7日朝を迎えました。今日は7月7日、七夕です。いよいよこの旅の3日目、正午の儀式を迎えることになりました。儀式は会津若松市の大塚山古墳で行う事に決めました。午前の行程はその時間に合わせて進めることになります。
朝風呂を頂き6時過ぎに部屋で準備をしていると中山さんにお言葉がありました。
「断りなしは誠に遺憾、許されざるなり。この地にありて多くの方々偽り多し。やがては知れる事なりし。今この世の規則と成しておる事々、真にあらず。守りてやがてその事に囚われ行くをたくらみて、皆々縛る元なり。」
「それぞれご自分一人で定めて、守るその身を打ち立て、しっかりと大きなる真の身と成り為さることなり。皆々知らぬ真あり。あまりに大きく、皆には見えぬこの地の仕組み、歌いて暴いて響きて光へ。」
今日の昼の儀式に向けての各自にその認識、自覚を促すお言葉です。更に30分後にお言葉がありました。
「かくも美しきこの北の地を、古き時より守りて参りたり。今この時に真の嬉しき地と成し行きて、共々皆々あの美しき地、現しましょう。」
そしてこれから進むべき目標を明確に示してくださいました。
朝食もそこそこに7時半過ぎに出発です。宿泊者の皆さんに記念の七転び八起きの可愛いこけしバッチを頂き、胸にしっかり付けてこれから各所で光を頂く「認証の印」と成りました。
最初の目的地の新宮熊野神社には8時過ぎに到着です。
この神社は、社伝によれば「源頼義、義家親子が「前九年の役」天喜3年(1055)陸奥征討に赴いたとき、武運を祈って紀州熊野から熊野堂村(現在の河沼郡河東町)に勧請鎮座したのが始まりで、後に「後三年の役」で再びこの地を訪れた義家が、新宮の地に移すよう命じ、寛治3年(1089)完成といわれている。」
本宮・新宮・那智の熊野三山をお祀りしています。神社の長床は重要文化財に指定されていて、その平面は、間口27m・奥行12mの長方形で名前の通り驚きの長さです。ご神木の大銀杏も樹齢600年の素晴らしいものです。長床に上がってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「お集まり頂きたる皆々様方に、響きと光りは是よりの、この大きなる宇宙と共に新しきへ向かう。どうぞ心得て響かせ、光成る身と成り行かれませ。その時、愛満ち満ちて、嬉しきと成る。」
会津坂下町の亀ケ森古墳は「墳丘の全長が約127mで、東北第2の規模を誇る前方後円墳です。後円部は3段築成で、葺石がみられます。出土した埴輪から、4世紀後半の築造と考えられています。」と表記されています。古墳の丘には稲荷神社が祀られています。
私達が登って行くと杉の巨木の上にコウノトリの巣があるようです。親鳥が鳴き声を上げて飛び立っていき、数羽が天空を旋回しています。古墳3段目の小さな社の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「この地に残りて続けて参りた多くの者、未だ続き行きて、守りて行きて参る。人々しっかりこの山、この原、この水、木々をご覧なさりて、それぞれの是よりを定めて参らせませ。全てが輝くこの地を望みます。」
古墳を出て程なくすると車中で中山さんにお言葉がありました。
「この地に立ちて思うは如何に皆々、形に囚われ、大小に囚われ、数々多少に囚われるかに驚きております。それぞれ一人の中に全てがありて、その全てを統べる大きな役目をお持ちです。先ず、これを成し行くことなり。従って生き続けるは多くの嬉しきなり。」
納得のお言葉です。
柳津町の円蔵寺福満虚空蔵尊は日本三大虚空蔵尊として有名な古刹です。縁起などによれば807年(大同2年)空海作とされる虚空蔵菩薩を安置するため、徳一が虚空蔵堂を建立したのが始めとされます。只見川が大きく蛇行している河岸高くにあり、橋から見る寺院のたたずまいは清水寺の様でもあり、一際目を引く素晴らしい寺院です。10時前に到着しましたが雨の中参拝しあわ歌を響かせました。
「その時この地は皆々憩い、楽しき、嬉しき、美しき処、集いて喜ぶ大事なる処なり。かく成りたるは大きなる者頂き、治めんと致したること。これ古きなり。思い改め、限り無しと致し、共に嬉しきへ。」
かつてこの地は素晴らしい処だったようです。共に嬉しきへ参れるように、門前町の名物のあわ餅を皆さんで美味しく頂いて次なる目的地、伊佐須美神社に向かいました。
