2014年9月20日土曜日

351「大和9月9日7」2014,9,20

 9月8日はとても良い天気に恵まれました。日高見、北にある星を繋ぐ旅のパート2の日に成りました。車に分乗して仙台駅を7時半に出発です。
 ここ最近のあわ歌での巡りは仙台を離れた地を巡る事が多くありました。今回は北の光の力を南に繋げ、北辰妙見の大元を動かすことです。そして日・月・星を含め宇宙自然の天地のエネルギーを繋げ、この仙台の地にも光をもたらし、今後の新しき時代への中心と成れる基盤を作る用意をなし、9月9日、10月10日の大和での儀式に繋げる事が目的です。

 最初の目的地は仙台市の北東にある青麻神社です。中山さんをお連れするのは久しぶりです。月曜日の朝のラッシュで既に市内は車でいっぱいです。市内を抜けて東方へ利府街道を進みます。
 青麻神社は旧称を青麻岩戸三光宮と言います。三光とは日神・月神・星神であり、将に今回の巡りの目的を兼ね備えたところです。三光に合わせて、天照大御神・月読神・天之御中主神を主祭神として、神仏習合の時代には大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩としていたといいます。
「社伝によれば、仁寿2年(852年)、社家の遠祖・穂積保昌が山城国から当地に下向し、一族が尊崇していた日月星の三光の神を山峡の岩窟の中に祀ったのが始まりである。穂積保昌が土地の人々に麻の栽培を教えたことにより「青麻」の地名・社名となり、神紋も麻の葉である。」



 朝日が燦々と降り注ぐ中、本殿の裏の岩山のところであわ歌を響かせました。そこでのお言葉です。

「繋ぎて、結びて、大きなる和を作る。開かれたる思いは全てを受け入れ、共々参るなり。多くの方々、この地球にありしが、思いはひとつ。共々、嬉しきと成り行くことなり。
 只々の響きに繋がり行きます。大いに発して、響きて下され。
 この場は古き時の写しを持ちたり。光りて、発しませ。」

 ここで初めに大きな目的が明らかにされました。
「繋ぎて、結びて、大きなる和を作り、共々、嬉しきと成り行くことなり。」です。今日の1日の巡りのテーマでもありそうです。

 次の目的地は多賀城市にある浮島神社で、10数分のところにあります。
 そこに向かう車中で中山さんに以下の様な絵が降りました。
 三円が歪んで重なって書かれ、揃えてくれとあります。三つとはあうわ。とあります。
果たしてどんなことなのかと首をかしげるのですが意味不明です。


 そうこうするうちに、多賀城政庁跡を過ぎて住宅地の中にこんもりとした小さな丘にある浮島神社に到着しました。この地は将に浮島です。
 神社には奥塩老翁神と奥塩老女神の2神を祀りますが創建は不明です。多賀城創建の頃から存在していたと伝えられていて、鎮座地は平安時代に歌枕として詠まれた「浮島」の地と伝えられ、小野小町の私家集にも当地を詠った和歌があります。いつの頃からか鹽竈神社の末社とされたようです。
 塩老翁神は塩土老翁神とも表記されます。神話の世界では以下の様なところで登場します。
「海幸山幸神話において、兄・火照命(海幸彦)の釣り針を無くして困っていた火遠理命(山幸彦)に 目無籠を作り、山幸彦を入れて海に投じ、海神の宮への到らしめた神。
『神武紀』でも五瀬命と神武天皇の兄弟は塩土老翁から「東に良い土地がある」と大和の話を聞き、東征を志したとある。」
「塩土の翁は不思議な神だ。『秀真伝』では2度、皇位継承有資格者(のち皇位を継承する)が危機的状況下になっていると救いの助言を出している。」とあります。
また、鹽土老翁神を、住吉神、岐神、猿田彦神などと同神とする説もあるようです。

 更に以下の表記の出逢いました。
「志賀理和気神社の異名に、「赤石明神」のほかに、もうひとつ「浮島神社」の名があったことがわかります。この浮島神は現在判然としませんが、消えた女神=志波姫神の匂いがする社名です。郡誌は本文での言及はしていませんが、この浮島について、作者不明ながら『篤焉家訓』なる書の一文を後注で再録しています。
 原文の該当箇所を意訳しますと、「当社を浮島明神というのは、その地(北上川の)川辺に、しかも窪地にあるにもかかわらず、どんな洪水のときにも沈んだことがない、その不思議な神異によって、浮島明神という」となりましょうか。
 ヤマトが日高見国への侵攻の足場として724年に築いたのが多賀城ですが、この多賀城の近くにも浮島神社があります。ここは、荒脛神社の南数百メートルのところに位置し、かつては千賀ノ浦=塩釜湾の入江の島だったようです。
 この浮島神社は、陸奥国宮城郡の延喜式内社・多賀[たか]神社の比定地のひとつとされています。現在の祭神は「奥鹽老翁神、奥鹽老女神」という不思議な祭神名とされています。延喜式内社・多賀神社を主張するなら、祭神表示をその本社と整合させてイザナギ・イザナミとしてよさそうなものですが、なぜか、このような不思議な祭神名となっています。おそらく、現在の鹽竈神ではなく、その「奥」の在地神=男女神を表しているのでしょう。老いたる志波彦神・志波姫神がみえるようです。」




