ホテルからは大鳴門橋が眼前に見えます。今日は少し曇りで登山には程良い感じです。この旅は強行軍ですので出発は7時半です。全員定時にそろってバスは宿を後にしました。大鳴門橋を渡り、左手に渦潮を見ながらあっという間に阿波の国、徳島県に入りました。
御祭神は大麻比古大神 猿田彦大神です。社伝では、神武天皇の御代、天太玉命の子孫の天富命(あめのとみのみこと)が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻楮の種を播殖するなどしてこの地を開拓、祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのに始まると伝えられています。後に、古くから大麻山に祀られていた猿田彦大神が合祀されました。
本殿裏のドイツ橋など巡り、奥宮のある大麻山の望めるところで山に向かってあわ歌を響かせました。そこでのお言葉です。
「代わりて伝え申す。皆々この地を開きて嬉しき友作り、歌いて過ごした嬉しき時はあり。皆々様にも是よりは響きて光と成り行きて嬉しきへと参られませ。この地の光を発し行き元へと還ることとなる。響きありがたき。」
ここでもかつてこの地を開きて嬉しき友作り、歌いて過ごした嬉しき時があったようです。
次の目的地は香川県東かがわ市の水主神社です。祭神は倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で孝霊天皇の皇女です。
弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神の倭迹々日百襲姫命がこの争乱を避けてこの地に来られたと伝えられています。姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
神社の周囲に3つの山があり、熊野三山に見立てていて、神社後方・西の山が本宮山(本宮・早玉男命)、北の山が那智山(那智・事解男命)、南東の山が虎丸山(新宮・伊邪那美命)で水主三山として祀られています。
水主神社を参拝していたら神主さんが現れていろいろ説明をして下さいました。本殿前には左近の桜、右近の橘の木々が配されています。付近からは 縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、 山上には姫の御陵といわれる古墳もあるとことです。
ここではあわ歌を歌わずにすぐ近くの本宮山登山口へ向かいました。本宮山山頂にくじら岩と言われる巨石があります。この地が7月7日に下された以下のお言葉の地です。
「七大宇宙の方々の 皆の思いの極まりて 訪ねて果たすその事は この島国の貴き地にあり その場所は134.5 42 なり」
「くるくる回る回る 回りて鎮めて 回りて出で来る 上がりて下がりて その先に光りて 大きなる杭がある 立ちたる石は そのしるし 岩にまつわる数々が 見る影も無きなり そいて たまりておるぞ」
この解釈は以下です。134,5は東経で徳島、香川県境あたりで、42は徳島県鳴門市付近を通る県道42号線、くるくる回るの表現は鳴門の渦潮、その先で四国、大きな杭のように立つ石はくじら岩です。果たしてこの解釈は正しかったようです。
本宮山は標高346mで登山口から約40分ほどの山登りです。皆さん無事に登り切り山頂のくじら岩に逢う事が出来ました。くじらが口を開けたようで名前の通りです。しかしくじら岩の前の社の建屋が立ち頂上のくじら岩を隠してしまって何ともミスマッチで、まさにお言葉通りで見る影もなしです。皆さん一息入れてあわ歌を岩の前で響かせました。そこでのお言葉です。
「遥かな時のこの地、良きなる身、ゆうゆうたる生きもの皆々嬉しき時、過ごし行き、この地に人現れて、大きく進めるを定め始めたる時より始まりたり。御承知の如くにこの体たらく、誠に恥じ入るものなり。いよいよ元へと戻し行く時。気づかれたる皆々様には、その元の元の想いここにて生み出だし、表し為されませ。是よりの日々、歌いて発し行き、古きを消して軽きと成され、新しきへ参りきたれ。」
「ありがとうございます。是より皆々様、響きて回りて、この島の多くに封じられり御魂解き放ち、生み出だし、新しき力と成されませ。残りし大きなる気、晴れて新しきへ誘いて、いよいよ北の大きなる気と一つと成し行かん。」
お言葉にあることは、
この島の多くに封じられた御魂解き放ち、生み出だし、新しき力と成す。
残りし大きなる気、晴れて新しきへ誘いて、いよいよ北の大きなる気と一つと成し行く。
つまり封印を解いて、北の大きな気と一つと成す事です。ですから7月7日の時に11月末の旅にあたって如何なる視点、考えで臨むかをお尋ねした時にこの本宮山、くじら岩に先ず訪れることが必要だった、ということだったのです。
