2014年8月8日金曜日

336「熊野転生3」2014,8,7

 産田神社(うぶたじんじゃ)は花窟神社から5分程の処です。集落の中に鬱蒼とした森があり、その中に森閑としてありました。鳥居からこじんまりした神域を雨の中進みますが花窟神社ほどの響きはありません。




 祭神は伊奘冉尊(イザナミノミコト)と迦具土命(カグツチノミコト)です。
 神社の由来書には、
「イザナミ尊がカグツチ命をお産みになって崩御された地に、御魂を大神としてお祀りした神社。
 社殿付近の地下約50cmほどに白石を敷きつめた一画が残り、その辺りから太古の祭祀土器なども出土しており、名実ともに日本最古の神社ということができる」
とあります。
 『紀伊続風土記』には、奥有馬、口有馬、山崎三カ村の産土神(うぶすながみ)で、ここはカグツチノミコトの産まれた産屋にあたる場所で産田と名付けたようです。明治の頃までは、地元の人々は当社を氏神社とし、花の窟は墓所、神陵としてお祀りしていたといい、花の窟と一体となった祭祀施設だったようです。

 さらに以下の表記があります。
「地元に伝わる口伝には「崇神天皇の夢見により、ここにお祭りされていた神様を熊野川、音無川、岩田川の合流点にある中洲に遷したのが、熊野本宮大社の始まり」という伝承が残されている。現在も、熊野本宮大社の例大祭の巫女舞に「有馬の」の下りがあるといわれ、江戸時代までは、産田神社と本宮大社では、同じ巫女舞が伝承されていたという。
 これらの伝承が、産田神社が花窟神社や本宮大社の前進であるとする説の根拠となっているが、産田神社の古さを物語るものとして、もっとも興味を引かれるのが、社殿の両脇にある「神籬(ひもろぎ)」の跡である。」
 これが事実ならば、産田神社は相当に古い神社と思われます。かつては社殿はなく、神籬(ひもろぎ)といわれる石で囲んだ祀り場のみあったようです。ひもろぎは古代の祭祀施設と言われるものです。
「「神籬」とは、神社の原始形態とされる神域を示すもので、神社に鳥居も社殿もなかった時代、神を迎えるための依り代(よりしろ)となる神聖な空間であった。古来日本人は、特異な形状の山、巨木、巨石、奇岩などに神性を感じ、神が依り憑き籠もる特別な場所と考えてきた。そのため、それらの周囲に玉垣をめぐらし、常盤木を立てて注連縄を張り、神域と現世を隔てるいわば結界のようなものである。」
 
 さらに産田神社の社殿周りには七里御浜の白石が敷き詰められています。神社の御利益を願って以下の風習があるようです。
「この地方の人たちは、子供を授かると安産祈願に、産田神社にお参りし、ここの石を目をつぶって拾う。その石が丸ければ女の子、長細ければ男の子が生まれると伝えられ、無事に子供が産まれると、お宮参りの際に、七里御浜で白石を拾い、元の石と一緒にここに返すという。」
 なぜか、さんま寿しの発祥地で、毎年1月10日の例大祭、11月23日新嘗祭 直会の際、には「ホウハン(汁かけ飯一碗、骨付きのさんまずし、赤和え、神酒)」と呼ばれる骨を残したサンマの姿寿司が供されるようで、膳を頂くと厄落としができるとか。

 熊野市から新宮方向に戻り紀宝町の神内神社(こうのうちじんじゃ)に向かいます。国道42号線から右に曲がり神内の集落を進んで行くと左手に巨大な岩山が見えます。鷹の巣倉という高さ50mの奇岩です。更に進むと右手に小高い山の岩屋があります。古神殿と言われ、これから行く神内神社の本宮と言われていたようで籠りの場だったようです。神内川に沿って更に小道を進むと行き止まりで、ここが神内神社です。




 駐車場の直ぐに、神社の名札がありますがその後ろに巨石があります。左手は神内川が流れそれに沿って参道があります。鳥居を通り参道を進んでいくと右手に神武天皇御宮があります。巨石で出来た岩屋の奥にお祀りされています。雨が強くなってきました。


 更に進むと右手に階段があり拝殿に登りますが、道路の左手にも階段があります。階段は神内川から上がる感じですので、川で足を洗い、禊ぎをしてから参拝するようです。階段を登った奥に社務所、拝殿、そしてご神体の岩壁が鎮座しています。別名、子安神社と言われ安産の神様としても知られているようで、社務所には多くの涎掛けが収められて掛けられています。
 ここも岩壁をご神体とする無社殿神社です。岩壁が巨大すぎて写真に納まりません。この岩は新宮の神倉神社の御神体と同じく、コトビキ岩といい、カエルの様です。拝殿脇の蘇りの木と表示あるクスノキの巨木がありました。


