね、行き帰り、行き帰りしなさい。十人に会えば、十の徳を得ることが出来るものだ。是が一つ。

また、へりくだって身を惜しまず、糞尿をも飛びかかって掴(つか)んで捨てる気持ちでいなさい。万事、怠け心で大成出来るはずがない。総じて修行には、身を使うのが好いのだ。是が一つ。

以上の心構えでしっかり修行してきなさい」


(4)ある日、老武士がやって来て言った。「ワシは老いたれども、今時の若いもんに頭を上げさせないと、一口に呑み込んでおる。ワシは武士で遊民じゃないのだから、悪道に落ちるはずがない」

師は叱っておっしゃった「それに増したる悪道があらんや。誰をも彼をも一咬みにと思うは畜生心だ。畜生こそ己に劣るを飲み食いし、脅し廻して我が手柄とするものだ。その方の心もこれに同じだ。人間の心ではない」


(5)ある日、普請の時、筒撞(地盤を固める作業)にくたびれた弟子達におっしゃった「さあ、お前たち、このような肉体労働は誦経より容易(たやす)いものか。これでよう思い知れ。少しの間の誦経を大儀と思ってはならない。世間の者は、日々にかような労働を為して世を渡っているのだ。出家がなま通例に、ダラダラと気の抜けた誦経などしてよいはずがない。普請は好い業障尽くしだ。業障が尽きないと修行は進まない」


(6)ある僧が尋ねた「私はずいぶん修行したと思うのですが、一向に境地が進歩しません」

師がおっしゃった「たやすく成る事ではない。そのようにたやすく成る事ならば、ワシも羅漢にも菩薩にでも成ったはずであるが、未だに餓鬼・畜生の境涯を離れていない。

そうであるから、少しずつ、粘り強く行じてゆきなさい。一旦は頭燃を払うごとく修行しても、後が続かなければ用に立たない。急に成ることと思えば途中で修行を止めてしまうものだ」


(7)ある日、老僧がやって来て法要を問うた。師は示しておっしゃった「工夫修行はしてはいけない。ただ小庵に安居(あんご)して、昼夜に経や呪を誦し、無縁法界を弔って、日々を過ごしなさい。礼拝はやっておられますか」

老僧「はい、毎日三拝しております」

師「それぐらいでは、真実心は起こりません。せめて五百拝も千拝も作して、身心を責めて業障を尽くしなさい。また、一生に成仏しようなんて思ってはいけません。広劫多生を懸けてする事です。何とぞ、今生で、餓鬼畜生の境涯を出て、せめて人間になることを目標としなさい」


(8)ある僧が言った「町を歩いていると、用もない物でも『欲しいなあ』という心が表れることがあります」それを聞いてその場にいた一人も「私もそんな気持が沸き起こることがあって、そんな欲心を無くそうと努力しましたが、どうしても消えません」と言った。

師は「それは、過去世で餓鬼道(がきどう)に長く居た習気(じっけ,なごり)なのだ。その心に逆らってはいけない。ただ一筋に念仏しなさい。念仏の功が積もれば、万事は自ずから失せてしまうものだ」


(9)ワシは六十を過ぎたあたりから、心合(こころあい)が変わることがあった。

亡者を弔うに、ひしっと(亡者を)心に受け取り、身に引っ掛けて亡者を弔うことが出来るようになった。

あるいは、火中に飛び込んで苦を代わる心になり、あるいは、暗黒界に駆け込もうとするのを、つっと出て助けんとする位になり、あるいは、子供が堀に落ちようとするのを、飛び込んでつかんで差し上げる心合になる。なかなか強く請け取ることが出来るようになった。総じて亡者弔いに出ると、早や自ずから「果たし眼」になり、「捨て身」になるのだ。


(10)臨終の僧に示された。「死んでも大事はないぞ。これから二十年、三十年生きて修行しても、何にも変わることはない。ワシも八十近くまで生きて行じてきたけれど何の変哲もない。

しかしながら、確かに「種(菩提心)」は取った。お前もただ「種」を失わないよう、しっかり守って終わりなさい。先は地獄へでも、どこにでも行くなら行け。体はどんな体にでもなれ。どのような体に生まれ変わり、どんな世界に転生しても大事はないぞ。我も人もただ「種」を失わずに、出て来ては修し、修し…、続けてゆくだけだ。

