遅めのランチを農園カフェ・日々木で頂きました。民家風の内部は綺麗に改装されたお店で、日々木と書いてひびきと呼びます。私たちのあわ歌の巡りにぴったりの響きのお店です。ランチタイムの予約は出来ないのですが、是非ともとお願いして遅い時間で受け付けて頂けたのでした。
農園かご盛りランチを頂きましたが美味しくお得な内容で、コーヒー、デザートもあり皆さん大満足です。時間が押してきていますのでそこそこに出発です。ここまで昨日から一戸から九戸まで巡り残すは、戸来(へらい)、と十和田湖の戸和多戸です。
午後の最初は新郷村戸来の大石神ピラミッドです。ここも何度も訪れていますが、年々案内板、標識など整備されてきていて、キリストの墓程ではありませんがだんだん観光地化してきています。へらいの地名はヘブライから来ているとか。ユダヤの方々が古の頃にこの地に来て住んでいたようです。キリストと弟のイスキリの墓が在るのですがその真偽は分かりません。
キリストの墓から少し十和田湖方向に進み右に入り、お墓から10分ほどで到着します。この発見の経緯などは以下のようです。
「竹内巨麿がキリストの墓を発見した翌日、(竹内氏に同行していた?)鳥谷幡山という人がこのピラミッドを発見した。「竹内文書」では世界各国のピラミッドの起源は日本にあったとされていて、これがそのひとつだというのだ。後に「竹内文書」研究家にして日本ピラミッド研究の大家・酒井勝軍もこの巨石群を調査し、石の割れ目が正しく東西南北を指していることを確認したという。」
巨石信仰であった当時、この地はその祭祀遺跡のようです。
http://www.aptinet.jp/Detail_display_00000488.html
いつもの10m四方はある巨石の鏡岩の上であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「続きて参りて、響きて参られ。
大いなる是よりの働きへと繋がりゆく事なり。
果たせるや、これよりの事、皆々申した。
是よりの事々しっかりその身のものと成し行かれませ。
大きなる定めと致します。」15:38
十和田湖畔のホテル街は未だ閉鎖されていて往年の賑わいはありません。夕暮れ間近で十和田神社も閑散としています。参道の杉の巨木は身体を浄化してくれるようで心地が良いです。この神社の縁起は以下のようにあります。
「青龍権現とも、熊野権現とも呼ばれていた十和田神社。その縁起には2通りの説があるとされています。
一つは大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂創建とされる説。東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという。
もう一つは、南祖坊(南蔵坊、南草坊ともいう)によるもの。熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得て、諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたといいます。当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していたそう。そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治たという伝説が残っています。南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されています。」
http://www.genbu.net/data/tugaru/towada_title.htm
本殿参拝もそこそこに、本殿脇の熊野神社を過ぎて、南祖坊を青龍権現として祀る奥宮の青龍神社に向かいます。長い階段を上りますが、木道が整備されてありがたいことです。
木々の葉が未だ繁茂していませんので青龍神社からも湖が綺麗に見えます。
最後のあわ歌の響きを発しました。その時のお言葉です。
「あ~(拍手)
ありがとうございます。大きなる響きを頂きました。
是よりもこの響き持ち、この光持ち行き、それぞれの大きなる思いを真の元へと繋ぎ行き、大いなる新たへ向かいましょうぞ。
この北の地の力こそ、大きなり。」16:46
目出度く北の地の戸を開く巡りを終えることが出来ました。お言葉でも「ありがとうございます。大きなる響きを頂きました。」とあります。今回参加してくださった方々の熱心な、素直な真心があわ歌の響きとなって新たな戸開きへと繋げることが出来たようです。さらに「この北の地の力こそ、大きなり。」とあります。これからも引き続きこの北の地の力を発揮して頂けるよう、努めて行きたいものです。貴重な体験をお与え頂きありがたきことです。
もう時間は5時です。急ぎ仙台への帰路に着きました。
途中、Kさんと田山サービスエリアでお別れし、岩手山の全容を綺麗に見て無事に仙台に8時半過ぎに到着できました。ささやかな食事会をして散会となりましたが、全てはお蔭様です。