2013年11月29日金曜日

257「霜月5」2013,11,29

    太秦(うずまさ)とはユダヤのヘブライ語では「処刑された神(救い主)」つまり「処刑されたイエスキリスト」を意味し、秦氏は太秦と大を祀り、イエスキリストへの信仰がこの地に広まる事を願ったのでしょう

「秦氏は政治の表舞台には立たず、技術集団として日本のあらゆる方面に足跡を残してきた。その代表的な一つが養蚕から始まる機織の技術であろう。秦氏の伝えた技術は日本人の器用で真面目な性格にマッチし、素晴らしい織物として成長し、遠く西洋にまで伝えられた。言うまでも無くハタオリ・機織のハタは、秦氏の秦から来ている。このほかにも灌漑、治水、冶金などの技術も持ち込んだ。彼らは原始キリスト教・景教に奉職していたと言う。
彼らが何故日本に来たかについては幾つかの伝承がある。
一つは秦の始皇帝の造った秦国が敗れたとき、日本に亡命してきたと言う説。
一つは万里の長城の建設の使役労働に耐えられず、日本に逃れてきたという説。
どちらの説が正しいか定かでないが、日本に来たときに秦氏と名乗った。
この秦氏説にも二つあり、一つが秦の始皇帝の末裔と言う説と、一つはそう名乗った方が当時の日本で篤く迎えらるからと言う説である。

    秦氏の功績が素晴らしいのは機織などの技術と並んで、大和朝廷のためか、自分たちのためか定かではないが、神道の布教に多大な貢献をしたと言うことであろう。
    秦氏が係わった神社の多さに驚かずには居られない。
    まずは有名な京都伏見の稲荷神社、この稲荷、実はINRI(イエスキリストを意味する)の音に漢字を当てた物と言われている。冒頭に書いたように秦氏は原始キリスト教・景教の信者だったことからと言われている。稲荷神社は日本の神社の中で最も多く、その数は2万社に近いとされる。
    次が八幡神社、分解すると「ヤ・ハタ神社」となる。その数は稲荷に次ぎ全国で1万5千社に及ぶ。ハチマン神社と呼ぶようになったのは源八幡太郎義家との係わり以降であろう。
「ヤ」はイスラエルの神「ヤハウエ」を意味している。ヤマトのヤと同じである。
    八坂神社の祇園祭を始めたのも秦氏だと言われている。八坂神社もベスト8である。八坂の‘ヤ’も気にかかる。
又秦氏と言うと京都太秦の広隆寺も有名であるが、同じ地に「大酒神社」がある。この神社の旧名が「大辟神社」、中国ではこの大辟をダビデと読ませる。イスラエルの王・ダビデ神社と言うことになる。
    こうして見ると秦氏はイスラエルの神・ヤハウエを祭り、ユダヤの子・イエスを祭り、そしてユダヤの王・ダビデを祭っていると言うことになる。

 よもや我々は知らないうちにイスラエル・ユダヤの神たちを礼拝していることにならないだろうか。

平安京・・・実はユダヤ語にすると「エルサレム」になると言う。説明するまでも無いがイスラエルの都・聖都である。」

 

    秦氏が創建したと言われる神社は、先にあげられた伏見稲荷、宇佐八幡神社、だけでなく松尾大社、賀茂神社、八坂神社、日吉大社、金刀比羅宮、白山神社、愛宕神社があります。神社の配置等がユダヤの幕屋に似ていますし、その多くの衣装や作法がユダヤのものと似ています。山伏の服装やほら貝もです。現在日本古来の神道と思えることが秦氏の影響により大和朝廷成立後に作り変えられ、作り出されたものかもしれません。

    天照大神を皇室の祖神として祀る伊勢神宮にはユダヤのダビデ紋、六芒星が見られます。大和朝廷以降の多くの神社は秦氏の影響で祀られていると言えそうです。

    という事は現在日本古来の神道と思えることが秦氏の影響により大和朝廷成立後に作り変えられ、作り出されたものかもしれません。

    更に驚くべきことですが日本の初代天皇である神武天皇に付いて以下のこともあります。

神武天皇の和風諡号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」の意味で、エフライム族の北朝イスラエル王国再興であると言われています。

    そして記紀神話で述べられる創世のあり様が旧約聖書のあり様に似ているとの指摘もあります。古事記は40代天武天皇の命で稗田阿礼、太安万侶の作成で712年に42代元明天皇に献上しています。日本書紀は同じく天武天皇の命により舎人親王が編纂し720年に43代元正天皇に献上しています。天武天皇は完成を見ずに亡くなっていて、天武天皇の皇后が41代持統天皇で、初の女性天皇となります。

    天照大神は記紀以前は男神として祀られていますが、記紀では女神とされています。天照とはイエスキリストを指すという指摘もあります。いずれにしても女性天皇を正当化する為に持統天皇の意向が反映されたとも言われています。そこには壬申の役、大化の改新で実権を握った中臣(藤原)鎌足の子、藤原不比等の影響があります。

    鎌足は百済王の子の豊璋と言われ、日本と百済の同盟を担保する人質で日本に来ていたようです。中大兄皇子(のちの38代天智天皇)に接近し蘇我入鹿の殺害に加担し、律令制度の中で実権を握って行きます。天智天皇の弟の天武天皇との権力争いが南北朝を演出することになります。そして長く藤原氏の世が続くことになります。

 

    大和朝廷の設立に係り、継続支えた豪族は物部氏蘇我氏、尾張氏、大伴氏、秦氏、賀茂氏、更には出雲国造家、安倍氏、上毛野氏そして藤原氏などがいます。

    大和朝廷は当初、強い王が打ち立てた中央集権国家でなく多くの首長や豪族が大和に集まってできたものの様です。

    既に大和にいた物部氏が国の土台を作り上げた存在です。大和先住の長髄彦の妹を娶っていたニギハヤヒから神武天皇に政権が移譲されるのですがそのあたりの真偽も定かでありません。出雲と大和の権限移譲があったのかもしれません。その事に付いて

「邪馬台国を滅ぼして、倭の地を物部氏の婿入りする形で政権を移譲された。」という方もいます。

    そして倭を大和と改め大和朝廷を興したのでしょう。その当時の古墳の形体からその影響を推し量ることは出来る様です。物部氏は徐福と共にきたもののようで海部氏は物部氏の中の物部氏と言われます。京都の丹後一宮の籠神社は代々海部氏が宮司を務めていますが元伊勢とも言われ、大きな存在です。

 

    そして、10代崇神天皇(神武天皇と同一人物と言われる。15代応神天皇も同じではという意見もある)の時に天照大神と倭大国魂神を宮中に祀っていたのですが災いが起きてやがて天照大神は各地を転々として最終的に伊勢神宮に祀られることになります。

宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。

同年8月7日、臣下の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。

    倭大国魂神は元々の土地の神で大国主と同じともいわれます。物部氏の三輪山の大神神社なのでしょうか。大物主神は蛇神であり水神または雷神であります。

   大和王朝の当時は三輪山の麓辺り纒向遺跡が有るあたりと思われます。天皇は大王的な権限を持っていたのですがやがて25代継体天皇から王統の断絶ないし王朝の交替があったとみなすという説があります。