昔も今も、本当に「隙(ひま)の明いた」方は釈迦お一人だ。その外の祖師方、ことに我が日本の傳教・弘法、そんな方々もまだ仏の境界には遙かに遠いのだ。

安心しなさい。少しばかり悟るところがあったとしても、何の変わることもありはしないのだ。結局、命の運びは因果次第だ。我が知るところではない。

だが、「種」が自分次第だ。強く眼を着けて、万事を放下して、正しく守って終わりなさい」

そのように教え諭されたところ、病僧は安らかに亡くなった。


(11)ある日、さる人に教えられた。「これは修行の心得というのではないが、平生(へいせい)の機(気)の用い方を教えておこう。

何事を為すにも、思い立つとそのまま分別なしに作すのがいいのだ。後でやろうなどと思ってはいけない。また、余所に行こうとする時もそうしなさい。機が発すると、そのままスッと出て行くのだ。『ああ、雨が降りそうだから後にしよう』などと分別しないで、ふと出て行くのだ。

たとえ雨が降り、雪が降るとも、面白い雪かな、童の時はよく雪遊びしたものよと思うのだ。万事、このように無分別に仕習えば、ことのほか、心が軽くなるものだ」(完)


1655 2026.01.20 

車を最高に乗りこなしている時/その時は自分がない、車がない、対向車がない、通行人もいない

でも、何もない訳じゃない/必要な時に、必要な場で/ハンドルが現れ、通行人が現れ、ブレーキが現れる

必要な時に、必要な場で、必要な手や足が現れ/適切に行動出来る

なぜそうなのか、自分にはさっぱり分からないが/イノチは本来そのように出来ているらしい/そう信じられれば、ずいぶん楽な人生が開けてくる


1654 2026.01.18

サラサラ スラスラいかない時/ギクシャク オドオド続く時/僕はだめだと嘆かないこと/ギクシャク オドオド続くのは/君が成長している証拠/イノチの芽を出そうと重く固い土を押し上げている時/ツラい思いのそのままで/とにかくソコで頑張ってみよう/失敗しても成功しても、それは全然問題じゃない/やれることを精一杯やって納得出来たなら/必ず次のステージにジャンプ出来るのだから


1653 2026.01.15 

<山よ来い!>

たしか夏目漱石の『行人』であったと思うのですが、マホメットの逸話が載っていました。

マホメットは街の人たちに「山を招き寄せてみせる」と宣言します。

町の広場にその光景を見ようと多くの人が集まってきます。

マホメットは山に向かって立ち、「山よ来い」と手招きします。…山は動きません。

二度、三度と「山よ来い」を繰り返したのですが、山はついに動きませんでした。

マホメットはしばらく山に向かって呆然と立ちすくんでいましたが、やがてニコッとほほえんでいいました。

「そうか、山は来ぬか。しからば我が行こう」

そうして、あっけにとられている観衆を残して、スタスタ山に向かって歩いていったそうです。

私の人生の師であった角倉志朗先生(故人、天皇陛下の侍従、東大法学部をトップで卒業されたそうです)は、この話を取り上げて言われました。

「さて立花君、マホメットのこの山へ向かって歩き始めた第一歩こそイスラム教が世界宗教に成長するスタートの第一歩であったことが分かるかな。この時、マホメットは何を悟ったのか分かるかな」

さて、皆さんはこの問いに答えられるでしょうか。

『山』は、友達です、先生です。お父さん、お母さんです。学校です、社会です、世界です。

『山』は自分の思うとおりに動いてくれません。自分のことを特別に気にかけ接近してきてくれません。悲しくなりますし、腹が立ちます。

そんな時どうしますか。

『山』にこっちを向かせようと、お祈りし、呪文を唱えますか。あるいは、『山』が悪い、『山』が憎いとワラ人形(山人形?)に釘をガンガン打ち付けますか。

もし、マホメットがそんなレベルの人だったら、決してイスラム教は世界宗教にはならなかったでしょう。そんなレベルの人は、みんな「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。

