2014年8月14日木曜日

338「熊野転生5」2014,8,13

 次に向かうは熊野那智大社です。雨の中、新宮から20キロほど南下します。那智の大滝が御神体ですが、その謂われについて以下の様です。

「熊野那智大社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもとは、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と記録されております。
 命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大瀧」を、この熊野に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大瀧を「神」としてあがめ、そこに国づくりの神である「大巳貴命」(大国主命)をまつり、また、親神さまである「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていたのであります。
 その社殿を、お瀧からほど近く、しかも見晴しのよい現在の社地にお移ししたのは仁徳天皇五年(三一七年)と伝えられています。この時、大瀧を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には「夫須美大神」を中心に、国づくりに御縁の深い十二柱の神々をおまつりしました。 やがて仏教が伝来し、役小角を始租とする修験道がおこり、古来の神々と仏とを併せてまつる、いわゆる神仏習合の信仰が行なわれるようになりました。
 その後、「蟻の熊野詣」といわれる程に全国から沢山の人々が熊野を目指すことになるのですが、中でも、皇室の尊崇厚く、延喜七年(九〇七年)十月、宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河法皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十九回もご参詣の旅を重ねられ、また花山法皇は千日(三年間)の瀧籠りをなされたと記録されております。」

 神武天皇が那智の山に光が輝くのを見てこの大瀧を探り当てたと言いますが、熊野は神武天皇再生の地だと言われています。
「熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社ー3つを合わせて熊野三山という。
 大社というのは神社の格、社格のことで、その規模によって大社・中社・小社に振り分けられてきた。また、古くは規模でなく、祭神に与えられた神階に応じてランクが決められていた。要するに熊野三山は、いずれもほぼ最高ランクの神社ということになる。
 では何故、熊野にその高位の神社が3つも置かれているのであろうか?
 先ず、社が鎮座する熊野という場所について見てみると、紀伊半島のこの山地一帯は、神武天皇東征の時代からずっと、第一級の聖地とされ続けている。
 その理由は、初代・神武天皇が45歳時、日向を出発して軍を東へと向けることになった。所謂「神武東征」だ。瀬戸内海を順調に船団で進んだ神武軍は、白肩津(しらかたのつ:現在の大阪府東大阪市)から上陸した。神武軍は連戦連勝の儘、生駒山を越えていよいよ大和へ入ろうとした。ところがこの時、ナガスネヒコの迎撃を受け、敗走してしまう。負け知らずの神武天皇は、ここで敗戦要因を冷静に分析、その結果要因を見出す「自分は太陽の神の御子にもかかわらず、太陽が昇る方角に向かって戦いを進めたからだ」と分析すると、海路で紀伊半島を迂回し、太陽を背に向けて戦うことができるルートを模索した。そして熊野から上陸することを決断する。神武天皇の決断に従って熊野から上陸する神武軍、しかし熊野での進軍は決して楽なものではなかった。途中、熊野村で神の化身の熊と出遭い、意識を失ってしまったのだ。

 この時、熊野のタカクラジが太刀をもって現れ、その霊威によって神武は目を覚ます。そして神武天皇はタカクラジから太刀を受け取ると、敵をことごとく制圧していった。そして本格的に進軍を再開する。慣れない山中の険しい道も、現れた八咫烏の案内で切り抜けると、目的地大和へ到着した。無事、宿敵ナガスネヒコを討ち倒すのである。

 この熊野進軍で興味深いのは、神武天皇が熊野村で神の化身の熊と出遭い、意識を失い、タカクラジから受け取った太刀所謂剣の霊威所謂霊力によって息を吹き返す点である。早い話、これは神武天皇が死と再生を繰り返したことに他ならない。神武天皇は熊野で一度、死んでしまったのであり、そして熊野の神の霊力で、再生を成し遂げたのである。そうであれば、神武天皇は最早、昔のような神武天皇ではなかろう。高天原の子孫ではあるが、同時に熊野の霊威の顕れでもある。要するに天孫の力と熊野の神の霊威を併せ持った存在となった。そう考えれば、熊野が大和朝廷と天皇家にとって特別な場所とされたのは自然の流れであろう。

 ちなみに熊野はとりわけ本地垂迹説の影響が強かった場所で、神道のみならず仏教、修験道などが複雑に入り組み合った宗教的な聖地を形成してきた場所でもある。そうした聖地の中でも古代信仰の痕跡も垣間見ることができる。

