2014年9月4日木曜日

342「熊野転生9」2014,9,2

 今回の熊野転生の旅で感じたのは、この地には色々な時代の記憶が息づいていて、人の記録に残る前からの太古のエネルギー溢れる聖地だったようだということです。そして結果的に縄文から妙見信仰への流れも見えてきました。
 遡ること数千年、縄文の頃を臨むと、熊野那智大社の御神体の那智の瀧のあたりに縄文時代の石器などが発掘されています。この大瀧が古代人に畏怖をもたらし聖地と成ったようです。
 更に熊野速玉大社の御神体のコトビキ岩の巨石の下から弥生時代の銅鐸が出土しているようで、この磐座を中心に古代人は祭祀を営んでいたとみられて巨石信仰が起源とみられています。
 この熊野の地は縄文時代に由来する土着の原始太陽信仰の栄えたところの様で、その古代人の聖地がそのまま現在の神社に姿を変えていったものといえます。

 元々、熊野三社は別々の独立したもので、中世になりそれらがやがて熊野三山として一体化されて信仰されるようになりました。
 これは熊野三山が本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)を受け入れたことで、霊験あらたかな「熊野権現」が生まれたことによります。権現とは、仏・菩薩が神に形を変えて現れることで、時にはその神そのものを指すこともあります。
 本地垂迹説では、本宮の主神の家都美御子神(けつみこのかみ)は来世での往生を約束してくれる阿弥陀如来、新宮の速玉神(はやたまかみ)は衆生の苦しみや病を癒す薬師如来、那智の牟須美神(ふすみかみ)は現世でのご加護を約束してくれる千手観音をそれぞれ本地とみなしました。
 これにより熊野本宮は西方極楽浄土の来世の救済を、熊野新宮(速玉大社)は東方浄瑠璃浄土の過去生の罪悪の除去を、そして那智大社が南方補陀落(ふだらく)浄土の地であり現世利益をもたらす、という三位一体の信仰システムを生んだと言われています。これにより熊野全体が浄土の地とみなされるようになりました。
 過去現在未来の救済加護利益をもたらすのですから凄いことです。険しい道を巡る行の中に頂けるありがたき浄土ですから、蟻の熊野詣と言われる程に多くの巡礼者で溢れたようです。

 熊野権現の登場以前については、日本書紀に以下の表記があります。
 大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が出雲を基点に国造りをおこなった後に、
「行きて熊野の御碕(みさき)に至りて、遂に常世(とこよ)の郷(くに)にいでいましぬ」
 とあり神話の中にも、出雲と熊野の深い関係が記されています。
 この熊野の御碕とは串本の潮岬のことと言われていて、ここに謎の巨石遺構、高塚の森があり、これは太陽神祭祀のものと言われています。その詳細は未だ分かりません。
 http://www2.ocn.ne.jp/~taiyoh/ 謎の巨石遺跡

 そこにある潮岬神社の御祭神は少彦名命でその由来に以下のようにあります。
「少彦名命 熊野御崎より常世国に渡り給うたという聖地で、景行天皇二十八(九八)年 御崎の「静之窟」内に少彦名命を勧請したのに始り、その後 潮崎安磨「静之峯」に遷座した。」
 熊野の代名詞ともなっているこの常世(とこよ)とは「海の彼方にあって、常住不変、永世不滅の神仙国」の意味だそうです。ここにやって来た大己貴命は大黒様へ、少彦名命は恵比寿様に同一視されることの多い、財と福を与える神々です。