『山』が動かなかったら、自分の方から行ってみたらどうでしょう。自分の方から「コンニチワ!」と出ていってみたらどうでしょう。

「どうして、僕が先に言わなければならないんだ、『山』が先に動くべきだ」などとこだわる人は、さっき行ったように、「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。 

『山』が近づいても、自分が近づいても、実は同じことじゃないでしょうか。大切なのは、お互いが親しくなる、仲良くなる、分かり合えるという事だけじゃないでしょうか。

どんな状況でも、自分という立場をサッと忘れて、「コンニチワ!」と出ていける人はもう「自分」の立場に固執する事から自由です。そんな人はきっと、自・他を越え、損得を越え、国境を越えて自由に活躍できる世界人に成長することでしょう。


1652 2026.01.14

僕が僕で あることが 世界の根っこだ

ブッダも イエスも その根っこから

生え出した 花であり 実なのだ


1651 2026.01.12 

たとえば、台風をイメージして下さい。

反時計まわりに気流が渦巻いて、中心の「台風の目」と呼ばれるところがアリますね。

今、アルといいましたが、よく見ると台風の中心はカラッポで何もナイですね。

何もナイのだけれど、その中心のまわりを気流全体がまわっているというのも本当です。

この「台風の目」にあたるところが「本当に自分(真我)」です。

でも、その真我は本当はなくて(これが無我)、ナイけれども、全世界の必要が、この渦をつくり出し、台風の目であるあなたという存在を創り出しているわけで、全世界の要請によって、大宇宙全体にバックアップされ、後ろ盾されて、ここにこうして生きている「我」なのですから、宇宙いっぱいの「我」でもあるわけですね。


