2013年7月26日金曜日

225「遍路」2013,7,25

 真言宗を創始した 弘法大師空海は大きな存在です。空海ゆかりの地、四国の遍路について以下の記載があります。

 古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生れた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代がたつにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海(補陀洛山寺#補陀洛渡海)の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。
 江戸時代ごろから西国三十三所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになった。そのうちの一つが四国八十八ヵ所である。阿波国の霊場は「発心の道場」、土佐国の霊場は「修行の道場」、伊予国の霊場は「菩提の道場」、讃岐国の霊場は「涅槃の道場」と呼ばれる。他の巡礼地と異なり、四国八十八箇所を巡ることを特に遍路と言い、地元の人々は巡礼者をお遍路さんと呼ぶ。八十八箇所を通し打ちで巡礼した場合の全長は1100- 1400km程である。距離に幅があるのは遍路道は一種類のみではなく、選択する道で距離が変わるためである。
 
 私は修行好きの人間ではありませんので、これまでお遍路さんをしようと思ったことはありません。しかし空海の事は興味がとてもあります。大学時代の学生紛争盛んなころ四国を巡り、何故か島根県大田市の真言宗の城福寺にご縁し、休みにはしばしば訪れていました。開業してから高野山大学教授の松永有慶氏とご縁を頂き、中国、チベット、インド、スリランカ、ネパールなど3度にわたり研修旅行に同行させて頂く機会がありました。
 松永先生は大僧正、高野山・補陀落院住職で、後に高野山大学名誉教授、同大学学長。高野山真言宗総本山金剛峯寺・第412世座主、高野山真言宗管長。全日本仏教会会長(2008-2010年)などを歴任されました。
 
 さて、9月に予定されている中山博さんと巡る淡路島・四国の旅の下見に先日行ってきました。それに先立ち7月20日に東京初台のオペラシティ—で開催されたオペラショー「和魂」に参加しました。
 木内鶴彦さんとの繋がりで今回参加しましたが、グリーンガイヤ関係の全国各地から沢山の友人、知人が集まりさながら儀式の様でもありました。
 オペラシティ—は初めてでしたが素晴らしい会場で1,600名の方々が集まっていました。その内木内さんご縁の方が550名とのことで随分沢山の方々にお越し頂いたようです。プログラム第一部は天の岩戸開き、第二部は神への祈りです。オーケストラ、和太鼓、舞等とオペラ歌手の西村玲光の歌で繰り広げられる世界は新たな幕開けを感じる時空間でした。最後に君が代を雅楽のしちりきの音階で歌われましたが驚きの響きでした。
 コンサート終了後は同所53階の素晴らしい展望の会場で立食パーティーでしたが、花火が打ち上げられているのが見えましたが、暫し楽しい宴を満喫しました。何故か私が岩戸びらき、船出の乾杯の発声のお役をさせて頂きました。

仲間と新宿で2次会をしてゆっくり休んで、翌朝四国巡りに旅立った次第です。
 
 21日早朝東京を発ち伊丹空港からレンタカーを借りて旅の下見、諸々のチェックの旅の始まりです。淡路島から先ず入り讃岐、阿波、土佐を巡りましたが、バスが道を通れるか確認し、行程の時間、更に素晴らしい予定外の新たな候補地が無いのか、入念な視察です。
 結論は新たな素晴らしい処を組み入れる事にしました。しかし、到底バスでは無理な道です。バスを止めてレンタカーでとかいろいろ思案し検討しましたが諸般の状況を勘案して行程を組み直して、少し遠回りする、少し歩いて頂くことで、やはりバスで巡る事にしました。
 新たな追加地点候補は淡路島では諭鶴羽(ゆづるは)神社、讃岐では水主神社、本宮山・くじら岩、土佐では鳴無(おとなし)神社、梼原天狗高原、四万十川源流点、稲葉洞・綾姫龍王神社等です。結果的にカットされるところも何か所かありますがこれから最終案を決めますが当日又新たな指示がある事でしょうから常に臨機応変にです。
 水主神社、本宮山・くじら岩は先の中山さんと巡った山形、福島の旅で7月7日に降ろされた「134,5 42」の場所と思われるところです。
 今回はほとんど写真を撮りませんでしたが何枚か紹介します。その内で鳴無神社、稲葉洞・綾姫龍王神社で光が強烈でした。特に最後に巡った稲葉洞・綾姫龍王神社は驚きです。
石上神社
岩上神社 神籬(ひもろぎ)岩
くじら岩




