三つ石神社は盛岡市内中心部にある北山という寺院が沢山ある地区の、狭い道を入ったところにあります。街中にこんな巨石が三つも鎮座しているのには驚きです。
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/034_mithuishi/034.htm
この巨石には岩手の地名になった以下の伝説があります。
「三つの大石は、岩手山が噴火したときに飛んできたといわれ、三ツ石様と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
昔この地方に住む羅刹(らせつ)という鬼が、里人や旅人に悪さをするので、里人が三ツ石様に「どうか鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石様が羅刹を大石に縛りつけてしまった。羅刹は「もう二度と悪さはしません。二度とこの里にも姿を見せません」と誓ったので、約束の印として、三ツ石に手形を押させて逃がしてやった。岩に手形を押したことから岩手と呼ぶようになった。また鬼が二度とこの地に来ないことを誓ったので不来方と呼ぶようになったと言います。
鬼の退散を喜んだ住民達は幾日も踊り、神様に感謝のまごころを捧げました。この踊りが「さんさ踊り」の起源とも言われます。」
三ツ石の前であわ歌を響かせました。光が燦々と降り注いで凄いエネルギーです。その時のお言葉です。
「是より申すその事は、大きなる動きに係りたるなり。この岩より発する三本の光を、是より受ける岩を南の地にて探されませ。受ければ北の力、ここへと繋ぎ行く、お頼み申す。」
この岩から発する三本の光を受け取る岩を南の地で探すようにとのことです。そうしてこの北の力を南のその地へと繋ぐと言います。凄いことです。8日から「日高見、北にある星を繋ぐ旅のその2」を行いますが、その時に巡る予定地に三ツ石の個所が2か所予定しています。どうやらそれで良さそうです。天地繋ぐネットワークに人が介在することで動きをもたらす事が起きます。天地人の三位一体の働きで、その事も含めて三つ石、三が重要なのでしょう。
明日の最後の黒石寺までの巡りをしっかりして、大きな次の課題も明確に成りました。Sさんの撮影していたビデオには素晴らしい赤紫等の光が燦々と降り注ぐ映像が録画されていました。
古代オリエント信仰での三ツ石の存在が言われています。オリエントとは「太陽ののぼる所」を意味し、ヨーロッパから見た東方、今日「中東」とよばれる地を言います。その地の巨石信仰が日本にもたらされていたのでしょうか。又、この三ツ石のような平野部の巨石は如何にして存在出来たのか。移動して来たのか、噴火によるものなのか定かでありません。
縄文の頃はこの巨石を中心に信仰、儀式が成されていたとしたら多くの民が近隣に定住していたのでしょう。果たしてこの巨石は地中で如何程の大きさなのか、地球マントルからの地磁気エネルギーがダイレクトに噴き出てきているような気がします。
三ツ石神社を離れて移動を開始するとあくびが頻繁に出て眠気が襲ってきます。車中の皆さんも同様です。かなりのエネルギーを降り注がれ、天地の強烈なエネルギーが放射され、全身で浴びたようで身体反応が促進されています。新しいエネルギー、情報に遭遇して順応していく為の好天反応なのでしょう。巨石にはチェーンがまかれて、社を祀り、ある意味封印されていますが、その真価、機能を理解できず活用できない現代人のあり様を感じました。
次の目的地は大湯ストーンサークルです。秋田県鹿角市にある有名な縄文時代後期(約4,000年前)の環状列石遺跡です。1931年に発見され、本格的に発掘調査されて、今のように整備されてまだ数十年で大湯ストーンサークル館が出来たのも15年前です。
その役割については墓地とする説が有力です。
「環状列石は、いわば小規模の組石遺構がサークル状に並べられた配石遺構の集合体である。組石は数基から10数基のグループに分けられ、集落ごとに管理されていたようである。環状列石周辺から見つかった竪穴住居跡はわずか5軒である。この遺跡を造った人たちが、大きな集落を形成し、すぐ近くに住んでいたとは考えられない。周辺の集落が共同でつくった可能性が高く、いくつもの集落からなる共同墓地であったと考えられる。
この遺跡がつくられた約4000年前の縄文後期は、三内丸山時代に比べると平均気温が2、3度低下していたと考えられる。こうした気候変動により大集落の維持は困難となり、集落は分散し小型化していった時期である。大勢の人が一堂に会し、短期間のうちにこの環状列石をつくりあげたとは考えにくい。これらの石は一度に運ばれたものではなく、小人数の作業により、100年、200年をかけて、幾世代にもわたって運んでこられたものと思われる。」
それ以外に太陽信仰に関連した「モニュメント」とする説もあります。
「万座環状列石の日時計状配石と野中堂環状列石の日時計状配石の中心点を結んだ線が、夏至の太陽の日没線と一致することが指摘されていた。この説は、昭和31年(1956)に川口重一氏によって発表されていたが、小林達雄氏や冨樫泰時氏らによって再評価され、平成6年に実施検証が行われ正しいことが確認される(下図参照)。
また、日時計状組石は、東西南北の四方向に大きな石を配していることから、縄文人が方位を意識していたことがうかがえる。方位の観念をもち、太陽の運行サイクルを基調にした、一年の年間行動スケジュールを決定する縄文カレンダーでもあったのだ。
太陽は沈み、また昇る。太陽はよみがえりと輪廻のシンボルであった。のちの天照信仰、天道信仰といった太陽を中心とするコスモロジーの源流を、縄文のストーンサークルに見ることができる。
大湯環状列石の北東には、地元の人が「くろまんた」(黒又山)と呼ぶ小山がある。高さは80mだが、平坦な台地にあるので、どこからでもきれいな三角山を見ることができる。黒又山は人工のピラミッドで、大湯環状列石と一体不可分のものではないかという指摘もある。」
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/039_oyu/039.htm
陽が大分落ちてきました。万座環状列石の中であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「是より、この場にて、大き昔の日暮の祈りを致す。
うまし大きなる闇よ、平らかなる皆々の闇を、ここに生み出だされよ。
今日の日は嬉しき。又明るき日を迎えさせよ。共々、新たなる気を生ます。すさなり。」
日暮の祈りです。これは初めてです。一日の日暮の祈りであり、人間の一生の終わりの時の祈りです。最期のお言葉、「すさなり」は如何なる意味でしょうか。
この大湯ストーンサークルは十和田湖噴火の火山灰で埋め尽くされていたようです。地球の寒冷化、食糧難、天変地異が共同体の衰退、崩壊をもたらし様相を変えていったのでしょう。
これで今日の予定を無事に巡り終える事が出来ました。今夜の宿は大鰐温泉の不二やホテルです。宿に向かう道すがら、夕日がずっと綺麗に見え、感動しました。丁度日暮れと同時に宿に着いて、これは日暮の祈りの賜物と皆さんで大喜びでした。
懇親会は楽しく和気藹々で交流を深めました。例によって私は1次会でダウンで深い眠りに就きました。