2013年4月4日木曜日

204「繋がり2」2013,4,4

※この記事より当ブログに引っ越しました。以前の記事はこちらです。

 四月になりました。世間は新たな始まりの様ですが浮かれた気分で行けぬ幕開けの様な気がします。現象界には原因があって現在の結果がもたらされます。厳然とした仕組み、法則があります。新たな始まりには見直し、組直し、前提を踏まえた法則の更なる理解、確信が望ましいのですが小手先、表面上の誤魔化しでは早晩限界点を迎えます。それも又必然な変換のエネルギー、仕組みかもしれませんが。
 3月24日の中山博さんとの日高見の聖地繋ぎの旅2はスムーズに終える事が出来ました。翌日25日にはその旅を補完するこっそりの旅で宮城県北の各地を巡りました。それは24日の旅が大和から始まり栗原市栗駒町を巡り一関市で終わりました。こっそりの旅は栗駒の南、栗原市一迫から始まり大崎市を巡り大和で終わる旅です。車2台7名で巡りました。
 
 最初の目的地は山神社です。ここは25代武烈天皇がこの地に流されてお亡くなりそれをお祀りしていると言われています。武烈天皇は継体天皇の前の天皇で、性向暴虐と記されていますが、政変があり新たな天皇にとっては非常に悪列なものと扱われたようです。
 車中で山神社の謂われ、更に大和朝廷の隕石落下で政変がありその後の天皇が継体天皇であったというお話等お伝えしていました。そんな中でお言葉がありました。
「互いに下した大きなる過ちは、どちらもその後を汚し行きて光と成らず闇と成る。重き思いをその地に沈める今までの仕組みはこの時に改め行くなり。皆々鎮めるを良しと成すは過ちなり。
 隕石落ちきて、この地を砕くもこの事に似たり。是を光にて砕いて少しと成し行きたり。大きな隕石落とすもある力によるが、是を少なく出来るは光なり。この地の方々光の身と成り行けばかかる事を為すも可能なり。皆々様宜しくお願い申します。」
 「ところで本日この地を回るはあなた様、その身に光を承りて、響きと光の地と成し行くを想いております。我々は大きな咎を受け立ち上がりて参るは困難なり。如何に為して頂けますや。
 離れずにおられませ。この地に満ち行く光は大きく全てを受けて参ります。申して参られ、いついつでも働いて参る。
 嬉しき成るぞ。その言葉、漂う我らのこの身を頼む。
 いや増す光は鋭く強きと成り行きます。この時今なり、急がれよ。
 あ〜い。」 
「突然に写し行く二つなる身を一つに成す光を、この光を受け取りて霊身(ひみ)なる人なるなり。ご用意なさりませ。」 
「この身に付いて語ろうぞ。
 この身に写し来る事々は、この地の人を新しきへ導くご用意、助けることなり。あわ歌広め、歌いた方々響きを持ちて、新しきのご用意致す。その時をしっかり見据えて光を送り、大きなる変化をそれぞれの身に起し、如何なる事にも万全の身と成し、この地の大きなる変化を迎え新しきと致す。光の身と成る方々ご用意致すは、この身の大きなる嬉しきなり。」 

 もう一台の車は築館インターで下りそこない一つ先の金成ITから戻ることになりました。私達は山神社で暫し待ちます。道路に面した小高い山に神社はありました。道路沿いにある鳥居の前に車を止め山頂から後続車を待ちます。鳥居の正面には何故か移動式簡易トイレの保管所で沢山のトイレが鎮座しています。北進した黒の車の隣に南進した白の車が並列しました。この地のあり様を現す仕掛けの様で、共々揃いて将に目出度し目出度しです。
 山神社で皆さんとあわ歌を響かせましたが、その前に後続隊の到着前にお言葉がありました。 
「は〜あ〜。方々集いて参られよ。この地に大きな光降る。全てを受ける光降る。響きと共なる光なり。今、今この時皆々集いませ。」
「あ〜荒みたる思いを持ちておらるるも、光を持ちておらるるも光へ参ります。今より参る、踏み行く道を開きて参る。」
 皆さん打ち揃いて響かせた後のお言葉です。
「素晴らしき大きなる光を見たり。共に皆々参り行く。すさみ光りた共々も皆々参れ、この時ぞ。更なる進みを致し行き、その身それぞれ参れや。」 
 共に揃いて進み行く始まりです。