ゆづるは山 平和祈念塔


大麻比古神社 ご神木

鳴無神社
四国カルスト県立自然公園 天狗高原
 
 
 
稲葉洞・綾姫龍王神社

9月参加される方は楽しみにして下さい。しかし山登りがありますので準備怠りなくお願いします。

 同行二人(どうぎょうににん)は四国八十八箇所の霊場めぐりのお遍路さんたちにはいつでも空海がついて一緒に歩いてくれているという意味で笠に書きつける語です。目に見えなくてもそう思う人のそばに必ずいてくれている意味です。今回ひたすら車を走らせましたが、学生時代に訪れた記憶はほとんど無く、時折見かけるお遍路さんの方々を目にするたびに果たして何を思い、願って巡られるのだろうとの思いが浮かびます。己が人生にどれほどの意味があり役割があるのか、誰がそのあり様を見て、認め、受け入れてくれるのか。ただただ自分に向き合う時間です。
 私の今回の遍路も同行二人、一人ひたすら走り続け、走行距離1,020キロでした。無事に高知龍馬空港に到着でき、お蔭様で目的達成できたようです。最後に訪れた稲葉洞・綾姫龍王神社の光がそんな気持ちを抱かせて頂きました。

2013年7月19日金曜日

224「七夕3」2013,7,18

 7日朝を迎えました。今日は7月7日、七夕です。いよいよこの旅の3日目、正午の儀式を迎えることになりました。儀式は会津若松市の大塚山古墳で行う事に決めました。午前の行程はその時間に合わせて進めることになります。
 
 朝風呂を頂き6時過ぎに部屋で準備をしていると中山さんにお言葉がありました。 
「断りなしは誠に遺憾、許されざるなり。この地にありて多くの方々偽り多し。やがては知れる事なりし。今この世の規則と成しておる事々、真にあらず。守りてやがてその事に囚われ行くをたくらみて、皆々縛る元なり。」
「それぞれご自分一人で定めて、守るその身を打ち立て、しっかりと大きなる真の身と成り為さることなり。皆々知らぬ真あり。あまりに大きく、皆には見えぬこの地の仕組み、歌いて暴いて響きて光へ。」
 今日の昼の儀式に向けての各自にその認識、自覚を促すお言葉です。更に30分後にお言葉がありました。
「かくも美しきこの北の地を、古き時より守りて参りたり。今この時に真の嬉しき地と成し行きて、共々皆々あの美しき地、現しましょう。」
 そしてこれから進むべき目標を明確に示してくださいました。
 朝食もそこそこに7時半過ぎに出発です。宿泊者の皆さんに記念の七転び八起きの可愛いこけしバッチを頂き、胸にしっかり付けてこれから各所で光を頂く「認証の印」と成りました。

 最初の目的地の新宮熊野神社には8時過ぎに到着です。
 この神社は、社伝によれば「源頼義、義家親子が「前九年の役」天喜3年(1055)陸奥征討に赴いたとき、武運を祈って紀州熊野から熊野堂村(現在の河沼郡河東町)に勧請鎮座したのが始まりで、後に「後三年の役」で再びこの地を訪れた義家が、新宮の地に移すよう命じ、寛治3年(1089)完成といわれている。」
 本宮・新宮・那智の熊野三山をお祀りしています。神社の長床は重要文化財に指定されていて、その平面は、間口27m・奥行12mの長方形で名前の通り驚きの長さです。ご神木の大銀杏も樹齢600年の素晴らしいものです。長床に上がってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「お集まり頂きたる皆々様方に、響きと光りは是よりの、この大きなる宇宙と共に新しきへ向かう。どうぞ心得て響かせ、光成る身と成り行かれませ。その時、愛満ち満ちて、嬉しきと成る。」



