2022年10月31日月曜日

2866「願いを叶える言霊」2022.10.31

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月25日の記事を紹介します。


「願いを叶える言霊」


山幸彦の神様としての意識を保持して生まれて来た6歳の神様トキ君が、

願いを叶える言葉を神様から教えていただいて、それを実行し始めたそうです。

(トキ君の場合、1日1万回だそうです)

1日1万回、その言葉を唱えることで願いが叶ってしまうそうです。 

その言葉とは・・・

ありがとう 

その詳しい理由を私も昨年の春に記事にしていましたので再掲します。

今日のテーマは「現象化する言葉」ということで、小林正観さんのお話を紹介します。

空也上人

<引用開始> 引用元


「言葉が現象化する」と言うと、多くの場合、誤解されている部分があるようです。

「こうなりたい。ああなりたいと口に出して言うと、それが実現する」という誤解です。

「言葉が現象化する」というのは、たとえば、神社仏閣に行って、良縁祈願というものをお願いしたとします。

・いい人と出会わせてください。

・いい人と結婚したいのです。

・素敵な人と出会わせてください

と100回お願いをしたとします。

そうすると、その言葉をまた言いたくなるように現象化します。

つまり、いい人や素敵な人にはいつまでたってもなかなか出会わない、という現象が起きるのです。

同じように「商売繁盛をお願いします」と千回行ったとします。

千回それを言ったことによって、また同じ言葉を千回言いたくなるように現象がセットされます。

言ったとおりの言葉をまた言いたくなるように、言った数と同じ数だけまた言いたくなるように、宇宙では現象化が始まる・・・というものです。

聖書の中にこんな言葉があります。

「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあり。言葉は神なりき」

「言葉は現象化する」という宇宙の大法則を述べたもののような気がします。

これも、その言葉を言ったらその言葉が実現する、というものではないと思います。

「言葉が現象化する」というのは、

「その言葉をまた言いたくなるように、現象がセットされる」

というふうに、私の認識の中ではとらえられました。

これは神社仏閣に行ってお願いごとをする、そういうことを要求するということが、

ほとんど意味をなしていないということにもつながっています。

では「言葉が現象化する」、

つまり「その言った言葉をまた言いたくなるように現象がセットされる」のであれば、

最も効率の良い言葉は何でしょう。

たとえば「うれしい」という言葉を一年間に千回言ったとします。

そうすると、その「うれしい」という言葉をまた千回言いたくなるように、来年は現象がセットされます。

「楽しい」という言葉を二千回言ったとします。

その「楽しい」という言葉をまた二千回言いたくなるように現象がセットされます。 

「幸せ」という言葉を年間三千回言ったとします。

その「幸せ」という言葉を年間三千回言いたくなるように現象がセットされます。

一番効率の良い言葉は、

・ありがとう

・ありがとうございますです。

「ありがとう」「ありがとうございます」という言葉を年間一万回言ったとします。

そうすると来年

・ありがとう

・ありがとうございます

という言葉を、また一万回言いたくなるような現象がセットされ、次々に降ってくるのです。

・うれしい

・楽しい

・幸せ

・ありがとう

という言葉を、何千回何万回と宇宙に向かって言ったとすると、

その言葉を同じ数だけ言いたくなるように宇宙の現象がセットされます。

そして、

・うれしい

・楽しい

・幸せ

・ありがとう

と言いたくなるような現象が降ってくるのですが、それがどんなことであるのかは、わかりません。

だから楽しいのです。おもしろいのです。そして、ワクワクします。ドキドキします。

このワクワク感、ドキドキ感というのは、何にも代えがたいおもしろさであり、楽しさです。

<引用終了>

  

これはまさに「波動の法則」そのものです。

自分の今、全宇宙に発振している、周波数(波)が、どこかの誰かに必ず共振現象を起こし、

その波長にふさわしい現象や人を引き寄せる・・そういうことです。

「何々してください」という祈り、願いは飢餓感、欠乏状況の波動を発信していることになります。

飢餓感、欠乏感のある人に受信され増幅され、ますます、その状況が拡大して自分に戻ってくることでしょう。

ですから、「ありがとう」という感謝の心はどんな時も、重要な役割を果たします。

「ありがとう」と感謝の心を持つ人には、感謝の心を持つ人が呼応し、あたたかな人、現象

救援、救助の手が差し伸べられることでしょう。

それに対し、

・良い人と出会い、結婚さえできれば

・お金さえあれば、お金ができてから・・

・時間さえあれば

・病気さえ治れば

そのような、他人や、物に依存する心を持つ人、現状に不平不満を持つ人には、

同じ波長の人が、その波をキャッチして周りに集まってくることでしょう。

ますます、同じ波長、現象が強化され、固定化してしまいます。

神々の恩寵は、人間の「感謝の心」を媒介にして現象化するといわれます。

どんな状況かであろうと「ありがとう」と感謝の心を持つ人は同じ現実の中にあっても、

神さまの光に包まれ、幸せな人生を送っていることでしょう。

それが、空海が教えてくだ会った「即身成仏」、つまり、生きている間に

・天国に住む

・地獄に住む

ということです。

生きながら地獄に住む人とは常に心に

・不平不満

・愚痴

・悪口

・疑心暗鬼

の心を持つ人です。

生きている間に「地獄」に住んでいらっしゃる方は亡くなったからと言って、天国に行くわけではありません。

 

心の状態そのものが、肉体亡き後に自分の周りに現象化するからです。

逆に、同じ環境に置かれていようと、「ありがとう」の感謝の心を持つ人は、亡くなった後、直接天国に直行し、あたたかな心の人たちに囲まれ、幸せな境遇に暮らすことでしょう。

それほど、心の在り方、、というのは大切なことです。

どんな時も、どんな境遇に置かれても

・うれしい

・楽しい

・幸せ

・ありがとう

の心でいたいものですね。 

皆さんも是非、普段から「ありがとう」の言葉を連発して、幸せを掴んでください。 

きっと神様が願いを叶えてくださいます。



2022年10月30日日曜日

2865「神様との約束」2022.10.30

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月24日の記事を紹介します。


「神様との約束」


あなたは今、歩くことが出来ますか?

あなたは今、しゃべることが出来ますか?

「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」と

悲しい言葉を、誰かが言わなくても良い世界を作りたいものです。

これは40年前のおはなしです。

<引用開始> 


「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」

ごめんなさいね おかあさん ごめんなさいね おかあさん 

ぼくが生まれて ごめんなさい

ぼくを背負う かあさんの 細いうなじに ぼくは言う

ぼくさえ 生まれてなかったら かあさんの しらがもなかったろうね

大きくなった このぼくを 背負って歩く 悲しさも「かたわの子だね」とふりかえる

つめたい視線に 泣くことも ぼくさえ 生まれなかったら

山田康文くんとお母さん

この詩の作者は山田康文くん。

生まれた時から全身が不自由で書くことも話すことも出来ない。

養護学校の向野先生が康文くんを抱きしめ投げかける言葉が

康文くんのいいたい言葉の場合はウインクでイエス、ノーの時は康文くんが舌を出す。

出だしの「ごめんなさいね おかあさん」だけで1ヶ月かかったという。

気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれました。

この母を思いやる切ないまでの美しい心に対して、

母親の信子さんも、彼のために詩を作りました。


わたしの息子よ ゆるしてね わたしの息子よ ゆるしてね

このかあさんを ゆるしておくれ

お前が脳性マヒと知ったとき

ああごめんなさいと 泣きました いっぱい いっぱい 泣きました

いつまでたっても 歩けない お前を背負って 歩くとき

肩にくいこむ重さより「歩きたかろうね」と 母心

"重くはない?“   と聞いている あなたの心が せつなくて

わたしの息子よ ありがとう ありがとう 息子よ

あなたのすがたを 見守って お母さんは 生きていく

悲しいまでの がんばりと 人をいたわる ほほえみの

その笑顔で 生きている 脳性マヒの わが息子

そこに あなたがいるかぎり

 

このお母さんの心を受け止めるようにして、

康文君は、先に作った詩に続く詩をまた作りました。


ありがとう おかあさん ありがとう おかあさん

おかあさんが いるかぎり ぼくは 生きていくのです

脳性マヒを 生きていく

やさしさこそが、大切で 悲しさこそが 美しい

そんな 人の生き方を 教えてくれた おかあさん

おかあさん あなたがそこに いるかぎり


康文くんは重度の脳性マヒで8歳の時、奈良の明日香養護学校に入学しました。

不自由児のための特殊学校で、康文くんも母子入学でした。

康文くんは明るい子でクラスの人気者になりました。

1975年4月には体の不自由な子供達が集う「タンポポの会」が「わたぼうしコンサート」を開き、康文くんの詩が披露されました。 

このコンサートはテレビ、ラジオでも取上げられ森昌子さんが康文くんの詩を歌いました。 

このコンサートのあと、康文くんは突然天国に行ってしまいました。

窒息死でした。

横になって寝ていたとき、枕が顔を覆ってしまったのです。

15歳の誕生日を迎えた直後だったそうです。

康文くんの先生で、この本の著者の向野幾代さんは復刊にあたって

「あの子の詩は、障害者が

『ごめんなさいね』なんて、言わなくてもすむような世の中であってほしい、というメッセージ。

今もこうして皆さんの心に、呼びかけているんですね。

いま、障害者の問題は、高齢者の方たちの問題でもあります。  

『老いる』というのは、障害が先送りされているということ。

歳をとると、足腰が不自由になって車椅子が必要になったり、知的障害になったり・・・ 

健常者の方も、たいていはいつか障害者になるんですよ。

だから康文くんたちは私たちの先輩。

世の中をより良くするよう切り開いてきた、パイオニアなんです」と・・・

向野幾世著 『おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい』より

<引用終了>

 

山田康文くんは、生まれた時から全身が不自由、口も利けない状態でした。

通称やっちゃん。そのやっちゃんを、養護学校の先生であった向野さんが抱きしめ、

彼の言葉を全身で聞く。 

向野さんが言う言葉が、やっちゃんの言いたい言葉だったら、やっちゃんがウインクでイエスのサイン。

ノーの時は舌を出す。

気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれました。

そしてその二ヵ月後、彼はは亡くなりました。

自分を生み育ててくれた母親に報いたい。 

その思いがこの少年の人生のテーマだったといえるかもしれません。

短い生涯ながら少年は、見事にそのテーマを生ききり、それを一篇の詩に結晶させて、逝きました。

生前、ひと言の言葉も発し得なかった少年が、生涯を懸けてうたいあげた命の絶唱かもしれません。

この詩が私たちに突き付けてくるものは大変に重いです。

人は皆、神様との約束を胸に宿してこの世に生まれてくるといいます。

その約束を深く掘り下げ、高め、そして仕上げていくことこそ、

私たちが果たすべき人生のテーマといえるのかもしれないですね。

あなたは、もう、神様との約束を思い出しましたか? 

神様との約束って、もしかしたら家族や身近な周りの人と、

例え苦労の中にあったとしても仲良く、思いやり、助け合って生きていきます・・ 

そんな約束だったかもしれませんね。

 


2022年10月29日土曜日

2864「大きな愛」2022.10.29

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月23日の記事を紹介します。


「大きな愛」


今日は病気で苦しい、何故病気になったの? 

について書きたいと思います。 

苦しんでいらっしゃる方の、少しでもお役にたてれば幸いです。 

山元加津子さんという元養護学校の先生と、今はもう亡くなられてしまった

雪絵ちゃんという生徒さんのお話をご紹介します。

雪絵ちゃんは、天使のような女の子でした。

<転載開始> 山元加津子(かっこちゃん)さんHP

 

今日は私の大切な友達でもある雪絵ちゃんという女の子のお話をします。

雪絵ちゃんとは、重い病気を抱え、地域の学校に通うのが困難な子どもたちが学ぶ

病弱養護学校で出会いました。

彼女が抱える病気はMS(多発性硬化症)というもので、脳の障害により、発熱すると目が見えにくくなったり、手足が動きにくくなります。 

発熱が治まれば病状は緩和されるのですが、私はまたいつ再発するかと、いつも不安でした。

しかし雪絵ちゃんはどんなにつらい時でも、自分の力で立ち直ることのできる強いお子さんでした。

そして「MSになって良かった」というのが口癖で、

「車椅子の生活をしているからこそ気付けたことや、多くの人々との出会いがあった」と 

前向きに生きていました。 

私はそんな風に思えるなんて素敵だなと思っていました。

そんな雪絵ちゃんとの日々が続いていたある年末の日、悲しい知らせが届きました。

雪絵ちゃんが、亡くなったということでした。 

私は、雪絵ちゃんの容態がどんなに悪化しても、まさか亡くなることは無いだろうと

思い込んでいたので、しばらくつらい思いでいっぱいでした。

数日後、私のもとに彼女からの一通の手紙が届きました。

その一部を紹介します。


「誕生日」私、今日生まれたの。

一分一秒のくるいもなく、今日、誕生しました。

少しでもずれていたら、今頃 健康だったかもしれない。

今の人生をおくるには、一分一秒のくるいもなく生まれてこなければいけなかったの。

けっこう、これってむずかしいんだよ。

12月の28日、私の大好きで大切で幸せな日、今日生まれてきて大成功。 

Snow(※雪絵ちゃんのペンネーム)に生まれてきて、これまた大成功。


「ありがとう」  雪絵ちゃんの作った詩

ありがとう、私、決めていることがあるの。

この目が物をうつさなくなったら、目に

そしてこの足が動かなくなったら、足に

「ありがとう」って言おうって決めているの。

今まで見えにくい目が一生懸命見よう、見ようとしてくれて、

私を喜ばせてくれたんだもん。

いっぱいいろんな物、素敵な物見せてくれた。

夜の道も暗いのに、がんばってくれた。

足もそう。

私のために、信じられないほど歩いてくれた。

一緒にいっぱい、いろんなところへ行った。

私を一日でも長く、喜ばせようとして、目も足もがんばってくれた。

なのに、見えなくなったり、歩けなくなったとき

「なんでよー」なんて言っては、あんまりだと思う。

今まで弱い弱い目、足がどれだけ私を強く強くしてくれたか。

だからちゃんと「ありがとう」って言うの。

大好きな目、足だから、こんなに弱いけど大好きだから

「ありがとう。もういいよ。休もうね」って言ってあげるの。

たぶんだれよりも、うーんと疲れていると思うから。

<転載終了>

   

雪絵ちゃんの詩から分るように、彼女は、敢えて MSという難病に生まれてくるために、 

生まれる日、時刻を自分自身で正確に設定して来ました。(星の配置の影響があるからです)

そして、それは成功し、彼女は、生まれる前の決意の通り、難病で生まれ、難病で生き、 

そして難病のために帰って行きました。 

雪絵ちゃん  重い病気だったのに  「私は私に生まれて大正解」 そう言った、少女  

・辛くは、なかったの?