 日高見中心は栗駒山です。栗駒山の東から西へと南の裾野を回る感じで次なる目的地は大崎市鳴子温泉鬼首の荒雄川神社奥宮です。
 鬼首の名の由来は、延暦二十年(801年)、坂上田村麻呂が蝦夷平定に東征した際に、『鬼』と呼ばれ、恐れられていた大竹丸を追い詰め、この地で首をはねたことから、ここの地名を鬼切辺と呼び、それが後に鬼首に変わったと伝えられています。
 神社はまだ多くの雪に覆われてありました。そこであわ歌を響かせましたがそこでのお言葉です。
「この時、この地の山々よ、大きく輝き光と成りて海と発し、川へと発し皆々へ光を繋ぎませ。全てを光の御世に参る、共々に、共々に。」
 荒雄川神社里宮は大崎市岩出山池月にあります。主祭神は須佐雄尊と瀬織津姫尊で、穢れを清める祓戸大神の一柱である瀬織津姫尊は、荒雄川の清浄な水の流れを司る水神として祀られたものとあります。里宮の鎮座する地は古来からの聖地で、境内には縄文時代の祭祀遺跡とされる「荒雄川神社遺跡」があります。ここであわ歌を響かせました。     「この時、この地、この川、この山皆々共に一つと成りて、大きなる中心守りて共に輝き成されませ。光へ参られませ。」   
 直ぐ近くの道の駅で昼食を頂き、早々に同じ岩出山の荒脛巾神社に向かいました。前に訪れた時は1月冬のさ中、吹雪の雪原の中にぽつねんと鎮座していましたが今回は、雪解けした田んぼの中に静かにありました。アラハバキは日高見の土着神で大和朝廷にまつろわぬ民が崇め祀っていた神です。社の裏にある小さな石の祠があります。そこが御本尊の様でもあります。その前であわ歌響かせました。その時のお言葉です。
「遙かな時の大きなるこの地、豊かなる人々と共に美しき地なり。今ここに新たなる輝く地と成りて参る。この地守り来た皆々様、共々参りましょうぞ。(拍手)
 揺るぎなき想いぞ。そのこと是よりの日々に我等と共に在りた皆々を訪ね渡りて頂きたし。(拍手)
 大きなる知らせなるが、その所在分かりたし、伝えませ。(拍手)
 お〜承りた。」
 中山さんが歌う最中に地面に絵を描きましたが未だ解読できていません。

      
 加美町は南へ山越えして隣町です。その名を頂く加美石神社が次の目的地です。延喜式内社で神座石があることで名が付いたようです。遷座されて現在地に移りましたが神座石も移されています。境内は少し荒んでいました。あわ歌を高らかに響かせました。
「燦燦さんと降り来る光を受けて、流して、伝えて、知らせて、多くの者とこの地を繋ぎ、共に一つで永き時過ごし来たりた嬉しき地なり。光を待ちておりました。ありがたき。」
     