 案内版によるとこの地は三重県指定の天然記念物のようで、以下のようにあります。
「神内神社樹叢(こうのうちじんじゃじゅそう)

  神内神社は、石英粗面岩(熊野酸性岩)の岸壁をご神体として祭った原始宗教の名残りのもので、多数の水蝕洞穴があり岩面には着生植物が多い。神社の境内には着生植物、シダ植物を含めて約300種の植物が繁茂している。
 神内神社樹叢(子安神社)(こうのうちじんじゃ・こやすじんじゃ)

 祭神 天照大神、 天忍穂耳尊、 瓊瓊杵尊、 彦火火出見尊、 鵜草葺不合尊
「当社の義は近石と申すところに逢初森(アイソメノモリ)というのがあり、そこに(イザナギノミコト)、(イザナミノミコト)天降らせ一女三男を生み給う、この神を産土神社(ウブスナジンジャ)と崇め奉る、よってこの村の名を神皇地(コウノチ)と称す。いつの頃よりか神内村(コウノウチムラ)と改むと言い伝う」とあり。
 明治39年12月25日、三重県告示第380号を以って神饌幣 料供進社に指定される。
 社殿は自然成岩窟にして空間六尺(約1.8メートル)四方あり、境内6反8畝10歩。
 近郷の人、子安の神、安産の神として参詣するもの多い。また豊漁の神として近隣の漁師の信仰厚い。(紀宝町発行「文化財を訪ねて」抜粋)(神内神社所蔵文書抜粋)」
 
 逢初森(アイソメノモリ)にイザナギノミコトとイザナミノミコトが天降らせ一女三男を生んだとあります。この事が子安神社となり、村の名になったようです。この一女三男の神の名は明らかでありません。
「察するところ『日本書紀』第五段の本文から、一女は大日霎貴(おおひるめのむち、天照大神の別名)、三男とは月神(つきのかみ)、蛭子(ひるこ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)」と記しているものもあります。この地で日本の創世に係る神々が生まれていたとしたら凄いことです。
 神内神社の神域に入ると凄いエネルギーを感じます。よくぞ守られ残されたと思います。さぞや古には今以上の自然の活力が漲り、神聖、新生、再生を促す世界、生態系であったように思います。私は初めての訪問でしたが、今回の熊野の巡りでは強く感応したところでした。花窟神社は世界遺産として脚光を浴びて大勢の参拝客に溢れています。しかしここは近くに集落がありますが、まだまだ聖地です。今回は大雨でしたので、出来たら再度、天気の良い時にゆっくり訪れたいと思いました。

 神社の写真はあまりうまく写せていませんでしたので以下のブログがお勧めです。

 ここで少し話題を変えます。時の為政者は政治の中である意味で、合理として破壊と新たな建設を成しますが、明治新政府は神社合祀と言う施策を実施しました。
神社合祀とは以下の事です。
「神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の境内社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす」
「神社合祀政策は1906年の勅令によって進められ、全国で1914年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では1割程度ですんだ。
 この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかった。当然のことながら、生活集落と行政区画は一致するとは限らず、ところによっては合祀で氏神が居住地からはほど遠い場所に移されて、氏子が氏神参拝に行くことができなくなった地域もある。合祀を拒んだ神社もあったが、所によってはなかば強制的に合祀が行なわれた。」
「この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示すことによって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、1910年以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった。」

 記載の通り三重県では、県下全神社のおよそ9割が廃され、和歌山県もそれに次ぐ規模で廃されました。神社の廃棄に伴い、御神木始め神域の自然破壊が進みます。将に生態系の破壊です。それが地方の知事の裁量で成され、その差には驚きです。なぜにこの南紀の合祀、破壊が大方を締めたのか、そこには何らかの意図がありそうです。
 その中にあって南方熊楠の反対運動はいのちがけだったようです。結果的に収まり現在に至り、この熊野の地が10年前に世界遺産に登録されたことは、南方熊楠の功績があればこそ、と言えるのではないでしょうか。
 私は30数年前に南方熊楠の存在を知り、著書を読んで感動したことが思い出されます。ひとりの有意の人の視点、想創性、そして発心、実践行動が渦をなす原点です。今の時代も相似した状況で、更にその破壊の規模は拡大しています。いのちあるものにとっての本当の必要は何なのか。如何なる生態系を残し、作るのか、意識、精神性とその叡智と発心が求められています。

「南方熊楠の神社合祀反対運動」