 会津坂下町の亀ケ森古墳は「墳丘の全長が約127mで、東北第2の規模を誇る前方後円墳です。後円部は3段築成で、葺石がみられます。出土した埴輪から、4世紀後半の築造と考えられています。」と表記されています。古墳の丘には稲荷神社が祀られています。  
 私達が登って行くと杉の巨木の上にコウノトリの巣があるようです。親鳥が鳴き声を上げて飛び立っていき、数羽が天空を旋回しています。古墳3段目の小さな社の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。  
「この地に残りて続けて参りた多くの者、未だ続き行きて、守りて行きて参る。人々しっかりこの山、この原、この水、木々をご覧なさりて、それぞれの是よりを定めて参らせませ。全てが輝くこの地を望みます。」



古墳を出て程なくすると車中で中山さんにお言葉がありました。
「この地に立ちて思うは如何に皆々、形に囚われ、大小に囚われ、数々多少に囚われるかに驚きております。それぞれ一人の中に全てがありて、その全てを統べる大きな役目をお持ちです。先ず、これを成し行くことなり。従って生き続けるは多くの嬉しきなり。」
 納得のお言葉です。
 
 柳津町の円蔵寺福満虚空蔵尊は日本三大虚空蔵尊として有名な古刹です。縁起などによれば807年(大同2年)空海作とされる虚空蔵菩薩を安置するため、徳一が虚空蔵堂を建立したのが始めとされます。只見川が大きく蛇行している河岸高くにあり、橋から見る寺院のたたずまいは清水寺の様でもあり、一際目を引く素晴らしい寺院です。10時前に到着しましたが雨の中参拝しあわ歌を響かせました。  
「その時この地は皆々憩い、楽しき、嬉しき、美しき処、集いて喜ぶ大事なる処なり。かく成りたるは大きなる者頂き、治めんと致したること。これ古きなり。思い改め、限り無しと致し、共に嬉しきへ。」




 かつてこの地は素晴らしい処だったようです。共に嬉しきへ参れるように、門前町の名物のあわ餅を皆さんで美味しく頂いて次なる目的地、伊佐須美神社に向かいました。

 会津美里町の伊佐須美神社は名神大社・岩代の国一ノ宮、会津総鎮守です。四道将軍の父子がそれぞれの道をたどり、東北道各地を平定した後、この地で出会ったことから「会津」という地名が起こったと伝えられています。この時、国家鎮護のため国土開拓の神様であるイザナギノミコト、イザナミノミコトの二神を新潟県境の御神楽岳に奉斎しました。これが伊佐須美神社の起源とされています。560年に現在の宮地、東原に御神殿を造営しました。
※『古事記』と『日本書紀』の両方に記載されている話に四道将軍の伝説がある。その内容の一部は以下のとおりである。「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を『相津』(あいづ)と名付けられたという」
 流石、一ノ宮です、沢山の参拝客であふれています。ここでは正午からの儀式の為に本殿に参拝だけして失礼しました。



 大塚山古墳は会津市内の東部の小高い山の頂上にあり、山の北側斜面は墓地と成っています。墓地を抜けて古墳入口に11時40分過ぎに無事に到着できました。儀式に十分間に合います。
 大塚山古墳は4世紀末の築造と推測され、東北地方最古の古墳の一つで、大きさは全長114メートルの前方後円墳で、東北地方では第4位、福島県内でも亀ヶ森古墳に次ぐ第2位の大きさです。多くの遺物が検出された中、その代表的なものは三角縁神獣鏡です。「卑弥呼の鏡」と通称されるこの鏡は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる物です。
 


