2014年8月13日水曜日

337「熊野転生4」2014,8,11

 神内神社から新宮に戻りいよいよ熊野三山の一つ熊野速玉神社に向かいます。
 熊野の名は日本人であれば聞きなれた名ですがその謂れに付いてはあまり知られていません。出雲にも祀られる熊野の神とはいったい如何なる存在なのでしょうか。

 熊野を調べると以下の表記があります。
「紀伊半島南部一帯をいい,現在の和歌山,三重,奈良の3県にまたがる。紀伊国牟婁(むろ)郡(明治初年に東西南北の4郡に分割)がほとんどであるが,大和国吉野郡南部を含めることもあった。クマノとは霊魂の籠(こも)る地との意味があるらしく,早く《日本書紀》神代巻に,伊弉冉(いざなみ)尊が火神を生むとき灼(や)かれて死んだので,紀伊国の熊野に葬ったとある。やがてこの地に熊野三山と称される霊場が開かれると,神秘的な伝承が数多く発生し,死者の霊は遠隔の地からもこの熊野へ行くものだとか,熊野へ行けば死者の霊に会えるとかの信仰を生んだ(熊野信仰)。」
 
 更に調べてみると以下がありました。
「熊野という地名は「隈の処」という語源から発していると言われていますが、だとすれば、ここは奥深い処、神秘の漂う処ということになります。また「クマ」は「カミ」と同じ語で、「神の野」に通じる地名ということにもなります。」

「熊野は「汚穢・隈の所」の意。 =ミクマノ(穢隈野)。
 一般名詞としても、固有名詞としても使われる。固有地名としてのオリジナルのクマノは、神倉山 (和歌山県新宮市磐盾) の麓の地と思われる。
 ソサノヲはイサナミが生理中の交わりで孕んだので、その汚穢・隈がソサノヲに宿って大いなる隈となる。イサナミは我が身の汚穢が原因であると責任を感じ、「隈の宮」となってその隈を身に受けようとした。そのイサナミの最期の場所がクマノ(隈野)。イサナミは「隈の神」と贈り名される。」
「「みくまの」の「み」は「ゑ(穢)・おゑ(汚穢)」の意で、「くま(隈)と同じ意味である。だから「みくまの(穢隈野)」は「くまの(隈野)」を強調した言い方に過ぎない。」

「くま(隈)は、二神(イザナギ・イザナミ)は紀州にやって来て末の男子ソサノヲを生むが、その生れ付きは粗暴・狂乱の体で世の隈となっていた。「くま(隈)」は「くも(雲)」と同源で、「翳り・曇り」の意であり、「世の隈」とは「世を翳らすもの・世を暗くするもの」という意である。世の隈であるソサノヲが生まれた所だから「くまの (隈野)」という。」
「「隈野」の意味は、
1.世の隈ソサノヲの生まれた地。
2.隈の宮となってソサノヲの隈から民を守った「隈の神」の最期の地。
3.災厄をもたらす「隈の神」の地。
こうした意味を併せ持つ。
 これは、はじめは紀州熊野の固有地名だったが、後に「災いの地」という普通名詞になるのである。
 紀州熊野の神社は、「隈の神」のイサナミを祭った社なのだと思われる。現在のように3社となったのは後世のことで、はじめは「熊野速玉大社」だけだったようだ。
 ここに祭る「熊野速玉大神」は、玉置神社の由緒によればイサナミである。「熊野夫須美大神」は、イザナミを斎く御杖代となったアマテルの子のクマノクスヒであり、「家津御子大神」はソサノヲである。
 この社はもともとは神倉山にあったという。ホツマには「隈野の宮」は海上の船から見える場所に在ったことが記されていて、そのことからも神倉神社が元祖の「隈野の宮」であったことが推察される。
 出雲の熊野大社はそれとは異なり、汚穢隈の実体であるソサノヲを祭る」
 詳しくは以下の「ホツマツタエのおもしろ記事 熊野」を参照ください。
 http://divinehuman.blog.fc2.com/blog-entry-72.html

 熊野の地はまた以下の様でもあります。
「現在では和歌山県西・東牟婁郡、三重県南・北牟婁郡を指して熊野と呼ばれています
が、玉置山は牟婁岳と呼ばれていた頃もあり、玉置山以南が熊野の地でした。牟婁とは
土に掘られた穴のことで、熊野では古代の人々は牟婁に暮らしていたといわれます。
 玉置山の南には約1400万年前、マグマ上昇に伴う熊野酸性岩類という鉱物資源を産出する地層があり、鉱山坑道が牟婁という地名に結びついた可能性も否定できません。
牟婁とは「土に掘られた穴」のことで、古代の人が牟婁に住んでいたのが由来のようです。」

