大神山神社奥宮は伯耆国二宮で御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)です。別名大国主です。この地は元々、霊峰大山を神山と崇めて、山岳信仰、修験の地であり、遥拝する為に拝殿が無いものから始まったようです。やがて奥宮が夏宮、里宮が冬宮と成ったようです。日本一長い石畳の参道を700m程登りますが程なく大山寺があります。参道わきにはまだ雪が沢山残っています。のんびり参道を上がりましたがよくも石を敷き詰めたものと感心しました。
本殿も日本最大級の権現造りで、大己貴命に地蔵菩薩を祀り大智明権現として神仏混交の神社として祭られていたようです。明治になって地蔵菩薩を分離して現在に至っています。縁起、創建は定かでありませんが、かなり古く出雲風土記、延喜式に記されています。
神社からは大山は見えませんが山登りの方々が本殿脇から登っていかれます。なぜここに大己貴命が祀られているのか些か疑問でした。
大山を下って次は大山町の妻木晩田(むきばんだ)遺跡を目指します。この遺跡は弥生時代の国内最大級の遺跡で、九州の吉野ヶ里遺跡の5倍の規模で、古代出雲地方の中心地と考えられています。大山の山麓に弥生時代中期末から古墳時代に栄えた大きな国邑で集落跡や四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が発掘されています。桜が満開で丁度見ごろで丘を吹く風も心地よく、遠く美保湾、島根半島が綺麗に見下せます。
かねてより、出雲地方にのみ見られる四隅突出型墳丘墓を観てみたいと思っていましたので、今回訪れることが出来て満足です。この墳丘墓は四角形で四隅だけが突出した、ヒトデのような形でこの地を治めていた王の墓と思われます。1世紀ごろから3世紀中頃までの墳丘墓が見られますが形体が少し変化して行きます。
古墳としては大和朝廷の支配下での前方後円墳が有名ですが、それらは古墳時代3世紀から7世記に作られています。箸墓古墳、日本最大の仁徳天皇陵など有名ですが、前方後円墳体制とも言われる程、政権の政治秩序を物語るものでそれは全国各地にみられます。
それ以前の前方後方墳は東日本の前期古墳に多く存在し、中国・四国地方にも多く存在していて中でも出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて築かれていたようです。
四隅突出型墳丘墓はその前のものの様で、地域の祭祀のあり様、支配者によって変化して行きます。同型の墳墓がある地域はその時代に交流、支配が及んでいた事を物語っています。出雲での最大の四隅突出型墳丘墓は西谷墳丘墓にみられ、出雲平野を見下す高台にあり、出雲弥生の森として整備されています。西谷3号墓は東西の辺約40メートル、南北の辺約30メートル、高さ約4.5メートルという大きなものです。
四隅突出型墳丘墓は出雲を中心に山陰、北陸、吉備津地方にみられ、その地にはこの出雲の墓制が広まっていたと考えられています。つまり当時は日本海の流通を出雲が支配していたといえます。
更に墳墓への埋葬品もその時代や王の影響力を知るうえで貴重なものです。出雲は碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)、青色、紺色のガラス製の小玉や管玉が出土しています。
今回は訪れませんでしたが荒神谷遺跡での銅剣、銅鐸、銅矛の大量の発見はそれまでの史実を大きく変換するもので、これらの発掘によって弥生中期、紀元前1,2世紀には既に出雲の地には青銅器文化が花開いていた事を物語っています。
また、妻木晩田遺跡がもっとも栄えた弥生時代後期は戦乱の時代だったと言われます。その為に遺跡が高台に築かれ、周囲を環濠でめぐって砦のようになっています。古墳時代と共にこの集落も消滅してしまうのですが、その原因は大量の鉄でありヤマト建国の時期と重なっているのでしょう。
妻木晩田遺跡から安来市の古代出雲王陵の丘に向かいましたがこちらも桜が満開です。丘からは中海を見下すことが出来て素晴らしロケーションです。ここも多くの古墳群が見つかっていて全国最大の方墳・造山古墳群を中心に各所に沢山の墳墓があります。
ここは一番高い丘からの素晴らしい眺望を満喫しました。地の理を得て、さぞやこの地に眠る王たちはきっと己の偉大さを示し、この地、子孫、末裔の栄華繁栄を願っていたことでしょう。
ヤマト王権が成立する前に明らかにこの出雲には巨大な勢力が存在し支配し、何らかの形でヤマト建国に係り、貢献していたのだと思いました。果たして出雲はいかなる存在で当時の日本にどの様な影響を与えていたのか、そしてスサノウの役割は、記紀神話、出雲風土記の世界はどのような意図のものだったか思いは増して行きます。
安来市の有名な観光名所のもう一つは足立美術館です。少し足を伸ばして、ささっと見てきました。この5万坪の広大な日本庭園は11年連続日本一と最高の評価を得ている素晴らしいものです。庭園だけでなく横山大観を始めとして、日本画の展示も素晴らしく、入館者も大勢で沢山の外人の見学者がいてその人気ぶりが伺えます。
こんな地方の小都市の郊外に誕生した唯一無二の空間は、創設者の足立全康氏の思いの結晶です。美術館は昭和45年秋の開館です。私が初めて出雲の地を訪れたのが46年の春ですからそれからの拡充は目を見張るものがあります。
足立氏は91才で亡くなるまで自らの目と足で全国各地から植栽の松や石を蒐集し、庭造りに情熱を傾けたと言います。この地の貧農の子として育ち、事業の成功をみて故郷にこのような素晴らしいものを造られたのですから驚きです。6種の庭園の人工美と自然美の調和ですが、それはそれで素晴らしいものですが、私には大和農場の自然と人の織りなす世界の方が美しく思え、心に響くものがあります。
古代出雲の世界から暫し休憩を取って、美術鑑賞に浸った後はまた古代出雲の神話の世界に戻りました。今回の旅で私も初めて訪れるとても興味深い、黄泉比良坂(よもつひらさか)へ向かいました。
黄泉比良坂はあの世とこの世を繋ぐ境いです。イザナギ命が黄泉の国に先だったイザナミ命を恋い慕って追って根の国に向かいますが、そこで物語が展開して行きます。そのことは古事記など神話に語られる世界ですがその地がここ松江市東出雲町の黄泉比良坂です。