2013年11月28日木曜日

255「霜月3」2013.11.26

 松尾大社と上賀茂神社、下賀茂神社の3社は秦三社と言われる秦氏との所縁が深い処です。松尾大社から更に秦氏所縁の太秦の広隆寺に向かいます。太秦は秦氏の住んでいたところで広隆寺は秦氏の氏寺でもあります。
 広隆寺には以下の記載があります。
「広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦(うずまさ)にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。
 創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。
『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦氏の氏寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。
 秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人であり、朝鮮半島を経由し日本に渡来した。葛野郡(かどののこおり、現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。」
 広隆寺には2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されていて国宝第一号です。新羅系の仏像で「一切衆生を如何にして救おうかと考えている」姿と言われます。何度も訪れていますがとても魅力的で時間を忘れてしまうほどの慈悲仏です。

 直ぐ近くにある大酒神社に参拝しました。とてもこじんまりとしていますが、祭神が秦始皇帝、弓月王、秦酒公ですから何かありそうな神社です。


「延喜式神名帳には、「元名大辟神」とあり、オオサケの神、つまり、悪疫・悪霊を避けるためのものとされいる。当社の牛祭は天下の奇祭として有名で、牛に乗った摩多羅神が四天王を従えて疫神鎮送を行うらしい。」とあります。
 
 神社の案内版の由緒書には以下の記載があります。
「由緒書 宗教法人 大酒神社
祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公
相殿 兄媛命、弟媛命(呉服女、漢織女)
神階 正一位、治歴四年四月(一〇六八年)
当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社 (元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。
「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(三五六 年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝 の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。
 后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(三 七二年)百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王 の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って 絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で 酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服 漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中 破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
 機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。 今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。 広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。
 尚、六〇三年広隆寺建立者秦河勝は酒公の六代目の孫。
 又、大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和銅四年(七一三年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。」
より詳しく記されたサイトを紹介します。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/oosake.html
http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu/05koryuji3.html
  
 大酒神社から5分ほど歩いて、秦氏が創建した木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみむすび)神社に参拝しました。



この神社には以下の記載があります。
「通称木嶋神社(このしまじんじゃ)。また、本殿東側に織物の始祖を祀る蚕養(こかい)神社があることから蚕の社(かいこのやしろ)の通称が広く知られている。祭神を天御中主命・大国魂神・穂々出見命・鵜茅葺不合命としている。
木嶋坐天照御魂神社は「木嶋に鎮座する天照御魂神の社」という意味で、本来は「天照御魂神」を祀る神社ということになる。この「天照御魂神」がどの神を指すのかについては諸説ある。『葛野郡神社明細帳』では上述の神々の他に爾々芸命の名を挙げている。『神社志料』では天火明命のこととしている。関西には、ほかにも「天照(アマテル)」のつく神社がいくつかあり、元々はそれぞれ当地の太陽神を祀っていた神社と考えられている。
続日本紀などの国史には「木嶋神」の名前で登場する。「木嶋」という名前は、原野に茂る木々の様が「木の島」のようであったからとされる。
起源は定かではないが続日本紀の大宝元年(701年)4月3日の条にこの神社の名があることからそれ以前から祭祀されていたとされる。『延喜式』では名神大社に列し、月次・相甞・新甞の官祭を受ける社として記載されている。
この神社がある嵯峨野一帯はかって朝鮮半島を経由して渡来した秦氏が製陶、養蚕、織物などの技術を持ち込んだ。蚕が祀られているのもそれゆえである。
社殿の西にかつては湧水が豊富であった「元糺の池」(もとただすのいけ)という池の中に三柱鳥居がある。柱が三本で三正面、上からの形は三角形となっている鳥居は珍しい存在であり京都三鳥居の一つとされている。これも起源不明ながら現存するものは天保2年(1831年)に再興されたものである。」 





 下賀茂神社に糺すの森が有りましたがこの木嶋神社が元糺すの森、元糺の池があります。そもそもはこの地が始まりだったのでしょう。三柱鳥居はとても珍しいものです。元糺すの池の中に有りますが今は池が枯れています。大神神社にも三柱鳥居が有りましたこちらは囲った形で三角柱です。この意味についてはいろいろあります。三柱鳥居に向かってあわ歌を響かせました。
 以下に詳しく記されたサイトを紹介しておきます。
http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu/05konoshima.html
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/kijima.html

 最後に清水寺を参拝しました。日暮になりましたが沢山の観光客に驚きです。アテルイ、モレの顕彰碑に参拝して早々に帰って来ました。清水寺は坂上田村麻呂がアテルイ達を弔う為に建立された寺院です。



 こんな感じで駆け足で巡り、夕闇に覆われる京都を後にしました。そして果たして今回の旅を如何様に捉えるか、二つの宮を糺すとは如何にです。

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