 更に牟婁と熊野に付いて以下の表記もあります。
「孝徳天皇(596~654年)のころ、熊野は熊野国として紀伊国の外にあったのを、紀伊国の牟婁郡に編入されたとある。当時の役人の感覚では牟婁と熊野は同じ意であったらしい。
 神が隠れ籠れるところを「神奈備のミムロ(御室)」と表記されることから、牟婁は室―ムロに由来しているようだ。
 熊野は『紀伊続風土記』によると「熊は隈であり籠るという意味、この地は山川幽谷、樹木鬱蒼だから熊野と名づけた」と説明されている。
 隈野と御室はどちらも「隠れ、籠もる」意味なのだ。
 神が隠れ籠るところを「死者の霊の籠もるところ」ともしている。『日本書紀』などで死ぬことを「隠れる」と表し、『万葉集』ではこのような性格の場所を隠国(コモリク)と呼んでいる。
 熊野の周辺、特に南側の太平洋沿岸の、キラキラ輝く開放的な光景が生のシンボルだとすれば熊野の森の黒色は死そのものだ。神と死生に縁の深い熊野になぜわざわざ行くのか。
 じつは、古代の日本人にとって死は忌まわしいものではなかった。「隠国」という言葉にいみじくも象徴されるように、死は一時的に隠れることであり、将来生に変貌することが約束されていると確信していた。
 熊野詣は「疑似の死」と考えるのがいい。「隠国」であると万人が認める熊野に行く、つまり「疑似の死」を体験することで「よく死ぬ」経験を積んでおくということ。それが熊野信仰の柱になっていた。」

  長々と熊野に付いて引用して紹介しましたが如何でしょうか。
 熊野速玉神社は雨の中、観光バスが乗り付けていて沢山の参拝客でした。神社の祭神、縁起は以下です。
「熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。創建年代は不詳である。熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる。また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれる。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされる。もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。」





 境内には国の天然記念物の梛(ナギ)の大樹があります。高さ20m、幹周り6m、推定樹齢1,000年、でナギとしては国内最大です。平治元年(1159年)社殿の落成において熊野三山造営奉行であった平重盛の手植と伝えられるものです。ナギは凪に通じることからナギの実を束ねたものやナギの枝を護符にすると言います。ナギの木は、熊野杉や天台烏薬とともに新宮市の「市の木」に指定されています。


 元々は神倉山に神々が降臨し磐座に祀られていたのが景行天皇55年に現在地に新宮として祀られたようです。
「日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。」
 熊野詣で、熊野信仰について神社のHPに以下のように記されてあります。
「自然信仰を原点に神社神道へと展開していく熊野信仰は、六世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、「熊野権現信仰」が全国に広まっていきます。「権現」とは、神が権り(仮)に姿を仏に変え、衆生を救うために現れるという意味で、過去・現在・未来を救う霊場として熊野は人々に受け入れられていきます。
 さらに、強者弱者、地位や善悪、信不信を問わず、別け隔てなく救いを垂れる神仏として崇敬され、人々は難行を覚悟で、熊野をめざし、「蟻の熊野詣で」の諺も生まれました。
 熊野古道は、滅罪と救いを求めて難行を続ける人々がつけた命の道です。険しい山路を越えてやっとのことで宝前に辿り着いた人々は、皆涙に咽んだといいます。そして、熊野の神にお仕えする私達の祖先は、たとえ参詣者のわらじが雨で濡れていてもそのまま温かく拝殿に迎え入れたそうです。
 美しい感激の涙で心が洗われ、自分本来の姿を取り戻す旅・・・。熊野は生きる力を、もう一度受け取りに来るところなのです。命がけの旅は、私達が生まれた時に持っていたはずの純真なこころと姿を取り戻す試練の旅でもあったのでしょう。
 難行苦行の果てにあるもの・・・それは、迷わず人生の再出発を踏み出すための勇気と覚悟の加護にほかなりません。熊野速玉大社が「甦りの地」といわれる本意は、正にここにあります。」

 神倉山は速玉神社の後ろにあり、神倉神社への参道は南の方へ車で5分位の処にあります。かなり狭い道を進み、小川を超えると直ぐに山門があります。正面に猿田彦神社&神倉三宝荒神社があります。社殿左手に滝が流れています。





 左に赤い鳥居がありその先が急峻な自然石の石段があります。御祭神は高倉下命と天照大神です。毎年2月6日に行われる御燈祭は勇壮な火祭りとして有名です。
「神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。
 山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている。この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。
 神倉神社の歴史的な創建年代は128年頃と考えられているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている。」
 今回の巡りでは是非ともコトビキ岩を拝したいと思ってきたのですが、雨で538段の石段が何とも不安なのです。手すりも無く、下りてくる参拝者も雨でずぶぬれで足元をかなり注意しています。天気の良い時でも参拝にあたっての転倒の危険の注意が記されていますが、今回は普通の靴で来てしまったので靴底が滑りやすくなっています。途中まで登ったのですが、危険を感じ、潔く中断して下りましたが、少しビビリました。これもまた次回参拝の口実に成りました。
 熊野根本大権現、神倉神社 http://www.mikumano.net/meguri/kamikura.html