その熊野はかつて出雲の支配地であり、出雲の熊野大社を熊野に祀ったのが熊野本宮だというのです。以前のブログ(300須佐、雲太32014,4,29)で以下のように書いていました。
「熊野大社としては紀伊国の熊野三山も有名ですが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説があるようです。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが紀伊の熊野本宮大社の元であるとしています。」
神武東征の時に、神武は生駒で長脛彦に敗れ、海路で東進して熊野の新宮から上陸して大和に入っています。何故に険しき熊野の山行を行ったのか。
更に、その熊野の新宮は徐福伝説の地でもあります。かつて熊野三山は何度か訪れていますが視点が変わると見えてくる世界が変わります。初めて訪れる目的地にも興味深いところもあります。
8月1日午後に仙台を発ちいつもながらの強行軍での熊野吉野巡りの旅を楽しんできました。新幹線を乗り継ぎ、更に南紀7号で新宮駅に23時13分に着きました。8時間を超える久々の列車の長旅です。直ぐにホテルに入って休んで翌朝2日8時過ぎから活動開始です。
熊野転生
「黄泉の国、浄土とも言われた、“隈の地・熊野”。
森は母なる大地の子宮のように、
道は現世と結ぶ産道のように、生命力に溢れている。
草木は森に還り、新たな魂へと受け継がれ、
人は森羅万象の一粒として、寄り添いあって生きる。
熊野では豊かな自然とあらゆる精が、
渾沌として存在し転生を繰り返す。」
この文章はホテルでもらった冊子に有りました。そんな思いを抱いて最初の訪問地はホテルから歩いて数分の新宮駅前にある徐福公園です。いささかミスマッチ?な印象があり直ぐに目を引きます。果たして徐福の存命の頃の修飾とは違うと感じますが、後世の方々の思いで致し方なきことでしょう。
極彩色の大きな楼門が目を引きます。公園に入ると正面に徐福像と不老の池があり、天台烏薬(てんだいうやく)の木も植えられています。そして徐福はこの地で亡くなったと言われ、お墓もあります。紀元前200年に思いを馳せて巡りましたが、他に訪れる方もいず私一人で徐福世界を味わいました。ミンミンゼミの大歓迎を受けて凄い響き、鳴き声で全てが浄化されるバイブレーションで、熊野転生へのイニシエーションの様でした。
徐福については以下の記載があります。
「徐福は今から二千二百年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて三千人の童男童女を引き連れ、この熊野に渡来したと伝えられています。
徐福一行は、この地に自生する「天台烏薬」という薬木を発見しましたが、気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたと言われています。
徐福の渡海は、中国の有名な歴史書である『史記』にも記されています。1982年、中国の江蘇省連雲港市かん楡(かんゆい)県において徐福村が発見され、徐福が実在の人物として学術研究会で発表されるようになりました。徐福村には祠も再建され、その内部には東方を向いたりりしい徐福の座像がまつられています。
一方、始皇帝が不老不死の霊薬を探しだそうと躍起になり、各地をたずねたあげく、方士徐福に出会ったのが徐郷県(現・山東省龍口市)といわれています。
現中国においても徐福ゆかりの地がクローズアップされており、その研究も活発に行われています。
日本でも徐福渡来の伝承地がいくつかあり、古くから地域伝承を育み、様々な文化が形づくられてきました。
特に熊野地域には徐福渡来の地として数々の伝承・史跡が残り、鎌倉時代には文献に出てきます。新宮駅から東にわずか100mのところに「徐福の墓」があり、蓬莱山南麓の阿須賀神社には「徐福の宮」もあります。」
「不老の池には、七重臣にたとえた七匹の鯉が泳ぎ、石柱には七重臣が有していた七つの徳「和」「仁」「慈」「勇」「財」「調」「壮」が刻まれています。
不老の池は文字どおり「不老長寿」を得る泉です。池の傍らには七本の天台烏薬が植えられ、その根本から生命の水がしたたり落ちています。
生命の水を受け、ゆっくりと泳ぐ七匹の鯉は、優雅さと生命の力強さを象徴しています。そばに立つ徐福(像)とともに、今もなお心に生き続ける七人の重臣と言えましょう。
また、七重臣の塚を結べば北斗七星を描いたことから、石橋を北斗七星の形に渡し、石柱には七重臣が有していた品性、人格の徳を刻んでいます。」