・苦しくは、なかったの?

・悔しくは、なかったの? 

きっと雪絵ちゃんの答えは、全部 「いいえ」でしょう。 

彼女は、難病で生まれてくることを決心して来たことで、 

体は不自由で、身体的には きつかったことでしょう。 

寿命も、人よりは短かったことでしょう。 

親御さんに、沢山の心配もかけたことでしょう。 

ですが、それでも彼女が、病気の身体を選んだのには訳があります。 

人間として生まれるにあたって、意味もなく、目的もなく生まれることなど、 

神さまが許して下さらないからです。

きっと、彼女は病気を通じ、沢山の人と出会い、人々の温かさ、思いやり、優しさ、愛、 

また逆に、偏見、冷たさにも出会ったことでしょう。 

そして彼女は、病気の内にあってさえ、持っていないもの・・・ 

健康ではないこと、身体が不自由であることに、不平不満を言うのではなく、 

わずかでも、自分の持っているもの

・見える目

・動く足 

に感謝する心が芽生えました。 

普通に生まれ、普通に生きている人なら、もしかしたら、芽生えなかったかもしれない 

「感謝の心」です。 

私たちは、当たり前に普通に生きていると、「感謝の心」に一度も出会わずに、亡くなってしまう人生を過ごしてしまうかもしれません。 

感謝の心とは、神々と近づく、触れ合う大切な大切な心です。 

私たちは、この心を、感謝の心を味わうために、生まれて来た・・ 

そう言っても過言ではありません。 

そのためであれば、 例え、

・寿命が短くとも

・身体が弱くとも

・貧困であっても

・偏見にさらされようと

それで、生き、そして元居た光の世界に帰って行くことも本望なのかもしれませんね。

最後に、美しい詩を一編、ご紹介します。 

<引用開始>

 

大きなことを成し遂げるために、力を与えてほしいと、神に求めたのに、

謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった

偉大なことができるように健康を求めたのに、 

より良きことをするようにと、病気をたまわった 

幸せになろうと、富を求めたのに、

賢明であるようにと、貧困を授かった 

世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、

得意にならないようにと、失敗を授かった

人生を享受しようとしてあらゆるものを求めたのに、 

あらゆることを喜べるようにと、命を授かった 

求めたものはひとつとして、与えられなかったが、 

願いはすべて聞きとどけられた 

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、 

心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられた 

私はもっとも豊かに祝福されたのだ

<引用終了>


病気で、苦しんでいらっしゃる皆さんも、どうか、希望を失わないでください。

もしかしたら、その御病気も人間として一番大切な感謝の心を手に入れるために、 

御自分自身で選んで生まれて来た道かもしれません。



2022年10月28日金曜日

2863「ヨベルの年に思う「富とは何か」」2022.10.28

 今回はIn Deepさんの2022年10月22日の記事を紹介します。


「ヨベルの年に思う「富とは何か」」

https://indeep.jp/what-is-wealth/

見えるもの、見えないもの

以前、ユダヤ暦で重要な時期である「シュミータ」の期間が 9月の終わり頃までで、現在「ヨベルの年」(である可能性)であることなどを以下の記事で書かせていただいたことがあります。

[記事] つい先日までユダヤ暦の「シュミータ」の期間で、そして今、49年サイクルの「ヨベルの年」に入った可能性があることを今にして知る… In Deep 2022年10月1日

 

日刊ゲンダイの記事にあった、投資助言会社社長の松島修さんという方の記事を偶然読んだことで、ヨベルの年を思い出したのですけれど、「日本の投資関係の人にも、シュミータとかヨベルの年まで考慮している方がいらっしゃるのだなあ」と、それまで存じない方だったのですけれど、この松島修さんという方の REAL INTELLIGENCE というサイトを見てみました。

投資そのものについては、私は門外漢ですので、投資についてはいいのですが、さまざまな記事の中に「富」という定義がよく書かれてあるのです。

この「富」ということについて、最近ボンヤリと考えることがたまにあったこともあり、興味を持ちました。

一般的に「富」というと、まあいわゆる資産的なものをいうことが多いですが、それはそれとしても、日本語として富という概念は、物質にとどまるものではないはずで、それでは、富とはいったい何なのだろうと。

こんなことを考えるのも、今がヨベルの年(かもしれない)ことも関係しているのですけれど、「今後、さまざまな方面で、とんでもなく激しい局面が来る」と、私自身はうっすらと考えるようになっています。

たとえば、これはいわゆる資産的な話ですが、アメリカの市場の大混乱は、すでにリーマンショック時に並ぶ様相を呈していて、以下の報道は 10月21日のアメリカの市場に関してですけれど、「なんかこれからムチャクチャになっていく気配がある」のです。

(報道)米国の信用市場が世紀の大混乱。債券ETFがリーマンショック時に並ぶ下落に (2022/10/22)

あるいは、アメリカのブルームバーグの推計で「 2023年10月までの景気後退予測の確率が、100パーセントになった」と報じられたりもしています。

市場とか経済だけではなく、さまざまな面で、人生で一度くらいしか経験しないような派手な時代に突入していくのではないかという気がややしています。

あまりにも激しい変化の中で、「資産も何も、なーんにもなくなってしまう」というようなことが起きないとも限らない。

昭和 21年には、日本で預金封鎖がありましたが、あれでほとんどの日本人が、土地家屋を含めて、ほぼすべての資産を失いました。そういうようなことが「かつてはあった」。

これは、『日本銀行職場百年史』という資料に記録されている、この時の大蔵大臣だった澁澤敬三氏の言葉から、この時の預金封鎖の「目的」は以下のようなことだと後に判明するのです。

「預金封鎖の間に、国民の財産(現金、不動産など)に高い税率(税率90%)をかけることにより、徹底的な財産の没収を行って、国の借金に充てること」

であり、預金封鎖の本当の目的は、預金を封鎖するというほうではなく、「国民からの全財産の没収」でした。

財産に対しての税率 90%を支払える人などほぼいないはずで、財産を手放すしかなくなるわけです。これは、こちらの記事でも少しふれていますし、2004年の『元日銀マンが教える預金封鎖』という著作にも詳しく書かれています。

これは単なる例で、言いたいことは、預金封鎖がどうこうということではなく、そういうような「物質的に何にもなくなる」ようなことが絶対にないとは言えないかもしれない。 

そのように、本当に「物質的なものが何にもなくなった時」に、

「何が富になるのだろう」というような考えでしょうか。

 

先ほどの松島修さんのサイトを見ると、この「富」という定義が数多くのページに書かれているのですが、松島さんの定義では、以下のようになるということのようです。実際のページには、詳しく書かれていますが、ここでは項目だけあげます。

1. お金や株・金・不動産など、資産

2. 才能

3. 知恵 

4. 愛情(家族や友人、周囲の人間関係)

5. 環境(生まれ育ち、経験)

6. 自分という富(健康・品性・品格)

7. 使命

とありました。

そして結局、1から5までの項目は「7. 使命」に向かって進むためにあると。

なら、使命がまずないと、他も成り立たないということになりそうです。

 

「使命かあ…」と思いましたけれど、実は私にはあるにはあるのです。

それは、「自分自身を助けること」でした。

もっといえば、ややオカルトですが、「自分の魂を助ける」ということでしょうか。

これについては、もう 8年くらい前の記事ですが、以下で少しふれています。 

[記事] 自分が「今生」に生まれた理由がやっとわかったのは嬉しいけれども、恐怖と不安からの解放の前に立ちはだかる「西洋科学的思考」 In Deep 2015年04月17日

 

私には、記憶がある小さな幼児の頃から「正体も原因もわからない根源的な恐怖」が常に内部にあり、この数年前に気づいたことは、私の生きている目的は、「この根源的な恐怖と対峙して、これを消し去ってから死ぬ」ことなのではないかと。そう思ったのです。

おそらく、訳のわからない記事になると思いますが、少し書いてみたいと思います。

  

自分で自分を支配する

この 2015年などの頃は、シュタイナーさんだとか、中村天風さんとかノグッチ(野口晴哉さん)とかの本を読んでいた頃です。

そして、この 10年くらいの間に読んでいた中で、最も「実際的な生活態度として参考になった」のが、ルドルフ・シュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』という著作の中の、「十二弁の蓮華の育成のための六つの条件」という項目でした。

以下になります。

十二弁の蓮華の育成のための六つの条件

(1)自分自身の思考の流れを支配すること

(2)思考の場合とまったく同じような首尾一貫性を行為においても保持する

(3)粘り強さの育成

(4)人間や、ほかの存在や、さまざまな事実に対する寛大な態度(寛容さ)

(5)人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度

(6)ある種の人生の均衡状態(平静さ)を捕獲すること

私は今でも高次の意味もわからないですし、「十二弁の蓮華」というのも何のことだかわかりません。

しかし、この6項目のつらなりを見た時、「これだよなあ」と何となく思ったんですよ。

 

「(1)自分自身の思考の流れを支配すること」は、つまり周囲の事象や感情や「空気」に支配されるのではなく、自分で自分を支配する。「(5)人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度」というのも、「自分で考えてみる」という態度に結びついていきました。

変な話ですが、この数年後にコロナワクチンの時代がやってきたのもタイミングとしては悪くはなく、最初に、「まず考えよう」と思えたのもこの影響かもしれません。

(もっといえば、どんなものでも「やってきた」のではなく、自分が招いているという中村天風さんの考えなどもあります。つまり、コロナワクチンは、私自身が引き寄せた)

まあただ、ワクチンに関しては、それ以前に、スパイクタンパク質自体が血管の内皮に損傷を与えることがわかっていましたので、どのみち関わらなかったとは思いますが、それでも、これも、執拗にコロナウイルスというもののことを調べていたからだとは思います。

この「自分自身の思考の流れを支配する」という概念を知らなければ……昔の私だったら、「空気」に流されて、今頃 5回目のブースターを打っていたかもしれません。

 

「(3)粘り強さの育成」も、メルマガなどで執拗に同じダジャレを続けさせていただいているあたりに生かされています(それはみんなすごく迷惑してるから)。

ただデスね((3)粘り強さの育成…)、その「根源的な恐怖と対峙して、これを消し去る」ということができたかというと、「全然できていない」のも確かです。

だからまだ基本的には死ねない。

このまま死ねば、また根源的な恐怖を抱えて生まれてきてしまう。

 

それでも、シュタイナーさんの『いかにして高次の世界を認識するか』は、正直とても助かった本でした。理論も思想も全然わからなくとも、実用本といえると思います。

同じころに、フレッド・ホイル博士の著作にあるような「超のつく合理性」を知ったのも時期として、とてもよかったと思います。

このあたりから少しずつ知ったことは、「この世に曖昧なものはない」ということでした。 

地上にあるものには、すべてに明確に意味か、あるいは物質そのものが存在し、そこには曖昧なものは一切ないと。

ちょっと前にやや妙な「月と女性のサイクルのリンク」についてのような記事を書きました……以下の記事です。 

[記事] 「夜空の月と、地上の月」 : ワクチンでの月経異常の拡大から思う「古代からの月のサイクルと女性のサイクルのリンク」の崩壊 In Deep 2022年10月16日

 

そこに、「エメラルド・タブレット」というものを載せています。

『薔薇十字団の秘密の教え』の最終ページにあるエメラルド・タブレット

 Die geheimen Figuren der Rosenkreuzer 

この内容を示した「文章」は、このイラストが掲載されているページの下にラテン語で書かれているのですが、Wikipeida - エメラルド・タブレットにもありますし、そこに、アイザック・ニュートンによる英訳を日本語に訳したものもあります。

ただ、それもまた「下なるものは上なるもののごとく」というような文語調でして、どうも私は文語調の日本語をよく読めないのですよ。それで、以前、「ですます調」で、訳したことがあるのです。11年くらい前のこちらの記事にあります。

ちょっと長いですが、転載します。最後のほうに出てくる「ルメス・トリスメギストス」というのは、伝説的な錬金術師だそうです。

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エメラルド・タブレット (ニュートン訳より / 1680年)