    やがて6世紀に仏教伝来がおこります。蘇我氏と物部氏神仏の覇権争いで蘇我氏の仏教が勝った事により、神道を応援していた物部氏は蘇我氏によって都から追い出されたていき、吉備津、陸奥等に逃れます蘇我氏は竹内宿祢を祖とすると言われ推古天皇、聖徳太子もこの一族の様で、暫し権勢をふるいましたが藤原氏により滅ぼされていきます。そして先に触れた大化の改新となります。

    飛鳥、奈良の平城京から京都、山城の国に都が移り平安京が出来ます。山城の国は秦氏の領地で多大の貢献をします。そしてやがて物部氏同様に神道を推していた秦氏は時代の表舞台から消えて行きます。

    秦氏は多くの渡来人の中でも藤原氏と並ぶ双璧ですが。藤原氏が大化の改新からこの日本の政治に深く係わってきたのと比べると、秦氏は政治の表舞台には立たず、技術集団として日本のあらゆる方面に足跡を残してきたといえます。


 出雲に係ることで以下の表記に目が止まりました。

須佐神社、そして出雲大社にお参りに行ってきましたが、そこで見たものはあくまで、秦氏系の神社とは違う流れの神社形式です。おそらく北イスラエル部族にルーツがあるのかと想像しましたが、いずれにしましても、神社であるが故にレビ族も絡んでいると考えて良いかと思います。また、イスラエル、ユダヤの血統は母方に由来するものであり、また、部族同士の婚姻もごく普通に存在したことから、一概にスサノオはレビ人とは言えず、結論を出すには更なる精査が必要と思われます。

 

 そろそろまとめなければなりません。

    聖徳太子の言葉で「和を以て貴しとなす」はつとに有名です。17条の憲法の第1条に記される条文です。何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良いということで私心を無くすることの様です。しかしこの事が実践されていたのかは疑問です。先ずそれを掲げなければならなかったほどに当時はいろいろな部族、考えが入り乱れていたのでしょう。倭から大いなる和の大和の名に変わったのは意味がありそうです。

    倭の地に既に国の神、倭大国魂神がいて、天津神と言われる天照大神を共に祀る事が出来なかった。そのままに天皇を中心にこの国は進んできていますが、先ずはこの二神の和合が成せるのかが鍵です。現在は既に渡来の民も2000年程の時間と共に融合して日本人としてあります。隠身としての存在の中でその和合が成されなければ難しいことと想います。

 

    毎年1123日は新嘗祭です。「天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。」宮中行事では大事なものです。そして天皇が新たに即位する時にその年の11月23日に成されるのが大嘗祭です。その儀式に付いては以下のようにあります。

 

祭の当夜、天皇は廻立殿(かいりゅうでん)に渡御し、小忌御湯(おみのおゆ)で潔斎して斎服を着け、深夜、悠紀殿(ゆきでん:千木伊勢神宮外宮と同じ外削ぎ)に入る。悠紀殿には、南枕に布団)が敷いてあり、と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。布団に置いてある枕の名は坂枕(さかまくら:逆枕の意味か?)という。この寝具類は神座、神の為に設けられたものであり、この中に天皇が直接入ることはない。悠紀殿では、神饌を神に供し、告文を奏して神と直会(なおらい)、つまり神に献じた神饌を、天皇親ら(みずから)聞こし召す(食べる)のである。廻立殿に戻り、次いで主基殿(千木は伊勢神宮内宮と同じ内削ぎ)に入り、悠紀殿と同じことを行う。

 

 更に以下の指摘に出逢いました。

バビロニヤの王は古来、毎年、年頭に厳粛な儀式を行なった。それは王衣を脱いで 神の前にひれ伏し、改めて遵法を誓った後、衣冠をつけて、王位に復してから儀式にはいる独特の復活儀礼で、それを毎年繰り返した。これは我が国で毎年行なわれた古式の大嘗祭で神前に高く真床が敷かれ、天皇は位冠を全て脱いで、板枕をして真床に横たわり、追衾(おうふすま)を被って物忌みの後、改めて現(あき)っ神として起き出られてから、冤服(べんぷく)をつけて高御座(たかみくら)に登り、百官の拝謁を受けられた儀式と、その信仰も形式もまったく同じである。この世界にも希な表現方式をもつ2つの儀式が、思想と信仰の一致で、天皇が<シュメール文明>の後継者であり、そこに強力な都市国家<スサ>が実在したのだから<スサノオ>とは<スサの王>だった史実を、物(もの)の見事に幾重にも立証しているのである。

 

 事の真偽は解りませんが、意識としては倭とユダヤのそれぞれの隠見のあり様を糺し、和合を願う事、その為に何が出来るのかです。

 113日文化の日に京都のTHD本社で新生祭が開催されました。新生祭は生きたまま死に装束の中で儀式により生まれ変わります。ある意味で実存的転換機序が働き、己に影響する指導霊の変化が起こり得るのかもしれません。新生祭も当事者だけでなく、場を共有する参加者もその変化を享受できます。個の集合であるグループ、国でも想いを「前後裁断し、只今の意識」で新生祭を願う事でスイッチが入るのかと思います。

そんなことを思って霜月が終わります。

2013年11月28日木曜日

256「霜月4」2013.11.28

 今回、奈良、京都の各所を巡りました。更に20冊程の書籍に目を通してみましたが、縄文から弥生、古墳、そして大和朝廷への歴史の中に、正史に現れていない多くの疑念が数々と湧いてきました。日本とは何なのかという素朴な疑問です。そこを明らかにすることがある意味、中山さんから頂いた「二つの宮を糺すこと」に繋がりそうです。
 
 日本の歴史は、三国志、魏志倭人伝で卑弥呼の現れるのは西暦3世紀でありそれ以前の記録はありません。後は8世紀に出来た古事記、日本書紀しかないのが実情で、多くの古文書は偽書扱いとされていて知る由がありません。しかし、探すと色々な情報があります。果たしてその真偽は解りませんが、避けて通れないところです。
 縄文時代から日本に住んでいた先住民族に弥生の渡来人が融け込み、持ち込んだ稲作や数々の技術が農耕や新たな文化をもたらしました。しかし物欲から、多くを支配しさらには戦争をもする様になったようです。弥生を構築したそれらの民はどこから来たのか。そして今の日本の原型はどこなのか私なりにまとめてみました。
 
 弥生時代の渡来人は相当な数で同時期に日本に来たと思われます。その多くは失われた10支族と言われる多くのユダヤ民族、中国の民が朝鮮半島を経て主には北九州から流入していたと思われます。
 丁度、紀元前722年北ユダヤ王国が滅亡します。イスラエル10部族が国家を失い、行方がわからなくなります。その60年後の紀元前660年に日本の皇室史が始まります。それは神武天皇即位紀元とされる年です。60年かけてアジア大陸を横断して来たのでしょう。しかし何故、日本を目指したのか、それは預言者イザヤの存在がありました。