1650 2026.01.11

ありがたいと 気づいたとき ありがたい人生が 開けてきます

うれしいと 気づいたとき うれしい人生が 開けてきます


1649 2026.01.10 

一生のうちに 何かを完成せねば というのはウソ

一生を何とか 生き切ったというだけで 尊い値打ちがあるのだ


1648 2026.01.09 

本来からっぽ 底ぬけ 間ぬけ

僕とあなたの 間(ま)がぬけて

過去から未来の 底ぬけて

宇宙いっぱい ひとつのいのち

宇宙いっぱい あなたのいのち


2026年2月17日火曜日

4171「魂の泥を落とす」2026.2.17

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月02日の記事を紹介します。


「魂の泥を落とす」


今日は、美しい魂になるためにということで、

小林正観さんのお話をご紹介します。 

この記事の目的も、読んでくださる方の 

・霊性を磨くこと

・心をピュアにすること

・神々の心に近づくこと

を目的としています。 

ひいては古き良き日本を再興し、地球を平安な世界にするためです。 

本当の幸せとは、

・素晴らしい前世を持つと自慢する人や、

・特別の神様と繋がっていると自称する人に

頼ることで得られるものではなく、

ブッダやイエス、空海など、高貴な魂の方々が仰る通り、

一人一人の、美しい心にかかっているからです。 

自分の心を生まれた時のように、ピュアにすることができれば 

・何か不思議な力に頼ったり

・人を貶め、マウンティングし、自分を高き者のように見せなくとも

・心ドキドキさせる見えない世界に頼らなくても 

生きている間に天国に住み、

そして死後も、天の国に住み続けることができるからです。

私たちが住み、見て感じているこの世の中は、

私たちの心が反映されたものです。

ですから、心の中が怒りと憎しみで一杯であったなら、

策略謀略、悪口・・諸々の悪しき物を見て、

それらに囲まれていることでしょう。 

逆に心の中が清く、美しいもので満たされていれば、

愛、思いやり、信頼、優しさ、助けあい、お互いさまの心など、

様々に心が癒される世界に生きていることでしょう。 

これが空海が言った「即身成仏」、

つまり、生きながら地獄に住む、天国に住むと言うことです。

もし、美しい思いやりの世界で生きて行きたいのなら、

まず自分自身の心の洗濯が必要です。

それでは、正観さんのお話をご紹介します。

意味が分かりやすくなるよう、少しだけ補足して転載します。 

<転載開始> 転載元

魂の特性を見抜いてあげる、魂の話、子育て、教育のお話です。

きれいな魂の状態を泥汚れにしているのは、

競うこと。較べること。争うという事です。

きれいな魂のままであるためには、今のありのままでいい という事です。

それは 学校教育では出来ません。

競う 較べる 順番をつけることを学校教育のシステムとして成立させてきたからです。

ところが日本の教育は、本来違うものだったんです。

それは「寺子屋教育」と呼ばれていました。

寺の境内で遊んでいる子どもは 寺子と呼ばれ、

その子達に読み書きを教えたところから始まりました。

寺子屋では 一切順位付けはしません。

読み書き そろばん 社会に出た時に文字が書けて読める。

そろばんで足し算、引き算。

それらができるようにそれを教え込んだのが寺子屋でした。

そこで順位をつけることは 一切しませんでした。

寺子屋教育こそ教育の本質です。

吉田松陰の松下村塾が教え込んでいたことは

順位付けすることではなく、「見抜いてあげる」ことでした。

松陰先生は「あなたは こういうほうがいいのではないか。

こういうジャンルが向いているのではないか。」

「あなたは こういう分野で 優れているので、

その道で身を立てたらどうか」と教えてあげていました。

塾生に対し順位をつけることなど一切しませんでした。

でも西洋教育は違うんですね。

順位付けをする。

その結果 その順位を競わせるということになりました。

その教育を日本が受け入れ、「富国強兵」 国を富まして兵を強くする 

という方向に向かって行きました。 

確かに一時は、そうなっていったので、

その教育が 一番正しいと 思い込んだのです。

ですが、それは違います。 

本当は優しさ、心の温かさとかいうものを評価する世の中のほうが良いわけでしょう。

でも現代社会においては、そういうものが評価されずに魂が濁っているわけですよ。

競うこと 較べること 争うことで、魂が泥汚れになっているわけですよ。

それがある日突然、泥が払われることがある。

景色の美しさに驚く瞬間。雪の結晶の美しさに気づく瞬間。

その瞬間とは、魂の泥が 一瞬にして払い落とされた瞬間です。

競う。較べる。争うことを全部やめ、

ただ自分が必要とされるところでニコニコと生きていく だけでいい。

それが何番目であるかなど関係ありません。

母親自身がその事に気付き、変わっていけば、

子どもはどんどん変わっていくでしょう。 

本当に綺麗な魂に、きっと戻っていきます。 

その時、子どもは言うことでしょう。

・お花がこんなにきれい。

・海はこんなにきれいだったの?

・わ~今日の空は すごくきれい。

そうした時 子どもも大人も 

きっと「仏性に目覚めた」ということだと思います。 

ブッダの仰った「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」。

魂の構造が少し分かりましたか?

実は 魂を磨く必要なんてないんです。 

魂はもともと完全で綺麗なクリスタルです。

磨くのではありません。泥汚れを落とせばよいだけです。

自分の内側の競う心 較べる心 争う心をゼロにすること。

それだけで 魂はもとのきれいな状態になっていきます。

<転載終了> 

みなさん、ちょっと周りを見渡してみてください。 

・良い学校と言われる所を出た人は、みんな幸せに暮らしていますか?

・勉強嫌いだった同級生は、生きることが苦しく、みんな暗い顔していますか?

・仕事ができず要領の悪い人は、みんな解雇され、貧困に陥っていますか? 下を向いて生きていますか? 

