その日の朝、何故か熱っぽい体でふらふらしながら大社駅から参道を歩いて出雲大社を参拝したのですがほとんど記憶がありません。参拝して帰りにどうにもこらえきれずに、参道沿いにあった内科に駆け込んで診てもらいました。39度を超える熱で風邪のようです。医師にどこかで休んで安静にするように、旅行は中止しなさいと言われ薬を処方されました。
前日宿泊した宿の相部屋の旅人が一晩中、悪寒で咳と高熱に唸っていましたのでそれが原因で感染したのでしょう。初めての地で心細く、今日宿泊予定のユースホステル(YH)に連絡して昼ごろに部屋に入れて頂き休ませてもらいました。お蔭様で2日ほどで回復し、それ以降の旅はキャンセルして数日連泊してYHの手伝いをして帰仙しました。
その時にペアレントのおじさん、おばさんの心遣いに心地良い思いを抱き、お世話頂いた感謝の気持ちでそれから休みになると長期に訪れてYHのヘルパーを楽しんだが我が青春の一コマです。
そのYHは真言宗のお寺でしたが、私と同じ年の二男が高野山大學に学んでいましたので、空海の密教にも目を開かれたきっかけにもなりました。
YHに滞在中には何度となく出雲大社、日御碕、石見銀山等を仲間たちと散策して山陰、出雲、石見の空気を心地良く感じて楽しんでいました。
ヤマト王権、大和朝廷の成立にあたって記紀神話では天津神、国津神として天照大神とスサノウの関係が記されています。大国主神の国譲りでヤマト王権が成立しますが、果たして如何様な事だったのか、更に伊勢神宮と出雲大社の創建、あり様に些か良く分からない印象がぬぐえません。出雲は祟り神とも言われますが果たしてどうだったのでしょうか。
やはりスサノウの存在を抜きに日本を語らません。その実像をもう少し深く知りたいとの思いを強くしてきています。そんなことで今回、東京出張のついでに出雲石見に足を伸ばして改めて各所を訪れて急ぎ足で巡ってきました。
羽田始発便で旅立ち、米子鬼太郎空港には8時到着です。レンタカーを借りてまずは島根半島の東端にある美保神社を訪れました。空港から境水道大橋を渡り20分ほどで到着です。
早朝で境内清掃されていましたが拝殿では朝の神様への奏上儀礼が成されていて、雅楽の演奏に巫女舞を拝見する幸運に恵まれました。
美保神社の御祭神は大国主神の子の第一子の事代主神(ことしろぬし)と、大国主神の后で大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)と言われる三穂津姫命(みほつひめ)です。ですから祭神は義理の親子の神々です。
事代主神は別名、ゑびす様で、漁業、商業を始め生業の守護神として崇敬されています。三穂津姫命は高天原から稲穂を持ち帰り農耕を導き始めた神様で農業、子孫繁栄の守り
神様と言われます。姫命は高皇産霊尊の娘です。以下の事が記されています。
「『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。」
大国主神の正妻はスサノウの娘の須勢理毘売命(すせりびめ)です。事代主は大国主とカムヤタテヒメとの間に生まれたのですから事代主はスサノウの直接の繋がりはなさそうです。カムヤタテヒメの事はあまり良く分かりませんが事代主は大国主の第一子になっています。その事代主は国譲りの時に重要な役割を果たします。それについては以下の記載があります。
「葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。タケミナカタもタケミカヅチに服従すると、大国主は国譲りを承諾し、事代主が先頭に立てば私の180人の子供たちも事代主に従って天津神に背かないだろうと言った。」
しかし記紀の記載とは別に今では事代主は以下のようにみられています。
「大国主の子とされているが、元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったとされる。元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。このため、葛城王朝において事代主は重要な地位を占めており、現在でも宮中の御巫八神の一つになっている。」
この国譲りのあり様、正統性を今も以下の神示で後世に伝え、事代主の偉業として讃えています。
「かくて事代主神は多くの神々を師いて皇孫を奉護し、我国の建国に貢献あそばされた。 又神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇三代の皇后はその御子孫の姫神で、国初皇続外戚第一の神にあたらせられ、なお古来宮中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い神様である。
当神社古伝大祭である四月七日の青柴垣神事、十二月三日の諸手船(もろたぶね)神事は、悠遠の昔、大神様が大義平和の大精神を以て無窮の国礎を祝福扶翼なされた高大な御神業を伝承顕現し奉るものである。」
青柴垣神事については以下です。
「事代主神(えびす様)が大国主命(だいこく様)から国譲りの相談を受け、国譲りを決めた後、自ら海中に青い柴垣を作ってお隠れになったという故事に因む。
事代主神の死と再生がテーマで、大国主命の使いが相談に向かうくだりを再現した毎年12月3日に行われる諸手船神事と対をなす神事である。」
美保神社は大社造りの立派な神社で二社の右殿に事代主、左殿に三穂津姫命です。大社造りの特徴で本殿屋根の千木(ちぎ)の端の切り方が男神は垂直に切られ、女神は水平に切られています。左殿が主祭神ですので三穂津姫命が上に祀られています。
天津神の高皇産霊尊の娘の三穂津姫命は国譲りの後に大国主の監視役で嫁いでいるのですから、事代主よりも上位なのでしょう。
先に触れたように、同じ大国主の子供の建御名方神(たけみなかたのかみ)は国譲りに反対しますが以下の記載が神話にあります。
「建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべは古代における神事相撲からイメージされたものだと考えられている。なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』には見えない。」
日本各地に神社は沢山ありますがその御祭神は多くは天津神と国津神に分かれます。出雲の神々を祀るものはスサノウ、大国主等で全国各地にあり諏訪神社は当然出雲神です。 美保神社は出雲の地にありますがどうやら天津神の神社の様です。今回は国譲りの所縁の美保神社から旅は始まりました。