 正午の儀式前にお言葉がありました。
「只今より、この地生み出されし七大宇宙の方々降り来たりて、皆々様と是より共々に参り行く。このこと皆々様にはお分かり頂け無きこと成れど、是より必ずや光を通して共々と成りましょう。大いなる光をどうぞお許し頂きたきなり。是より共々歌いて響きて参ります。」 
 お言葉に引き続いておわ歌を歌い、響かせました。歌い終わってお言葉を頂きました。 
「目に見えねど、皆々様とここに在りて、共に響くは誠に嬉しき。大いなる皆々様、ご自分の全てを讃え、嬉しき時を過ごし行かれませ。多くの言葉より、この音と響きが真を伝え発し行きます。皆々様は全てお持ちになりました。どうぞ是よりも新しきへと参らせませ。」
 ありがたきお言葉です。「皆々様は全てお持ちになりました。どうぞ是よりも新しきへと参らせませ。」とあります。多くの言葉よりこの音と響きが真を伝え発し行きます。しっかり定めて只々で参ることです。

3日間の儀式は全て終える事が出来ました。ありがたきことです。
 昼食は会津の元祖わっぱ飯、郷土料理の「田季野」です。13時予約でしたので少し前に行き駐車場にも5台止められ、店に回ったら沢山のお客さんで長蛇の列です。団体さん達が待たされていますが、私達はスムーズに二階個室で美味しいわっぱ飯を頂けました。お腹も満たして午後の巡りの開始です。



 荒脛巾(アラハバキ)神社は猪苗代に向かう街道から南下した湊町赤井にあります。14時少し過ぎに着きました。今まで訪れたアラハバキ神社の中では最も立派で綺麗にされています。この地の方々に大事に祀られている様に思いました。ここであわ歌響かせました。その時のお言葉です。
「最後にここに残りしは、大きなる傷持ちたる古き御魂。只今ここ離れ行く。その時に皆々様の光あるは嬉しきなり。これこそ大きなる恵み、嬉しき豊かなる古き地を再びと夢見るなり。」
 


次は磐梯山の南に鎮座する土津(はにつ)神社、磐崎(いわはし)神社です。そこに進む車中で、今後12月にどのような巡りを企画したらよいか中山さんにお尋ねしたところ以下のお言葉がありました。
「七大宇宙の方々の皆様の思いの極まりて、訪ねて果たすその事は、この島国の貴き地にあり。その場所は、134,5、 42、なり。」
 貴き、その場所は134,5  42とあります。謎解きが始まりました。緯度経度で考えると日本海の海の中。東経で考えると相生市、香川県辺りです。いろいろ検討している内に目的地に到着です。土津神社は参拝だけですぐ近くの磐崎神社に向かいました。
 
 磐崎神社は磐梯山から流れ来る小川に沿って、車1台が通れる小道を進むと林の中に鎮座していました。なかなか霊気ある地です。神社にまつわる社伝などを幾つか紹介します。
「神功皇后摂政時代、武内宿禰(たけうちすくね)が勅命を奉じて磐梯山山頂に奉斎したのが創建といい、また、元明天皇和銅年中の勧請とも。聖武天皇天平元年、あるいは嵯峨天皇弘仁四年、見祢山の南麓に遷座し、見祢明神・峯明神ともよばれていた。承元元年、現社地に遷座。磐梯山(古名:磐椅山)信仰の象徴としての神社だったようだ。磐椅と書いて、「いわはし」と読むが、一説には、天上へ続く、「石の橋」であるという。」
「会津磐梯山は明治二十一年の大爆発で変形したが、以前の山容はととのい、山頂は高く天に向かってそびえ立っていた石(磐)の梯(はしご)すなわち「いわはし」の山であった、このようにして、古い歴史と社格をもった磐椅神社は会津磐梯山は父なる山で母なる会津の里に豊作をもたらす神として、人々の信仰のよりどころであり会津の土着の信仰に基づく神体山崇拝の神社で磐椅大明神・峰明神として古くより東北の文化的・精神的な一大支柱として今日に至っております。」
「神社前には大鹿桜があり、天元元年(947)、村上天皇の勅使が奉納したとされるサトザクラの一品種、八重桜で『会津の五桜』の一つ。開花時は白色で、その後ピンク色に変わり、最後には鹿の色に似る事から『大鹿桜』と呼ばれます。」
 鳥居杉も巨木ですが1本だけが残って、もう一本は切り倒されています。あわ歌を響かせて頂きましたが、光が沢山降り注いでいました。その時のお言葉です。
「極まりて、一つと成られて参られませ。この地の古き所縁は光りの中へ参りて離れ、ここの地こそ守りおく。歌いて光は是より参るを拡がり成され。」