そんなことは決してありません。

みんながみんな、一人残らず、

自分の居場所を見つけ、そこで生きているはずです。

その場所で必要とされているはずです。 

私たちは、生まれる前に、既にその「居場所」を見つけていたからです。 

その場所で必要とされていたからです。 

以前、山古志村の文化遺産保存のための映像ライブラリを作成したことがあります。

その時に田植えの季節の「田植え唄」の取材をしたことがありました。 

春、ブナ林の新緑の中。みんなで水の張られた田んぼに一列に並び、

「田植え唄」を歌いながら稲を手植えしていく行事です。 

昔はどこでも、このような光景が見られたそうです。 

その時参加してくださった地元の方は、

高齢の3名の方。そしてもう一人は若い方ですが、知的障害のある方でした。 

でも、笑顔がとびっきり輝いているのです。 

皆さん、もちろん差別や、特別扱いは一切しません。

普通に話しかけ、普通に笑いあっているのです。 

少しの違いなど一切気にしません。 

それがあるからこその、彼の輝く笑顔なのです。 

地域の中で、分け隔てなく、

みんながみんなを大切にして生活していることが、よくわかる光景でした。 

彼の心には何の心配もなく、

そして人々の差別や偏見は一切感じなかったことでしょう。 

自分が丸ごと受容されていることを知っていたからです。

私たちも同じです。

心配しなくても、みんなに居場所が用意されています。 

その居場所で自分のことを必要としてくれる誰かが必ず居るのです。 

競う 較べる 順番をつけることなどしなくても

私たちは本来の伸びやかな、美しい心のまま生きていけるのです。  

競う 較べる 順番をつけることを止めた時、 

神さまを信じ、自分を信じ、あるがままの自分でも生きていける。

生きて行っていいんだ、 

と、心から信じられた時、

私たちの魂は本来の美しさと輝きを取り戻すことでしょう。 

きっとこれこそが、私たち人間の生きるべき本当の姿だと思います。 

皆さんも、一足飛びではなくとも、

少しずつ、そちらの方向に進んでみませんか?

きっとお幸せになれますよ。 


2026年2月16日月曜日

4170「愛語」2026.2.16

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月01日の記事を紹介します。


「愛語」


見える世界、見えない世界を含め 

世界のありさまを決めるのは、私たちの心です。 

今日は、その心を美しくするために

簡単にできる、「愛語」について書きたいと思います。

きっと、この愛語の精神でいる限り

宇宙からのサポートがふんだんに降り注ぎ、

私たちの所属する銀河が、今通過している大きな潮流に乗り、 

ご自分も、そしてご家族も幸せになれることでしょう。

<転載開始> 転載元 小林正観さんの記事より

「愛語(あいご)」という言葉は、

良寛和尚が好んで使っていたと言われています。 

良寛和尚の「愛語の心」とは、こういうものだと聞きました。 

「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。 

だからせめて、心をあたたかくするような、

心を安らげるような『言葉』をあげたい。 

それならいくらでもあげることができるから」

良寛さんは、自分の口から出てくる言葉を 

・あたたかい言葉

・やさしい言葉

・思いやりに満ちた言葉

にしたいと思っていたようです。 

日本の神道には「言霊(ことだま)」という概念があります。

「言葉には神が宿っている」という考え方ですが、 

私たちは、普段、使っている言葉のひとつ一つに、

相手に大きな影響を与える力(神)が

宿っていることを、忘れていたのかもしれません。 

京都に、空也上人(くうやしょうにん)の木像があります。 

木像の口から細い板が出ていて、その上に、小さな仏様が何人も立っています。 

説明によると、

「空也上人の口から発せられるひと言ひと言が、

すべての人を救いに導く『仏』であった」というのです。 

私はこれまで、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言うことは、

「悪臭を放つ花の種を蒔(ま)くこと」と同じだと考えていいましたが、 

一歩進んで、自分の口から発せられる言葉をすべて、 

・あたたかいもの

・勇気づけるもの

・安らげるもの

・幸せを感じさせるもの

・喜びを与えるもの 

にできたらと思います。 

そうすれば、「芳香(ほうこう)を放つ花の種を蒔く」ことにもなるでしょう。 

「悪臭」の中で生きるか、それとも「芳香」の中で生きるか… 

芳香の中で生きるほうが、楽しそうです。 

「言葉には『神』が宿っている」という考えは、 

「言葉には『気』が込められている」という考えでもあります。 

だとすれば、人の心を明るくする気を込めたいものです。 

人に対して「愛語」を考えるだけでも、生活が変わってくるような気がします。 

<転載終了>

自分の口から出る言葉に少し気をつけて、

良寛さんのように、

・あたたかい言葉

・やさしい言葉

・思いやりに満ちた言葉 

を口にしたいものですね。

そうすると、その発せられた言葉は、神さまの波動を帯びていますから、 

必ず相手のハートの中の神さまも共鳴します。 

その結果、お互いの間に、目に見えない良き共鳴現象が起き、 

美しいハーモニーを奏で、幸せになることができます。

私たちは、自分の心の中に在るものを、自分を取り巻く外の世界に見ます。 

また、自分の心の中のものが、口から出ます。

ですから、自分の心に取り込むもの(見たり、聞いたりするもの)も 

・美しい心の表現

・信じる心の表現

・優しい心の表現

・思いやり、助けいあいの心の表現

を見て、そして聞きたいものですね。 

そうすれば、同じもので、私たちの心は満たされます。 

逆に、興味本位で(面白いからと) 

