2014年8月22日金曜日

339「熊野転生6」2014,8,17

 熊野本宮大社はかなり強い雨ですので流石に参拝者は少ないです。参拝して本宮の道路向かいに出来たビジターセンターを見学しました。大斎原(おおゆのはら)はこの土砂降りの雨では難しいと諦めました。

 熊野本宮大社のご祭神は家都美御子大神(けつみこのおおかみ)で別名、熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)で素戔嗚尊/須佐之男命(すさのおのみこと)のことです。
 由緒は以下の通りです。
「「熊野権現垂迹縁起」によれば、家都美御子大神(熊野坐大神)は唐の天台山から飛来したとされており、須佐之男命とも同一ともされるが、定かではない。また、『帝王編年記』 によれば、崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたとも伝えられている。また、祭神においては、太陽の使いとされる八咫烏(ヤタガラス)を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説など諸説入り乱れており、謎が多いのも事実である。また、明治22年までは、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる現在の社地から5分程度歩いたところに鎮座していたとされる。それが、大洪水によって流されてしまったことで、現在地に遷座されたという。」






 由緒によると唐の天台山から飛来した神でとあります。いささか気になります。
 更に以下のようにも記されています。
「神武天皇御東征以前には既に御鎮座になったと云われており、崇神天皇六十五年に社殿が創建されたと「神社縁起」「帝王編年記」「皇年代略記」等に記載されている。
熊野大神を斎きまつったのは熊野連、尾張連であるが、この氏族は饒速日命の子、高倉下の子孫である。その四世の熊野連大阿斗足尼は、成務天皇の御代に熊野国造に任ぜられ、 代々大神に奉仕し、江戸時代末までに及んだ。本宮大社は熊野三山の首座として熊野信仰の総本山として仰がれている。
 主祭神は家津美御子大神(スサノオ命)で、古史によれば、はじめ海原を治めていたが、出雲の国島根の簸の川上に降り、 八岐大蛇を退治され、天叢雲剣を得て天照大神に献上し、遠く大陸をも治めたとある。
 紀伊続風土記に「大神大御身の御毛を抜いて種々の木を生じ給い、其の八十木種の生まれる山を熊野とも木野とも言えるより、 熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬ=家津美御子大神と同意)と称え奉るべし。」とある。植林を全国に奨め、木の国の名、熊野の称はここよりおこった。特に造船の技術を教えられ、貿易を開かれたので古代に海外へという思想があった。舟玉大神と仰がれる。」

「紀伊国熊野に関する限り、固有名詞として考えた場合、出雲国熊野の名が移された可能性がある。
 出雲熊野大社の社伝では、熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとする。おそらく、歴史的にもこれが事実であろう。

 一方、紀伊熊野神社は、早くから仏教と習合して栄え、修験道の修行の地となった。延喜式神名帳には、熊野坐神社(熊野本宮大社)と熊野速玉大社があって熊野那智大社がない。当時、那智は神社でなく修行場と見なされていたからと考えられている。
 
 実際、太母神イザナミの神陵は「出雲と伯岐(ははき)の境なる比婆の山」にあると『古事記』は伝える。一方、『日本書紀』一書第五は「イザナミ尊、火神を生む時に灼かれて神退去(カムサ)りましぬ。故、紀伊國の熊野の有馬村に葬(ハフ)りまつる。土俗(クニヒト)、此の神の魂を祭るに、花の時には亦花を以て祭る。又、鼓吹幡旗(ツツミ・フエ・ハタ)を用(モチヒ)て、歌ひ舞ひて祭る」と異伝を伝える。この記事の場所は和歌山県熊野市有馬町にある通称『花の窟』(はなのいわや)とされており、巨岩の下の窟が墓陵だという。
 これは、元々あった縄文時代以来の巨岩信仰に、民団の移動に伴うイザナミ信仰が重なったものであろう。神道学上、巨岩はしばしば磐座(いわくら)と呼ばれ、神の宿るところとされた。