 この浮島であわ歌を響かせました。その時のお言葉は以下です。
「沈みて参る多くの地、皆々、元成る地と返りて、うたかたのこの今を変え行く。
 広き海はなおなお大きく覆いて参る。その時、新たなるは如何なるや。
 皆々大きなる身と成りて、新た成るを迎えませ。」

 これからのあり様が言われています。大きな海に覆われて地が沈み行き、皆大きなる身になり新しきを迎えるのでしょうか。
 
 次は塩釜神社の境内に祀られている志波彦神社を訪れました。先ほどの浮島神社で触れた志波彦神を祀る神社です。
 志波彦神は鹽土老翁神あるいは岐神とも言われます。神紋は鹽竈桜と三つ巴です。由緒については以下のようにあります。
「創立年代は不詳。通称、冠川明神、志波道上宮。明治までは、七北田川(冠川)の畔、仙台市宮城野区岩切(現八坂神社境内)に鎮座していたが、明治7年、鹽竈神社別宮に遷祀、昭和13年、現在地に遷宮された。祭神は、志波彦神とされているが、志波(しは)と鹽(しほ)の読みから鹽土老翁神とする説がある。」
 
 更に祭神の志波彦大神について以下の記載があります。
「記紀を始め各書にも神話伝承の見えない志波彦大神とは如何なる神様なのでしょうか。
 そのヒントが御神名であり志波とは「物のシワ」つまり端を指す言葉で、仙台市内に志和町、栗原郡志波姫町に志波姫神社(式内社)、岩手県紫波郡に志波城跡、志和稲荷神社・志和古稲荷神社とシワの名を持つ所が点在します。これは大和朝廷の統治範囲が北進するにつれ、シワの地(朝廷勢力圏の端)が遷っていったと思われ、この地方で信仰されていた国津神(土着神)を志波彦神或いは志波姫神と呼んだものと考えられますが詳らかにはなっておりません。但し農耕守護・殖産・国土開発の神としての信仰が伝わっており、農耕を生業としていた人々の守護神だったのでしょう。」




 これまでも何度も塩釜神社に参拝しあわ歌を奏上していましたが、志波彦神社に向けて奏上していませんでした。いつもあわ歌を歌う場所は塩釜神社と志波彦神社の間にある小道の奥のケヤキの大木のところです。
 この横たわった樹齢数百年(400年とも言われています。)のケヤキは古くから「いぼ神様」と信仰されていて、ケヤキの根元には清水が湧き出ていて、この水を箸ですくってイボにつけるとイボが取れるという信仰があります。
 今回は同じ場所ですが、志波彦神社に向かっておあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「大いなるお力を賜りた。
 古き時、鎮まりて、この身は耐え来たり。再びを待ちおりたり。
 生まれ出で来て、大きなる今よりに向かう。ありがたきなり。(拍手)
 申し上げます。この時に、北へ向かいてその身を預け、大きなる身と成られませ。(拍手)あ~い。」
 この地で耐えて再びの時を待ちわびていたようです。良き光、響きを送ることが出来たようです。在地神、志波彦大神が動き始める様です。





 ここで少し志波彦神社の神紋の塩釜桜から面白い表記に遭遇したので紹介します。
「天照大神[アマテラス]の「荒魂」とされた瀬織津姫でしたが、滝神=桜神=瀬織津姫と日神=岩神=アラハバキ神が一対の関係にあることは、伊勢と三河の「桜と岩」の関係からも想像できることです。
 アラハバキの「アラ」は「荒」ですから、問題は「ハバキ」とはなにか、となります。
 ここのところ桜神=瀬織津姫を追ってきて、ふと気づいたことがあります。
 わたしたちは、桜をサクラというふうに読むことを当然のようにしてきました。しかし、桜の古名をなんというかといいますと、「波々伽[ははか]」といいます。としますと、桜神=瀬織津姫は「波々伽神」でもあることになります。女神=アマテラスは瀬織津姫という「荒魂」をもっているとされたことを、そのまま瀬織津姫にあてはめてみたらどういうことになるか──。  
 この桜の古名はなかなか味わい深いです。要するに、瀬織津姫は桜神=波々伽神で、その「荒魂」は荒波々伽神となります。アマテラスの背後に隠されたのは瀬織津姫と謎の日神でした。この日神が、伊勢神宮の創祀=アマテラスの創作と同時にこの世から完全消滅するはずはなく、ヤマト側が必死に瀬織津姫隠しをしても、瀬織津姫は存在しつづけているように、同じことが、消された日神にもいえるはずでしょう。その消された日神の異名の一つがアラハバキ神ではないかということなのです。瀬織津姫「荒魂」=荒波々伽神→アラハバキ神だというのが、わたしの基本的な仮説です。」
 櫻神、瀬織津姫、アラハバキ神が繋がりました。