「イスラエル北王国が滅亡することを預言したイザヤは、家族や大勢のイスラエルの民と共に国を脱出し、その後、日本列島を目指したと考えられます。そして 「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と名付けられたイザヤの子 が、救世主として誕生することが預言されたのです。この奇妙な名前は「急いで略奪し速やかに捕獲する者」を意味し、それは当時、北方で勢力を振るっていたアッシリアの大軍によってイスラエルが滅ぼされるという警告の象徴だったのです。一見乱暴なニュアンスを秘めた「略奪」という言葉ではありますが、これは単にイスラエル国家の崩壊だけでなく、失われた国家の復活を救世主が短期間で実現することを約束する意味も含められていたのです。それ故、救世主は「インマヌエル」とも呼ばれ、神が共におられるという象徴として、敵を速やかに滅ぼし、新天地に神の御国を造ることを目指したのです。そのイスラエルの救世主とスサノオのイメージを比較すると、その類似点が幾つも浮かびあがってきます。まず「略奪」と命名されたイザヤの子 と同様に、スサノオは「牛頭」として、「略奪」を意味するヘブライ語の「ゴズ」が名前として使われたことが挙げられます。」
 
 記紀神話においてイザナギはイザヤで、スサノウはイザヤの子インマヌエルと思われます。大和朝廷が出来る前にスサノウは日本に来て出雲を中心に治めていたのかもしれません。
 
「弥生時代の日本人像が、おぼろげながら見えてきました。アジア大陸や南方諸島をルーツに持つ原日本人の自然増加に加え、紀元前10世紀頃には西アジアからの来訪者が船で日本列島に渡り、その後も継続してイスラエルから渡来者が訪れ、これが紀元前7世紀以降、第1波目の人口増加のきっかけとなりました。実際に渡来したのは、ユダ王朝の王系を継続し、聖櫃を祀る使命を抱いていたイスラエルの南ユダ王国の民を中心とした集団であり、その数は、紀元3世紀までに20万人にも達したと考えられます。イスラエル人の存在なくして、弥生初期の人口増加を説明する術がありません。
 紀元3世紀の日本人像とは、原日本人からなる縄文人とイスラエル人からなる弥生人のミックスが主体であり、世界でも類をみない民族ルーツであると言えます。その日本人の姿が紀元3世紀から7世紀にかけて更に進化します。ちょうどその頃、 第2波となる渡来人が、今度は朝鮮半島を中心に日本に押し寄せてきたのです。その多くは日本書記を始め、多くの古文書に記載されている秦氏を中心とした大群衆です。秦氏のルーツはイスラエル南ユダ王国のユダ族であり、弥生初期の渡来人とは異なり、彼らの祖先はイスラエル国家を脱出した後、アジア大陸に留まり、長い年月を経て現地で同化したと考えられます。」
 
 古代日本文化とイスラエルの文化が酷似するのは偶然とは言えない理由がここから始まります。秦氏達の存在が大きな影響をもたらしたと言えます。

「やがて秦氏はイスラエル系中国人として、その優れた文化や経済力を背景に、アジア大陸において政治経済の黒幕として活躍しました。そして秦国が滅びた際には朝鮮半島に移住し、今度は辰韓の地においても大きな勢力となり、次第に朝鮮半島の文化に染まり、朝鮮語を語るようになりました。この秦氏が、他のイスラエル系部族らと渡来を開始したのが紀元3世紀以降です。その頃既に、日本の人口のおよそ6割がイスラエル系であると考えられ、更に150万人にもなる膨大な人数の渡来者が日本に渡り、最終的に奈良時代初期の日本の人口は450万人にまで増大します。
 こうしたことから、奈良時代初期の全人口に占める縄文系人の割合が13%程度にしかすぎない実態が見えてきます。これまで日本人のルーツは弥生人と縄文人の混血と言われてきましたが、実際には渡来系の血統が殆どを占めていたのです。また、紀元3世紀以降の渡来人の内、3分の1がユダ族、3分の1がその他イスラエル部族、残り3分の1が朝鮮半島の住民とするならば、日本人のルーツとはおよそ、縄文人系が1割強、ユダ族が3割強、他のイスラエル部族が3割強、そして朝鮮・中国系の渡来人が2割強と考えられます。
 つまり秦氏は長い時間をかけて渡来した種族であると言うことが言える。」
「秦氏の故郷は弓月国(今のキリギス国)であり、更に遡るとイスラエルからきた一族とも言われている。キリギスには「ヤマトウ」と言われる地名や、「テングゥ」と言う名の山があり、それぞれ大和、天狗*に繋がると言う説がある。
実は秦の始皇帝も同じ出目であり、始皇帝の父は呂不葦と言う名のユダヤ出身の人だったと言われている。紀元前に渡来した秦氏は邪馬台国の時代から大和王朝成立時に係わり、秦河勝の渡来の時代は、応仁天皇から聖徳太子の時代に大和朝廷に協力し、平安京への遷都などに貢献したと考えている。」
 
 秦の時代に渡来していた存在とし、秦始皇帝の命令で不老不死の霊薬を求め蓬莱山を目指して渡来したと言われる徐福がいます。紀元前3世紀後半で2度目には沢山の若者たち3000名を引き連れてきて日本に留まったといわれます。徐福伝説は全国各地にありますので大きな影響をもたらしたものと思います。そして彼らも秦氏であった可能性があります。
 