会津美里町の伊佐須美神社は名神大社・岩代の国一ノ宮、会津総鎮守です。四道将軍の父子がそれぞれの道をたどり、東北道各地を平定した後、この地で出会ったことから「会津」という地名が起こったと伝えられています。この時、国家鎮護のため国土開拓の神様であるイザナギノミコト、イザナミノミコトの二神を新潟県境の御神楽岳に奉斎しました。これが伊佐須美神社の起源とされています。560年に現在の宮地、東原に御神殿を造営しました。
※『古事記』と『日本書紀』の両方に記載されている話に四道将軍の伝説がある。その内容の一部は以下のとおりである。「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を『相津』(あいづ)と名付けられたという」
流石、一ノ宮です、沢山の参拝客であふれています。ここでは正午からの儀式の為に本殿に参拝だけして失礼しました。
大塚山古墳は会津市内の東部の小高い山の頂上にあり、山の北側斜面は墓地と成っています。墓地を抜けて古墳入口に11時40分過ぎに無事に到着できました。儀式に十分間に合います。
大塚山古墳は4世紀末の築造と推測され、東北地方最古の古墳の一つで、大きさは全長114メートルの前方後円墳で、東北地方では第4位、福島県内でも亀ヶ森古墳に次ぐ第2位の大きさです。多くの遺物が検出された中、その代表的なものは三角縁神獣鏡です。「卑弥呼の鏡」と通称されるこの鏡は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる物です。
正午の儀式前にお言葉がありました。
「只今より、この地生み出されし七大宇宙の方々降り来たりて、皆々様と是より共々に参り行く。このこと皆々様にはお分かり頂け無きこと成れど、是より必ずや光を通して共々と成りましょう。大いなる光をどうぞお許し頂きたきなり。是より共々歌いて響きて参ります。」
お言葉に引き続いておわ歌を歌い、響かせました。歌い終わってお言葉を頂きました。
「目に見えねど、皆々様とここに在りて、共に響くは誠に嬉しき。大いなる皆々様、ご自分の全てを讃え、嬉しき時を過ごし行かれませ。多くの言葉より、この音と響きが真を伝え発し行きます。皆々様は全てお持ちになりました。どうぞ是よりも新しきへと参らせませ。」
ありがたきお言葉です。「皆々様は全てお持ちになりました。どうぞ是よりも新しきへと参らせませ。」とあります。多くの言葉よりこの音と響きが真を伝え発し行きます。しっかり定めて只々で参ることです。
3日間の儀式は全て終える事が出来ました。ありがたきことです。
昼食は会津の元祖わっぱ飯、郷土料理の「田季野」です。13時予約でしたので少し前に行き駐車場にも5台止められ、店に回ったら沢山のお客さんで長蛇の列です。団体さん達が待たされていますが、私達はスムーズに二階個室で美味しいわっぱ飯を頂けました。お腹も満たして午後の巡りの開始です。
荒脛巾(アラハバキ)神社は猪苗代に向かう街道から南下した湊町赤井にあります。14時少し過ぎに着きました。今まで訪れたアラハバキ神社の中では最も立派で綺麗にされています。この地の方々に大事に祀られている様に思いました。ここであわ歌響かせました。その時のお言葉です。
「最後にここに残りしは、大きなる傷持ちたる古き御魂。只今ここ離れ行く。その時に皆々様の光あるは嬉しきなり。これこそ大きなる恵み、嬉しき豊かなる古き地を再びと夢見るなり。」
次は磐梯山の南に鎮座する土津(はにつ)神社、磐崎(いわはし)神社です。そこに進む車中で、今後12月にどのような巡りを企画したらよいか中山さんにお尋ねしたところ以下のお言葉がありました。
「七大宇宙の方々の皆様の思いの極まりて、訪ねて果たすその事は、この島国の貴き地にあり。その場所は、134,5、 42、なり。」
貴き、その場所は134,5 42とあります。謎解きが始まりました。緯度経度で考えると日本海の海の中。東経で考えると相生市、香川県辺りです。いろいろ検討している内に目的地に到着です。土津神社は参拝だけですぐ近くの磐崎神社に向かいました。
磐崎神社は磐梯山から流れ来る小川に沿って、車1台が通れる小道を進むと林の中に鎮座していました。なかなか霊気ある地です。神社にまつわる社伝などを幾つか紹介します。
「神功皇后摂政時代、武内宿禰(たけうちすくね)が勅命を奉じて磐梯山山頂に奉斎したのが創建といい、また、元明天皇和銅年中の勧請とも。聖武天皇天平元年、あるいは嵯峨天皇弘仁四年、見祢山の南麓に遷座し、見祢明神・峯明神ともよばれていた。承元元年、現社地に遷座。磐梯山(古名:磐椅山)信仰の象徴としての神社だったようだ。磐椅と書いて、「いわはし」と読むが、一説には、天上へ続く、「石の橋」であるという。」
