今回の旅の目的は、「陸奥の古からの封印を解く為に、みちのくの「戸」の付く各所、並びに重要な山等のエネルギーポイントであわ歌を響かせ、大地の新たな動きをなす為の、光と響を発動させる、陸奥の戸開きの旅」です。日産の黒と赤の999の車3台に13名を乗せ、一路、古の日高見、陸奥の高天原の地へ向かいました。
今回は岩手県、青森県にある戸の付く地名を中心に巡りますが、戸については以下のような記載があります。(伊勢白山道から引用)
・「戸」の付く地名とは、神様との縁が深いのです。太古に「天の鳥船」(あまのとりふね)と呼ばれた反重力で浮上させる文明を持つ基地の痕跡の後に、「戸」の付く地名や「国府」が置かれたと感じます。特に神戸には、大きな基地が存在しました。近隣の甲山(かぶとやま)も中心の1つです。奈良や日本中に残存する巨大な石組みの磐座(いわくら)を残した文化と関係します。
・「戸」の付く地名は過去文明で天の鳥船に関係する地域だったかと思います。この「戸」が開く過程は、我々の右脳に眠っている念動力が開化する過程とも相関関係があるのでしょうか?。。。あります。右脳を渦巻きでこじ開けます。
・「戸」がつく地名は神様との縁が深いとのことですが、青森南部~岩手北部にかけて、一戸~八戸まで、四戸を除く7つの「戸」がつく地名があります。この地域にも、天の鳥船があったのでしょうか?。。。古代ユダヤの「ヘ」ブライと関係します。
・ 一戸から九戸まで、途中「へらい」という所にはキリストの墓があるとも言われているようです。。。。神のトびらの、戸です。神界の入り口が在る場所とも言えます。
最初の目的地は岩手県北上市更木にある八天遺跡です。北上川の直ぐ近くで水乞山の麓にあります。以下の紹介があります。
「国指定史跡・八天遺跡は開田に伴い発見された、北上川左岸に接する総面積約2haの縄文中期から後期(約3,500年前)の集落跡です。墓と思われる穴からは、土製の鼻 5点口2点、耳1点が発見されました。また、大形円形建物跡をはじめとする、多数の遺構が見つかりました。土製の耳・鼻・口は仮面の部品と考えられています。また、大形円形建物跡は最大時で直径17mほどあったものが、10回近い建て替えの結果、直径8mほどまで小さくなったと考えられています。これら の発見から、八天遺跡は縄文時代の研究において、重要な遺跡の一つとなっています。」
更に以下の特別な遺跡としての記載もあります。
「本遺跡からは同一形態で10回も建替えを繰り返した大型円形建築遺構が検出され、その規模は最大で長径約17m・短径約13.5m、最小で長径8.4m・短径7.6mもあり、当時としては特大の建物と云える。
柱穴は当初径1.0~1.5m・深さ1.5~1.9mに及び、大型家屋が大から少しずつ小へと規則的に建替えられており、集落の小規模化を反映しているように思えるものの、巨大平地式建築構造の厳格性などから高度な技術を要する“神殿”又は“聖殿”と考えられている。
この聖なる集会所では後述する“仮面破壊儀式”がしめやかに行なわれていたと見られる。墓壙は南北2.2mを有する伸展葬と見られ、周縁には溝を巡らし川原石が詰まっていたと云う。土壙の中は立石の礫群により空洞化され、遺体には扁平な石が2枚のせられていた等埋葬された人物は格別な身分の持主と云える。
土壙には土製の鼻3点が副葬され、直ぐ側の貯蔵穴から口2点・耳1点・鼻2点が出土したと云う。一ヶ所から鼻・耳・口と揃って出土したわけではなく、死者に被せた面というより、葬送儀礼に参加した人々が仮面を被って死霊になり代わったと考えられる。
仮面を被って仮装し、死霊がこの地に戻って来て、悪さをさせぬよう死霊の出入口を象徴する仮面の耳・鼻・口を切り取って葬ったと考えられる。
仮面破壊の儀礼が行なわれる程の死者は、極めて異例で特殊な人物であったと見られる。」
興味深い遺構や出土した品々の写真は以下を参照ください。
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/hatten.html
雨の中、遺跡後には草が生い茂り、藁葺きの小屋まで道なき道を進み、そこであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「うお~うお~うお~
繋ぎを致して皆々に伝えて、共々歩みて参るは、古き時に、この地と定めたる時の慣わし。それぞれ伝えて行きゆく術を知りて参りたり。
ここに在りては、大き空の光を受けるが大事なり。ただただ、素のまま従い来たり。
進み行きたるその後は、星を頼りの場を作りたり。測りて動き行く、新たへ移る。
この時にたどり行かれませ。」8:53
いろいろこの地を調べた中に古代の日高見国について以下の記載がありましたので、一部抜粋して紹介します。
「我らの総本山は早池峰山(はやちねさん)と申す。瀬織津姫(せおりつひめ)という先祖が、我らの中心の神で、その神の起源は12000年前に遡ります。
読んで字の如く、瀬織津姫は、日本列島の瀬すなわち太平洋側に降り集いし人々の集団の長をあらわします。我が国の神社の祝詞には、祓戸四神の筆頭として登場します。早池峰の池峰とはおっぱいのことであり、早とは速とも書きます。覇という意味で、代表者をあらわす古代の言語です。
我が国は、太古より女系国家で祭祀を女性が司り、政治を男性が司るのが習わしです。
瀬織津姫は戦前までは天照大神の本称とされ、大祓詞を読んで解るとおり、瀬織津姫は高天原(たかまのはら)の主宰者です。高天原というのは古代の国会と言う意味です。高天原は、早池峰山から紫波と更木に別れ、商業都として紫波、首都として更木が国家を運営してきました。大倭日高見国は豊かでありました。
我らは、産土(ウブス,エビス,恵比寿,えびす,夷,戎,恵比須,蛭子,胡)と呼ばれ、勇者、覇者という意味です。岩手より世界の方方を治めに行きました。これは、技術を教えに行ったということです。」
「4千5百~4千9百年程前には、現在の東北地方に国が興って来ました。まさに高度なシュメール(皇)文明が逆導入された時期です。」
これらの表記によると、この地にある水乞山が大倭日高見國高天原 陸奥(みちのく)の中心であったようです。果たして真偽が如何か分かりませんが、私にはその様に感じられるものがありました。