「秦氏の正体とは、基本的には中国や朝鮮の文化圏において育まれたユダ族を中心とするイスラエル人です。そして大陸における長年の寄留期間を経て中国文化を吸収し、現地人との混血も進みました。その後、秦の滅亡と共に迫害を避けて秦氏は朝鮮半島に移住し、日本へ渡来する直前まで朝鮮半島に寄留し、今度は漢流文化の影響を受けることとなりました。それが「魏志」において「辰漢人」と記載されている所以でもあります。つまり秦氏とは、中国や朝鮮の影響を多分に受けたアジア系のイスラエル人であり、漢民族や、韓民族ではないのです。
 神の選民であるイスラエルの血は、長い年月を経て大陸文化によって育まれ、元来の卓越したイスラエル文化に古代中国大陸の優れた文化がブレンドして更に磨きがかかり、その研ぎ澄まされたように繊細な美的感覚を誇る独特の文化は、秦氏によって日本に持ち込まれ、現在に続く日本文化の礎となったのです。
 無論、日本列島各地には、秦氏よりも前に渡来したイスラエル人が存在しており、剣山の高地性集落等を始めとして生活圏を確立していました。応神天皇らもその先発隊の流れの一部と考えられます。そしてエルサレム城の再建を合図として、秦氏をはじめ半島にいた人々も一斉に日本に渡ってきたのです。
 もはやイスラエル系渡来人の存在なくしては、秦氏の有様、功績、歴史に残る偉業の数々を含め、日本の古代史を説明することはできません。隋の使者が秦氏について「明らかにする能わざるなり」と結論を明らかにできなかったのも無理はないのです。何故なら、秦氏のルーツは、アジア大陸の遥か西方の中近東、イスラエルまで遡るからなのです。 
 三世紀末、遂に歴史が動きはじめます。都の再建築を夢見たイスラエル系の渡来人は、応神天皇をリーダーとして、新天地である東の島々に王が住まわれる都を造営するために民が決起するべきことを公言したのです。その号令と共に、各地に居住していたイスラエル系の人々は、ヘブライ語で「神の民」を意味する「ヤマト」政権の誕生を祝して、各地からこぞって貢物を持参し、今日の奈良界隈に居を構えた天皇を訪ねてきたことでしょう。無論このニュースは、大陸側でも特に朝鮮半島に在住する同胞に伝わり、中でも有力なユダ族を主体とする秦氏は、イスラエル系民族の移住を朝鮮半島から加速させる原動力となりました。応神天皇の時代に、大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来してきたことは、日本書記等の古文書に記載されている通りです。
 ダビデ王の末裔である秦氏が、大陸より渡来してエルサレム神殿をモデルにした平安京を築き、ユダ族の血統が秦氏らの介入により皇室に継承され、さらに律法に基づいて神宝の管理をレビ族の出自である阿刀氏系の法曹(空海)が執り行なったと解釈してみてはどうでしょうか。それは正に、ユダ族の王が君臨し、その神殿と神宝をレビ族が祭ったイスラエル王国の復元と言えます。
秦氏の功績を辿ると、確かにそこにイスラエルの痕跡を見出すことができます。例えば、秦氏の氏神は大辟大明神ですが、景教ではダビデのことを「大闢」と書きます。「闢」の門構えを省略すると「大辟(オオサケ)」となるため、この名前はダビデ王を意味し、それが秦氏の氏神ではないかと考えられるのです。ところが、本来「大辟」は「オオサケ」ではなく「タイヘキ」と読むものです。しかも「大辟」は「重い刑罰」、すなわち「極刑」を意味します。どうして「極刑」にされた神、というような名前がつけられ、しかも読み方まで変えられてしまったのでしょうか。その理由は太秦に秘められていたのです。」
 

255「霜月3」2013.11.26

 松尾大社と上賀茂神社、下賀茂神社の3社は秦三社と言われる秦氏との所縁が深い処です。松尾大社から更に秦氏所縁の太秦の広隆寺に向かいます。太秦は秦氏の住んでいたところで広隆寺は秦氏の氏寺でもあります。
 広隆寺には以下の記載があります。
「広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦(うずまさ)にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。
 創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。
『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦氏の氏寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。
 秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人であり、朝鮮半島を経由し日本に渡来した。葛野郡(かどののこおり、現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。」
 広隆寺には2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されていて国宝第一号です。新羅系の仏像で「一切衆生を如何にして救おうかと考えている」姿と言われます。何度も訪れていますがとても魅力的で時間を忘れてしまうほどの慈悲仏です。

 直ぐ近くにある大酒神社に参拝しました。とてもこじんまりとしていますが、祭神が秦始皇帝、弓月王、秦酒公ですから何かありそうな神社です。


「延喜式神名帳には、「元名大辟神」とあり、オオサケの神、つまり、悪疫・悪霊を避けるためのものとされいる。当社の牛祭は天下の奇祭として有名で、牛に乗った摩多羅神が四天王を従えて疫神鎮送を行うらしい。」とあります。
 
 神社の案内版の由緒書には以下の記載があります。
「由緒書 宗教法人 大酒神社
祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公
相殿 兄媛命、弟媛命(呉服女、漢織女)
神階 正一位、治歴四年四月(一〇六八年)
当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社 (元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。
「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(三五六 年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝 の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。
 后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(三 七二年)百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王 の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って 絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で 酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服 漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中 破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
 機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。 今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。 広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。
 尚、六〇三年広隆寺建立者秦河勝は酒公の六代目の孫。
 又、大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和銅四年(七一三年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。」
より詳しく記されたサイトを紹介します。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/oosake.html
http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu/05koryuji3.html
  
 大酒神社から5分ほど歩いて、秦氏が創建した木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみむすび)神社に参拝しました。



この神社には以下の記載があります。
「通称木嶋神社(このしまじんじゃ)。また、本殿東側に織物の始祖を祀る蚕養(こかい)神社があることから蚕の社(かいこのやしろ)の通称が広く知られている。祭神を天御中主命・大国魂神・穂々出見命・鵜茅葺不合命としている。
木嶋坐天照御魂神社は「木嶋に鎮座する天照御魂神の社」という意味で、本来は「天照御魂神」を祀る神社ということになる。この「天照御魂神」がどの神を指すのかについては諸説ある。『葛野郡神社明細帳』では上述の神々の他に爾々芸命の名を挙げている。『神社志料』では天火明命のこととしている。関西には、ほかにも「天照(アマテル)」のつく神社がいくつかあり、元々はそれぞれ当地の太陽神を祀っていた神社と考えられている。
続日本紀などの国史には「木嶋神」の名前で登場する。「木嶋」という名前は、原野に茂る木々の様が「木の島」のようであったからとされる。
起源は定かではないが続日本紀の大宝元年(701年)4月3日の条にこの神社の名があることからそれ以前から祭祀されていたとされる。『延喜式』では名神大社に列し、月次・相甞・新甞の官祭を受ける社として記載されている。
この神社がある嵯峨野一帯はかって朝鮮半島を経由して渡来した秦氏が製陶、養蚕、織物などの技術を持ち込んだ。蚕が祀られているのもそれゆえである。
社殿の西にかつては湧水が豊富であった「元糺の池」(もとただすのいけ)という池の中に三柱鳥居がある。柱が三本で三正面、上からの形は三角形となっている鳥居は珍しい存在であり京都三鳥居の一つとされている。これも起源不明ながら現存するものは天保2年(1831年)に再興されたものである。」 





 下賀茂神社に糺すの森が有りましたがこの木嶋神社が元糺すの森、元糺の池があります。そもそもはこの地が始まりだったのでしょう。三柱鳥居はとても珍しいものです。元糺すの池の中に有りますが今は池が枯れています。大神神社にも三柱鳥居が有りましたこちらは囲った形で三角柱です。この意味についてはいろいろあります。三柱鳥居に向かってあわ歌を響かせました。
 以下に詳しく記されたサイトを紹介しておきます。
http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu/05konoshima.html
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/kijima.html

 最後に清水寺を参拝しました。日暮になりましたが沢山の観光客に驚きです。アテルイ、モレの顕彰碑に参拝して早々に帰って来ました。清水寺は坂上田村麻呂がアテルイ達を弔う為に建立された寺院です。



 こんな感じで駆け足で巡り、夕闇に覆われる京都を後にしました。そして果たして今回の旅を如何様に捉えるか、二つの宮を糺すとは如何にです。

2013年11月26日火曜日

254「霜月2」2013.11.23

 大神(おおみわ)神社は思いのほか沢山の参拝者で賑わっていました。巳の神杉を右手に見て参拝し、三輪山登拝口がある狭井神社にも参拝しました。今回はあまり時間が無いので早々に天理市の石上(いそのかみ)神宮に向かいました。