これはまったく偽りのない真実です。

唯一となる奇跡の実現のためには、下のものが上のように、あるいは上のものが下のように。

そして、すべてのものはたったひとつの適合によってひとつからやってきます。

なぜかというと、すべての物はこのひとつのものに起因しているからです。

「太陽」がその父で、「月」がその母、「風」はそれを胎内に宿し、「大地」はその乳母です。全世界の、すべての完全性の父がここにいます。

その作用と力は完全です。それが地に転換されれば、偉大なわざによって大地から火をつくり、粗雑なものを精妙なものに変えることができます。

それは地上から天へ昇り、また再び地へと戻り生まれ変わります。

そして、上のものと下のもの両方の力を身につけるのです。

そして、あなたにとって世界の奇跡は自らのものとなります。

あなたからすべての曖昧な概念は消え去るでしょう。

これはどんなものより力強く、どんなフォースよりパワフルです。どんな精妙なものも、どんなに堅くて強いものも貫き通します。

こうして世界は創造されました。

希有な結合、そして多くの驚くべき奇跡によって。

このため、私はヘルメツ・トリツメギストスと呼ばれています。

私は全世界の知恵の三つの部分をマスターしています。

私が錬金術の偉大さについて言いたいこと、すなわち、太陽の作用について私が言わなければならないことはこれで終わりです。

________________________________________

ここまでです。

ここに、

> あなたからすべての曖昧な概念は消え去るでしょう。

とかあるのですけれど、私は、ここにありますように「すべての曖昧な概念は消え去れば」、幼少時からあった、「根源的な恐怖は消えるのではないか」と思い、それでエメラルド・タブレットにも興味を持ったのですけれど、まあ未だに、この内容はもちろん全然わからないです。

しかしデスね((3)粘り強さの育成…)、とにかく、それが何であれ、「現実と合理を見て生きていくしかない」とは思ったのですよね。

自分の感覚や、曖昧な観念をできるだけ排除したいというのが、この 10年間くらいの、まあ……使命というと大仰ですが、それに近い感じだったと思います。

今思えば異常に執拗なコロナワクチンへの態度もそうでしたけれど、理解できないことがあるうちは「こんなもんでいいだろ」となってはいけないと。

自分の知識と能力が足りない部分がたくさんあるのが現実ですが、どんなことに対しても、持っているだけの知識と能力で、限界まで曖昧さを排除して合理的に考えてみようと。

この世のすべてに対してそういうように対峙していれば、いつかは「何かがわかるかもしれない」というような。そうすれば、私の一種の使命である「根源的な恐怖からの解放」が成しうることがあるのかもしれないと。

そうやって周囲を眺め始めますとと、「私はなんと思い込みだけで生きていた部分が多いのか」と気づきます。

たとえば、地上から見れば、「月と太陽は同じ大きさ」であることも、それまで気づいていなかったのです。

こちらの 2012年4月の記事に、そのことに気づいた時のことを書いています。

ぼんやり夜と朝、同じような場所にあった月と太陽を見て、「へえ」と。 

実際の(あるいは私たちが思い込んでいる)このふたつの天体の大きさの差は、以下のように約 400倍あります。

地球からの距離もまた 400倍だからこそ、日食も起こるし、空に浮かぶこのふたつは同じ大きさとなっています。

それ以前の私なら「そんなの当たり前じゃん」と思ったでしょうけれど、すでに「当たり前」という観念を持つことがあまりなくなっていました。

それに伴って、この世のすべてが「奇跡で構築されている」ことを認識するようになり、この世の見方が俄然楽しくなりました。

コロナワクチン後の世界でも、「人間の免疫システムの奇跡」や、「内在ウイルスの奇跡」のような挙動を知ることができたのも、ファイザー社のワクチンのお陰だと思っています。

同時に、「医学知識というのは、こういう悪意としてこんなふうにも使えるのだなあ」とファイザー社ワクチンを調べる中で知りました。

 

なお、「悪魔的存在」というものもまた「合理だけ」で考えます。しかし、人間と違うのは、「悪魔はそこに奇跡を見ない、あるいは見ることができない」のです。

私たち人間はそれができる。こんな難しい話は別としても、きれいな花を見て「きれいだなあ」と思うのはこの世で人間だけです。

「富」と聞いて「トミーとマツ」と即座に浮かぶのも人間だけです(いや、それは一部だし)。

つまり、きれいだなあとか、おもしろいなあ、とか、いっけん曖昧な感情に思えるかもしれないですが、「その曖昧な感情は、完全な合理性からしか生まれない」のです。

そのきれいな花の遺伝子配列が少しでも違えば、その「きれいだなあ」に至る外観は持たない。トミーとマツ……の話はまあいいか。 

ああ……もう話の展開がわからなくなっている。

まあしかし、最初のほうに書きました「富とは何か」はわからなくとも、それは、基本的に「使命に向かうためにある」というのなら、それはそれで理解できるような気もしました。

一番良い状態は、「資産などなくても富を感じる」という状態でしょうけれど、現時点の世の中では、それができる方々はごく少数だと思います。私もできないです。

しかし、仮に現在、良い人間関係をお持ちならば、それは間違いなく富です。

現在、没頭できる趣味や生き方があるのなら、それも間違いなく富です。

心から打ち込める仕事があるのなら、それも間違いなく富です。

たとえ何の取り柄がなくても、自分自身に自信を持たれているなら、それも間違いなく富です。

素晴らしい過去の経験を持たれているなら、それも間違いなく富です。

人生に良い思い出を持たれているなら、それも間違いなく富です。

いいダジャレが連発できるのなら、それもまた……(いや、それは富じゃない)。

イケメンじゃないのにイケメンだと主張し続けるのもまた……(いや、それも富じゃない)。

……ヨベルの年にはお客が呼べるよ……(・・・)。

 

さあ、苦しくなってきました。

ちなみに、単純に資産の話としても、海外のいくつかの記事を見ていますと、相当緊張した状態が近づいている感じがあります。

どうなるかは私にわからないですが、しかし、ちょっと見たことがないような変動の時期が近づいていそうです (近づいていないかもしれません)。

それと共に、戦争のことや、そして、日本のワクチン展開後そろそろ1年半が経過しようとしているという「時期の問題」や、いろいろと究極的な時期が近づいているかもしれません(もちろん近づいていないかもしれません)。

 

訳のわからない記事で申し訳ありませんでした。 

昨日、アメリカの大統領がまたも形而上的なことをたくさん言っていたので、触発されたのかもしれません。

大統領は、記者に向かって、 

「私はすでにいなくなり、そこには、もっとたくさんの草がある…。…私は行くつもりだ」 

と述べました。

感動的に文学的でした。ともかく、皆さんも、ヨベルの年を乗り切りましょう。



2022年10月27日木曜日

2862「神さまを信じる人」2022.10.27

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月21日の記事を紹介します。


「神さまを信じる人」


今日のお話は「神さまを信じる人は幸せになれる」です。 

基本中の基本です。

神さまを信じる・・と言っても、どこかの宗教組織に入って、厳粛で宗教的な生活を送らなくても良いのです。

私も特定の宗教には入ったことはありませんが、神さま(宇宙の根本法則)を信じています。

こういうことを「信仰心を持つ」と言うのかもしれません。 

・レインボーチルドレンはじめ

・宇宙から直接地球に転生してきた子供たち

・天界の記憶を保持したまま生まれて来た子供たち

全ての高度な知性を持つ子供たちが神さまについて、その存在を肯定し、それを前提として話していますので、神さまの存在を信じない方々は、波長の法則からすると、このブログを読んでらっしゃる方は少ないかもしれません。

この宇宙は見えている世界だけでなく、その何万倍もの見えない世界があり、成り立っていると言われています。 

現に人間の見える光の波長も、ほんの小さな範囲でしかありません。

動物や昆虫は、もっと広い範囲を見ています。

音も同じです。人間は小さな可聴範囲の音しか聞こえません。

私達、肉体を持つ人間に認識できない世界は宇宙中無限に広がり、かえってそちらの世界の方が広大です。

もし神さまの存在を信じていなければ、私たちが生きて行く上で遭遇する色んな出来事 例えば

・生まれる

・人との出会い・別れ

・結婚、子供、家族・不仲・登校拒否・いじめ

・就職、会社でのいじめ、嫌がらせ、パワハラ、セクハラ

・ケガ・病気・事故

・貧乏な時期、裕福な時期

・幸せな時期、苦汁をなめる時期

・ケンカする時、仲良くする時

・怒る、イライラするキッカケ、タイミング

・死ぬ時


などが全て偶然に発生しており、これらに全部、自分一人の力や知恵だけで対処しなければならない・・という非常に困難で孤独な立場に置かれます。

その結果、未来に対する不安でいっぱいとなり、うつ状態となってしまいます。

そして、そうならないために、常に必死に努力し、

・人より上の立場に立とう、

・お金を儲けよう、

・損することは絶対にしない、

それを家族にも強制する・・など、非常に精神的に不安定で殺伐としており、 

生きていても楽しくもないし、追い込まれた、あせりの状態に置かれてしまいます。

これが年間自殺者10万人を超えると言われる日本の現実です。

15~39歳の死因で、自殺がガンや事故などを上回り、死因の1位となっている現実を生みだしています。

さてここで、小林正観さんの「なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?」からご紹介します。

<引用開始> 引用元 


「正観さんのお話を聞いて、1週間ぐらいは調子がいいんですが、すぐ忘れてしまいます。 

ずっと忘れないようにするには、どうしたらいいでしょうか」という質問がよくあるのですが、忘れないためには、どうすればいいか。 

それは「実践をし続ける」ことなのですね。 

「いい話だったなあー」で終わってしまうと、3日後ぐらいには忘れていますけど、 

毎日、「ありがとう」を言い続けたり、トイレ掃除をし続けたりすることで、 

目の前にいろいろな奇跡や思いがけない嬉しい現象が起きてきます。 

自分も元気になるし、仕事も人間関係もスムーズに流れ出しますので、実践するのが楽しくなるのですね。 

話の内容を忘れないためには「忘れないぞ」と気合を入れるのではなく、実践をし続けることですね。 

すると、面白い現象があまりに頻繁に出てくるので、引き続きやりたくてしょうがなくなります。 

私の中には「やらなければならない」というのはまったくなくて、「ありがとう」を言うのも、トイレ掃除をするのも全部損得勘定ですから。 

損得勘定でやると続くのです。 

どんなに下心があって、野心があったとしても、実際にそれをやった人を《実践者》と言います。 

例えば、電車に乗っていて、おばあさんが乗ってきた。 

ある男は、おばあさんに席を譲ってあげたいと思った。 

自分の中では、人によく思われたいとか、評価されたいとかはまったくないけれど、

人の目が気になって、席を譲ると恥ずかしい気がして譲らなかった。 

それに対して、もう一人の男は、おばあさんが乗ってきたとき、目の前にきれいな女の人がいたので、この女性によく思われたいと思って、邪心と野心の塊で席を譲ったとしましょう。 

さて、邪心の塊で席を譲った男と、すごく美しい心で席を立てなかった男と、どちらを神さまが喜んでいるだろうか。 

多分、席を立った男のほうに微笑(ほほえ)みかけているのではないかと思うのです。 

動機はどうであれ、席を譲った瞬間に、宇宙に一つ《喜ばれること》が生まれたのですから。 

邪心や下心が全く無い人というのは、神の領域ですから、肉体を与えらえてはいません。 

人間としては卒業してしまっている。 

肉体を持っているということは、人間としての様々な体験をまだしたいということですから、損得勘定でやっていくことは、とても自然なことだと思います。 

100%美しい心でやっていこうと考えなくてもいいですから

「究極の損得勘定ができる人、究極の欲深い人になってください」と伝えています。 

宇宙構造を40年研究してきて、損得勘定でないものは、どうもないようです。 

どのような分野でも、人に喜ばれるような生き方というのは、すべて自分にとっての損得勘定で言えば“得”になっています。 

 

人に喜ばれることをして自分が圧倒的に損だ、ということはないのです。 

さらに言えば、みんながいやがってしたくないようなことは、一単位あたりの“得”の密度が高いみたいです。 

トイレ掃除は、その最たるものです。 

そういうことを実践している人が何かを始めようとすると、あっという間に支援がきます。 

それは、その人が望みを実現させようとか、目標に到達しようとがんばっているわけではなくて、ただ毎日“徳”を積んでいるだけなのです。 

まさに、人徳の“徳”とは、損得の“得”なのです。 

心の中で、どんなに善きことを考えていたとしても、それが実行に移されなかったら、それはないのと同じ。 

「ありがとう」という感謝の言葉も、「笑顔」も、「気くばり」も、「優しい言葉」も、「席をゆずること」も、心で思っているだけなら、ただの絵に描いたモチにすぎない。 

どんなに強烈に願おうと、深く想おうと、それは同じこと。 

たとえば、喫茶店で注文するとき、どんなに強く心の中で「紅茶が飲みたい」と願ったとしても、「コーヒーください」とひとこと言ったらコーヒーが出てくる。 

神さまも同じで、心の中がどうであれ、現象として現れた「言葉」なり「行動」を評価するという。 

よき実践者をめざしたいものですね。 

<引用終了>

 

神さまを信じるとは、宗教の組織に入ることではありません。

ただ私達の心の中に居らっしゃる神さまを信じるだけです。

神様の存在を信じて、考えたり行動すると、正観さんの仰るように精神が安定するだけでなく、サポートオブネーチャー(自然界からの応援)が得られて、活き活きとした人生を送れます。

そして家族も幸せになることが出来るのではないかと思います。

また神さまを信じれる人は、中間世の記憶を持って生まれて来た子供たちが言うように、

私たちは生まれる前に、神さまと一緒に、どのような人生を送るか計画を立て、

・人の役に立つため

・魂の進化をするため

にこの地球に生まれて来たことを信じることができるでしょう。

私たちは、神さまと共に生まれる前に、生きている間に起こる全てのことを決めてきました。

ですから、何が起ころうと、神さまの名のもとに、絶対に大丈夫なようにできています。

私たちが人生において選択する全てのことは、私たちが、そのどちらを選ぼうと、

結果的に生まれる前に決めて来た通りを選択するようになっています。

ですから、どちらを選ぼうと、どちらに転んでも大丈夫なようにできています。

これほどの救いの事実があるでしょうか?