下りは殊の外難儀した方々がいて下山に1時間半ほど要しました。しかしお蔭様でまた一つの懸案事項を無事に済ませる事が出来ました。
徳島市内で日愛という名のお店で美味しいうどんの昼食を頂きました。バスは一路室戸岬を目指して南下します。左手に太平洋を見ての素晴らしい海岸線の景色を楽しみながら順調に走行出来て室戸には17時前に到着できました。
始めに四国遍路の24番札所最御崎(ほつみさき)寺を訪れました。ここが今回の旅で唯一四国お遍路88か所のお寺です。巡礼は弘法大師(空海)が815年に開創したと言われ、来年が1200年を迎えます。弘法大師は果たしてこの四国の地に何を封印したのでしょうか。
「弘法大師は、774年(宝亀5年)、香川県多度津郡屏風浦(現在の善通寺市)に生まれました。5、6歳のころ、八葉の蓮華の中に坐り諸仏と語る夢をしばしば見たといいます。15才で京に出て勉学に励みましたが、一人の出家者との出会いから、生地である四国の山や海辺に修行を求め、厳しい修行をしたといいます。
徳島県の第21番・大龍寺があるところの岩山で百日修行をした後、高知・室戸岬の洞窟で修行後に神秘体験をし、洞窟の中からみた外の風景(空と海)から後に名を「空海」と改めたといいます。804年(延暦23年)、31歳の時に、遣唐使として唐に渡り、長安の青龍寺にて、密教の第一人者であった恵果(けいか)からその極意をすべて学んで2年後に帰国しました。」
その後は高野山真言宗を興し数々の働きを為して稀有な足跡を残しました。835年(承和2年)、62歳のとき「56億7000年後に弥勒菩薩とともによみがえる」と弟子たちに言い残して、永遠の禅定に入ったと伝えられています。今回はこの空海の封印を解くこともこのあわ歌の旅には意図されているようです。
最御崎(ほつみさき)寺は室戸岬灯台の少し手前にあり海岸からかなり登った岬にあります。802年に嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩像を刻み、本寺を開創したと言われています。山門を入って左手に空海の七不思議の一つ鐘石があります。硬い石質安山岩で上部にデコボコと窪みがあり、叩くと、鏡のような音が響きます。この音は冥土まで届くといわれています。更に本殿右脇には空海の七不思議の一つ「くわずいも」の伝説にちなんだクワズイモ畑があります。その近くの若宮八幡宮まえであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「この度のこの光はこの場の皆々様に届きましたるか。いや増すこの大きなる地は新たなる光届きて皆々様、明るきへとご案内いたします。是より降り来る光を受け為されませ。確かに光その色をご覧あれ。しっかりと受けられませ。お待ち申します。」
室戸岬灯台は素晴らしい眺望です。丁度夕陽が綺麗で天の光線が海に輝き、光り踊っています。何故か恋人の聖地の看板がありアベックにお勧めのポイントの様です。我が面々もにわか恋人気分で写真に納まっていました。
陽がどんどん落ちてきます。海岸迄道を下り、空海が若き日に修行をしたと言われる御厨人窟(みくろど)を訪れました。この洞は隆起海蝕洞で中には五所神社があり祭神は大国主命です。右側に神明窟があります。この地に付いては以下の表記があります。
「洞窟の樹下で、藤衣を被って風雨を凌ぎ、虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。延暦11年(792)、弘法大師19歳のころとされている。この詳細は、大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。
「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」」
御厨人窟(みくろど)で虚空蔵求聞持法を持って悟りを開いたのでしょう。洞の中は寒々とした霊気と独特の臭気が漂います。暗がりの中であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「旅たちなされよ、皆々共々。計り知れず多く封じたるは消し行くなり。大きなるこの地を動かし来るは讃えます。是より新たに参ろうぞ。(拍手)あわ歌
さあさあこの時、光と響きと一つに成られ行きてこの地残る多くの方々に光を送りて共々一つに成りましょうぞ。このことこそ真の教え、宇宙の真、天地繋ぐなり。」
長居は無用です。時間は既に18時半を過ぎていて、外は夜の帳が降りてきています。しかし今日のホテルは直ぐ目の前ですので安心です。