・人をけなすもの、おとしいれるもの

・人を疑う、疑心暗鬼のもの

・人を差別するもの、排除するもの

・怒りと憎しみに満ちたもの

からは遠ざかり、心に入れないようにしたいものです。

それらのことを、もし面白いと感じたのなら、静かに心を振り返ってみてください。 

そこに邪悪なものは潜んでいないでしょうか? 

そうすれば私たちの心のバケツは、美しいもので満たされることでしょう。 

美しいもので満たされた心は、それを表現しようとし、

周りを幸せにすることでしょう。 

そしてご自分自身も、世の中に美しい心の世界しか、見なくなることでしょう。 

空海の言った「生きながら天国に住む」とはこのことです。 

幸せは、神様がくれるものでも、

何処かの誰かがくれるものでもありません。 

自分の心が決めるものです。


2026年2月15日日曜日

4169「宇宙からの助け」2026.2.15

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年01月30日の記事を紹介します。


「宇宙からの助け」


時代が変わろうとしている今、 

夜明け前の漆黒の暗闇の中、

世の中のあちこちで、重苦しい空気が張り詰めています。

・緊張の糸が張り詰めた時

・エネルギーが限界を超えて集まった時、 

必ずそれは爆発することによって

緊張が解かれ、 

次のステージが始まります。  

マスコミや国、その他見えざる権力者による

(恐怖をあおる)情報操作もあるかもしれませんが、 

風評、噂、恐怖感からとはいえ、現実に客足が減り 

経済が回らず、倒産、強制解雇など、

悲惨な境遇に置かれていらっしゃる方もおります。 

こんな時、何にすがったら良いのか?

・不思議な能力を持っていると、自ら吹聴する どこかの他人か?

・国や権力か?

・神仏か? 

何かに頼りたい気持ちは、人間なら誰しもあります。 

ですが、こんな状況の中でも、

宇宙の法則は、きっちりと正確に働いています。

それは、

(自分が)

与えたものが、受け取るもの

という法則です。

投げかけたものが返ってくる

投げかけないものは返ってこない。

・愛すれば 愛される。

・愛さなければ 愛されない。


・嫌えば 嫌われる。

・嫌わなければ 嫌われない。


・裁くものは裁かれる

・裁かないものは 裁かれない。


・意地悪をすれば、意地悪をされ


・蔑(さげす)めば、蔑まされ

・罵(ののし)れば、ののしられ


・強い言葉を吐き出せば、強い言葉を返される

 

・許すものは 許される。

・許さないものは 許されない。


・施せば 施される


・優しくすれば 優しくされる

・笑顔を向ければ、笑顔が帰る


・助ければ、助けられる

・励ませば、励まされる


・勇気を与えれば、勇気づけられる

・感謝すれば、感謝される

 

