2013年11月29日金曜日

257「霜月5」2013,11,29

    太秦(うずまさ)とはユダヤのヘブライ語では「処刑された神(救い主)」つまり「処刑されたイエスキリスト」を意味し、秦氏は太秦と大を祀り、イエスキリストへの信仰がこの地に広まる事を願ったのでしょう

「秦氏は政治の表舞台には立たず、技術集団として日本のあらゆる方面に足跡を残してきた。その代表的な一つが養蚕から始まる機織の技術であろう。秦氏の伝えた技術は日本人の器用で真面目な性格にマッチし、素晴らしい織物として成長し、遠く西洋にまで伝えられた。言うまでも無くハタオリ・機織のハタは、秦氏の秦から来ている。このほかにも灌漑、治水、冶金などの技術も持ち込んだ。彼らは原始キリスト教・景教に奉職していたと言う。
彼らが何故日本に来たかについては幾つかの伝承がある。
一つは秦の始皇帝の造った秦国が敗れたとき、日本に亡命してきたと言う説。
一つは万里の長城の建設の使役労働に耐えられず、日本に逃れてきたという説。
どちらの説が正しいか定かでないが、日本に来たときに秦氏と名乗った。
この秦氏説にも二つあり、一つが秦の始皇帝の末裔と言う説と、一つはそう名乗った方が当時の日本で篤く迎えらるからと言う説である。

    秦氏の功績が素晴らしいのは機織などの技術と並んで、大和朝廷のためか、自分たちのためか定かではないが、神道の布教に多大な貢献をしたと言うことであろう。
    秦氏が係わった神社の多さに驚かずには居られない。
    まずは有名な京都伏見の稲荷神社、この稲荷、実はINRI(イエスキリストを意味する)の音に漢字を当てた物と言われている。冒頭に書いたように秦氏は原始キリスト教・景教の信者だったことからと言われている。稲荷神社は日本の神社の中で最も多く、その数は2万社に近いとされる。
    次が八幡神社、分解すると「ヤ・ハタ神社」となる。その数は稲荷に次ぎ全国で1万5千社に及ぶ。ハチマン神社と呼ぶようになったのは源八幡太郎義家との係わり以降であろう。
「ヤ」はイスラエルの神「ヤハウエ」を意味している。ヤマトのヤと同じである。
    八坂神社の祇園祭を始めたのも秦氏だと言われている。八坂神社もベスト8である。八坂の‘ヤ’も気にかかる。
又秦氏と言うと京都太秦の広隆寺も有名であるが、同じ地に「大酒神社」がある。この神社の旧名が「大辟神社」、中国ではこの大辟をダビデと読ませる。イスラエルの王・ダビデ神社と言うことになる。
    こうして見ると秦氏はイスラエルの神・ヤハウエを祭り、ユダヤの子・イエスを祭り、そしてユダヤの王・ダビデを祭っていると言うことになる。

 よもや我々は知らないうちにイスラエル・ユダヤの神たちを礼拝していることにならないだろうか。

平安京・・・実はユダヤ語にすると「エルサレム」になると言う。説明するまでも無いがイスラエルの都・聖都である。」

 

    秦氏が創建したと言われる神社は、先にあげられた伏見稲荷、宇佐八幡神社、だけでなく松尾大社、賀茂神社、八坂神社、日吉大社、金刀比羅宮、白山神社、愛宕神社があります。神社の配置等がユダヤの幕屋に似ていますし、その多くの衣装や作法がユダヤのものと似ています。山伏の服装やほら貝もです。現在日本古来の神道と思えることが秦氏の影響により大和朝廷成立後に作り変えられ、作り出されたものかもしれません。

    天照大神を皇室の祖神として祀る伊勢神宮にはユダヤのダビデ紋、六芒星が見られます。大和朝廷以降の多くの神社は秦氏の影響で祀られていると言えそうです。

    という事は現在日本古来の神道と思えることが秦氏の影響により大和朝廷成立後に作り変えられ、作り出されたものかもしれません。

    更に驚くべきことですが日本の初代天皇である神武天皇に付いて以下のこともあります。

神武天皇の和風諡号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」の意味で、エフライム族の北朝イスラエル王国再興であると言われています。

