2014年8月29日金曜日

341「熊野転生8」2014,8,27

  天河神社は玉置神社からは結構な道のりで、かなり狭い道を進み、2時間程かかりました。大峰山脈の水を集めた天ノ川は九尾ダム湖を過ぎ、天川村で湾曲しますがその辺りに天河神社はあります。


この地を流れる天の川と天空の天の川が呼応して、神秘的なエネルギーを感じるパワースポットとして、スピリチャル系の方々に人気の地で、聖地と言われています。私もこれまで何度も訪れていますが、名称は大峰本宮天河大弁才天社です。その謂れは以下です。

「宗像三女神の一人、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主祭神とする。芸能の神として知られ、現在も芸能関係の参拝が多い。元の祭神名は弁財天(サラスヴァティー)で、神仏分離により「市杵島姫命」と称するようになったものである。今日でも社名に「弁財天」とついている通り、「弁財天」としても信仰されている。「厳島、竹生島と並ぶ日本三大弁財天のひとつ」と称している。
 室町期の僧英俊による多聞院日記に、「天川開山ハ役行者」と記述がある。天河大辨財天社の草創は飛鳥時代、役行者の大峯開山の際に蔵王権現に先立って勧請され最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのに始まる。弘法大師が高野山の開山に先立って大峯山で修行し、最大の行場が天河神社であった。弘法大師にまつわる遺品が奉納されている。 当社は江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命と改められた。
 1992年、杜撰な資金計画による社殿改築・境内整備が破綻し、破産宣告を受ける。不動産等が競売にかけられたが買い手がつかず、債権者の債権放棄によって救済された。」

 元々は役行者により開山され弥山の鎮守として弁才天(宇賀神王)を祀っていたのが、明治に市杵嶋姫命改められ今に至っています。外来神としての弁才天は日本の神では瀬織津姫として祀られることもあります。
 宇賀神弁財天、宇賀神については以下の様です。
「中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも言われる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身は蛇や龍とされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず、それが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである。」
「宇賀神(うがじん)は、日本で中世以降信仰された神である。神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)。
 その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと一様ではない。」

 天河大弁財天社の縁起に以下のものもあります。
「7世紀後半、皇位継承をめぐる争いで窮地にたたされた大海人皇子は、大和朝廷を守護する神々のふるさと吉野を訪れ、勝利を祈願して琴を奏じました。すると、その音に乗って天女が現れ、戦勝の祝福を示しました。この天女は、役行者が弥山山頂に祀ったとされる弥山大神でした。これに力を得た皇子は、壬申の乱に勝利を収め、即位して天武天皇となります。
 その後、天皇はこの天女の加護に報いるため、弥山の麓に神殿を造営し、「天の安河の宮」とされました。これが天河大辨財天社の始まりだと伝えられており、天川村の名前の由来となったとされています。
 日本の三大弁天のひとつに数えられているこの天河大辨財天社では、中央にその弁才天女、右に熊野権現(本地仏:阿弥陀如来)左に吉野権現(蔵王権現)がお祀りされており、神仏習合の形態を今も残しています。
また、神社は大峯本宮あるいは吉野総社として、大峯修験の要の行場とされ、古来、高僧や修験者たちが集まりました。とくに弘法大師空海の参籠後は、大峯参り、高野詣と併せて多くの人々が訪れるところとなりました。
 水の精である辨財天女は、音楽や芸能の神様としても有名です。京都の観世界による能の奉納が現在も毎年行われ、世阿弥も用いたとされる阿古武尉の面、能楽草創期からの価値の高い能面、能装束が多数奉納されています。江戸時代、放浪の僧円空も大峯の地で修行され、辨財天社にはその傑作とされる「大黒天」も奉納されています。そのお姿は、やさしい笑顔がこころに残る円空の仏像で、やすらぎを語りかけているかのようです。」
 