ですから、もし普段から

・人を愛し

・人を許し

・人に施し

・人に優しくし

・人に笑顔を向け

・人を助け

・人を励まし

・人に勇気を与え

・人に感謝していれば

宇宙の法則が正確に働き、 

自分が

・困っているとき

・絶望の淵にある時

・失業してしまった時

・病気になった時

・一人ぼっちになってしまった時 

何らかの助けが巡ってくることでしょう。 

それは、本当に不思議なめぐりあわせで起こります。 

想いもよらない方法で訪れます。 

ですがそれは、決して偶然ではなく、

棚からぼた餅でもなく 

自分がしてきたことが、宇宙を巡り巡って

自分にとって、最適な時に帰ってきただけです。 

そしてそれは必ず人が運んできます。 

思いもよらぬ人から助けが入ります。

それは神々だけが知る、有機的な人間のネットワークを介して

神々が、ほんのちょっと、関係する人たちの心に、

一瞬のヒラメキのような働きかけを与えることによって動き出します。 

関係する人々は、それが神々から来たことには気づきません。 

意識することもありません。 

何故自分がそのように動いているのかさえ、考えません。

ですが結果として、それらがうまくネットワークとして結合して繋がり 

私たちのもとに「与えたものが受け取るもの」という果報を運んできます。 

ですから、私たちは普段から、 

・人に優しく接していれば・・・

・その人、一人一人の心を大切にしていれば、 

必ず、どんな状況からも助け出されることでしょう。

どうぞ安心し、普段から笑顔でお過ごしください。

それが神々が作ってくださった宇宙の法則なのですから。


2026年2月14日土曜日

4168「恵を頂く方法」2026.2.14

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年01月29日の記事を紹介します。


「恵を頂く方法」


不幸の後には、必ず幸運が訪れる・・ 

これは、宇宙がバランスを取ろうとするからです。 

また美輪 明宏(みわ あきひろ)さんなどは、

このことを「正負の法則」などと呼んだりしていられます。  

ですが、このことをなかなか実感できない方も大勢居られるようです。

今日は、神々の仕組みの面から

日本の形成外科医の草分け的なお医者様であり、また有名な春日大社の元宮司、葉室頼昭さんの「神道のこころ」という本から、それがどうして起こるのか、ご紹介します。

この内容以前も書きましたので、既にお読みになった方は、スルーされてください。  

神さまから恵みを頂くための、神道的なアプローチです。

<引用開始> 引用元

神のお恵みはみんな平等にいただいている。

でも、ある人は不幸になり、ある人は幸せになる。

なぜか、感謝ですよ。

神の波動は、感謝しなければ、お恵みとなって出てこないんです。

だから宇宙の仕組みが科学でわかったら、宗教がわかると説明している。

お陽さまは、明るくて暖かいとみんな思っているでしょ、これが間違いです。 

太陽の光は、暖かくもなければ、明るくもない。

それが証拠に太陽がここにあって、地球があって、

太陽の光が地球まできているわけでしょう。

太陽の光が明るくて暖かいんだったら、

太陽と地球の間の宇宙空間は明るくて暖かいはずです。

ところが、ここは真っ暗で、冷たい。 

なぜかということです。

地球の周りに空気があるからです。

空気で反射すると、光と熱が出てくる。

反射しなければ、光も熱も出てこない。

空気がなかったら、明るくも何ともない、

これと感謝は同じことですよと言っているんです。

反射したら、光と熱が出るということがわかったら、 

感謝したら神のお恵みが出てくる、ということがわかるわけでしょう。

これは本当のことだから、だから人間も感謝しなさいと言うことです。

そうしたら神からいただいている、エネルギーが出てきますよ。

<引用終了>

神さまの光は、みんなに平等に降り注いでいるけれど、

幸、不幸の違いが出てくるのは、「感謝の心」を持っているか、どうか、

の違いなのだそうです。

そして感謝に関しては、こうも仰っています。

<引用開始> 引用元

感謝もいまは間違っています。 

神さまにお願いして、お恵みがいただけたら感謝する。

これは感謝とは違う。

これは取引です。 

これだけお賽銭をあげるから、その代わり神さま、 

子どもを入学させてくださいという取引ですね。 

入学したらありがとうございますという。

これは感謝でもなんでもないんですね。

感謝には理屈はいらない。 

神さま、ありがとうございますといって、神さまと波長を合わせたら、

子どもが入学するということなんです。