    そして記紀神話で述べられる創世のあり様が旧約聖書のあり様に似ているとの指摘もあります。古事記は40代天武天皇の命で稗田阿礼、太安万侶の作成で712年に42代元明天皇に献上しています。日本書紀は同じく天武天皇の命により舎人親王が編纂し720年に43代元正天皇に献上しています。天武天皇は完成を見ずに亡くなっていて、天武天皇の皇后が41代持統天皇で、初の女性天皇となります。

    天照大神は記紀以前は男神として祀られていますが、記紀では女神とされています。天照とはイエスキリストを指すという指摘もあります。いずれにしても女性天皇を正当化する為に持統天皇の意向が反映されたとも言われています。そこには壬申の役、大化の改新で実権を握った中臣(藤原)鎌足の子、藤原不比等の影響があります。

    鎌足は百済王の子の豊璋と言われ、日本と百済の同盟を担保する人質で日本に来ていたようです。中大兄皇子(のちの38代天智天皇)に接近し蘇我入鹿の殺害に加担し、律令制度の中で実権を握って行きます。天智天皇の弟の天武天皇との権力争いが南北朝を演出することになります。そして長く藤原氏の世が続くことになります。

 

    大和朝廷の設立に係り、継続支えた豪族は物部氏蘇我氏、尾張氏、大伴氏、秦氏、賀茂氏、更には出雲国造家、安倍氏、上毛野氏そして藤原氏などがいます。

    大和朝廷は当初、強い王が打ち立てた中央集権国家でなく多くの首長や豪族が大和に集まってできたものの様です。

    既に大和にいた物部氏が国の土台を作り上げた存在です。大和先住の長髄彦の妹を娶っていたニギハヤヒから神武天皇に政権が移譲されるのですがそのあたりの真偽も定かでありません。出雲と大和の権限移譲があったのかもしれません。その事に付いて

「邪馬台国を滅ぼして、倭の地を物部氏の婿入りする形で政権を移譲された。」という方もいます。

    そして倭を大和と改め大和朝廷を興したのでしょう。その当時の古墳の形体からその影響を推し量ることは出来る様です。物部氏は徐福と共にきたもののようで海部氏は物部氏の中の物部氏と言われます。京都の丹後一宮の籠神社は代々海部氏が宮司を務めていますが元伊勢とも言われ、大きな存在です。

 

    そして、10代崇神天皇(神武天皇と同一人物と言われる。15代応神天皇も同じではという意見もある)の時に天照大神と倭大国魂神を宮中に祀っていたのですが災いが起きてやがて天照大神は各地を転々として最終的に伊勢神宮に祀られることになります。

宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。

同年8月7日、臣下の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。

    倭大国魂神は元々の土地の神で大国主と同じともいわれます。物部氏の三輪山の大神神社なのでしょうか。大物主神は蛇神であり水神または雷神であります。

   大和王朝の当時は三輪山の麓辺り纒向遺跡が有るあたりと思われます。天皇は大王的な権限を持っていたのですがやがて25代継体天皇から王統の断絶ないし王朝の交替があったとみなすという説があります。

    やがて6世紀に仏教伝来がおこります。蘇我氏と物部氏神仏の覇権争いで蘇我氏の仏教が勝った事により、神道を応援していた物部氏は蘇我氏によって都から追い出されたていき、吉備津、陸奥等に逃れます蘇我氏は竹内宿祢を祖とすると言われ推古天皇、聖徳太子もこの一族の様で、暫し権勢をふるいましたが藤原氏により滅ぼされていきます。そして先に触れた大化の改新となります。

    飛鳥、奈良の平城京から京都、山城の国に都が移り平安京が出来ます。山城の国は秦氏の領地で多大の貢献をします。そしてやがて物部氏同様に神道を推していた秦氏は時代の表舞台から消えて行きます。

    秦氏は多くの渡来人の中でも藤原氏と並ぶ双璧ですが。藤原氏が大化の改新からこの日本の政治に深く係わってきたのと比べると、秦氏は政治の表舞台には立たず、技術集団として日本のあらゆる方面に足跡を残してきたといえます。