 熊野地域では、他に、熊野速玉大社の摂社・神倉神社に例が見られる。同社は新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク・神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、120m)に鎮座し、境内外縁は直ちに断崖絶壁になっている。神体は神倉山山上にある巨岩・ゴトビキ岩である。明らかな磐座信仰だ。ゴトビキとはヒキガエルの新宮方言で、遠くから見るとゴトビキに見えるからという。
 さらに言えば、磐座が信仰されたのは、やはり交通の目印になったからではあるまいか。神倉神社のある千穂ヶ峯は熊野川河口付近に位置し、明らかな《標山》(しめやま)である。神倉神社の東、現在の新宮市中心部の平野は弥生時代にはまだ一面の海であった。熊野新宮大社はその北方、熊野川を望む山裾にあり、今は失われた潟港に臨んでいたと思われる。
 なお、熊野那智大社の神体は那智大滝そのものである。この滝は那智山中腹にかかるが、それだけでなく、実のところ、はるか海上から白く遠望できる。那智勝浦に入港する際の極めて重要な《標》(しめ)となったのである。ここでも「信仰の対象=交通の目印」という(ある意味では身も蓋もない)図式が成立している。」

 熊野速玉大社は巨石が、那智大社は瀧がご祭神ですが、熊野本宮大社のご祭神は自然神ではなく唐の天台山から飛来した神、スサノオ命です。
 元々は熊野川・音無川・岩田川の三つの川が合流する中州の大斎原(おおゆのはら)に鎮座していました。明治22年の大洪水で流失して現在地に遷座されていますが、かつて本宮は大斎原に現在の8倍の規模で祀られていていました。
「精進潔斎を眼目としていた熊野詣で、その道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場(こりば)にあたります。そのため、かつては熊野詣といえば音無川が連想されるほど、名を知られた川でした。参詣者は、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。また、本宮・新宮・那智と熊野三山を巡拝し、再び本宮に戻り、それから帰路につくというのが一般的な熊野詣の順路でした。」

 明治22年の大洪水は、明治に入ってからの急激な森林伐採が上流の十津川で大水害を呼び起こしたと言われています。しかし明治22年は明治憲法が制定された年でその事と関連付ける表記もありました。
「明治二十二年という年は、ちょうど明治憲法が発布された年です。この憲法を見られた天照皇大御神様が、「この憲法は亡国憲法であるから、直ちに水に流しなさい」というメッセージを込めて、この地に大洪水を起こしたのです。しかし、時の明治政府は、憲法を変えようとはせず、翌年に「教育勅語」を発布することによって乗り切ろうとしました。
「教育勅語と明治憲法」は、「アメとムチ」の関係にあります。「教育勅語」だけ見ると、民のことを第一に考えた政府なのかと思ってしまいますが、実はそうではありませんでした。その内情は、欧米の武器商人に魂まで乗っ取られた政府だったのです。その後、大陸への侵略戦争を経て、文字通り「亡国」となってしまったことは、言うまでもありません。」
「熊野本宮大社の謎」
http://shinseido24.blog.fc2.com/blog-date-201404.html
「熊野本宮大社旧社地・大斎原」
http://www.mikumano.net/meguri/oyunohara.html

 熊野では太陽の使いとされる八咫烏の姿がそこかしこで見られます。神武東征では八咫烏の熊野から大和の橿原までの道先案内が功を奏して大和に攻め入る事が出来ました。
 八咫烏神社由緒書によると
「土地の豪族の武角身命が、黒い衣をまとって木から木へと飛び移りながら神武天皇をご案内した。天皇はその姿をごらんになって、〈八咫烏〉という称号をおつけになった。
『八咫烏神社』のご祭神はこの武角身命である。
 その子孫は賀茂県主である。当神社の絵様には〈三足烏〉を使っている。」