 これで予定の巡りは終了です。裏磐梯五色沼を目指して車を進めます。車中では又先ほどの貴き地の事でお言葉がありました。
「頂きたる多くの声を皆々聞きて、見つけ行き、いのち募る想いを出だし、しっかりまとめ訴えなされ。はっきり致して共に参りましょうぞ。」


 更に五色沼から福島市に向かう車中でも以下のお言葉がありました。
「くるくる回る、回る回りて、沈みて回りて出で来る。上がりて下がりてその先に、光て大きな杭がある。立ちたる石はその印。岩にまつわる数々が見る影も無きより、そいてたまりておるぞ。」
 色々な情報を総合してその地はほぼ特定できました。次に向かう目的の地を私がいつか皆さんと巡ることになりそうです。まずは近日中に下見をする予定です。

 17時頃に福島駅に無事に着きました。お蔭様の素晴らしい3日間の旅でした。儀式でのお言葉をまとめてみると以下になります。

「届きたるは皆々様への大きなる光。目には見えねど、是よりを開き行く。」
「ゆるり、ゆるりと入り行きて、新たなるを生み出だす。この時のこの光、是よりの時を皆々様大切になさりませ。」5日
「只今よりお伝え申します。我この身はこの月に、皆々様へこの身を通る光を伝えて回り行き、光成す身の方々と成り行きて頂きます。この度の3日、それぞれにお渡しいたして参る。皆々様には少なからず変化を感じ、又ご覧に成られましょう。この事は是よりの始まりと為さりて、あわ歌の響きを発します。益々その身を新しきへとお進め下され。この光は見えぬもの、その身でしっかり受けられて感じて下されませ。是より共々 天地繋ぎて参る。」
「大いなる皆々様方、この日この時忘れずに、是よりもこのあわ歌響かせて、光の道と成りなって、大きなる新しきを生み出されませ。」6日
「只今よりこの地生み出されし七大宇宙の方々降り来たりて、皆々様と是より共々に参り行く。このこと皆々様にはお分かり頂け無きこと成れど、是より必ずや光を通して共々と成りましょう。大いなる光をどうぞお許し頂きたきなり。是より共々歌いて響きて参ります。」  
「目に見えねど、皆々様とここに在りて、共に響くは誠に嬉しき。大いなる皆々様、ご自分の全てを讃え、嬉しき時を過ごし行かれませ。多くの言葉より、この音と響きが真を伝え発し行きます。皆々様は全てお持ちになりました。どうぞ是よりも新しきへと参らせませ。」7日

 3日間の儀式のお言葉全てを通して読んでみると改めて今回の巡りの意図、意味はっきりしてきます。ありがたき言葉であり、参加出来て共に巡る事ができたことはありがたきことです。これから各自が進み行く新しきへの準備は整い、後は各自の定めること、そして響き光を発する事の様です。

 仙台に夜戻りましたが肉体的疲労というよりは、別物の疲れがありました。身体の変容が成されていたようです。そして10日朝に中山さんから頂いたお言葉が以下です。
「本日只今是よりの時、その身より発し行く事々は大きく変わり行く始めなり。未だ至らぬその身の中の光を大きく動かして参ります。」
 大きな変化、動きがこれから始まります。2013年7月7日、七夕を中心に繋がり拡がりゆくあわ歌の音を通して、いよいよ光と響きで新たに参る事になりました。

2013年7月18日木曜日

223「七夕2」2013,7,17


 6日朝は雨があがり良い天気です。朝食を7時前に頂き、7時半前には出発です。何しろ今日は沢山の処を巡る予定で、18時の儀式前には宿に入っている必要があります。蔵王温泉から下る道では、小高い山々に雲海が綺麗に現れ見えて流石山形です。今日最初に目指すは南陽市の宮内熊野大社です。
 そんな車中で早々に中山さんにお言葉がありました。 
「必ず成し行く。是よりこの身 大きく拡がりて全てを統べるなり。その時現るるは大きなる闇。見まごうほどの輝き持ちたる身なるが黒きを包む偽の輝き、この地の皆を欺くもの、心して為さり行かれませ。」
 大きな闇が現れるようです。中山さんはその闇に入って行く覚悟をお話になっていました。果たして大きな闇とはこの世ではどこにどのようにあるのでしょうか。