この真実は、神さまを信じる方が得ることのできる大きな安心と、

生きて行くための躍動感、優しさ、愛のエネルギー源となります。

私たちは、自分の期待していた状況と現実が異なってくれば、

「あぁ、もうだめだ」「あの時、あんな選択をしなければよかった」

そう思いがちですが、

神さまは、その先に、私たちを生かしてくれる道を既に準備してくださっていたのです。

皆様が内に居らっしゃる神さまと繋がり、お幸せになられますように。


2022年10月26日水曜日

2861「死はすぐそこに」2022.10.26

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月20日の記事を紹介します。


「死はすぐそこに」


ここ数年、地球の波動が上がっているためか、 

・覚醒した・・という方

・地球に来た目的を思い出した方 

が急激に増えているようです。 


出来れば、その思い出した英知を自分のためだけではなく、

人々の幸せのために使っていただけたら世の中は、もっと幸せになれるかもしれません。 

2,500年前の梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と同じです。 

2,500年前、ブッダが悟りを開いた時

自分が覚った真理を説いても、欲望に支配された人々は理解できないだろうと、 

一人安楽な悟りの世界に安住してしまおうと、ブッダが思っていた時、

梵天(ブラフマン)が現れて、人々の幸せのために悟った法を説くよう要請しました。 

この梵天の要請を「梵天勧請」といいます。 

さて今日は、27歳でガンで亡くなった若い女性の手紙をご紹介します。

死が目前に迫った時、私たちは何を思うのか?

死は、私たちに平等に必ずやってきます。 

そしてそれはいつ来るのか誰にも分かりません。

健康で、朝「行ってきます」と笑顔で出かけた人が、突然帰らぬ人となるかもしれません。

では、ご紹介します。

 

<転載開始> 転載元 


26歳という若さで、死と向き合い始めるというのは少し珍しいことかもしれません。

多くの人はこのことに目を背けて生きているからです。

毎日は、当たり前のように過ぎていきます。まるでそれがずっと続くかのように。

私もいつか歳を重ね、シワができ、白髪になることを想像していました。

たくさんの子どもに囲まれ、愛に溢れた家庭を築くことをいつも考えていました。

でも人生は儚く、貴重で、予想できないものです。

毎日を生きることは、与えられた権利ではなく、贈り物なのです。

私は27歳です。

まだこの人生を終わらせたくない。私は今とても幸せだからです。

でも、もう私にはコントロールすることはできません。

私はただみんなに、些細なことを、あまり心配しないで欲しいのです。

そして覚えておいて下さい。 

最後にはみんな同じ運命が待っているということを。

だからあなたの時間を、価値のある素晴らしいと感じることに使って欲しいのです。

嫌だと思うことはしなくていいのです。些細なことには寛大な心でいてください。

もちろんイライラすることはあると思いますが、ずっと引きずらないでください。

そのようなことで、周り人々の人生に悪い影響を与えないようにしてください。

イライラしてしまう時は外に出て深呼吸をして、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで下さい。

 

そして空の青さを、木々の緑を見てください。 それはとても美しいものです。

考えてみてください。呼吸ができること、その素晴らしさを。 

もしかしたら今日、渋滞につかまってしまったかもしれませんね。

あなたの愛おしい赤ちゃんが泣きわめくせいで、よく眠れなかったかもしれません。

美容師があなたの髪を短く切りすぎたかもしれないし、

変えたばかりのネイルが欠けていたかもしれません。

自分の容姿が気に入らない人もいるかもしれません。

でもそれらのことは些細なことです。

あなたが人生の終わりを迎える時、そんなことは考えないでしょう。 

人生全体で見れば、それらのことは本当にどうでもいいことです。

私の身体は日を追うごとに、どんどん痩せ細っていきますが、

私の願いは、

・もう一度だけ、家族と誕生日を過ごしたい

・もう一度だけ、クリスマスを迎えたい

・もう一度だけ、パートナーと過ごしたい

それだけです。たったもう一度だけでいいから。

仕事がどれだけ大変だったかなどの不満を訴える人がいますが、

まずは身体が満足に動くことに感謝してください。

たとえ理想の体型でなかったとしても、健康でいられること、身体が機能すること、 

それだけで素晴らしいことなのです。

食べ過ぎに注意して、適度に運動をし、新鮮な食事で十分な栄養を与えてください。

そして、お互いを助け合いましょう。

与えて、与えて、与えるのです。

他者に与えることで得られる幸せは、この上ないものです。

私ももっとそれをしたかった。

病気になってから、多くの人が私をサポートしてくれました。

とても返しきれるものではありません。そのことを私は一生忘れないでしょう。

あなたが死ぬときに、お金を持っていても なんの意味もありません。

自分の服を買う代わりに、誰かのためにそのお金を使いましょう。

あなたが同じ服を着ていても、誰も気にしません。

何より大切な人を食事に連れていったり、贈り物をすることは気持ちの良いことです。

その際に、大切に想っているという気持ちを伝えましょう。

自分のためにお金を使う際は、モノではなく経験に使いましょう。

ビーチに行って足を水につけ、つま先で砂を掘り、顔を海水につけてください。

自然を感じてください。

携帯の画面ばかり見るのではなく、ただその瞬間を楽しむようにしてください。

人生とは画面を通して生きることではないし、完璧な写真を撮ることでもありません。 

大切な人との、血の通う時間を大切にしてください。

早起きをして、鳥のさえずりに耳をすまし、朝日の美しい色を眺めるのです。

音楽を聴いてください。音楽はセラピーです。

犬を抱きしめてください。携帯を置いて、友達と話をしましょう。

 

旅をしたいならしましょう。生きるために働いてください、

働くために生きてはいけません。

心が幸せに感じることをしてください。ケーキだって食べていいのです。 

何の罪悪感も要りません。やりたくないことには、やりたくないと言いましょう。

他の人が考える理想の人生にプレッシャーを感じなくても大丈夫です。

平凡な人生を望んでも全く構いません。

愛する人に、毎日愛を込めて、愛していると伝えましょう。

そして覚えていてください。

もし何かが、あなたを不幸にさせたとしても、あなたにはそれを愛など他のパワーに変える力を持っています。

この地球であとどれくらい生きられるか分からないのだから、そのようなことで時間を無駄にしてはいけません。

多くの人が同じことを言っていますが、これ以上の真実はないと思います。

これは一人の若い女性からの人生のアドバイスです。 

覚えていてくれても、忘れても構いません。

それでは、また会う日まで。

<転載終了>

 

今目の前に居る人、配偶者、子供、家族、友人、彼らとも、いつか「さよなら」する時が来ます。

この地球では、永遠に続く関係性は無いからです。

もしかしたら、何か些細なことで、わだかまりを持っているかもしれません。 

ですが、死と言う別れを前にした時、そんな些細なことが、 

・心を通い合わせること

・感謝すること 

に何の支障があるでしょうか? 

出会ってくれてありがとう。喜びも悲しみも、苦しみも、沢山の経験をありがとう。 

そう伝えたくなるのではないでしょうか? 

もう直接、肉体のあるその方に、伝えるチャンスは永遠にないのですから。

この亡くなった彼女の最後の願いは 

・もう一度だけ、家族と誕生日を過ごしたい

・もう一度だけ、クリスマスを迎えたい

・もう一度だけ、パートナーと過ごしたい 

でした。 

これら全ての願いは、物ではありませんでした。 

身を飾る、肩書、地位、名誉、プライドではありませんでした。 

全てが、大切な人との、思いやり溢れる魂の交わり、経験を望んでいたのです。 

別れは、突然にやってきます。 

私たちの目の前の人たちは、私たちにとって一番大切な人々です。

ですから神さまの采配で、近くに置かれたのです。 

いつ死が私たちを引き裂いても悔いのないように、どうか目の前の方を愛し、大切になさってください。 

出会ってくれたことに感謝してください。 

そのように心を合わせることのできた人とのご縁は、きっと死を超えて、永遠の絆となるからです。

 

2022年10月25日火曜日

2860「動物と人間の関わり」2022.10.25

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月19日の記事を紹介します。


「動物と人間の関わり」


今日は、犬や猫など動物と人間との関わりについてです。

うちにも犬2匹、ネコ1匹います。(ネコは生後間もなく保護したねこです)

下記の映像で6歳の神様(山幸彦)トキ君がお話しています。 

動物のお話は、3分20秒くらいからです。 

この中でこんなお話がありました。(一部補足含む)


神さまが犬や猫に与えた役割

犬の役割

・人を護るため

・人に愛を与えるため

・心配や不安を抱いて生活していると犬も共感力が強いため、心が苦しくなる・悲しくなる

ネコの役割

・人間の邪気(悪い氣)を吸い取ってしまう

・しっかりとこの仕事をさせてあげると、彼らにとってそれが一番の幸せ

・その結果、すぐに天国に行けたり、すぐに生まれ変われたりする 

犬や猫など人間のそば近くで生きる動物たちはかなり進化の階段を上っているそうです。 

まだ進化の低い段階の動物たちは、決して人間とは交わることがないのだそうです。 

そして幸運にも人間のそば近くで生きることのできた動物たちで、 

更に人間から深い愛を受けた生命体は急激に進化の段階が進むことができるそうです。


最終的には人間として生まれてきます。

またトキ君のお話にあったネコは飼っている人(家族)の邪気を吸い取る・・ 

この言い回しは非常に日本的で日本古来の縄文の神様の意識です。

(やはり節々にトキ君が日本神界の行為の神様の生まれ変わりであることが伺えます) 

つまり大祓祝詞(おおはらいのりと)の中に書いてありますように、

決して邪気・悪を消滅させてしまうのではなく、

抱き参らせ、浄化し、清いエネルギーに変換・浄化してしまうという、

美しくも優しい、縄文の精神です。 

家にも犬とネコがいます。

何だか愛おしくなってきますね。 

   

さて、以前「動物の進化の過程」について記事を書きました。 

以下掲載します。 

 

今日は死についてのお話です。

死と言うと、それは私達肉体がある者から見ると、

・もの凄く違う世界への旅立ち、

・忌み嫌うべきもの・・ 

と思いがちですが、決してそうではありません。

今世の目的を終わらせ、神様から借りていた肉体をお返しし、

本来の魂の存在に戻り、次の進化の階段を進むだけです。

ですので身近な人の死に対し、残された人達が、何時までも何時までも、

悲しんで引きずる事は良いことではないと言われます。

その残された者の強い思いは、強力なエネルギーを持ちますので、 

やっと予定通りの肉体での生活を終わらせ、進化の道を進もうとする魂を引き留め縛り付け、何時までもここ3次元の世界から離れることが出来ない状態にさせてしまいます。 

それ程人の想いは強いものです。

それがよくわかる例を1つご紹介します。


東洋の叡智であるヨガを西洋に初めて伝えた偉大な伝道師として、広く世界に知られているヨガナンダのお話です。

ヨガナンダがインドに作った全寮制の学校での出来事です。 

(ヨガとは神との一致を意味する単語です。一般的な体操のヨガは、神と一致するための技法のひとつです)

<引用開始>


ランチ(ヨガナンダが20代前半にインドに設立した学校)には、

われわれの自由に使用できる10ヘクタールほどの肥沃な土地があった。 

われわれはそこに、果物や野菜を栽培し、また、そこで戸外の作業を楽しんだ。 

動物もたくさん飼っていたが、中でも一匹の子鹿は、生徒たちからたいそうかわいがられていた。 

私もこの子鹿が好きで、夜は自分の部屋に寝かせたくいだった。 

明け方の光が射し込んで来ると、この子鹿は、ちょこちょこと私のベットに歩み寄って来て、朝の愛撫を求めた。

ある日、私は用事で町へ出かけた。 

そのため、私はいつもよりも早めに子鹿に餌をやって、子供たちには、私が帰るまでは子鹿に何もやってはいけないと言い付けておいた。

 

ところが、生徒の一人が私の言い付けを忘れて、ミルクをしこたま飲ませてしまった。 

夕方私が帰ると、生徒たちが悲しい知らせを持って駆け寄って来た。

『子鹿が、ミルクを飲みすぎて死にそうなんです!』

死んだようにぐったりした子鹿をひざの上にのせて、私は涙とともに、神に子鹿の命を助けたまえと祈った。

2、3時間すると、子鹿は目を開いて立ち上がり、力なく歩きはじめた。学校じゅうの者が歓声をあげた。

しかしその夜、私は忘れることのできない深い教訓を与えられた。 

私は夜中の2時ごろまで子鹿のそばに起きていたが、そのうちにうとうとと眠ってしまった。 

すると夢まくらに子鹿が現れて、私にこう言った。

『あなたが引き止めるので、私は行くに行けません。お願いですから、どうか私を行かせてください』

 

『よし、よし』私は夢の中で答えた。

私はすぐに目をさまして叫んだ。

『おい、みんな、子鹿が死んでしまうよ!』

子供たちは私のそばに走って来た。

私は、部屋のすみの子鹿のところに駆け寄った。 

子鹿は最後の力を振りしぼって、つまずきながら私の方に歩み寄ると、ついに力尽きて、私の足もとに倒れて息が絶えた。

この子鹿は、動物たちを支配するカルマによって、今ちょうど鹿としての生涯を終えて、

より高等な動物に進化する時期に来ていたのである。 

ところが、私の愛着(これは利己的なものであったと、あとで気づいたのであるが)と、熱心な祈りのために、子鹿は今の状態から離れることができず、その魂が解放を求めてあがいていたのである。

子鹿の魂は、私の理解ある許しを得ずに私のもとを去ることができなかったので、夢まくらに現れて嘆願した。 

そして、私の承諾を得るとすぐに旅立って行ったのである。

悲しみは消えた。神は、その子らであるわれわれが、万物を、神ご自身の一部として愛することを欲しておられるが、また、死によってすべてが終わってしまうわけではないことを、