 出雲に係ることで以下の表記に目が止まりました。

須佐神社、そして出雲大社にお参りに行ってきましたが、そこで見たものはあくまで、秦氏系の神社とは違う流れの神社形式です。おそらく北イスラエル部族にルーツがあるのかと想像しましたが、いずれにしましても、神社であるが故にレビ族も絡んでいると考えて良いかと思います。また、イスラエル、ユダヤの血統は母方に由来するものであり、また、部族同士の婚姻もごく普通に存在したことから、一概にスサノオはレビ人とは言えず、結論を出すには更なる精査が必要と思われます。

 

 そろそろまとめなければなりません。

    聖徳太子の言葉で「和を以て貴しとなす」はつとに有名です。17条の憲法の第1条に記される条文です。何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良いということで私心を無くすることの様です。しかしこの事が実践されていたのかは疑問です。先ずそれを掲げなければならなかったほどに当時はいろいろな部族、考えが入り乱れていたのでしょう。倭から大いなる和の大和の名に変わったのは意味がありそうです。

    倭の地に既に国の神、倭大国魂神がいて、天津神と言われる天照大神を共に祀る事が出来なかった。そのままに天皇を中心にこの国は進んできていますが、先ずはこの二神の和合が成せるのかが鍵です。現在は既に渡来の民も2000年程の時間と共に融合して日本人としてあります。隠身としての存在の中でその和合が成されなければ難しいことと想います。

 

    毎年1123日は新嘗祭です。「天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。」宮中行事では大事なものです。そして天皇が新たに即位する時にその年の11月23日に成されるのが大嘗祭です。その儀式に付いては以下のようにあります。

 

祭の当夜、天皇は廻立殿(かいりゅうでん)に渡御し、小忌御湯(おみのおゆ)で潔斎して斎服を着け、深夜、悠紀殿(ゆきでん:千木伊勢神宮外宮と同じ外削ぎ)に入る。悠紀殿には、南枕に布団)が敷いてあり、と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。布団に置いてある枕の名は坂枕(さかまくら:逆枕の意味か?)という。この寝具類は神座、神の為に設けられたものであり、この中に天皇が直接入ることはない。悠紀殿では、神饌を神に供し、告文を奏して神と直会(なおらい)、つまり神に献じた神饌を、天皇親ら(みずから)聞こし召す(食べる)のである。廻立殿に戻り、次いで主基殿(千木は伊勢神宮内宮と同じ内削ぎ)に入り、悠紀殿と同じことを行う。

 

 更に以下の指摘に出逢いました。

バビロニヤの王は古来、毎年、年頭に厳粛な儀式を行なった。それは王衣を脱いで 神の前にひれ伏し、改めて遵法を誓った後、衣冠をつけて、王位に復してから儀式にはいる独特の復活儀礼で、それを毎年繰り返した。これは我が国で毎年行なわれた古式の大嘗祭で神前に高く真床が敷かれ、天皇は位冠を全て脱いで、板枕をして真床に横たわり、追衾(おうふすま)を被って物忌みの後、改めて現(あき)っ神として起き出られてから、冤服(べんぷく)をつけて高御座(たかみくら)に登り、百官の拝謁を受けられた儀式と、その信仰も形式もまったく同じである。この世界にも希な表現方式をもつ2つの儀式が、思想と信仰の一致で、天皇が<シュメール文明>の後継者であり、そこに強力な都市国家<スサ>が実在したのだから<スサノオ>とは<スサの王>だった史実を、物(もの)の見事に幾重にも立証しているのである。

 

 事の真偽は解りませんが、意識としては倭とユダヤのそれぞれの隠見のあり様を糺し、和合を願う事、その為に何が出来るのかです。

 113日文化の日に京都のTHD本社で新生祭が開催されました。新生祭は生きたまま死に装束の中で儀式により生まれ変わります。ある意味で実存的転換機序が働き、己に影響する指導霊の変化が起こり得るのかもしれません。新生祭も当事者だけでなく、場を共有する参加者もその変化を享受できます。個の集合であるグループ、国でも想いを「前後裁断し、只今の意識」で新生祭を願う事でスイッチが入るのかと思います。

そんなことを思って霜月が終わります。