入学したから感謝するのではないんです。 

感謝したら、入学するということなんです。 

世の中は逆さ、をやっているんですね。

太陽の光は空気によって反射して、初めて光と熱が出るわけでしょう。

反射しなかったら光も熱も出ない。

感謝しなかったら、全然神さまは、出てこられないんです。

だから反射と感謝とは、同じだと言っているんです。

入学させてもらったら、感謝しようかと。

そんなふうに宇宙の仕組みはなっていない。 

反射しなければ出ないんですよ。 

感謝しなければ出ない。

だから感謝しなさいと。

そうすると何に感謝するんですか、と言う人がいるんですね。 

何にと言うときには、もう感謝ではない。 

それは取引です。

理屈なしに、ありがとうございますと、言えたときが本当の感謝です。

そうすると神のお恵みが現れてくる。 

これが本当のことです。

だからよく健康に感謝する。 

健康でありがとうございました。

それは結構なんですよ。 

でも、そういう人に限って、病気になったら感謝しない。

たとえばお祈りで自分の病気を、神さま、治してくださいと。

ところがお祈りしても、さっぱりよくなりませんという人がいます。

それは治らないですよ。 

私を健康にしてくださいということは、私は病気ですと、言っているようなものです。

自分は病気だから、健康にしてくださいと言うわけでしょう。

神さまに、私は病気ですと言っているんだから、

そうかと、そのとおりに病気になってしまう。

だからどんなに病気でも、健康でありがとうございますと、言いなさいというんです。

そうしたら健康が来る。

病気を治してくださいということは、私は病気ですと

神さまに訴えていることですからね。

<引用終了>

葉室頼昭さんは、死の淵に会った時に、生き方を変えるような、

神さまによる、不思議な経験がありました。

それは、浪人時代の過酷な受験勉強がたたり、肺結核になった時のことです。

ある日、大量の喀血をし担当の医師から死の宣告を受け、

両親の待つ東京に帰ることになりました。

まだ寝台車というものがなく、席を四つとってそこに戸板を敷き、

寝かされて東京まで帰りました。 

「僕はそのとき、すべての我欲というものが消えていたんです。

医者になりたいだとか、生きたいという思いもまったくありませんでした」

そのとき、ある人が退屈しのぎにと、一冊の本を葉室さんに手渡しました。

この本が葉室さんに、神秘体験をもたらすキッカケとなりました。

「そこには『人は生かされて生きている』ということが

えんえんと書いてあったんです」 

死を目の前にして無我になっていた葉室さんは、

その本を読んで、感激のあまり泣いて泣いて涙が止まらなかったそうです。

そうして汽車の中でずっと泣き続け、東京駅に着いたときには、

立ち上がる体力もまったくないはずなのに、ホームに一人で立ち上がっていました。

その後十日間ほど、その本の中に紹介してあった本を全部購入し、

無我夢中で読んみました。

すると不思議なことに、葉室さんの体力がみるみる回復し、

奇跡のように重度の結核が、全て消えうせてしまったのだそうです。

「そのとき僕は神を見たというか、神の存在を身をもって感じたんです」 

死ぬとばかり思っていたところを、神さまに救われた葉室さんは医学部にもどり、

何か人様のお役に立ちたいと思ったのだそうです。

当時は結核で亡くなる方が沢山いました。

結核にかかると隔離されたり、サナトリウムと言うところに入れられました。

美智子皇后さまの親友だった、ハンセン病医師の神谷美恵子さんも、

結核で隔離されている時に、神さまの光体験を授かっています。

神さまに対する真摯な心、そして感謝の真心。

葉室さんは、死の淵でそれに気付き、泣いて泣いて涙が止まらなかったそうです。

本当に心の底から生かされている命に、「感謝の心」が芽生えたのですね。

これができた時、私たちは神さまの恵みを、ふんだんに受けて、幸せになれるのですね。

そして健康で幸せな時だけでなく、病気であったり、不幸に見える環境の中でさえも、

「感謝」の心を忘れないようにしたいものです。

私たちは一人で生きているのではなく、

様々な人や物、神々の「お陰」で生かされていると気付き、感謝できた時、

その時こそ、神さまの奇跡が訪れるのかもしれません。

いつも、どんな時も、嬉しい時も、悲しい時も、辛い時も、ありがとうの気持ち、

を忘れないようにしたいものですね。 

自分の置かれた環境に対して、不平・不満・愚痴・悪口ばかりを言い、

心がひねくれ、ささくれだっていては、せっかく、これから良きことが、

宇宙の法則の通り、起ころうとしても、それは、決して起こらないでしょう。 

自分自身の心が、無意識のうちに拒絶しているからです。