 詳しくは「八咫烏の足は果たして三本か」を読んでみてください。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yatagarasu.htm
 三本足の八咫烏のマークは日本サッカー協会のマークになっています。三本足のカラスについてはいろいろ意見がるようですが日本中にこのマークは馴染んでいます。
 八咫烏の案内で大和に進軍した神武天皇は、再び長髄彦(ナガスネヒコ)と相対します。ここでも苦戦をしますが、この時、金色の霊鵄が神武天皇の弓に止まり、その体から発する光で長髄彦の兵たちの目がくらみ、神武軍が勝利することができたそうです。この霊鵄のことを「金鵄(きんし)」と言います。

「では、なぜ、神武天皇は、奈良を攻めるために、熊野に迂回したのかです。水銀の生産・交易を抑えていたのは、神武天皇の血縁関係のものですが、紀ノ川沿いは抑えられていたことになります。一方、熊野・吉野は、ユダヤ人の血が入った山岳行者の地盤ですから、山は深いですが、援助を受けることができたのだと思います。」

 当時の熊野の状況については以下のように記されています。
「ここで、注目すべきは熊野には三つの勢力が存在したことである。
 ひとつめは、丹敷戸畔を中心とした土蜘蛛と呼ばれた先住民である。土蜘蛛は東征軍に服従せず、神武に敵対した。けっきょく滅ぼされたのだから、中心勢力にはなりえなかったが、縄文時代からの狩猟・漁労民族だったのではないか、と推測される。古事記に大きな熊が出現して、天皇軍を失神させたとある。熊をトーテムとする先住民、例えばアイヌ民族のような先住民を想定しても間違いではあるまい。手足が長く背が低い身体的特徴からもアイヌ民族が土蜘蛛に近い。
 ふたつめは、高倉下を中心とした物部系の渡来民である。物部氏は、ニギハヤヒを祖先とするが、日本書紀では初代の支配者と記述されている。ニギハヤヒの支配権を神武が奪い、二代目の支配者となった。政治権力が物部系から神武系に移動した事実を表現したのが、神武東征神話の核心である。高倉下が奉げたふつのみたまは物部氏の宝の剣で、石上
神宮に納められている。それを差し出したのだから、降伏したのである。物部氏が大和政権の大連として、軍事面の支配を振るったことから重用を前提としての降伏だったのだろう。高倉下の子孫の大阿刀足尼が、熊野の国造として熊野地方を支配したことから考えても、高倉下は熊野地方の支配者だったといえる。新宮市熊野川町の赤木川流域に高倉神社が点在しているが、その神体は丸い岩である。私は、高倉下は鉱山開発と金属鋳造に関わる氏族だったと考えている。
 みっつめは、ヤタガラスであるが、私は大烏をトーテムとした山民を想定している。ヤタガラスは日臣命、すなわち大伴氏との関係が深い勢力である。 山で狩猟生活をしていた十津川付近の山民が、その弓矢の能力と偵察能力を買われて、大伴氏の軍事力として支配下に入ったのではないか。大伴氏の支配が弱まった後は、熊野三党として熊野三山の支配下に入った。鈴木、宇井、榎本の三党で、ヤタガラスの三本足は、熊野三党をあらわしているといわれている。ヤタガラスは、中世には熊野速玉の烏文字に描かれ、平成にはサッカーの日本代表のシンボルマークになって、全国的に有名になった。 以上のような先住民に対して、朝鮮半島から渡来してきた渡来人の存在が、神武伝説の原型になったと考えられる。」
 「神武と呼ばれた渡来人とヤタガラス」http://www.apolohal.jp/st2-7.htm

 雨が激しく降り続きますので今日の巡りは終わりにして龍神温泉へ向かいました。ゆっくり休んで明日に備えます。翌朝は幸運にも雨があがりました。予定の高野山は取りやめて昨日訪れる予定だった玉置神社からスタートです。しかし再度予定を変更して熊野本宮大社旧社地・大斎原へ向かいました。