理解するように望んでおられる、ということを私はあらためて悟った。

無知な人は、死を、

自分と愛する人々を永久に隔ててしまう越えることのできない壁、とのみ思っている。 

しかし、万物を神の現われとして愛することを知っている執着のない人たちは、

死とは、その愛するものが再び喜びに満ちた最高のいこいの場所である、

神のふところに戻るだけだ、ということを理解しているのである。

<引用終了>


生まれて来た以上、どんな人も動物も、命あるものは死を迎えます。

それは遅かれ早かれ時間の問題です。

ですが、その死は神様が許したこと、本人の潜在意識が生まれる前に計画してきたことです。

愛する人の死は本当に辛いものです。

死と言う肉体との別れが来た時、その悲しみを味わったら、

最後はありがとうと感謝で送ってあげるのが良いですね。

その人は既に死と言う境界を通過して、大きな進化の階段をのぼろうとしているのですから。

肉体をまとう期間は短く、そして有限ですが、魂は永遠で、そして不滅です。

私達、人間、動物、植物、全てのものは霊的な魂を持ち、常に神様へ向かう進化の道程の中に居ます。

死は、その一瞬の通過点にしかすぎません。



2022年10月24日月曜日

2859「幸せな家庭のために」2022.10.24

  今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月18日の記事を紹介します。


「幸せな家庭のために」


今日は、非常にシンプルなことですが、習慣化することで偉大な力を発揮してくれる

言葉についてです。

当たり前のことですが、

・私たちが日常的に使う言葉、

・無意識のうちに使う言葉、

・癖になってしまった口癖 

などによって、 

・私たちの運命や、

・将来のこと、

・家族の健康、

・家族の幸せなど、

全てが大きく左右されます。

そんなことは普段考えたこともない人が殆どかもしれません。

でも、その事を頭に入れたうえで 

周りの 

・健康的なご家族、

・病気がちのご家族

のことを見てみてください。

きっと当てはまることが多いかもしれません。

神様が「一番大切にする人」として家族を作ってくださいました。

その家族を幸せにすることが私達人間が一番にしなければならないことです。

それでは、

・幸せになりたい方、

・ご家族も幸せにしたい方のために 

小林正観さんのお話をご紹介します。

<転載開始> 転載元


■「嬉しい」「楽しい」と笑顔で言い続けると、それを言う人、聞く人どちらも元気になる。

日常で

・つらい

・悲しい

・苦しい

・悔しい

と言い続けると、それを言う人も聞く人もどんどん元気を奪われます。

1年365日、言い続け、聞き続けたとしましょう。

それが3年、5年続いたとしたらどうでしょう。 

ものすごい量の「気力」を奪います。

結果として、その家には多分「不幸」が集中するでしょう。 

「気力」も「体力」も「精神力」も「集中力」もすべて奪われる。

家族全体から奪われるのですから、

・病気になる、

・風邪をひきやすくなる、

・集中力を欠き接触事故を起こしたり、

・不用意な発言をして人を傷つけたり、 

そういうことも増えます。

気力だけの問題ではありません。 

自分で自分に繰り返し 

・つらい

・悲しい

・悔しい

・苦しい

・つまらない

・サイアク 

と言い聞かせ続けると、 

「生きているのがそんなにつらいなら死んじゃいましょう」と、

体自身が反応し、ガン細胞を増殖させ、故障や病気を進行させます。 

体自身がそういう指令系統を持っているのです。

それを「悪い霊が憑いている」などと言う人がいますが、私はそうではないと思います。 

お祓いはいりません。 

家の中で飛び交う言葉には

「元気を取る言葉」や

「怒り顔」をなるべく出さないことです。

毎日 

・嬉しい

・楽しい

・おもしろい

・幸せ

と笑顔で言い続けたら、それを言う人、聞く人どちらも、どんどん元気になります。

風邪をひくことが少なくなり、ひいても熱が出にくい、早く治るようになります

(免疫力や基礎体力が強化されるということです)。

「バカは風邪ひかない」という言葉を、このようなことを知った上で解釈すると、

まったく違う「真実」に気がつくでしょう。

毎日、 

・嬉しい

・楽しいと 

笑顔で、人を憎んだり恨んだりせずに言い続けている人は、「お前には苦労がないのか」と言われます。 

まさに「バカ」そのものです。

けれども、「バカは風邪ひかない」のです。

それが真実であり、事実。

長寿の人に「長生きの秘訣は?」と聞くと、必ず入っているのが

「くよくよしない」ということ。 

毎日「嬉しい」「楽しい」と言い続けていると、風邪はひかないし、長生きもする(体があまり傷まない)のです。

ついでにもう1つつけ加えておきましょう。 

ある人がケガをしたときのこと。

リハビリで何度か通ううち、ある先生から

「できないことばかりを挙げないで、できることを考えて、挙げてください」と言われたそうです。 

考えてみたらできることの方が圧倒的に多いのに、 

「できないことばかり挙げていた」というのです。 

 

ケガをしたときだけでなく、日常的にも 

・あれができない

・これができない 

と言ってしまいがち。

でも、たとえば足を捻挫したとしても、テレビは見られるし、食事もできる。

手紙もかけるし、電話でおしゃべりもできる。

よく考えてみると、1万できていたことが、9900になっただけで 

「できること」の方が圧倒的に多いのです。 

そういう事実に気づき、それを理解し「できること」を強化し延長するようにしたら、

今までとはまったく違う速さで体が治り始めたとのことでした。

「楽天的に生きる」ことは、体自身の要請でもあるようです。

<転載終了>


日常使う言葉は本当に大切ですね。

それが運命までも左右してしまうからです。 

ずっと以前、日本国中で大ブームになったことがあります。 

工学博士の五日市剛 (いつかいち つよし)さんが、ツキを呼ぶ「魔法の言葉」という本です。

沢山の類似本が日本全国で、溢れかえりました。

五日市さんが、イスラエルでおばあさんに教えてもらったこと・・・

・悪いことがおきたときは「ありがとう」

・いいことが起きたときは「感謝します」

たったこれだけの実践で、ご本人の運命が、大好転したとか

これを、自分で小冊子にして知人達に配ったら、それを見て実践した人たちの

運命も、大きく良い方向に転換してれしまったのだそうです。

その言葉の力、

「言霊(ことだま)」のパワーは素晴らしく、計り知れない力があるようです。

この言葉のパワーを知って実践して成功した有名人も数知れず

・原辰徳監督

・アントニオ猪木さん

・柴田章吾さん

・石川遼さん

みんな、五日市さんの、このお話を知って

それを実行し、沢山の幸運が訪れた方たちなのだそうです。

皆さんも、ちょっと意識して、普段使う言葉を変えてみませんか? 

きっと、ご本人だけでなくご家庭にも、幸福が訪れることでしょう。



2022年10月23日日曜日

2858「坐禅会運動について2」2022.10.23


では、「日の理念」を実現してゆくには、どのような「形」がふさわしいのでしょうか。

そこで、再びよみがえってきたのは、道元禅師でした。

道元禅師は「悟り」ではなく、「坐禅」を根本に据えていらっしゃいます。「普勧坐禅(ふかんざぜん)」とおっしゃって、すべての人に坐禅を勧めていらっしゃいます。出家だけ、エリートだけに坐禅を勧めておられるわけではありません。どんな資質の人でも坐禅さえしていれば、すべてが「おさまる」んだよ、「ととのう」んだよとおっしゃっています。

また、「典座教訓(てんぞ きょうくん)」や「知事清規(ちじ しんぎ)」で、禅道場で、各人が担当するさまざまな役割に、価値の大小や軽重、上下などはないということ。そのそれぞれがなくてはならない尊い役割なのだということを説いていらっしゃいます。

そのような、道元禅師の根本の教え(理念)を再発見して、これは私に届いた天のメッセージとそっくり同じであるという事を知り驚喜しました。

ただ道元禅師は、時代の制約があって、禅の道場という閉ざされた集団のなかでしか形に出来なかった「日の理念」を、人類の進化の段階が進んだ時代に生きる私たちには、「開かれた共同体」の中で、もっと自由で大らかな形で「日の理念」を実現してゆけるようになってきたのです。


では、「日の理念」をどういう「形」で建設してゆけばいいのでしょうか。

まず、道元禅師と同じく、「悟り」ではなく、「坐禅」を本尊に据えて、その「坐禅」に癒やし、養い、導いていただく。

そして、仲間が寄り添って、ツラい時も、悲しい時、脱落しそうになった時、お互いに支え合いながら、励ましあいながら歩んでゆく。そんな小集団(坐禅会)を全国各地に作ってゆく。

その坐禅会は悟りを開いて師の免許状を得たリーダーによって導かれるというのではなく、一同平等の立場で、一緒に「坐禅」し、その「坐禅」をリーダーにして共に成長してゆく。坐禅会を設けてお世話する方は、指導者ではなくお世話役という役割を果たしているのだということを忘れないで、決して坐禅会を支配しよう、リードしようとはしないこと。

自分には悟りの目がないから、坐禅会は開けないなどとは考えないこと。

「坐禅こそが悟りの目」で、「坐禅」していれば、すべてが「おさまり」、「ととのう」のです。あなたはただ、ご縁のある人を「坐禅」に導いてあげればいいのです。そうすれば「坐禅」がその人を導いてくださいます。人を「坐禅」に勧誘してあげ、「坐禅」が習慣となり、生活の中心軸となるよう導いてあげる。それは素晴らしい布施行で、あなたは大変大きな功徳を積むことになります。


「坐禅会運動」は以上のような、何十年にも及ぶ模索、経験の末にたどり着いた結論です。

コロナのせいもあって、はじめは一人坐りしているという方が多かったのですが、月に一度は仲間で集まって一緒に坐ろうという方が増えてきて、その実施報告が届くようになってきました。有難く、嬉しいことです。

しかし、私にあせりはありません。私は「一の時代」の戦士ですし、ゴールは35世紀なのですからね。すでにゴールインできるということは分かっているし、「三の時代」を担当する戦士たちもスクスク育っています。

青空ひろばの事務局でも、さらに仲間の「連帯」がしっかりしてくるように、いろいろ案を練って下さっているようなのでお楽しみに…。

坐禅会の運営にあたっては、<「お日さまの仲間」の信条>を基本方針にしてください。再録しておきます。

<「お日さまの仲間」の信条>

(1)明るくて、温かくて、潤いがある「安心できる場」を作ろう

(2)リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう

(3)「あなたがあなたであること」以上に尊いことはない、ということを知ろう

(4)菩薩としての自覚を持って、分に応じて「ダーナ行」を粘り強く実践してゆこう。他のために生きることの喜びを体験しよう。 


<「お日さまの仲間」の信条>の4箇条の説明を、順次しておきましょう。

(1)明るくて、温かくて、潤いがある「安心できる場」を作ろう

(2)リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう

この二つは最も大切な条項です。

明るくて、温かくて、潤いがある坐禅を、みんなで繰り返すうちに、次第に「安心できる場」が育ってゆきます(この「場」は時空を超えて広がってゆきます)。

参加するだけで病気が治りました。いや、坐禅会に参加しようと思っただけで楽になりましたという人が出てきます。少人数でも黙々と坐禅会を続けてゆくと、このような「安心できる場」が育ってゆくのです。 

また、この「安心できる場」は、時空を超えて広がってゆくので、苦しい状態に拘束されて動けないでいるご先祖も包みこんで、その苦悩から解放してあげられます。ご先祖が開放されると、それに連なって存在しているあなたにまで、その開放の喜びが届いて、あなたの人生も重苦しいものから、軽やかで、自由な、可能性に満ちた人生に転換してゆきます。

また、この「安心できる場」は、未来の子孫にまで届いて、子孫たちがしあわせな人生を生きることをサポートします。このように、坐禅によって徳を積み、「安心できる場」を作るというのは、とても大切なことです。

「安心できる家庭(場)」に育つ子供はスクスク素直に育ち、特別な努力はしていないのに、なぜか順調でしあわせな人生を生きることが出来ます。これは時空を超えてその子供を包み込み、護る「安心できる家庭(場)」のおかげなのです。

浄土宗や浄土真宗でも、そのような「安心できる場」を説いています。

法蔵菩薩は黙々と、何度も生まれ変わって修行を続け、ついに阿弥陀仏という仏になり、菩薩の時の誓願を実現して「極楽浄土」という、時空を貫いて作用する「安心できる場」を完成されたのです。

そして、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、誰でも(エリートでなくても、アタマがよくなくても、体力や精神力がなくても)その「浄土」という「安心できる場」に送り届けられる。そのような送迎システムを阿弥陀様がすでに完成して下さったのです。ですから、私たちは阿弥陀様を信じて、その移動システムを信じて、ただお念仏を称えましょうというのが、浄土の教えです。

そして、その「極楽浄土」という「安心できる場」に入りさえすれば、その「場」の力によって、今まで身心の病を抱えていた人は、その苦しみから解放され、向上心がなかった人でも、学びたい、成長したいという意欲が湧いてくるようになる。そして、しっかり学び、成長できるようになるとされています。 

私たちの「坐禅会運動」では、阿弥陀様にあたるご本尊が、「坐禅」で、お念仏にあたる行が「坐禅を行ずる」ことです。

そして、「坐禅」さえ繰り返してゆけば、自然と極楽浄土にあたる「安心できる場」が形作られてゆき(あなたも法蔵菩薩のように、「安心できる場」を作る主体となるのです)、またあなたは、今生でも、また滅後も、その全国の坐禅会一同で協力し合って育ててきた「安心できる場」に入って憩い、イノチのクセや強ばりをほどくことができるのです。


