陸奥国分寺は、天平13年(741)、聖武天皇の発願により全国に建立された国分寺の一つで、最北に位置しています。白山神社は国分寺薬師堂の東側に隣接しています。天平13年、陸奥国分寺が創建されたとき、その鎮守として建てられてのが開基といわれています。文治5年、源頼朝が藤原泰衡を攻めた際、陸奥国分寺ともに兵火にかかり、全て焼失してしまいました。天正年間(1573~1593)に国分盛重が社殿を造営し、伊達氏も崇敬厚く神領を寄進しました。
祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理媛尊です。各地の白山神社は菊理媛神を祀り、石川県(加賀国)の白山比咩神社を総本社としますがここで祭られるようになったいきさつは不明です。江戸時代には、本来志波彦神社だったのが、元の名が忘れられていつの間にか変わったともいいいます。
そんな中で以下の記述がありました。
「私は陸奥国分寺建立以前、その場所には志波彦神社、そして尼寺の場所には志波姫神社が鎮座していた可能性が高いのではないかと考えております。
陸奥国分寺・尼寺があるこのエリアは、往昔仙台平野の中心的“都市”が成立していたと思われますが、「遠見塚(とおみづか)古墳」の被葬者はその古代都市(集落)のリーダーであったと推測されます。もしかしたらこのリーダーは、弥生期に入って後このあたりの荒れた湿地をうまく利用できるような、なにかテクニカルな一面(農業技術や製鉄技術など)を持ち合わせていたのかもしれません。仮に“よそ者”であっても、そんな“よそ者”であれば地元では神のように尊敬され歓迎されたことでしょう。やがて土着した“よそ者”が、地元の有力者の娘あたりと結ばれたことも考えられると思います。志波彦・志波姫の一対祭祀はそれを記念すべく始まったものではないのでしょうか。
遠見塚古墳からは、人間の身長の数倍もある棺が二基発掘されております。おそらく夫婦と考えるのが穏当でしょう。もしかしたら、この二基の主(あるじ)こそがよそ者リーダーと地元の娘、言い換えれば“志波彦と志波姫”だったのではないでしょうか。
何はともあれ、一対としての祭祀というものはおおむね同じような起源を持つのではないかと想像します。それをおおまかに二分するならば、「平和的な融合の記念」である場合と、「征服した勝者による敗者信仰の融合(吸収合併)」である場合、つまり怨霊信仰が根強い我国の性癖として、敗者側の信仰を第一義に置き換えたために勝敗両者の一対となった場合とがあるのではないでしょうか。
いずれ、それらの全てをこじつけるつもりは今のところございません。ただ、遠見塚古墳の被葬者と、志波彦・志波姫の夫婦を関連づけて考えることは、さほどに不自然な話でもないように思っております。
もし国分氏が祀り続けてきたものが、実は国分寺ではなく、その志波神だとしたら・・・。
いずれにしても、“宮城野”などと呼ばれた広義のこの地(後の国分荘)は、遠見塚古墳造営後1000年以上の長きに渡って一大聖地であり続けたことは間違いないものと思われます。
もしかしたら、この地の志波勢力の神殿として存在していたものが、陸奥国分寺建立にともないその地を譲ったのではないでしょうか。当初は陸奥国分寺の守護神として境内に残っていたのかもしれませんが、やがていつの時代かに白山神社として塗り変えられたのではないのでしょうか。」
国分寺は祭りなのか、手作り市で大賑わいです。駐車場もいっぱいの様ですが、いつも止める薬師堂脇にいくと、担当の方が駐車場を閉鎖しています。お祭り市でなく白山神社参拝と告げると駐車をさせてもらいました。我々の為に確保していてくれたようです。
薬師堂前を通り過ぎて白山神社に行くとそこは閑散としています。
本殿をみてTさんが「あっこれだ」と声を発しました。皆が何のことかと尋ねると、さい銭箱に記された神紋が丸円が3個あります。朝に中山さんが記された絵の内容は歪んで重なったものでしたが、それを正すとこうなるのか、と言う感じです。
どうやら志波彦大神に所縁の浮島神社、志波彦神社とこの白山神社を一時に巡り、あわ歌の響きと光で整える必要があったようです。
拝殿前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「やれやれ、この時参りた。誠に嬉しき、ありがたき。
共々結びて、繋がりて、それぞれ守りて是より迎えて参る。う~う~(拍手)
共に北へ向かい、それぞれその大きなるを頂きて、参られませ。」
喜びのお言葉です。共々結び、繋がりてこれからを迎えるとあります。今日の午前の巡りは選定も含めて良かったようで、目出度し目出度しでした。
次の目的地は仙台市内の各所からピラミッドのように綺麗に見える太白山です。太白山には以下の記載があります。
「太白星(金星)が落ちてできた山という伝承から由来していて、太白山といわれる山です。しかし昔は独活(うど)ヶ森・おどが森・生出森と呼ばれていた。
頂上には大同二年(八〇七年)に京都から貴船神社を観請したといわれ、地主の神として崇められてきた。文治二年(一一八九年)源頼朝が鶴岡八幡より、八幡神社を勧請した。 戦前までは戦の神として、胃病の神として数多くの人々が秋保軌道を利用して参拝したものという。
太白山には、巨人が住んでいた話など伝説が多く、また砦、寺等が山中にあったと伝えられる。」
太白山については以下のサイトが詳しく記されていますので興味のある方はご覧ください。
「知られざる太白山」
京都の鞍馬山が金星から降り来る表の地ならば、この太白山は裏でここから離れて行くところと以前いただいたことがあります。金星ならぬ黄泉への出入り口です。311の大震災の後に中山さんと訪れていますので2度目です。山全体が自然観察林として整備されています。林道で登山口までそこから軽登山です。
太白山生出森八幡神社の鳥居をくぐり10分弱で神社に着きますが本殿は地震の被害にあい立ち入り禁止です。下の舞台であわ歌を響かせました。そこでのお言葉です。
太白山生出森八幡神社の鳥居をくぐり10分弱で神社に着きますが本殿は地震の被害にあい立ち入り禁止です。下の舞台であわ歌を響かせました。そこでのお言葉です。
「さても大きなることなり。
この国のこの地を、確かなる地と成し行くを、来る時より始めます。
10か所廻りて、光を降ろし、大きなる柱となす。この地は最後に廻りて致すなり。
皆々様にも大きなお力を。」
これから起きる事はさても大きなことの様です。全国10か所を11月から来年8月にかけて巡ります。この仙台の地は最後に、8月に回るという事です。