「会津磐梯山は明治二十一年の大爆発で変形したが、以前の山容はととのい、山頂は高く天に向かってそびえ立っていた石(磐)の梯(はしご)すなわち「いわはし」の山であった、このようにして、古い歴史と社格をもった磐椅神社は会津磐梯山は父なる山で母なる会津の里に豊作をもたらす神として、人々の信仰のよりどころであり会津の土着の信仰に基づく神体山崇拝の神社で磐椅大明神・峰明神として古くより東北の文化的・精神的な一大支柱として今日に至っております。」
「神社前には大鹿桜があり、天元元年(947)、村上天皇の勅使が奉納したとされるサトザクラの一品種、八重桜で『会津の五桜』の一つ。開花時は白色で、その後ピンク色に変わり、最後には鹿の色に似る事から『大鹿桜』と呼ばれます。」
鳥居杉も巨木ですが1本だけが残って、もう一本は切り倒されています。あわ歌を響かせて頂きましたが、光が沢山降り注いでいました。その時のお言葉です。
「極まりて、一つと成られて参られませ。この地の古き所縁は光りの中へ参りて離れ、ここの地こそ守りおく。歌いて光は是より参るを拡がり成され。」
これで予定の巡りは終了です。裏磐梯五色沼を目指して車を進めます。車中では又先ほどの貴き地の事でお言葉がありました。
「頂きたる多くの声を皆々聞きて、見つけ行き、いのち募る想いを出だし、しっかりまとめ訴えなされ。はっきり致して共に参りましょうぞ。」
更に五色沼から福島市に向かう車中でも以下のお言葉がありました。
「くるくる回る、回る回りて、沈みて回りて出で来る。上がりて下がりてその先に、光て大きな杭がある。立ちたる石はその印。岩にまつわる数々が見る影も無きより、そいてたまりておるぞ。」
色々な情報を総合してその地はほぼ特定できました。次に向かう目的の地を私がいつか皆さんと巡ることになりそうです。まずは近日中に下見をする予定です。
17時頃に福島駅に無事に着きました。お蔭様の素晴らしい3日間の旅でした。儀式でのお言葉をまとめてみると以下になります。
「届きたるは皆々様への大きなる光。目には見えねど、是よりを開き行く。」
「ゆるり、ゆるりと入り行きて、新たなるを生み出だす。この時のこの光、是よりの時を皆々様大切になさりませ。」5日
「只今よりお伝え申します。我この身はこの月に、皆々様へこの身を通る光を伝えて回り行き、光成す身の方々と成り行きて頂きます。この度の3日、それぞれにお渡しいたして参る。皆々様には少なからず変化を感じ、又ご覧に成られましょう。この事は是よりの始まりと為さりて、あわ歌の響きを発します。益々その身を新しきへとお進め下され。この光は見えぬもの、その身でしっかり受けられて感じて下されませ。是より共々 天地繋ぎて参る。」
「大いなる皆々様方、この日この時忘れずに、是よりもこのあわ歌響かせて、光の道と成りなって、大きなる新しきを生み出されませ。」6日
「只今よりこの地生み出されし七大宇宙の方々降り来たりて、皆々様と是より共々に参り行く。このこと皆々様にはお分かり頂け無きこと成れど、是より必ずや光を通して共々と成りましょう。大いなる光をどうぞお許し頂きたきなり。是より共々歌いて響きて参ります。」
「目に見えねど、皆々様とここに在りて、共に響くは誠に嬉しき。大いなる皆々様、ご自分の全てを讃え、嬉しき時を過ごし行かれませ。多くの言葉より、この音と響きが真を伝え発し行きます。皆々様は全てお持ちになりました。どうぞ是よりも新しきへと参らせませ。」7日
3日間の儀式のお言葉全てを通して読んでみると改めて今回の巡りの意図、意味はっきりしてきます。ありがたき言葉であり、参加出来て共に巡る事ができたことはありがたきことです。これから各自が進み行く新しきへの準備は整い、後は各自の定めること、そして響き光を発する事の様です。
仙台に夜戻りましたが肉体的疲労というよりは、別物の疲れがありました。身体の変容が成されていたようです。そして10日朝に中山さんから頂いたお言葉が以下です。
「本日只今是よりの時、その身より発し行く事々は大きく変わり行く始めなり。未だ至らぬその身の中の光を大きく動かして参ります。」
大きな変化、動きがこれから始まります。2013年7月7日、七夕を中心に繋がり拡がりゆくあわ歌の音を通して、いよいよ光と響きで新たに参る事になりました。