法然上人が最晩年に書かれた「一枚起請文(いちまい きしょうもん)」という文章があります。

この文章の「念仏」を「坐禅」に読み変えると、私たちの「坐禅会運動」に参加する人が大切にするべき心得となります。現代語訳しておきますから、お読みください。

「一枚起請文」

インドから始まって、中国の唐や日本の高僧たちが、実践して来られた念仏は、アミダ仏のお姿を克明に観想(イメージ)する念仏(仏の相を観念する)であったが、私が君たちに教えている「念仏」はそうではない。

また、経典や論書をしっかり学んで納得した上で称えなければ効果はないという「念仏」でもない。

ただ、極楽浄土に往生(往って生まれる)するためには、『南無阿弥陀仏』と繰り返し称えればいいのだという教えを信じて、ひたすら称えること以外には、なにものも(集中力も、頭のよさも、お金も、地位も身分も、仏壇も、仏具も・・・)一切不要なのだ。

『三心四修』という心構えと行のあり方が、往生のためには必要である、その要件が揃わない念仏では決して極楽浄土に往生出来ないなどとうるさく言って、経典・論書を学んだことがない俗世の信者たちを惑わせている僧もいるようであるが、そんな要件は『南無阿弥陀仏』をひたすら称えて往生するぞと決心して実践している行の中に自然とこもってくることなのだから、あげつらう必要はまったくないのだ。

この、ひたすら『南無阿弥陀仏』を称えるという一行のほかに、往生のためには、これが必要だ、実はこれも必要なのだと、世俗の信者たちを惑わせる者がいたら、その者は、苦悩の世界に沈んで抜け出せないでいるすべての人を、「念仏」を称えるだけで、一人残らず救い出し、極楽浄土に往生させたいという、釈迦や阿弥陀仏の慈悲の心に背いている罪人なのだ。

また、『南無阿弥陀仏』とさえ称えてくれたならば、そのコトバを船として、その念仏者を浄土まで運ぶという誓い(本願)を立てて、その極楽浄土への航路を完成させて下さった阿弥陀如来のご苦労を無にし、妨害する行為なのだ。

念仏を信じ実践しようと思う人は、たとえあなたが釈迦一代の教えをことごとく学んだエリート秀才だとしても、そんな大量の知識はことごとく打ち捨てて、文字も読めず、仏教の「ぶ」の字も分からない「愚鈍の身」に立ち返って、尼や入道などの無智な仲間と一緒になってひたすら念仏を称えなさい。決してお念仏仲間の前で知識をひけらかしたり、リーダーがましい振る舞いをしてはいけない。

以上のことを証明するために、両手の手のひらの印を押しておくことにする。

浄土宗の心の置き所と行の正しいあり方は、この一紙の文章に究められている。私(源空=法然上人)が信じているところはすべて、この一紙の文章につづ約められていて、これ以外に私が秘密に保持していて、少数の弟子にだけ伝授するといった教えはまったく存在しない。

私が地上世界を去った後、弟子達が誤った方向に進んでゆかないようにするために、私が信じているところをここに記しておく。

建暦二年正月二十三日   源空花押  


以上の法然上人の御教えのように、坐禅会を開いても、先輩面したり、指導してやるなどと後輩を見下すことがないように。

浄土系の宗派では、「平座」と言って、お坊さんも信者も、同じ床の上に座って説法したり、話しあったりするのだそうです。僧侶が高座に上って、信者たちを教え諭すということはしないのだそうです。

<リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう>を形にして現しているわけですね。


(3)「あなたがあなたであること」以上に尊いことはない、ということを知ろう

(4)菩薩としての自覚を持って、分に応じて「ダーナ行」を粘り強く実践してゆこう。他のために生きることの喜びを体験しよう。

あなたは自分の力であなたとして誕生したわけではありません。神々が「あなた」という存在が地上に生まれて、「あなた」にしか歩めない人生を送ってくれることがどうしても必要なんだと、神々(大宇宙)の「霊的な力」を結集して、「あなた」を生み出したのです。

「あなた」として生きて歩んでゆけるのは、「あなた」しかいません。誰にも「あなた」変わりができる人はいません。

だから、「あなた」は自己否定したり、卑下したりしないで、「あなた」であることを誇りに思って、「あなた」を精一杯生ききってください。成功したり、実績をあげるということを神々は望んではおられません。「あなた」は精一杯「あなた」して欲しいと期待しておられるのです。

また、「坐禅会運動」は最高の布施行です。

物資やお金の布施は、有限の範囲にしか、その効果は届きません。

しかし、「坐禅会運動」に参加して、いろんな役割を分担して、仲間のお世話をすることは、「安心できる場」を育てることになり、その「場」は時空を超えて作用してゆくことになるので、その効果は無限の範囲に及ぶのです。ですから、限りない「徳」をあなたや家族や、ご先祖や子孫たちが得ることになるのです。

先は長いので(35世紀がゴール)、焦って参加者を集める必要はありません。しかし、坐禅会運動に参加したということは、「菩薩」となって世のため、人や動植物や自然環境のしあわせのために生きてゆくという覚悟を決めたということなのですから、今生でなくてもいいから、いつの日かお友達や家族や知り合いに呼びかけて、皆で一緒に坐禅会を開こうという願いを忘れないようにして下さい。

まず、手始めに青空ひろばに告知された坐禅会のうちで、自分の住む地域に近いものがあれば参加してみる。そして、一緒に坐れば、一人で坐るより、一層いい坐禅が出来るということを体験してみてください。

そして、参加した坐禅会の運営を見ておくことは、あなたが坐禅会を始める際の、とてもいい参考になると思います。

ダラダラ長く坐禅会運動の意義の説明をしてきましたが、切りがないのでこの辺で止めておきます。

「坐禅」さえしていれば、すべてが「おさまり」、「ととのう」ということ、「坐禅」にご縁のある方を勧誘し、「坐禅」を習慣にし、生活の中心軸となるように導いてあげることは、とてもいい布施行になり、徳を積むことになるのだということを忘れないようにして下さい。(完)



2022年10月22日土曜日

2857「坐禅会運動について1」2022.10.22

 今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事「坐禅会運動について」その1 2022.09.14 ~その27 2022.10.16 を2回に分けて紹介します。


「坐禅会運動について」

なぜ「坐禅会運動」を提唱するに到ったのか、そのいきさつをふりかえってみたいと思います。話は30年ほど昔にさかのぼります。

私は「イノチは本来ひとつ」なんだということを、42歳の時に天からのインスピレーションで知らされました。それが「ヒトの逆円錐モデル」です。→『国生み記伝』(バンクシアブックス)p.27参照

そして、47歳の時に人類の魂の進化がどのように進んできて、これからどの方向に向かい、最終ゴールはいつで、その時どのような状態になるのかを天からのビジョンで教えられました。それが「金平糖大作戦の神話」です。→『ココロとカラダを優しくほどく』(バンクシアブックス)参照 

「金平糖大作戦の神話」を大まかに説明すると、始め丸いひとつの魂(「小丸」)であった人類の魂は、さらに進化したい、より大きくなりたい(「大丸」になりたい)という激しい成長衝動(根源意志)を持っていて、そのために、丸い魂からウニのように無数のツノをニョキニョキ生やし、そのそれぞれのツノに自らと同じ激しい成長衝動を埋め込みました。その多数のツノの一本、一本が、実は私たち個々の人なのです。

やがて個々のツノ(個人)が、より高く、より太く育つという成長を始めました(この時点で個々のツノの成長を継続させるために「転生」が始まりました)。

しかしその途中で、自分たちは丸いひとつの魂という母体から生え出た存在で、今もその養いを受けているんだ。また他者に見える他のツノ(人)とも、実は根っこの部分でつながっている「一体のイノチ」なんだということをすっかり忘れてしまいました。

それによって、ツノとツノがツノ突き合わせて争っているというのが現在の状況です。

この進化段階を「分離の時代」と呼びます。進化の過程としてどうしても経なければならない過程なのです。

現在は、その「分離の時代」の最終段階で、さまざまな矛盾が一気に噴き出してきています。しかし、そんな人類のお先真っ暗で、まるで終末間近のように見える状態の奥で、黙々と育ってゆきつつあるものがあるのです。日の出は近いのです。


それぞれのツノが少しずつ育ってきました。より高くなり(視野が広がり)、より太くなって、ツノとツノが融合しはじめ、お互いの気持ちを思いやったり、協力し合うことが出来るようになり、また高い視点から地球全体の危うい状態を知って、対処出来るようになりつつあります。

 「分離の時代」を卒業して「ユニティ(融和一体化・連帯)の時代」が始まろうとしているのです。 

ツノとツノが根っこの部分から始まって徐々に一体化して、高い部分にまで融合一体化が及ぶようになり、最後は再びトゲトゲのないまん丸い魂に戻るのです。「小丸」から「大丸」に、より成長した丸い魂として…。 

そして、「大丸」君となった人類の魂は地球における進化過程を修了して、次の進化の舞台となる星へとジャンプするのです。その出発はどうやら35世紀になるようです。

もちろん、私の現在の地上での命は、そのゴールの瞬間の歓喜を見ることは出来ません。

ですから、私の志を引き継いでくださる仲間がどうしても必要になってきたのです。

そこで、「しあわせ通信」を始めました。この「しあわせ」は「志合わせ」でもありますね。私が天から届けられたメッセージに共鳴し、共に歩んでくださるという仲間が少しずつ増えてきました。

そこで、さらに「お日さまの仲間(日の仲間)」というグループを作ることにしました。

なぜ「お日さま」なのかというと、どうやら私をリードしてくださっているのは、「太陽神霊」のグループソウルたちであるということが分かって来たからです。


インスピレーションを授かるようになった、そもそもの発端が、42歳の時に伊勢神宮に参拝して、天照大神さま(太陽神霊)から、「言葉の御用」という天命を授かったことであったのです。 

「日(ひ)」は「一(ひ)」でもあります。イノチが実は「ひとつ」しかなくて、それぞれの人が一体のイノチで、すべての人が「日処(ひと)」で、つまり、太陽神霊(日)の理念を地上世界に降ろす地上基地(処)であり、太陽神霊の徳をそっくりそのまま受け継いだ「日継ぎの御子」であり、すべての人が神の「日執り子(ひとりご)」なのだと教えられました。

それぞれの人が、神の「ひとりご」で、平等に尊い存在である。なぜならば、それぞれの人が神に託された「一人一芸(日執り一芸)」のお役を務めており、どの人のどの役割が十分に果たされなくても人類全体の進化過程は完成出来ないのだ、と教えられました。

ジグソーパズルのワンピースが欠けただけでも、人類進化達成図は完成しないのです。だから、すべての人が平等に尊い、大切な存在なのです。

 

さて、「お日さまの仲間(日の仲間)」というグループを作ろうとした時に、会の基本方針を定めました。それが<「お日さまの仲間」の信条>4箇条です。

<「お日さまの仲間」の信条>

(1)明るくて、温かくて、潤いがある「安心できる場」を作ろう

(2)リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう

(3)「あなたがあなたであること」以上に尊いことはない、ということを知ろう

(4)菩薩としての自覚を持って、分に応じて「ダーナ行」を粘り強く実践してゆこう。他のために生きることの喜びを体験しよう。

<「お日さまの仲間」の信条>の4箇条のうちの<リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう>という項目は、30歳代始めに坐禅の仲間と作っていた大愚会(たいぐかい)のスローガンのうちのひとつを継承したものです。

なぜこの条目を加えたのかというと、当時、禅を学んでいた私たち若い仲間は、伝統的な禅の教育システムによって育てて頂きましたが、その指導法にやがて違和感を感じるようになってきたのです。


禅の道場のことを「叢林(そうりん)」といいます。叢林とは木が群がって生えている林のことです。

師匠は、禅の道場は修行者が一同に集って競い合い、切磋琢磨しながら修行してゆくんだ。その様子を「叢林」とたとえるのだと説明されました。

そして、さらに「野中の一本杉」の話しをされました。

平地に高く聳える杉がただ一本だけポツンと生えていることがある。しかし、これははじめから単独で育ったのではなく、はじめは、その一帯は「叢林」で、たくさんの仲間と競い合って修行してきたんだ。しかし、やがて一本が枯れ、次の一本が枯れして…最後はついに一本だけ残って大木に育つことが出来たんだ。

その大木を蔭涼樹(いんりょうじゅ)といって、その大樹のもとで、雨や酷暑から人々を憩わせる大人物となるのだと説明されました。そして、この大木一本を育てるために「叢林」と呼ばれる禅の道場はあるんだとおっしゃいました。 

私はこの考え方に疑問を感じました、抵抗を感じました。

どう見ても私はこの最後の一本の大木になれそうにはありません。人と競い合う体力も精神力も能力もありません。そんな弱い人間は、大樹を育てるための添え木にすぎないのか。途中で挫折して消え去っても師匠は痛くも痒くもないのか。このような従来の禅が持っているエリート主義、切り捨て主義が誤っているように思いました。

それで、このような私の意見に共鳴してくれた若い仲間と、これまでの禅とは違う、もっと抱擁力があり、タテの関係よりヨコの仲間の助けあいを大切にする禅を作りたいと思って「大愚会」という在家の禅の会を始めたのです。

そして、その仲間に企業で「小集団活動」の研修を担当している方がいて、その活動に<リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう>というスローガンがあると聞いたので、それを採用して大愚会のスローガンとしたのです。

その当時は、まだイノチはひとつしかないという事や、それぞれの存在がその「ひとついのち」の進化向上のための一役を担っているのだ(一人一芸の御用)、というメッセージを受けていなかったので、この<リーダーシップより「メンバーシップ」>という言葉の本当の意味が分かっていたわけではありませんでした。 

「メンバーシップ」の意味が本当に分かるようになるまでには、さらに十数年が必要でした。学校で総務部長や教頭を務めたことによって、ようやく「メンバーシップ(役割分担)」の意味がハッキリしてきたのです。