 石上神宮に付いて以下の記載があります。
「古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
 社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
 天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
 この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。」
 生憎の雨でしたが、拝殿には沢山の方々が集まり長寿講社秋期大祭が催行されていました。こちらも駆け足で参拝して鏡池を巡り失礼しました。
 
 翌日4日は早朝、鞍馬山に登り参拝しました。昨年も11月に参拝していますが些かのご縁を感じて、今年もお参りさせて頂きました。鞍馬寺金堂、義経堂、奥の院魔王殿と巡り貴船に下りました。清々しきエネルギーを満喫できました。丁度、霊宝殿では義経展が開催されていまので拝観しました。





次なる目的地は下賀茂神社です。出町柳駅から歩いてすぐです。正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と言います。由来など以下の記載があります。
「賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、玉依姫命の父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。境内に糺の森(ただすのもり)、みたらし池がある。
京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。」


 下賀茂神社境内に入って直ぐに河合神社があります。女性を守る美麗の神様で沢山の女性の参拝者がいました。鴨長明ともご縁が深い処で、ここで禰宜をしていたとのことです。方丈庵が再建されていました。
  河合神社の祭神は玉依姫命(神武天皇の御母神)で以下の記載があります。

「糺の森の中、「瀬見の小川」の西側にあるのが玉依姫命を祀る摂社の河合神社。正式名称は鴨河合坐小社宅(かものかわいにいますおこそべ)神社で、賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったという。秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたとの伝承がある。元はここより少し南の賀茂川と高野川が合流する只洲(ただす)河原に祀られたことから河合神社という。鎮座の年代は不詳であるが神武天皇の御代からあまり遠くない時代と伝えられていて、「延喜式」には「鴨河合坐小社宅神社」とある。「鴨河合」とはこの神社の鎮座地をいい、「小社宅(こそべ)」は「日本書紀」に「社戸」としるされ、本宮(下鴨神社)の祭神と同系統の神との意である という。
 境内に任部社(とうべのやしろ)があり、八咫烏命(やたからすのみこと)を祀っている。八咫烏とは熊野の大神<素盞嗚尊(すさのおのみこと)>のお仕え。八咫烏の「八咫」は大きく広いという意味。八咫烏は太陽の化身で三本の足があり、天・地・人を顕すと言われている。天とは天神地祇のこと。地とは大地のことで自然環境を指す。つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるということを示している。また、蹴鞠の祖神とされることから日本サッカー協会のシンボルとなっている。
 また、八咫烏(ヤタガラス)は、日向の高千穂の宮にいた神武天皇(カムヤマトイワレビコ)は兄とともに東方に都を造ろうと瀬戸内海を渡り、難波から淀川を遡り大和へ向かうが、大和の豪族の迎撃にあい撤退。やむなく迂回して熊野から北上して大和へ向かう。このとき天から遣わされた八咫烏(ヤタガラス)の道案内により山中を行軍したと『古事記』や『日本書紀』に書かれていて、熊野の神々の使いとされる。」

 糺の森は素晴らしい原生林が残るところです。その原生林の中、参道を進みます。
「糺の森は下鴨神社の境内に広がる原生林である。かつて京都に平安京が置かれた時代には約495万平方メートルの広さがあったが、応仁の乱など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の面積まで減少した。特に1470年(文明2年)6月14日に応仁の乱の兵火を被った糺の森は、このとき総面積の7割を焼失している。
 糺の森はこの一帯が山城国(山代国・山背国)と呼ばれていた頃の植物相をおおむね留めている原生林であり、森を流れる小川は4つあり、それぞれ御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と名付けられている。御手洗川は湧水のある御手洗池を水源としている。
「糺の森」の「ただす」が何に由来するのかという点については諸説ある。「偽りを糺す」の意とするほか、賀茂川と高野川の合流点であることに起因して「只洲」とする説、清水の湧き出ることから「直澄」、多多須玉依姫の神名に由来するという説などの各説がある。他に、木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)にある「元糺の池」、およびその周辺の「元糺の森」から遷された名前であるという意見もある。」
 本殿は賀茂建角身命の西殿、玉依媛命の東殿を参拝して御手洗池、御手洗社を巡りました。御手洗池は葵祭のヒロイン斎王代が池に手を浸し清める「斎王代禊ぎの儀」の場所です。葵祭は祭の起源と沿革は以下です。
「欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命をおおせつかって、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になった。」
 次は松尾神社で、嵐山から程近いところです。この社も秦氏所縁の地です。以下の記載があります。
「当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座とされる巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大山咋神(おおやまくいのかみ)については、『古事記』に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂されたころには有力な神とされていたことがわかる。大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めた。
 また秦一族は酒造技術に優れ(同社御由緒)、狂言「福の神」によると、松尾神は「神々の酒奉行である」とされて酒造関係者の信仰を集める。同社の神事には「福の神」が奉納される。平安遷都により、皇城鎮護の神として崇敬されるようになり、「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称された。」
 本殿は七五三の参拝者で賑わっていました。参拝後、裏手の霊亀の滝を巡り、境内に点在する「上古の庭、蓬莱の庭、曲水の庭」の松風苑三庭を拝観しました。裏山は先の台風の被害の爪痕がまだ残っていました。



2013年11月19日火曜日

253「霜月1」2013,11,18

  11月11日は長野に出張でしたが昼前に雪が降り出しちょっと驚きでした。朝は良く晴れて暖かく快適に過ごしていたのですが急な寒波の到来でした。青森等北日本は40cm〜75cmの積雪で、12月並みの大雪で、足早な冬の到来です。仙台でも14日に初霜、近郊の泉ヶ岳は初冠雪です。急激な低温で、霜が降りて農作物は大変です。生存の限界を越えてあっという間に枯れ始めます。
 13日は大和農場での作業日でした。そろそろ冬支度です。季節の巡りを楽しみながら自然に触れて楽しい汗を流しました。日暮も早く16時には作業を終えて後は片づけて、近くの温泉でゆっくり身体を癒し、無空無の世界に浸ります。特別なことが無くても一日過ごして幸せ、喜びが感じられる至福のひと時です。生かして頂ける縁、諸々に感謝です。




 11月3日はチャレンジPPKの新生祭が京都のTHD本社で開催されました。私は新生祭に参加は3度目でしたが内容はどんどん洗練されてその効果がより明確になって来ています。
 新生祭の目的と内容は以下です。
「“迷わず成仏する“その基盤となる要素を、今の肉体を持ったままたいけんすることがテーマです。
① この世に執着を残さない
② 残っているカルマを取り去る
③ 知らず知らずに身に着いた、“怒り・混乱・不安・心配・恐怖心”の縛りを解放する
 自分の今の現状は、自分の意識が作りだしているまぼろしとも言えるのではないでしょうか?在るのは意識だけだとすると、意識を変えれば全てが変わります。思ったことが現れて行くのですな。
 新生祭は今のからだのままで本来のイノチに還る(3次元→5次元)下地作りの祝祭です。
 宇宙僧・杉浦導師の「生前葬の法要」を執り行う事により、ややこしい4次元の世界に途中下車することなく5次元へ行く事にチャレンジします。この祝祭における法要は主役だけでなく、御参列の皆様の気付きをも促進し、参加者全員の意識を整える役割があります。」
 
