燦燦と降り注ぐ光の中であわ歌を奏上しました。その時のお言葉です。
「高々と掲げ行く、大いなる思いを、只々素直になさり行く事、この地にある方々にとって、如何に困難あるやは良く良く知りたるが、皆々様の真の思いは、その困難、一瞬の内に粉々と成して流しゆく大いなるものなり。
ご自分の中に在りて、その身をこれまで立派に活かし来る方々、信じてこの時に、共々その思い、発して参られませ。」11:46
五戸の次は六戸です。鶴喰若宮八幡宮は鶴喰集落の外れ、天皇山の麓の林の中に鎮座しています。看板のような目印がないので下見の時には見つけるのに難儀しました。鳥居を過ぎて直ぐに巨大な桂の木があります。参道を少し行くと長い階段があり八幡様が鎮座しています。その階段までの参道にはサワラ・桂・銀杏の樹齢400年の古木をあり御神木として注連縄が張られていて、この3本の御神木を六戸町で天然記念物に指定をしています。
この地は南朝三代目の天皇長慶天皇に所縁があり、天皇山もそこから来ているようです。
以下のような表記があります。
「南朝は、結城氏、伊達氏、葛西氏、南部氏といった、奥羽の有力な領主らが南朝方であったため、中央で南朝勢力が衰退した後もその足跡を奥羽各所に残している。戦国末期での奥羽の歴史はまさに南北朝期の争いの中にあったといって良い。それらの伝説の彼方にあるだろう史実の中心が、北畠氏であり、護良親王でありまた長慶天皇であるだろう。中でも、北畠氏は津軽で大きな勢力を築きながら、戦国末期に津軽為信に滅ぼされ、恐らくはこれで奥羽の南北朝期は終わったというべきなのだろう。
この六戸町の「天皇山」の鶴喰若宮八幡神社は、長慶天皇の陵墓との言い伝えがあり、近くの「駒形神社」は、長慶天皇の愛馬を祀ったとされる。またこの「天皇山」周辺に住む方々は、長慶天皇の従者を先祖として持ち、この陵墓を守るためにこの地に残ったとする伝説が今も強く語り継がれている。」
http://www.pacs.co.jp/hist_walk/blog/mitinoku/archives/200.html
「ここの南・「鶴喰」の小高い山は「天皇山」と名づけられており、天皇は、ここで村を見おろし、余生を送ったとされていて、その頂上の「若宮八幡宮」は付き従ってきた家来達が建立したといわれています。天皇山のふもと「明光山月窓寺」の本堂には天皇の位牌も安置されているとか。いずれも長慶天皇の潜辛をしのばせる話です。」
樹間に差し込む光は明らかにエネルギー変換されて心地の良い情報になっています。
桂の巨木に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「大いなるなり。永きに渡り、ここにあり。これよりも大いなる姿をお願い申す。(拍手)
響きはこの身を活き活きとさせたり。これより参るこの地を活き活きの水、活き活きの風吹かせて、嬉しき光を注ぎて下され。大いに是よりも生き、行きましょうぞ。(拍手)
ありがたき。共に嬉しき地と成し行きましょう。」12:29
七戸の見町観音堂も長慶天皇に所縁のあるところです。以下のような記載があります。
「室町時代の建築様式を伝える貴重な建物で、堂内にある絵馬や羽子板、読経札、棟札などは、国指定重要有形民俗文化財となっていますが、この観音堂は応永3年(1396年)に南部政光が長慶天皇の菩提を弔うため、創建したと伝えられています。」
http://www.aotabi.com/ao/7/kannon.html
鳥居から参道を登りなだらかな道を進むと茅葺の観音堂があります。屋根の上にも木々が生い茂り、長き星霜を経て、未だここに姿を留めています。太陽の強い光を受けながら、観音堂に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「進みて参る是よりは、それぞれ支えるその身には、大きなる見えざる多くがあり、日々それぞれがその身を開き、気を通わせて、一つとなりておられれば、多くの支援は働きます。
その時、肝心要はその身の思い定まりて、進みておらるる事なり。定めて共々参りましょうぞ。」13:33