天台烏薬(てんだいうやく)はクスノキ科の常緑灌木で、最強力の活性酸素除去作用が認められています。不老不死の薬木として徐福が探し求めていたのでしょう。天台烏薬を利用した徐福茶、お酒など販売されていました。
徐福には4人の子供がいて日本各地に蓬莱山、不老不死の良薬を求めたようです。徐福伝説は熊野以外では佐賀が有名ですが、その他日本各地にみられます。果たしてどこか特定できていません。
徐福についての記載で興味深いものに出逢いましたので紹介します。
「徐福には、長男の徐市、次男の徐明、三男の徐林そして四男の徐福(同名であるが史書の通り記す)という四人の子供がいたが、佐賀の金立神社に残る伝承によると、祭神は「金立大権現」(徐福)と言われているが、三男の徐林が童男童女、百工ら七百人あまりを引き連れ佐賀の地に移住し、神社には徐林が祭られてあるともいう。
また、次男の徐明は金華山をめざして熊本地方に移住したとなっている。
さらに、徐福と長男の徐市はさらに蓬莱山を求めてシラヌヒ海から、紀州に至り、徐福はこの地(紀州の古座)に留まったが、長男の徐市はさらに東をめざし、スルガノ国に至って蓬莱山(富士山)を見つけたとの伝承も残っている。」
「徐福が日本に、そして佐賀や熊野に上陸したかどうかの学問的検証はまだおこなわれたことはない。
しかし、日本人、日本文化の起源を考えるとどうしても、弥生時代の解明が必要となり、徐福伝説を考えてしまうのである。
そして、佐賀丘陵地帯及び福岡県西南部の有明海に面した地方「有明海文化圏」は、以下に述べる数々の特殊性があり、その起源の場所であると確信している。
それが徐福の渡来であったと思うのである。
徐福は「不死」の考え方を残した。
それまでの縄文時代には、おそらく死者の世界と生者の世界は混在しており、死は魂が肉体から離れるものであり、離れた魂は「あの世」に行くが、また「この世」に戻ってくると考えられていた。
生命は永遠であり、死と再生を繰り返すものであると考えられていた。生きとし生けるものはすべて人間と同じように魂を持っているので、自然を畏敬し、自然を守った。
だから、巨木がその信仰の対象となった。だから縄文人にとって、魂の抜けた遺体にはそれほど関心がなかった。死体を保存する思想はなかったのである。
それに対して、弥生時代には来世に対する考え方が異なる。
人の霊魂は死後父祖の国に帰り、やがて祖霊となる。父祖の国は海の彼岸にあり、祖霊は子孫を見守り加護してくれる。
この祖霊信仰は、大陸から稲と共に伝えられたものである。森を開発し穀物を作ることが「文明」であり、農耕生産の発展が自然を破壊し、それが文明の発展であると考えた。
弥生時代前期の中頃以降、北九州の一角で行われはじめた「カメ棺」は成人の遺体埋葬用の物であり、特殊な葬俗と考えられるそうである。
数ある墓制の中でも最も手厚い葬り方であり、ハイテク技術を必要とし、特権的な人々、特に裕福な集団のみが営みうるものであると考えられている。
この埋葬法が後に古墳へと変化する。
「カメ棺」には、故人の肉体を永遠に保存しようとする強い意識が感じられるが、それは「不死」の考え方をもとにし、再生のねがいを込めた埋葬法であり、道教の考え方であるとの説もある。
佐賀丘陵地帯、福岡県西南部の有明海に面した地方「有明海文化圏」に多く分布するが、北九州でも一部の地域であり、長崎や佐賀県でも玄界灘側には少ないし、福岡県北部も少ない。
これらの地区は海外からの輸入品の出土量も多く、豊かな先進地であった可能性がある。徐福が持ち込んだ思想であり、文化ではなかったろうかと考える。
また、徐福を祀ってある金立神社のご神体は「巨石」であるが、これも道教との関係が考えられる。
道教は現実を賛美し長生きして金を得る。人間の欲望そのままの民衆の信仰であった。
金立神社の巨石信仰には、その道教の影響が考えられるのである。
また、徐福の渡来地とされている新宮市熊野速玉神社のご神体も「巨石」である。
縄文時代と弥生時代は相反する思想構造を持ち、日本はこの二つの文化と縄文人と弥生人の二つの種類の人間を源流に持っている。
弥生人は渡来人であり、特に「有明海文化圏」には、神仙思想が残っている。これらのことから、私はどうしても徐福をイメージしてしまう。」
(日本の徐福伝説) http://www.linktolink.jp/jofuku/page10.htm
天候は曇り、台風12号の影響で雨が予想されます。9時前にはレンタカーを借りて次なる目的地に向かいました。