 宮内熊野大社は8時半頃に到着です。境内は掃き清められ今日は大事な祭典があるようです。この神社は東北の伊勢神宮ともいわれていて、大同元年(806年)平城天皇の勅命により再建されたと伝えられています。本殿裏にはうさぎが三羽隠し彫りされていて、三羽すべてを見つけたら、願い事が叶うそうです。私達は本殿前であわ歌を響かせて頂きました。
「ありがたき、ここにありて大きなる光賜りたり。本日この光 皆々と共に持ち行き、配りて回ります。ありがとう。」



 次に向かうのは長井市の大石山洞雲寺です。かなり山の奥の道を進む車中で、又、中山さんにお言葉がありました。
「うつしたる光 発して下され」

 大石山洞雲寺への山道には一寸不安があったのですがどうにか無事に9時半頃到着です。参道の階段を上がると、そこには今は文化財の山門だけが残っています。お寺の建物は無く、建物は壊されてその廃材がうず高く山の隅に積み上げられて寺所は原っぱになっています。
 目の前の小高い山の中腹に大石(高さ左3.3m、右6.5m、上面幅東西7.5m、長さ11.6m、周囲34m)が鎮座しています。象に似た圧倒される程の見事な花崗岩ですが、何故、何の為、どうやって運んだのか不明で、不思議??の世界です。その巨石前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。  
「あ〜(拍手)光を持ちて皆々集いここに発したり。(拍手)
共々この光、この地へ発して参らせませ。再び大きなる地と成りましょう。共々一つと成り行きて。」



 次の目的地の稲荷森古墳は南陽市にあります。4世紀後半〜5世紀初頭の築造と推定されている全長約96mの前方後円墳です。10時半前に着いて古墳の上に上がり、ここではあわ歌を歌わずに、あ〜3回で響かせて行いました。その時のお言葉です。
「只々のこの響き繋ぎ行く。皆々様のその身を通して是より、あ、の音5回頼み申す。」
 お言葉の通りに後で、あ〜を5回唱えさせていただきました。


 次に向かうのは高畠町の日向洞窟です。ここで何故か私が道を曲がるのを1つ間違えて回り道をすることになりました。しかし、これも必要な配慮でした。
 田んぼの道をまっすぐ進むと山の中腹に巨石が二つに割れたように突き出しているのを見ることが出来ました。名前は分かりませんがその南向きの立岩を見て、車中、中山さんからお言葉がありました。
「1262年前この地の方々この岩に大きな思い託して祈り始めたり。光を受けてこの地に送る大きなる仕組みの一つと心得たり。」
 なんという事でしょうか、詳しい年代まではっきりと云われるのには驚きです。いずれにしてもこの高畠の地は古くから栄え、自然の中で祈りと共に人々の営みが成されていた地の様です。

 日向洞窟には11時頃に到着です。ここは通称「立石」と言われ、最古期の縄文土器群が発掘され、縄文土器の起源に関する貴重な資料として、縄文文化の始源、草創期研究に大きく貢献したところです。そこであわ歌を響かせました。
「この大きな光を受け、この地も元へと帰り行き、暖かき日がいっぱいの豊かなる地へ戻られよ。大きなる嬉しきぞ。」




 一の沢洞窟は10分弱の処にあります。日向洞窟遺跡と並ぶ、我が国においても数少ない縄文時代草創期の洞窟、岩陰遺跡として国指定史跡として指定されています。駐車場から少し山を登ると大きな洞窟が何個かあります。木々に覆われて大いなる古の営みをイメージするに十分な自然の空間です。その一番大きな洞に上がりましたが岩場で足場が悪いので7人だけ上で残りの方々は下であわ歌を響かせました。歌っていると強い風が吹き、木々が揺れ動き、私達の響きに将に呼応して頂いたようです。その時のお言葉です。
「あ〜(拍手)お出まし為さるや。(拍手)
う〜(拍手)伺います。(拍手)
いたずらにこの地いじりて皆々はただ自分の為に使いて荒みたる地となすは大いなる悲しみ。古き方々悲しみ発すればこの地は益々疲れ弱る。生み出だされよ、新しきを。(拍手)
はい、分かりました。共々この歌響かせて、生み出だすぞ。新しきは。(拍手)
あ〜い。(拍手)」  
 