 ナガスネヒコについても考えてみたい。実はナガスネヒコには、縄文時代の手長足長の神、という顔もある。手長足長というのは、移動が速いということのようだ。これは急速に移動する嵐からイメージされた神で、要するに嵐のような大災害を引き起こす手足の長い神である。おそらく、神武天皇がやってくる前に祀られていた神なのであろう。そのナガスネヒコは、大和で滅ぼされた。ところが後に、東北でナガスネヒコの末裔と称する一族が現れる。津軽の豪族、安東氏である。彼らの祖先を、ナガスネヒコの兄神アビヒコだとした。東北と言えば、長い間、朝廷から「まつろわぬ民」の地とされてきた場所でもある。根強い反朝廷の戦いが続けられ、何度も軍が派遣されていた。その朝廷軍と闘い続けたのが、安東氏だった。

 縄文遺跡の本場であった東北で、このようにナガスネヒコに連なる人々が活動していたことは興味深い。おそらくはそれは、縄文の直系の神であり、宗教形式もより自然的な本来の自然崇拝としての「神道」に近いものだったに違いなかったであろう。と同時に、神武天皇によって滅ぼされたナガスネヒコに、同じように朝廷に対抗した東北豪族たちがシンパシーを抱いていたとしても全く不思議な事ではなかっただろう。」

 那智の滝を右手に見ながら那智大社下のお店の駐車場に車を入れて参道の階段を登ります。雨のためか参拝客はあまり多くありません。参道沿いのお店も開店休業です。まず熊野那智大社を参拝しました。




 拝殿脇に樹齢800年の大楠があり、平重盛の手植えとか。秀衡桜は奥州藤原秀衡が熊野権現の分御魂を頂きに参詣した時に奥州から持参した山桜です。
 本殿の奥に青岸渡寺があります。西国三十三番札所の第一札所です。境内の三重塔の奥に那智の大瀧が綺麗に見えます。最高のビューポイントです。



 熊野那智大社は那智の大瀧を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿の創建は他の二社、熊野本宮、速玉神社より後です。那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神伊(邪那美神)が勧請されて当社が滝本で創建されたとも言われています。今回は別宮飛瀧神社には参拝せずに通り過ぎましたが、駐車場には沢山の方々がいました。
 熊野古道として有名な大門坂は2キロほどで那智大社に登ることが出来ます。苔むした石段と杉木立の樹木が古道の雰囲気で人気のポイントです。登り口にバスが止まって雨の中散策を楽しんでいるようです。

「熊野信仰の中心となる熊野三山 (本宮・新官・那智の大社)が歴史の上に名を 高めてくるのは、平安の中期から鎌倉時代の 後半にかけて頻繁に行われた「熊野御幸」に よってである。
 当時、俗化した既成宗教に飽き足らなくな った皇族や貴族たちは、厳しい山岳信仰に現 世の救いを求めた。熊野の神は大自然であっ た。
 熊野をこの世の十方浄上の地と感じた皇族、 貴族たちが、聖地へのあこがれを掻き立てながら現世極楽にいたる険しい山谷を踏みのぼってきたのである。
 古い記録によると、延喜7年(907)字多 天皇から始まった熊野御幸は、弘安4年 (1281)の亀山上皇まで百回を越えたと言わ れ、その上、これらの御幸は千ちかくの人馬 を従え、 1日の食料16石におよんだという。
 熊野信仰とは、難行苦行の同義語にほかな らない。熊野とは地の涯、隈野(くまの)で あり、那智は難地(なち)の謂れでもあろう。
 しかし、苦行であるからこそ一切の罪業が 消滅するという信仰にもなり得たのだ。
 熊野詣の旅は、時代につれて武士階級、庶 民へと広がっていった。それは、すさまじい ばかりの信仰ぶりであった。江戸中期の享保 元年(1716)田辺の旅宿に泊まった参詣人は 6日間に4,776人、1日平均800人というおび ただしい人の数である。とすれば「蟻の熊野 詣」という形容も大げさではない。それにしても、なんという山また山の道を昔の人々は 歩いたのであろう。
 そんな地の涯の熊野三山が、今日では想像 できないくらい熱狂的な信仰をあつめたのは、 熊野権現(浄不浄をとわず、貴賤にかかわらず、男女をとわず)に受け入れてくれる神であったからだ。
 その信仰は、当時の人々の心を激しく揺り動かし、蟻の熊野詣といわれるほどの庶民男 女の群れが、はるかな山河を踏み越えて聖地、 熊野にむかった。」

 熊野信仰の中心の那智大社の古道をどのような思いで巡れているのか、時代の隔世がありそうです。
 雨はどんどん激しく降ってきます次の目的地の熊野本宮大社をめざしました。本宮までは50キロ程です、新宮に戻り熊野川に沿って川上に向かいます。