人体のたとえで説明してみましょう。

人のカラダにはさまざまな部品があります。頭や眼や耳や鼻や、皮膚もありますね、内臓のそれぞれや、手足や、そのそれぞれの指や、血液やリンパや、膀胱や肛門もありますね。

それらのうち、どのひとつが欠けても人は生きることが出来なくなりますし、学び成長することが出来なくなります。

人の根本意志は、「限りなき成長進化」なのですから、その意志実現のためには、どのひとつの器官であろうとも重要で、大切な存在なのです。

そのひとつひとつの器官に相当するのが、私たち一人一人の個人で、どの一人も全体生命の成長のためには重要な存在で、欠けてはいけない存在なのです。

そして、それぞれの人が全体生命(神、人類の魂)から役割を配分され(天命)、依託されており、その役割を精一杯努めて、その人生を生ききれば、それで全体生命に対する最上の貢献となるのです。

皆がアタマや眼や口の役割を果たさねば意味がない。肛門や膀胱や粘膜の役割なんてつまらない、価値がないというのは間違っているというのはお分かりですね。

どのひとつの役割が十分に果たされなくても、全体生命は順調に育ち、ゴールに向けて歩んでゆくことは出来ないのですから。


従来の禅でもう一つおかしいと思ったのは、「悟り至上主義」です。

悟らねば修行しても意味がない。坐禅は悟るために坐るんだという頑なな思い込みです。

若い頃は、その思い込みに反発を感じましたが、その「悟り至上主義」のどこが間違っているのか、うまく説明出来ませんでした。

しかし、55歳を過ぎたあたりだと思うのですが、「悟り」とはどういうものなのかという理解が一気に深くなりました。この理解は、道元禅師の著作をもう一度読み直したことによって獲得出来たのです。

道元禅師は「悟り」と「迷い」を徹底的に分析されて、「悟り」を握りしめると「迷い」になり、「迷い」から逃げないで、そこにイノチの重心を据えて生きるぞの覚悟を決めたら、それが「悟り」なんだと説いておられます。

つまり、「悟り」とか、「迷い」とかいうコロッとした実体があるのではなくて、イノチというサイコロの「一の目」が「悟り」だとすると、「六の目」が「迷い」で、「一の目」を体験して喜んだり、「六な目」にあってうろたえたり、悲しんだりしながら、イノチというサイコロは、いろんな「目」に会いながら、コロコロ転がって成長し、前進して行けるのだよと道元禅師は教えて下さたのです。→『あなたに起こることは、すべて宇宙のはからい~現成公案読解~』(トータルヘルスデザイン社)参照 

さらに、「悟り」というのも、全体生命(神)から依託された役割にすぎないんだ、ということが分かってきました。

別に悟ったから偉いというわけではない。前生で君は裏方さん的な役割が続いてきたので、今生では「悟り役」をしなさいと神に命じられて、そして「悟り」という能力を貸し与えられただけのことなんだということが分かってきました。

京兆米胡(きょうちょう めいう)禅師が、「悟りは借り物だ」とおっしゃっていますが、「悟り」は私有出来るものではなく(私有しようとすれば、即「迷い」に転じてしまう)、神からお借りしたレンタカーなんだということが分かりました。


さて、私も歳をとって、今後長く地上にとどまる事は出来ないので、そろそろ志を引き継いでもらうための「形」を、地上に残しておかねばならないと思うようになってきました。

天のメッセージによると、大敬は「一(ひ)の時代」で、「イノチはひとつ」という「日の理念」を高く掲げて示し、人類の遠い未来の先、歩み続けるべき方向を「日のサーチライト」で明るく照らし示すのが天命、そして、大敬の次の時代の後継者は「三(み)の時代」を担当することになる。

「三(み)」は「身(み)」であり、「実(み)」であって、日(一)の理念を地上に降ろして、しっかり根付かせ、それを育てて具体的な「形」を建設してゆかねばならない(日の寄進=日の理念を皆で寄り集まって協力し、形の世界に推し進めて建設してゆく)のだと教えられました。 

では、地上に根ざして、日(一)の理念を着実に現実化してゆくためには、どういう「形」がふさわしいのか、いろいろ考えました。

若い弟子たちに「悟り」を体験させる努力をすればいいのか、はじめはそのように考えました。

しかし、それでは従来の禅の教育システムと同じになってしまいます。

「悟り」を得た人をリーダーとする、「悟り」を開いた人だけに教職免許を与えるというのでは、従来の禅の教育システムと同じです。

2022年10月21日金曜日

2856「魂を高みに上げるもの」2022.10.21

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月16日「魂を高みに上げるもの」と2021年01月28日「神様からのメッセージ」の2つの記事を紹介します。


「魂を高みに上げるもの」

今日は、障害を持って生まれてくることの意味についてのお話です。

クラリオン星人の小学4年生の久松奏拓(ひさまつ・そうた)君のお話です。

先日レインボーチルドレンのまりなちゃんのお話を書きましたが、

そうたくんも、まりなちゃんと同じく、

まさにこの過渡期の地球を救うために神様から送り込まれたような子供です。

小学4年生とは思えないほど、知性が高く、まりなちゃんと同じように

宇宙の真理、神々の意思を語っています。

映像も是非ご覧ください

 

大切な部分かいつまんでピックアップしてみます。

・障害を持って生まれてくる。将来の障害を計画して生まれてくること

・それは凄い幸運なこと、喜ばしいこと

・障害を持って生まれてくる確率の方が大分低い

・障害という大変な経験をすることで、物事をいろんな角度から見れるようになったり

・他の人にはできない学びが一杯ある

・わざわざ、その苦労を分かって、それを魂的に楽しむために生まれて来た

・いつも同じアイスだけど、今度は違う味に挑戦してみようかなど、結構軽いノリで選択してくる。

・でも、誰でもが、障害のある人生を選べるわけではない

・何度も人間を経験してきた魂だけ

・特別な契約をして、その予約が取れた時だけ、この人生を選べる

・この特別な状態を、何億人もが行列待ちをしている。

・障害を持って生まれてくること、将来の障害を計画して生まれてくることは、

 宝くじ1等に当たるくらいの確立しかなく、相当に喜ばしいこと

・それだけレベルの高い経験である

・だから、その状態を「かわいそうだな」と思わなくともよい

・障害を経験する計画を持って生まれてくる人は、

・他の人と比べて自分の力でいろんな経験ができる人

・その経験ができる人は、神様が選んでいる

・そして自分で納得し、特別な契約を交わし、生まれてくる

・その子の親となる人も、大変な倍率の中から選ばれた人

・その親になる人も、神様に選ばれてきた人

・何も知らない親は、自分を責めている人が多いけれど、

・その自分を責めてしまう経験でさえ、魂はわかっていて、求めて親になることを承諾してきた

・お母さんも、その経験をしたくて、予約して、やっと選ばれて生まれて来た

・その経験をお互いがすることで、魂の経験値が一気に上昇する

・親も、当事者の子供も、普通の人にはできない大きな「感情」を経験できる

・生きている間は、障害を選んで生まれて来た記憶はないけれど

・それが分かっていたら、最初から正解が分かっていたら、何の経験値も得られないから。

・でも、死んだ後、肉体を去って天国に帰った時に、そのすべての崇高な計画が理解できる 


・生きている間、いろんな感情を味わいながら、

・泣いたり笑ったりしながら人生を歩んでいくことこそが、魂にとって、

・大切な経験値となる

・悩んでいること、チャレンジしていることが、魂にとっては楽しい経験となる

・魂にとって、その境遇を

・苦しむことも、楽しむことも、とっても大切な経験となる

・生きている間、私たちはこれらのことを全て忘れているため

・障害を楽しむという概念がないけれど、

・本当は、自分で望み、何億人もの行列を待って掴んだ大切な人生経験

・もう少し、その経験を楽しんでも良いのかもしれない

今度は違う味に挑戦してみようかなど、結構軽いノリ・・

私たちは、少し人生を重く考えすぎているのかもしれませんね。 

・こう、あらねばならない

・そこから外れたら、負け、破滅

・物質的に豊かでなければならない

・高級なものを沢山持ち、ぜいたくな暮らし

・人の世話には絶対なってはいけない

などなど。

ですが宇宙的な視点、神様から見ると少し違うようです。

人生で起こること、良いも悪いもない 

全ては、魂の経験

地球でしか味わえない「感情」を通して、魂の経験値を上げていく、

ワクワクするような地球での経験

そんな経験がしたくて、私たちは地球にやってきた。 

ここ地球で起こる全ての経験は、自分と神さまで相談して決めてきたこと。 

神様は、私たちが生まれてくるときに「楽しんでくるんだよ」って送り出してくれたこと。 

 

私たちは、生まれてから、肉体を脱ぐときまでずっと、守られていること。。 

地球意識がそれを許してくれていること・・ 

この地球で出会う、家族、友達 

・私が好きな人

・私を好きな人

・私が嫌いな人

・私を嫌いな人 

みんなに感謝ですね。 



「神様からのメッセージ」

 (前半省略)

さて、今日のお話です。どんな方にも、心の内に神様がいらっしゃいます。

そして常に神様は、私たちとともに歩み、喜び悲しみを、共に分かち合ってくださっています。今日は、どんな方にも神様はちゃんとメッセージを下さっているんだよと言うことで、

ひとつの例をご紹介します。

<転載開始> 転載元


作家の佳川奈未さんは作家デビューする前、離婚して3人の子供を育てていくために、雑誌ライターのほか、3つの仕事を掛け持ちしながら朝から晩まで働いていた。そんなハードな生活が数ヶ月過ぎたある日、身体と心のバランスを保っていたネジがポンと音を立ててはじけ飛び、生きることをどうしても続けられなくなってしまい死を選ぶことを決心する。

ひとり死ぬためにまだ日の昇る前の早朝の海へと向かう。ところが死ぬことができない。

怖いわけではなく、誰よりも早くいったつもりが自分よりも早く来ている人がその日に限っていて邪魔をするからだ。

「神様はこんなに生きづらくしておきながら、成功するチャンスどころか、死ぬチャンスも与えてくれないのか」と佳川さんは悲観にくれる。

海では死ねないので、佳川さんは電車に飛び込んで死ぬことにして、海辺から駅へと歩いて向かう。

駅にたどり着くと、駅前には大きな本屋があった。 「自分はとうとう作家になる夢も叶わないまま死んでいくんだなぁ」と,心でつぶやきながら、なぜか、死ぬ前にもう一度、自分の一番好きな場所だった本屋に立ち寄りたいと思い、中に入っていく。

ぼーっとしながら、一番近くの棚のそばに立ち、そこに並ぶ本になにげなく目を向けると、一冊の本から『ぜったい守ってあげるから!』というタイトルの文字が、バーンと佳川さんの目に飛び込んできた。その文字を見て、佳川さんは呆然とする。

なぜなら、自分が守ってあげたいと思うものを守れず、そして自分自身も誰にも守ってもらえずひとりもがき苦しんでいた。そして死を覚悟した。 

『ぜったい守ってあげるから!』なんて 優しく温かなこんな言葉を誰からも言われたことなどなかったからだ。

なのに、その本がそうやって訴えかけている。そのことが衝撃だった。

佳川さんは、すぐにその本を手に取り、開き、読んで、その中にあるメッセージに涙がボロボロ流れてきて、止まらなかったそうだ。

そして、“私もこんなふうに誰かを救えるものを書きたい!やっぱり書きたい!”と

死のうとして冷え切った佳川さんの心に熱い思いが込み上げてきた。

結局、それがきっかけとなり、死ぬことを踏みとどまった佳川さんは出版社に書いたものを持ち込み、デビュー作が生まれる。佳川さん自身、もう一度生まれ変わったのである。


死を覚悟してなにげなく書店に立ち寄った時、目の前にあった本のタイトルという形に姿を変えた「天からのメッセージ」を佳川さんは受け取ることができた。

メッセージはそれ以前にもたえず投げかけられていたのだと思う。でも、佳川さんにとってはその日、その時が受け取る“時”だったのかもしれない。

佳川さんは「いま思えば、その言葉は、その本からのメッセージでもあるのですが、まぎれもなく、天が私を守ってくれているという尊いメッセージでもあったのです」と述べている。

<転載終了>


神様からのメッセージは、実はいたるところにあります。それに気付くかどうか。偶然として片づけてしまうかどうか。

特に今回ご紹介した佳川さんのように生死にかかわる時には、強いメッセージがもたらされます。

神様からのメッセージというと、とかく頭の中に厳粛な声で響いてくるもの。。と思っている人が多いかもしれませんが、神様はあまり、あからさまな方法を取らないことが多いようです。

人を通して語られる言葉とか、偶然目にした本のページとか。。

心の内なる神様を信じ、心を研ぎ澄ませていれば、必ず気付くと思います。

佳川奈未さんは「感性」とは、ある印象を受け入れる力だといいます。

感じたものを育む能力が、実は良いものを引き寄せるためには必要なのです。

感性が鈍いと、今自分に必要なものを見つけられないのです。

と仰っています。

皆さんにも、同じように神様は、何時もメッセージを下さっています。例外はありません。

 

ですが、普段から不平、不満、愚痴が多く、人や、世の中に文句ばかり言っている方は、

受け取りにくいかもしれません。

ご自分の心が、そのような黒いもので一杯で神様の恩寵が入ってくる隙間がないからです。

素直に吸収する余地がないからです。

私たちは、亡くなるときの心の状態が、死後の行先を決めてしまいます。厳然とした波長の法則つまり、類は友を呼ぶ の法則が働くからです。

不平不満、悪口で人生を閉じる人は眉間にしわを寄せ、鬼のような顔をしているかもしれません。死後は、同じような人が、待ち受けるところに行くことでしょう。

人々に感謝し、笑顔でありがとうと言っていた人のお顔はきっと仏様のようなお顔で、行くことになるでしょう。

その先には、同じような、優しく、心暖かな人が待っていてくださることでしょう。

奈良で生まれ、比叡山で修行した源信が「往生要集」で、その様子を描いています。

神様の声、恩寵は、差別なく、万人に届いています。

皆さんもぜひ、内なる神様の声に耳を澄まして聴いてみてくださいね。

2022年10月20日木曜日

2855「縄文回帰」2022.10.20

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月12日「縄文回帰」と2022年02月25日「縄文スピリッツ」の2つの記事を紹介します。