 今回は2名の方の新生祭でしたが、お二人には大きな意識の変容があったようです。参列していた私も楽しい体験が出来ました。
 始めにダライラマ14世の詠唱するマントラが流れている中、参列者を迎い入れます。暫しマントラと音叉の世界に浸り儀式の開始を待ちます。
 
 第一幕は杉浦静始宇宙僧による送り出しの儀です。この世からあの世へ宇宙僧の法力に導かれてこの世に執着を残さず、身体が膠着しない状態で3次元から5次元へ上昇して行きます。我々参列者も己の新生の為と思って意識を合わせて行きます。
 個人からのメッセージが読み上げられ、宇宙僧による法要があり、法話、お言葉がありました。
「死とは魂の宿換えです。新生祭を経験して死への不安、恐怖を無くして行く訓練をする。意識を変えて、死とは魂の宿換えと思いこむ。そして次の世界へ楽しみながら行くこと。今来た宇宙エネルギーからのメッセージは「前後裁断」。今、一瞬しかない、その今の一瞬を生きることだ。全ては遊び。今一瞬生きている人に宇宙エネルギーが注入される。急がずに、考えずに、只々感謝して生きて行く。理由なく生きている事を喜び、感謝する。すると宇宙エネルギーが入る。何でもないことに感謝できること。
 アホと楽しんで行くのが人生で、苦労の為の人生ではない。授かったイノチを楽しむだけで、これまで受けてきた数々の洗脳を取り払う事です。人生の目的は楽しむことです。この人間クラブでは何が有っても“ありがとうございます”、で生きる事。
 人生は徒競走の為ではない。障害物レースを楽しむ為で、3次元では苦しい事、困った事が障害物で、それを意識の中でありがたいと思って楽しむ意識に変換することです。別居結婚も良いし、結婚しないのも、家族が一緒の必要がないのが21世紀の有り様です。只々遊びが人生の目的です。新生して思い残すことなく3次元でのイノチを楽しむことです。」

 第二幕は想造&新たな決意です。全員で基本呼吸と言霊瞑想、イメージ瞑想をします。言霊瞑想はありがとうございますのことばを繰り返すことで雑念が出ては消えて深い瞑想に入って行けます。イメージ瞑想は自分がもっとも信頼できる存在をイメージして意識をそこに集中します。
 この段階では故人は既にあの世で瞑想をして次の世への計画を想造している最中です。参列者もそれに同調するように瞑想をして行きます。
 第三幕は誕生です。宇宙僧の誘導で全員が誕生のお題目を唱えます。そして御導師の誕生宣言で新生です。拍手の中登場したお二人は拍手で迎えられて新生の感謝とこれからの決意の言葉を表明です。明るく輝きに満ち満ちてお二人は笑顔でキラキラしています。
 杉浦御導師から強烈なエネルギーが放出されています。白光が全身を包み聖人のように見えます。私の目は新生したお二人以上に御導師の姿に引き寄せられます。そしてそのエネルギーに感応して充電され、心地良い感じに満たされている自分に大満足、喜びが湧きあがる空間でした。
 こんな新生祭だったら皆さん受けてみたくなると思います。参列で来て幸運でした。私はPPKの代表世話人をしていますので挨拶をさせて頂きましたが嬉しい会でした。やがて私も新生祭を主役、故人として参加させて頂くことになるかもしれません。
 第四幕は誕生パーティーでしたが楽しい宴は、歌あり踊りあり、和気藹々と杯を重ねて新生を共に喜び、讃えあい嬉しい幸せな時間でした。終わるころは夜の帳が降りて雨で全てがまた切り替わり再生されていくような一日でした。

 昨年11月3日も京都で新生祭が開催され、翌日は鞍馬山を中心に散策を楽しみました。今年も京都でのもう一つの目的がありました。それは11月末にあわ歌の中山博さんと巡る、日高見、縄文、アラハバキの旅に係ることです。
 今回の旅の大きなテーマは中山さんから頂いた“二つの宮をただす”です。先ず二つの宮とは何なのか。更にただすとは、正す、糺す、質すなどがありますが、それら全てが必要な事と思えます。しかし糺すという意味合い、「罪や真偽・事実などを問い調べる」がもっとも強いのではないか、その上で正すことと認識して、今回は東北地方、日高見での旅を企画していました。そして願わくは新生祭の如く、新生され、この国の現状が望ましい方向へ改まっていくことになればとの思いがあります。それにはまずは係る方々の認識、意識の変容が必要と思います。
 
 縄文と弥生、出雲と大和、そして今の天皇家の始まりをたどって行くと、神武天皇から秦、物部、蘇我、大化の改新辺りにいきます。記紀神話による神武天皇は果たして実在したのか?記紀の記載内容にはいろいろな議論があり、史実には多くの疑問があることが感じられます。
 それはさて置き、今回は改めてこれまで単に名所という意識だけで巡っていた秦氏、物部氏所縁の地を巡ってきました。
 
 まずは奈良県桜井市三輪にある大神神社にまず参拝しました。以下の記載があります。 
「日本で最古の神社の1つとされる。三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである
 主祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)で、は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神(軍神)、氏族神(太田田根子の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。」
 

2013年11月13日水曜日

252「若返り」2013,11,11


 生体エネルギー理論と技術を学び活用して人類自然の貢献して行く仲間の集いが生体システム実践研究会です。1年に一度の秋期特別セミナーが11月1,2日の両日、長野市のビックハットで開催されました。


 長野オリンピックのメイン会場の多目的ホールでの開催は初めてで、今年で19年目、19回の特別セミナーは是までにない大規模な開催と成りました。最大8000人収容の巨大施設ですが1階アリーナに全国各地から1900名の参加で開催されました。是までは700名程での開催でしたから世の中が大きく変化して行く予兆を感じます。
 宮城支部も100名を越える参加者で、貸切バス2台で6時間半程かけて参加して来ました。1台のバスは天命塾関係者のみで30名程ですこぶる快適なバスの旅でした。
 1日目は講演会、引き続き1階会場を仕切って隣での懇親会、2日目は新産業エネルギーデモンストレーションと題して、各種実演、体験、活動紹介、実践事例展示、生体エネルギー活用商品販売です。
 
