2014年8月8日金曜日

335「熊野転生2」2014,8,6

 新宮駅から国道42号線を北東、伊勢方面に向かい、目指すは熊野市の花窟神社(はなのいわやじんじゃ)です。熊野灘を右手に見ながら40分ほど進むと国道沿いにあります。遠方からその岩山が目を引きます。世界遺産に指定されてからなのか駐車場やお店などが新しく整備されています。9時半前でまだ参拝者は少なく、閑散としています。駐車場からお店を抜けて行くと鳥居があります。




 参道を抜けると大きな岩窟が現れます。社殿がなく窪みの前に拝殿があるのみです。祭神はイザナミノミコトです。その拝殿の斜め後ろに巨石があり王子の窟があり、イザナミノミコトの御子、カグツチノミコトが祀られています。


 イザナミノミコトについては以下です。
「日本神話の大地母神であり、人間の寿命を司る黄泉津大神である。天地開闢において神世七代の最後に伊弉諾尊・伊弉冊尊ともに生まれた。
『記紀神話』では天津神に国造りを命じられ、国産み・神産みにおいて伊弉諾尊との間に大八島国(日本の国土)を形づくる多数の子を設ける。
 淡路島隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。
 軻遇突智尊(カグツチノミコト)を生むときに火傷を負い、それがもとで神逝る。
 伊弉冊尊の神逝り後、妻に逢いたくて黄泉国まで行った伊弉諾尊に死後の姿を見られたことを恥じて、逃げる伊弉冊尊を追いかけるが、黄泉比良坂(現:島根県東出雲町)で伊弉冊尊が道を塞ぎ、伊弉諾尊と離縁する。
 その後、伊弉冊尊は黄泉国の主宰神となった。日本書紀の一書では三重県熊野市有馬の花窟神社に葬られたと記されている。

 伊奘冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」
 
 花窟神社に付いての由緒は以下です。
「『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである。
 神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、拝所が設けられている、一説には、伊弉冉尊を葬った地はおよそ西1.5キロメートル先にある産田神社(うぶたじんじゃ)であり、当社はこの火の神である軻遇突智の御陵であるともいう。花窟神社においては、伊弉冉尊の拝所の対面にある高さ18メートルの巨岩が、軻遇突智の墓所とされている。
 延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治期のことである。
 今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座(いわくら)が神体である。この巨岩は「陰石」であり、和歌山県新宮市の神倉神社 の神体であるゴトビキ岩は「陽石」であるとして、一対をなすともいわれ、ともに熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている。」
 日本書紀ではイザナミノミコトの墓として花窟神社とされていますが、古事記では異なります。古事記では以下のようにあります。
「神避りまししイザナミ神は、出雲国と伯岐国との堺の“比婆の山”(ヒバノヤマ)に葬りまつりき」
 それは島根県と鳥取県の県境にある安来市の比婆山と言われています。なぜ日本書紀と古事記とで異なるか理由は明らかでありません。ここでも出雲と熊野の関連があります。
また、古代人にとっての窟(イワヤ)・岩窟は他界・あの世への入口で、死して帰っていく処だけでなく、窟は生命の生まれ出る聖地で、新しい命が生まれる再生の場とも思われていたようです。ですから花の窟の大きな窪み、ほと穴にイザナミを葬ることで、死者を送るとともにその再生を願っていたともいえます。

「イザナミが古代世界にみられる大地母神であり、花の窟に聳える巨巌とは、生と死を司る大地母神であるイザナミの身体であり、窪みはイザナミのホトともいえる。ホトとは、全ての命あるものが生まれ出るところであり、死して帰っていく母なる故郷でもある。」


 高さ45mの巨石の花窟の頂上からロープが下されていて縄が何本か垂れ下がっています。御網掛け神事に使われたものです。
「この綱掛神事は、当処に葬られたイザナミの霊を鎮めるための神事というのが一般の解釈だが、農耕神事との一面もある。
 古代にあって、花といえば“稲の花”を意味したという。綱掛神事で大綱に吊される季節の花とは、単なる時節の花ではなく“稲の花”を象徴するもので、そこから、春2月におこなわれる綱掛神事は、その年の稲作の豊作を祈る予祝神事であり、秋10月のそれは豊作を感謝する収穫祭ともいえる。
 この大綱は毎回新に掛けられるが、そのとき、前回の大綱が残っていても取り除かず、それは、豊作を約束するものとして喜ばれたともいわれ、それは、この神事がその年の豊饒を願う神事であることを示唆している。」



 明治になって神社として祀られたのですが、平安時代にはイザナミの墓陵というより、弥勒信仰に基づく埋経の地あるいは風葬や納骨の場として知られていたようです。

 カグツチノミコトについては、
「イザナギ・イザナミの御子で“火の神”という。カグツチの“カグ”は“輝く光・火”を、“ツ”は助詞の“の”、“チ”は神霊・霊魂を意味することから、カグツチとは“輝く火の神”であり、一般には“火の神”とされる。火之迦具土神(ヒノカグツチ)・火之夜藝速男神(ヒノヤギハヤオ)などとも記す。
 カグツチは、怒ったイザナギによって斬り殺されるが、その死体からは山の神が、飛び散った血からは岩石神・水神・雷神などが誕生したとある。
 この神話には幾つかの解釈があるが、火山現象と結びつけ、山神の化生は溶岩が冷え固まって岩山となることを、水神・雷神の化生は噴火に伴う雷電・大雨・大水などの現象を表すともいう。」
 カグツチノミコトは将にイザナミノミコトの大地母神と同様に死と再生の象徴的な働きをする神です。

 由緒に有りましたが、この花窟は「陰石」で、神倉神社 の神体であるゴトビキ岩は「陽石」で対をなすとありました。確かに凄い巨石に圧倒されますが岩肌が優しい、女性的な感じがあります。

 熊野の自然信仰の在り方としての巨石、磐座としても響くものを感じます。縄文時代の精神性と弥生時代、更には大和朝廷成立後のものは大きく異なりますが、花窟に向き合う事で、日本人の根底に流れる自然存在、そこに宿るモノへ憧憬、回帰と同時に、畏怖のこころ、神々、先祖への祈願が呼びさまされる地でした。
 帰りに売店で食べたソフトクリームは身体と心を喜ばす、殊の外の美味しさでした。