 出雲と熊野は古代から深いかかわりがある地域のようです。人的交流が頻繁におこなわれたためか、共通した地名が、出雲と熊野に多く残されています。
 出雲 には「熊野・美保・粟島・須佐神社・速玉神社・伊達神社・加多神社・日御碕(ひのみさき)・比田」があります。
  熊野 にも「出雲崎・美穂・粟島・須佐神社・速玉大社・伊達神社・加多神社・日ノ御崎・日高」がありほとんど同じ様な地名です。
 出雲の日御碕にあたるのが、熊野では潮岬だそうで、共に原始太陽信仰の痕跡を強く残す地域だといわれています。
 潮岬は、本州最南端の地ですが、ここにある潮岬神社のすぐ近くに、「入陽(いりひ)のガバ」と呼ばれる洞窟があるといいます。
 この洞窟は西向きであり、ちょうど夕日が差し込み、太陽がその洞窟の中に吸い込まれていくようなイメージを与えることから、古い時代から、太陽が沈み隠れる洞窟とされていて、西に沈んだ太陽は、この太陽の洞窟を通り、再び東に新生すると信じられていたそうです。太陽の洞窟とは擬似母胎であるとも言われています。出雲にある加賀の潜戸(かかのくけど)も、この系列にあるといわれています。
 更に神社の禁足地に磐座があり、この遺跡が地元で測量されたところ、夏至の日の出と深くかかわることが判明し、古代の太陽祭祀の聖地の一つであることがわかったそうです。
 
 熊野那智には、縄文由来の原始太陽信仰が濃厚に残っているといわれます。かつての紀州熊野の女王「丹敷戸畔(にしきとべ)」が、縄文文化にかかわり深い存在であり、熊野那智の末社に祀られていると言われています。
「那智の火祭り」としても知られる、熊野那智大社の扇祭りは太陽信仰と男根との関係に見られる物で、祭りの先導を天狗(あるいは猿田彦)が務める鼻の突起した面が、太陽を先導する男根の意味が隠されているとのことです。
 日本の民俗では、縄文時代由来といわれる男性器(男根)崇拝の伝統が色濃くみられます。これは日本だけの現象ではなく、世界的に、普遍的にみられるものだといいます。いずれも、これらは太陽信仰とかかわり深いもので、男根を模したり、あるいはリアルにそれを表現した石棒などが、太陽崇拝の古代遺跡にみられることが大変多いそうで、日本のストーンサークルも、そうした観点でとられることが多いようです。

 熊野那智の最も重要な儀式は、元日の夜明けに光が峰の山上でおこなわれる「光が峰遥拝神事」だと伝えられています。まだ暗いうちから、神職が「光が峰」に登頂し、元日の太陽を待ち受けます。神職は、特別な衣装に身を包んでおり、太陽が太平洋に昇る瞬間、その特別な衣装をパッと開き、太陽神を衣装の中に包み込み、それを一目散に、社に持ち帰ります。この熊野那智で山頂に上り、太陽のエネルギーを受けるという特殊神事が、出雲と紀州熊野の双方に共通してみられるものです。
 そして、潮岬でおこなわれる串本・紀州大島の「水門(みなと)祭り」に、かつては出雲も加わっていたようで、出雲と紀州熊野の間で、古くから交流があることが伺えます。
そしてこの日御碕を頂点にして聖なるラインが弾けると言います。
http://www2.ocn.ne.jp/~taiyoh/newpage25.html
 
 ここで少し横道にそれます。日向族のイワレヒコ(神武天皇)は東征で熊野灘迂回路を取ったことは記紀に記されています。その神武の存在そのものについてはいろいろな議論がありますが、神武は徐福だったと記されているのに出会いました。その真偽は解りません。しかし神武東征では熊野からヤマトに入ったことになっています。
 その迂回路の表記に古事記と日本書紀に違いがあります。そもそも記紀のどちらにもある熊野迂回コースは虚構で、日本書紀に挿入された太陽祭祀場構築コースは祭祀上の顕在から考えて実存の伝承コースと言います。
古事記・・紀伊国 の 竃山→(回航)→熊野村 紀伊半島内陸
日本書紀・・紀伊国の竃山→名草邑→狭野→熊野神邑→天磐盾=(海難)→熊野荒坂津→紀伊半島内陸
 この太陽祭祀場構築コースは大和に芽生えた王朝が太陽祭祀を実体的に執行し自分こそが日の御子であると言う思想の確立を企画した行動と言います。本州最南端、潮岬の南端(天磐楯の地の南端)でそれは行われたようです。
 http://www2.ocn.ne.jp/~taiyoh/newpage15.html