 この地はかつて南北朝時代に南朝の拠点としても重要な役割を果たしたようです。
「南北朝時代は後醍醐天皇による建武の中興(1333年)の3年間と、吉野に都を構えて以降3代の天皇による57年の歴史を数えます。その3分の2以上の期間は、奥吉野の各地に拠点がおかれました。天川の郷でも川合地区の河合寺が黒木の御所として、また沢原地区の光遍寺、坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされました。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さながらの栄華を極めたといわれています。嘉喜門院集に「天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず」としるされています。
 天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たしました。天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。そのなかには天河郷の忠誠を賞でられたものや、その加賞として天河辨財天へ賜った地行地配分のお墨付きなどが含まれています。」

 神殿は巨石、磐座の上にあります。拝殿には神宝の五十鈴の鈴を模した鈴があります。
「五十鈴は正式には神代鈴と申し、数千年前から当社のみに残されている青銅製でつくられたものです。歴史的には、天照大御神が天の岩屋にお隠れになった時に、天之宇受売命がこの五十鈴をつけられた矛をその手に持たれ、大地を踏みしめて聖なる舞を舞い、大神を外にお連れし、再び生きるに値する光の世に戻ったとされ、この鈴の音霊の働きは、非常に大切なものであることがうかがえます。
 この五十鈴の特徴的な三つの球形の鈴は、それぞれ「いくむすび(生魂)」「たるむすび(足魂)」「たまめむすび(玉留魂)」という魂の進化にとって重要な三つの魂の状態(みむすびの精神)をあらわしています。」



 この立派な神殿等の建築にあたり杜撰(ずさん)な資金計画で倒産したとありますが、いろいろなスピリチャル系の世界では聖地として紹介されています。だんだんにかつてのエネルギーが失われてきているのかもしれません。看板に何やら不思議な言霊の記されたものがありました。女性の参拝客も多くイベントもあるようで人気は衰えていないようです。


 前に来た時にあった鳥居近くの茶店が無くなっていました。そこでかき氷を食べようと期待していたのですが些か残念でした。
 あるブログによると以下のように記されていました。
「奈良の天河神社~玉置神社~那智の大滝が、地図上では一直線に並びます。このラインは、昔から修験道の重要なポイントでもありました。
 私が昔に受けた啓示によりますと、この直線ラインをそのまま太平洋に向けて延ばした先に、幻の巨大な大陸が海上に存在したとの事でした。」
 そうかと思って地図で3点を結んでみたのですが、果たして直線には成りません。天河神社~玉置神社の延長線上には潮岬です。どうでも良いことですけど、これまた残念なことです。
 
 次は向かうのは吉野の金峯山寺です。ここは先にふれた役行者所縁の地です。





「大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。これが金峯山寺の開創と伝えられています。
 明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。」

 仙台市にある慈眼寺の塩沼亮潤大阿闍梨はこの大峯山において、一日四十八キロを歩く「大峯千日回峰行」と九日間飲まず・食べず・寝ず・横にならずの『四無行』を満行しておられます。塩沼亮潤大阿闍梨は平成3年から大峯千日回峰行に入行し平成11年に満行し、吉野山金峯山寺1300年の歴史で役行者以来2人目となる大行を成されています。
 私もご縁を頂きかつて何度も慈眼寺の護摩祈祷の参加させて頂いていました。今はとても有名になり沢山の方々が参加されますがその当時はまだ少なく、護摩法話を伺ったり個人的に時間を頂いたりしていました。その流れで2007年9月9日仙台テンメイの発足総会の時、記念講話をして頂きました。
 雨がまた降り出し、山門前の茶店で柿の葉鮨と葛うどんを頂きましたが、美味しく大満足です。柿の葉鮨も自家製でなかなかな風味があり、駅などで売っているのと別物です。流石に本場は違うと思いました。
 
 予定の主なる目的地を巡る事が出来て旅も終盤です。少し時間に余裕があったので吉野神社と石舞台古墳を巡り、奈良駅でレンタカーを戻して岐路に着きました。思い残すとしたら串本、潮岬ですが次回の楽しみとして、今回の熊野巡りで十分でした。次回ブログで少しまとめて熊野転生を終わる予定です。