 加美町には加美富士、神富士と言われる薬来山があります。独立峰で綺麗な山容が一際を目を引きます。薬来神社奥宮は山頂にありますが、里宮を訪れました。神社は神富士を真後ろに頂き、新しいきらびやかな社殿が些か違和感を抱く中、ご神木の前であわ歌を響かせました。 
「つきましてはお願い申す。響きて参りた光は大きく、ありがたきこの光はいかにして受け取るや。(拍手)
「あいうえお」を発し参られ。(拍手)
 繋がり行けば大きなるいのちと成りて光へ参る。離れて大きく拡がりませ。」
 神社の由来は「天平九年(737年)鎮守府将軍・大野東人が軍事輸送の為、色麻柵より出羽国に至る、通称「玉野道路」を開いた時、悪疫が流行し多くの兵士や人夫が斃れました。将軍は病気の陳伏と、工事の完成を祈願する為、薬莱山頂に、医薬の守護神『大己貴神』『少彦名神』の二柱を主人祭神として祀り、無事工事を終えたと伝えられ、これが当社創建の事となっております。
 延暦二十三年(804年)になり征夷大将軍・坂上田村麿が東征の折、薬莱山頂に「日吉二十一社」の内より薬師三社を勧請し、同時に上野目大宮に大宮大明神(現在の里宮)、本郷の地へ八王子一社を奉祀して東国安泰、万民康楽を祈りました。」とあります。
 ですから薬来神社の御祭神は大己貴神と少彦名神ですが、他を調べてみたら本殿の御祭神は「現葉々樹大神威 (アラハバキノオオカムイ)」とあります。えっ、これはと驚きでした。ここでも大和朝廷の神による差し替えがあったようです。
  次は程近い、延喜式内社の飯豊神社です。鳴瀬川の神石橋を渡り、川沿いに参道を登ると社殿があります。本殿脇に二つに割れた巨石と杉の巨木があります。創祀年は不詳ですが、700年頃とあります。当初は社殿を持たず、大石を御神体として祀ったため、通称は、石神様と言われたようです。その大石を囲んであわ歌を響かせました。
「とても美しきこの大きなる頂きは輝きわたる地であった。永き年月、多くを失い、かかる姿と相成ったり。是より光頂きて、戻り行く行く思いは募る。共々皆々参ろうぞ。(拍手)
 嬉しきなり新しきへ向かわれませ。」

 日暮れと共に寒さが増してきて寒風が身を刺します。早目に切り上げて最後の目的地に向かいます。
 
 車中で中山さんの質問にあったお言葉です。
「私の大きなる思いに付いて
 光の話を続けております。この身には何も見えておりませんし、現れておりません。これではどのような事か分かりません。しかし確実に進んでおります。皆々様を世に導く為にこれからの光が現れることを思いております。この地の皆々様にはっきり分かる事を。」
 これに対してのお伝え
「お知らせ出来ることは少なきが、光のその事申します、写し行く是よりの光の中に変わりて現れる光を送り、生み出だし、分かる物と成りましょう。今も一部には分かる光と成りております。繋がりて頂きて現して下され。光の美しきを見られます。」

 今年2月17日の地元紙に大和町に支倉常長の墓があるようだ、という記事がありました。
もし事実ならばと足を運び、雪が融けた3月半ばに所在を確認出来ました。中山さんを同行してその内容を確認したいとの想いで日暮近い中に訪れました。そこでのお言葉です。
「今に繋がりたるその方の真の身にはあらず。美しきその方を慕いたる身の方なり。一つと成りて永き時静かに埋もれて参り来た。このこと知られて騒ぎては真に迷惑、ここに只々在りて信じるところの身元にあり。只々なればこれで宜し。ありがとうございます。」

 静かにその地を辞して仙台駅を目指しました。
 
 その車中にお言葉がありました。
「再びの旅生み出だす。遥かな夢見失うまいぞ。その姿を輝き、美しき満ちたる光の中を行く大きなる思いは、皆々様の明るき、暖かき、嬉しきなり。」
 ありがたきお言葉で締めくくる事が出来た、穏やかな暖かいありがたきこっそりの旅の一日でした。締めくくりに仙台駅で食事をして皆様とお別れしました。
次回は5月5日の連休に大和を中心に中山さんと巡りますが、きっと濃厚な時間と成る事でしょう。更には7月7日を中心に日高見の聖地繋ぎno3で山形山寺、蔵王、会津、磐梯を巡ります。そして9月9日を中心に淡路島から四国へと更に旅は続き、あわ歌の響きは拡がります。