 今回も全てに亘って驚きの空間でした。生体エネルギー研究所所長の佐藤政二先生は昭和16年生まれで72才ですが益々元気で年々若返っています。
 そもそもは農場者として如何に消費者に求められ、いのちを活かす農作物を栽培するのか、農業を継続する為に如何に収量を上げて収益を確保するのか、貧しい生活の中、中学を卒業して後は実学、自修、自然を探究して自らの理論、技術を確立されました。
 今その理論、技術が農業以外の多くの業種、分野で活用実践され産業化が進んできています。そして宇宙人類自然に求められる核心的、最先端技術の成果が数々の分野で完成し実用化されてきています。その技術を私も活用させて頂き、計り知れない程の恩恵を頂いています。未知を開く楽しい学びと実践の世界です。
 
 佐藤先生の講演の虚空界生態系の実験から始まりました。その後お話しがありましたが、その冒頭部分を少し紹介します。
「全てに因果律がありそこでは「無空無」が働いている。全ての存在に原因がある。それは法則化され、全ての前提条件は無で、空の営みがあり、営みのなされた瞬間に無に戻り、ムココクに変わる。
 個としての前提条件はムココクで産業にはそれが必要だ。全体としての前提条件は無で、自然的あらゆる要素を捉える。
 内容機能はどこにいても必要を作るためにある。自然の構成要素は、空間が作り出す新しいいのち、環境を支配する存在単位、目的がそれぞれある。それを作った個を継続する為のエネルギーを生体エネルギーという。
 どの能力にするか、それに勝るもの、媒体的なものを使ってそれを通じて影響して全ての能力に加算する。
 その拠り所エネルギーの階層エネルギーが存在より高い方が望ましい。それによってマイナスするものも必要なものに変わる。どの準拠位置に高めたらダメな環境を高められるかが大事だ。それが無いと環境を高めるのを自然に任せてそのスピードに委ねるしかない。その技術を産業的に作っていく。
 生態系というプログラムで固有エリアを作って、同じ遺伝子を持つものも生態系で違うものとして発現する反応系が自然にある。その反応系を使って新しい産業の取り組みが始まる。」

 少し難しい内容ですが、今の劣化した環境を改善する事、生態系を人為的に作ることにより媒体的に遺伝子の働き、能力を高める事が出来る理論をお話しいただきました。
 
 大阪府立大学名誉教授、客員教授、生活健康学研究所所長、医学博士 清水教永先生からは、「命慧「しらべ」の「場」システムが示すいのちの恵み」、〜DNAから大腸菌、そして人間を対象とした懸賞実験結果から学ぶ〜と題して「いのちの繁栄」の視点から、生体エネルギーが及ぼす影響を、実証試験結果をもとに解説して頂きました。
 佐藤先生の理論、技術を活用してICI研究所で製造されているしらべシリーズは、現在4種類が、(株)マルセイから発売されています。しらべ、しらべS,しらべE,携帯用しらべで、主に電波、電磁波、磁場を活用して環境を改善するものです。それらとプロトタイプの新機種を活用して色々な実験が成されました。簡単に主な内容を紹介します。

・重篤な病気を持つ高齢者に1日24時間4か月しらべユニット継続使用することで、活性酸素発生量が顕著に減少し、抗酸化力が顕著に増加して、病態のステージが著しい改善が見られた。特に女性に改善が大きく見られた。この男女差は、男性はそもそも女性に慣れなかった存在で、一言でいうと「男は女のなれそこない」だそうで、その為にストレスが強いとの事です。
・携帯しらべではその働きを信頼して使用している人が最も効果があり、何も知らないで使用している人が次に効果がある。否定的に使用している人は効果が落ちるが、何も使用していない対象区の方よりは効果があるとの結果がでました。
・しらべESで睡眠深度時間への影響は1日8時間、1か月使用で入眠時間30%効果 
・携帯しらべで体温リズム、サーカディアンリズム不規則12名、低体温10名の方で24時間、2か月使用でほぼ全員に改善がみられた。
・しらべEで老化改善を調べた実験では角化細胞でアポトーシス効果あり、眠っている細胞の分裂を促進し細胞のターンオーバーを促す効果が見られた。 
・コバルト60ガンマ線照射でクールインキュベータ—でのキイロショウジョバエのノック
ダウン率と致死率で顕著な防御効果あり。
・放射線誘導性DNA断裂、アポトーシス検証実験では実験区で断裂が少なく、細胞修復
能がupして防御能発揮が発揮され、大腸菌の遺伝子の放射線誘導突然変異が2,5倍低い
 アポトーシスは1500Rで実践区2,5倍upする。促進して突然変異細胞の蓄積を防ぎ、
SOS反応(DNAが受けた損傷を克服する為、その傷を治して修復する間、細胞の分裂
を止める。)が起きて細胞の存続を維持する。対象区と3倍の差。

更に清水先生から講演のまとめで以下のお話がありました。
「サイエンスの本来の意味は、「語源はラテン語のスキーレ(scire)で「知る」ことによ
り、実践して「愛」を知るという意味である。サイエンスとはいのちが繁栄し、それを喜び、自然の営みの不思議に畏敬し、恵みに感謝し、大自然の「慈悲」を知ること。です。
 その為に感性を高めて行く事が必要で、今、総合生存学が求められています。
生体システム実践研究は科学の最先端で、いのちの繁栄(ウエルフェアー)に向かうア
ウフヘーベン(止揚)するものだ。生体システムの実践はウエルフェアー、いのちの繁栄への道で、健やかないのちを求める問いかけ。と言える。
 生体エネルギーは酸化還元のバランスを考える新たなサイエンス(慈悲)で生体エネルギー応用技術というかけがえない文明をさらに広く社会に、世界に普及すべきだ。」
 
 清水先生は生体エネルギーしらべの実験を始めて6年位なります。そして秋期セミナーでは4年連続特別講演をして下さっています。
 毎年明らかになる数々の実験結果に驚きです。特に放射線の実験では防御、修復改善効果が出ることは今の科学では有り得ないことです。3,11福島原発事故以来の緊急の懸案事項です。
 しかも多くの実験結果に見られる変化反応は既成概念を遙かに超えていて、進化していると言います。それと同時に、生体エネルギーの理論と技術は最先端の新しいサイエンスとの認識を深められています。健康で豊かないのちの繁栄に向けて大きな可能性が実証されて嬉しいことです。
 そして清水先生始め関係者の準拠位置が上がって来ていて、その存在そのものが実験に影響するのでブラインド実験が難しくなって来ていると言います。
 今は他大学の方々とも共同研究が始まっているようです。これから更に生体エネルギー理論、技術が研究機関で科学的に検証されて行く事でしょう。楽しみです。
 
 今回の秋期セミナーには私も少し関係していました。生体エネルギー研究所にある研究員研究会では、今年の研究員はグループ実践をしてその内容を秋期セミナーに発表することになりました。
 私の属するグループのテーマは「若返り」です。主に生体エネルギー応用商品のオリベックスクリームを目的のプログラムが機能するように加算されたものを使用しました。
 若返りの中で私のテーマは主に白髪です。今年の4月末から4か月間自宅で1か月にクリーム大1個を使用し、長野の研究所で月1度特別メニューでクリーム大1箱使用です。
 その内容、結果を実践研究報告にまとめてパネルにして会場に展示しました。その中の私の部分だけ紹介します。
 