爪割石庭公園は10分弱の処にあり、石切り場だったところですが今は公園になっています。直角に切り崩されたそそり立つ岩山は100m位の高さでしょうか。その岩山に囲まれた広場であわ歌を響かせました。そこでのお言葉です。
「この地この場は大きなる傷持ちて、是よりは無しとなる。新しきは新たなる地と成りて参られませ。その時を待たれませ。」



 高畠町のふるかわというお店でお蕎麦の昼食を頂きました。食事が終わるころにこの日も何故か雨が降り出しました。これは午後の予定は早めに切り上げて儀式に備えなさいということと理解して、阿久津八幡神社、亀岡文殊堂はキャンセルです。どちらも有名な観光名所で多くの観光客が訪れるところです。
 午後の予定は、宿に入る前に巡るところは1か所、米沢市の成島八幡神社です。
 成島八幡神社は案内板によると「宝亀8年(777)の創立と伝えられる。奈良時代光仁天皇の御代、蝦夷が乱をおこし、大伴駿河磨を援軍として派遣、宇佐神宮に念じて勝ったため、勅命を得て八幡神社を建立した。大同2年(807)将軍坂上田村麻呂が戦勝を祈願し社殿を造営する。永保元年(1081)源義家は社領を寄進し、以来長井氏、蒲生氏、伊達氏、上杉氏と歴代の藩主の崇敬をあつめた。現在の拝殿は伊達宗達が永徳3年(1383)に造営したものであり、本殿は上杉氏4代綱勝公が順応3年(1664)に造営した。仙台市の大崎八幡宮(国宝)は伊達政宗が成島八幡宮を分霊して創建した。 米沢市」 
 14時半前に到着して長い参道を登り参拝しました。参拝者は誰もいない静かな境内であわ歌を響かせました。そこでのお言葉です。
「この上は、この地に起こり来る事々に光を当てて消し行きて鎮まれる地と成し行きて、平らな島作りて成り上がる事なり。本日皆々、その身の光持ちたれば是よりも繋ぎ続けられませ。」 


 今日の宿は福島県喜多方市の熱塩温泉山形屋です。16時ごろには到着してゆっくりお風呂に入り18時からの儀式に備えました。

 17時46分に今日の儀式の進め方のお言葉がありました。
「本日の儀 ・申し上げる事あり ・あいうえお三回 ・あわ歌一回 ・あい三回 ・伝えあり」
 17時50分に儀式前のお言葉です。
「只今よりお伝え申します。我この身はこの月に、皆々様へこの身を通る光を伝えて回り行き、光成す身の方々と成り行きて頂きます。この度の3日、それぞれにお渡しいたして参る。皆々様には少なからず変化を感じ、又ご覧に成られましょう。この事は是よりの始まりと為さりて、あわ歌の響きを発します。益々その身を新しきへとお進め下され。この光は見えぬもの、その身でしっかり受けられて感じて下されませ。是より共々天地繋ぎて参る。」

 18時儀式がなされた後以下のお言葉がありました。
「大いなる皆々様方、この日この時忘れずに、是よりもこのあわ歌響かせて、光の道と成りなって、大きなる新しきを生み出されませ。」
 
今日もありがたくお役目を果たすことができました。そして参加の皆さんに大きな光3日間渡して頂けます。しっかり頂きたいものです。そして中山さんはこの7月に全国にこの事、光をお伝えして回られることでしょう。
 1日の巡りも無事に出来、大事な儀式も終わって、今日はあわ歌を通して光と響きのエネルギーを強く頂いた感じで、身体も休息が必要なようです。今夜の宴も大いに盛り上がりましたが、2次会もそこそこに早目に皆さんお休みになりました。