 最初の写真はオリベックスクリームとその他、環境等諸々の加算をして9月末までの経過です。まぶたや目尻、目、目元、更に耳付近の白髪の変化している様子が見えます。もう一枚の写真は9月に研究所で処理1日後の変化です。白髪に少し改善が見られます。私の白髪の減少、髪の毛は少し黒くなってきただけでなく艶やコシの改善が見られます。
 
 最近では皆さんに髪の毛が黒くなってきましたねと言われることが多く、若返りが促進されているようです。美容のプロのお話しでは白髪、薄毛、シミは治らないとか。暫く継続して実践してみようと思います。来年の誕生日にははっきりした改善、変化が現れる様になるのではと思っています。
 不老不死、健康長寿安楽死。若返りは人類の永遠のテーマです。不可逆反応から可逆反応へと生体エネルギー理論技術は可能への道を開いています。

2013年11月7日木曜日

251「豊穣」2013,11,6

    1027日は恒例の仙台テンメイ収穫祭です。7年目の集いには2人の子供も含めて30名程の参加者でした。埼玉県、千葉県の遠方からの常連助っ人さん達にはいつも感謝です。山形県、福島県からも参加頂き本当に嬉しい集いの場です。今回は私の娘も初参加で皆さんと打ち解けて楽しんで活躍してくれました。

    一昨日25までは台風の影響の雨でしたが晴れ上がり、畑も湿り気があってまずまずのコンディションでした。

    作業班が2つに分かれて各自のお好みの分担を担っていきます。さつまいも掘り班は、つるを切り掃う人、スコップでり起こす人、さつまいもを手で掘り出す人、収穫したコンテナを運ぶ人、芋を洗う人、芋を並べて干す人です。



    調理班は食材の野菜を収穫する人、昼食の料理の仕込み調理をする人、外で薪を焚いてさつまいもを蒸かす人、更には外のガスコンロでてんぷらを揚げる人等です。当然、配膳する方もいます。食材は農場で自家栽培した野菜がほとんどで、それらを保存食に加工したもの、更にお米は木村農園の今年収穫したての新米です。

 
    10時作業開始です。畑は少しぬかるんでいますので足がとられます。ですからさつまいも芋ずる式というわけには行きません。しっかりぬかるんだ土が付いていますがお実り様の恵みに感謝です。

    いもはネズミに食べられているのも沢山あります。つる草を払っていたらねずみの巣があり赤ちゃんが45匹見つかりました。生まれたてですがそのまま草をかけておきましたが生存は難しいでしょう。


    和気藹々楽しい作業で、暖かい日差しが心地良く気分爽快です。11時半過ぎには数日前に試し掘りで収穫したさつまいもの蒸かしたてが振る舞われました。美味しい、美味しいと皆さんで頂きました。

    休憩後の作業はすこぶる順調に進みます。そして全て掘り出して昼食前に完了です。果たしてどこまで収穫できるかと危惧していたのですがありがたいことです。今回は全てが善き流れで作業が進みました。いろいろな事、もの、人が整ってきたようです。

 

    べにあずまと干し芋用のたまゆたか400k程の収穫で、お蔭様のまずまずの収穫量でした。今日参加の皆さんには採れたてさつまいも1キロのお土産をお渡ししました。後で聞いたお話ですが、所要があって午前中だけ参加のSさんがお土産にさつまいもを自宅に持って帰り奥様に渡したところ、それを食べたら殊の外、美味しく喜ばれたとのことです。もっと食べたいと注文をしてきてと言われたとのことです。

 

    昼食はテーブルに並びきらないほどの豪華な料理です。楽しく語らい、笑顔の中でありがたく感謝、歓喜でお実り様を美味しく頂きました。大地の実り、人様とのご縁の豊穣を今年も又一段と深く頂けました。

    長野の生体エネルギー研究所の委託で山梨の農家のSさんのところで栽培した大根、玉ねぎ、白菜、ホウレンソウの差し入れがありました。圃場に通常使用料の100倍近くのエネルギー資材等を投入して栽培されたその野菜は美味しいを通り越えて是が野菜なのという感じで身体が喜び、食べる手が止まりません。

    ちなみに大根11000円、キャベツ11000円、白菜12000円、ホウレンソウ1500円です。名取農場の生体エネルギー活用した野菜も太刀打ちできないレベルのものです。上には上があり、佐藤政二先生の虚空界生態系生体システムプログラム農業は凄い理論技術です。不可能を可能にする技術がどんどん進化しています。

 

    食事の後の自己紹介を兼ねた懇談会もありがたい時間です。福島県南相馬市から来たSさんご家族は先の3,11の震災で被災して仮設住宅にお住まいの方ですが、バンクシアフィットネスのS,Iさんの教室に参加していてテンメイの活動を知り、2週間前の木村農園でのテンメイ米の稲刈りにも参加していました。今回は御主人とお子さんもお連れになって主にご家族でイモ洗いに大活躍です。この場の雰囲気が暖かくで楽しく過ごせたとおっしゃって下さいました。嬉しいことです。

 
    昼食後15時半過ぎに1度中締めにして、早め帰宅の方は帰られて、居残り組は更に農作業です。えだ豆、大豆の収穫です。束ねて干して諸々片づける頃に丁度、陽が暮れてきました。今日も沢山の喜び笑顔が名取農場、高柳亭に満ち満ちました。どんどん心地良い場に高まって来ています。

 
    農場は11月を迎えて冬の準備に入ります。今回収穫したたまゆたかの干し芋作り、黒豆の収穫と豆たたき、選別。玉ねぎの植え付け等々。今年はパイプハウスが出来ましたので通年で栽培が可能になりました。これからも沢山の農場体験者、スタッフがテンメイに集って下さることを願っています。

O農場長は今回も大活躍です。彼の存在なくしてはテンメイ農場はここまで進展し継続は不可能でした。彼はここ数年秋口に疲れが出て体調を崩す事が多かったのですが今年はすこぶる元気です。これも彼自身の日常生活での生体エネルギー理論と技術、資材の活用が大きいと思います。

 

    名取農場は生態系生体システムプログラム農法をしっかりT農業指導員の指導で実践継続していています。それだけでなく新たな環境を改善して行く、生態系を作るじんち作りの活用が機能して来ていると思います。

    生体エネルギー準拠位置が高まる事によりそれを求め、必要とする有意の方々も増えてきているように思います。その人たちが豊かに明るく楽しみ喜びで生きて行く中に更なる相乗効果が現れて、ギブ&ギブの渦が起きてきています。その為にも中核となる方々の人類宇宙自然への己の義務を果たすことが前提になるのだと再認識させられます。

 

    全て終わって農場を後にする頃は夜になってきました。今日帰る予定で来ていた千葉かからの助っ人Nさんを引き留めて有志で反省会、夕食会を開きました。昼食をたくさん食べたのに嬉しい話題に杯と箸が進み全て喜びの中で終わった収穫祭でした。