「縄文回帰」


日本に古く、縄文時代から存在した「神道」の考え方。 

これは、教祖も教義を持たず、よって宗教とは言えません。 

古くから日本人が持つ、心のよりどころのようなものです。 

そこで説かれることは、

・神々の恩寵は、人間の感謝の心を媒介として現れる

・神職など、職業的な立場の人を媒介とするのではなく

 人間が心を清め、神々と直接的に繋がることが大切 

など。

これらは、私たち一般人の、今までの常識とは少し異なっていることかもしれません。 

ですが、このことは古代から存在している由緒ある神社仏閣では、常識とされていた物のようです。

私がこのことを、はっきりと知ったのは 、春日大社の元宮司、さらに日本の形成外科医の草分け的な存在であった葉室頼昭さんの「神道のこころ」という本からです。 

巫女や神職など、人々と、神々の間に入り、仲介することを、職業として行い始めたのは、

多分、日本では大和朝廷設立 直前、つまり大陸からの好戦的な民族が日本全国を制圧し始める直前の邪馬台国の時代、卑弥呼やその後継、トヨなどの時代からと思われます。 

それ以前の日本は

平和で、神々と人々が直接繋がり、世界一、平和で豊かな時代と言われる縄文の時代でした。

約1万5千年続いたと言われています。

大陸から好戦的な民族、弥生族が来るまでは、争いもなく、所有の意識もなく、上下の違いもなく、人々、一人一人が純粋な心を持ち、それゆえに、みんなが直接的に、神々と繋がれた時代でした。 

もし、日本古来の神道というものがあるとするならば、それは縄文時代に一般的だった

・物の見方、

・考え方、

・生き方 

そのものです。

そして、それはムー時代の生き方でもありました。

私たち日本人は、縄文の古来より、ムーの生き方を大切に守ってきた民族と言われています。

そして、その精神と伝統は今でも息づいています。

 

文明の大転換点である今、西洋で始まった産業革命に端を発した利益追求主義、行きすぎた資本主義、骨までしゃぶり尽くす金融資本主義は終わろうとしています。 

この終焉を迎えようとしている現在の文明では、人々は、ずっと真実から遠ざけられ、

常に不安の中に置かれ、自立した魂の働きが封印されて来ました。 

常にお金や権力に頼ろうとし、常に力ある者、能力あるものに頼ろうとする依存、執着の状態に置かれたのです。 

それは、彼らが軽蔑の意味で使うゴエム(奴隷)と言われる状態です。 

この時代、その仕組みを お手本に 

・大小様々な、依存・執着と

・それと一体となった支配

が、私たちを身近で取り巻いて来ました。 

この精神構造は宗教でもそうでした。 

イエスの生きた時代、イエスは、宗教など作りませんでした。

イエスの死後、国王をもしのぐ、強大な権力を握ろうとした者たちにより教会が作られ、戒律が制定され、宗教と言う組織が出来上がりました。 

それは、人間の持つ、ピュアな信仰心とは、全くの別物であり、まさに人々を権威と恐怖で縛りつけ、他者(教会)に対する依存・執着状態に置き、自分たちを、その対極となる、支配する立場に置いたのです。 

それが、今まで私たちが置かれていた精神構造でした。 

本来は、イエスやブッダのように自立した自由闊達な魂の状態で、神仏に対するピュアな信仰心、先祖を大切に思う敬心、そして、生きている人々に対する、 

・お互いさま

・お陰さま 

相手の個性、尊厳を大切に思う温かな心、優しい心であったはずでした。 

ですが、この宇宙の大神様が作ってくださった人間の精神が、萎縮させられて来たのです。 

「縄文回帰」が様々な所で叫ばれています。

縄文回帰とはこの、依存と執着、そして支配の構造から人間の精神を解放させ

縄文の時代のように人々が、一人一人、直接的に神々と繋がる時代を思い出そうと言う

大きな運動(ムーブメント)です。 

これは、ブッダグループが1,200年単位で、人類に対するアプローチをしている中で、 

現在、実際に行っているアプローチ方法です。 

このブログで何度もご紹介しています通り、ダライ・ラマ、そしてマザーテレサも同じことを仰っていますので、ブッダ・グループの計画を知り、そして協力なさっているのでしょう。

そして、その人類へのアプローチが目指すものは、一人一人の人間の 本当の幸せです。 

私たち人間はしっかりと自分の足で、大地に立ち

例え、貧しくとも 

例え、病にあっても 

清らかな心で、天を仰ぎ 

神々に感謝し、そして微笑む時、 

本当の幸せをかみしめることができるのかも、しれません。

 


「縄文スピリッツ」


日本人には、はるか縄文の時代から、1万年以上も続く、ものの考え方の基本があります。

自然を敬い、全ての物にスピリット、魂を感じ大切にするという、いわゆる古神道の考え方です。そこでは、神々はもちろん、死者でさえ敬い、その幸せを願い、喜んでいただくことこそが、生きている私たちの幸せに繋がると信じられてきました。

このような考え方、生き方こそ、私たち日本人のDNAに息づく尊いものであり、まさに、そのことにより日本は世界のひな型と言われるようになりました。

今回、神々に近い魂として、破壊の時代の予行演習がなされました。今の時代はまさに、私たちのDNAの中に眠る縄文のスピリッツの遺伝子をONにする時代が訪れています。

  

私たちの祖先の縄文の時代は、1万5千年間も日本で続いた平和な時代でした。その時代には、争いの形跡が一切見つかっていません。争い、いさかい、過度の所有意識が始まったのは弥生時代からです。つまり弥生族が大陸から日本に渡って来てからのことになります。 

どうして縄文人は争いをしなかったのかというと、その理由は、縄文人は外に「神」を作らなかったからでした。「神」は人それぞれの「自分の中にある」と信じて、お互いの「神」を尊重しあったからです。

自分の中の「神」が尊重されるには、相手の中の「神」を尊重しないといけません。

このように、すべての対象のうちにある「神」を尊重しつつ、自分のうちにある「神」に感謝した時代が縄文時代であり、古神道の基本的な考え方でした。

これは、まさにブッダグループが、人類の精神性の進化のために時を超え、今の時代に、取っている方法論と全く同じです。

まさに縄文回帰、「縄文の心を取り戻せ」のスピリット。 これこそが、私たちが、私たち一人一人の心の中にこそ神さまを見出し、お互いを尊重し認め助け合い、お互いさまの気持ちで生きて行く精神的な支柱となります。

今の時代に言われている「国常立尊の復権」とはそう言う意味を持っています。

地上の変化は、まず目に見えない世界で起こります。上なる如く、下もまた然り・・です。 

そして神々は、人間の精神性の復活を通じ、この地球を変えて行きますが、その変化は、多くの人が期待するような

・派手で、

・ドラマチックな、

・天変地異のような

やり方ではないと思われます。大事な物は見えない・・・いつの世でも、やり方は同じです。

単なる好奇心を満たすような、人目を極端に引くサーカスを見せるような方法は取りません。地味ですが、着実な方法です。

私たちのハートの中には

・先祖を大切に思う敬心

・死者の幸せさえも願う優しさ

そして、生きている人々に対する、

・お互いさま

・お陰さまの心

相手の個性、尊厳を大切に思う温かな心、優しい心でありました。ただ、明治の文明開化、戦後の敗戦処理によってその大切な心が強制的に、忘却させられていただけです。

  

その美しい神のような心を取り戻せば、きっと、気付いたら、いつの間にかミロクの世が始まっていた・・ そのようになっていることでしょう。 

今は、建て替え、つまり破壊の時を過ごしていますが、これを耐え忍べば、いよいよ美しき世界への建て直しの時期です。希望を持ち、周りの人々と助け合いながら、笑顔と感謝の気持ちで暮らしていればきっと、その美しき世で暮らすことができるでしょう。



2022年10月19日水曜日

2854「仕事をさせてあげて」2022.10.19

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月15日の記事を紹介します。


「仕事をさせてあげて」


表題の「仕事」とは、職場で働く「仕事」の意味ではありません。

黄泉の国から、この3次元の地球に生まれてくる時に決めてきた

今世、地上でやってみようと決めてきた目的(役割)のことです。

人それぞれ色んな目的を設定して生まれて来ています。

・病気で生まれ、肉体的、精神的な苦痛の中から直す喜びを経験してみたい

・親と子の葛藤を経験し、様々な感情を味わいたい

・看護や介護の仕事に就いて、人の役に立ってみたい

良きことに見える物もあれば、一見して避けて通りたいような目的もあります。

様々です。

また6歳の神様トキ君によれば、犬や猫にも神様の与えてくださった役割があり、

犬の役割

・人を護るため

・人に愛を与えるため

ネコの役割

・人間の邪気(悪い氣)を吸い取ってしまう

しっかりとこの仕事をさせてあげると、彼らにとってそれが一番の幸せであり、

その結果、すぐに天国に行けたり、すぐに生まれ変われたりできるそうなのです。

動物への愛情の強い人からすれば、人間の邪気を吸わせるなんてかわいそう・・

そう思うかもしれません。

ですが、それが神さまの与えてくださった彼らの役割

それを果たすことこそが、彼らの魂にとっては最上の喜びです。

でも、もし彼らのことを愛し、可愛そう・・

そう思うのであれば、彼らにその役割をきっちりと果たせてあげたうえで

人間である私たちの「愛」を沢山与えてあげてください。

何故ならこの地球は「感情の星」です。

感情の中の最上の形、「愛情」をふんだんに注いでください。

「愛」は魂を成長させます。

「愛」を沢山受ければ受けるほど、彼らの魂の進化のスピードが速まります。

彼ら動物たちも、人間と同じく進化の階段を上っている最中です。

その先には、魂の故郷、原初の神様がいらっしゃいます。

地上での仕事をし、疲れた魂を、人間の「愛」は、きっと癒してくれることでしょう。



レインボーチルドレンのそうた君(クラリオン星からの宇宙人)の場合は、

クラリオン星では、文明も精神性も進み、安定的であるので、

星の人々の話し合いで、生命体としての「感情」を捨てることにしたのだそうです。

激しく上下に揺れ動く「感情」を失った代わりに、文明や魂の進化は高い位置で安定するからです。

その代わり魂進化の飛躍的なジャンプはないのだそうです。

そのため、一定期間の安定期を経験したら、地球など「感情」が存在する惑星に、

「感情」とは何かを経験しに来るのだそうです。

(現在のそうた君の役割がそうです)

そのため、そうた君は地球に魂の一部を転生させてきました。

地球での生活の中で経験する感情の一つ 「愛情」を、出身星であるクラリオン星に転送し続け、その「感情(愛)」を利用して、クラリオンの文明の発達に寄与しようとしているのだそうです。

それほど、この宇宙の中で地球は突出して「感情」を経験できる星であるようです。

ですから私たちが所属するこの宇宙において、

「愛」は魂の進化、ジャンプにとって、非常に重要です。

地上に生まれてくる時、犬や猫さえも「役割」を与えられてきました。

人間の場合、魂の自由度が高いですから、地上での役割(仕事)、目的は自分で決められます。

そして神様の承諾をもらって生まれてきました。

 

ですが、生きている間、その目的は私達人間には、本人や周りの人間にはわかりません。

分かりはしませんが、相手を束縛せず、暖かく見守ってあげる事で、

魂は伸び伸びと自分の持ってきた目的を遂行することができます。

例えそれが、悪く見えるような現象でも・・・です。

一面しか見えない私達、その私たちが自分のエゴで、

・心配だ

・こうやった方がうまくいく、楽だ

などを押し付けることで、相手の魂は委縮してしまい、せっかく地球に生まれて来たのに、

その目的を果たすことができず死を迎えてしまうことでしょう。

そうならないためにも私たちは例え血の繋がった家族であろうと、

目の前のその人を許し、受け入れ見守ってあげることしかないようです。

それも大きな大きな「愛の目」を持って見守ってあげる事。

生まれて来た目的(仕事)をさせてあげる事。

 

生きている間に経験する喜怒哀楽は、激しく感情を揺さぶりますが、

結局は「感謝の心」「愛」を学ぶための神様が作ってくださった仕組みです。

目の前の家族や友人たちの理不尽にも、自分勝手にも見える行動も、病気やケガも、

彼らが仕事(生まれて来た目的)を果たしたいからです。

その仕事さえ果たせたら、彼らの今世の目的は達成され、魂としては幸せなのです。

逆のことを言えば、彼らの「心願」が成就さえすれば、目的は達成されたのですから

彼らの人生の中に、艱難苦難の起こる必要性は、もうなくなります。

従ってそれらは起きないことでしょう。

神様は無駄なことをしないからです。

そしてそのようなふるまいは、周りの私たちの感情も激しく揺さぶります。 

何故なら、それは私たちの心をも立ち止まって変えて欲しいからです。 

神様はむごいことも、残酷なことも決してなさいません。 

愛の心、感謝の心で、その現象が、私たちの心の何を変えて欲しくて起こっているのか考えてみてください。

どうぞ、例え かわいそうに見えても彼らの魂を自由にさせてあげてください、

・自分のエゴを押し付けないでください。

・心配しないでください。

・指図しないでください。

その代わりに、目の前のその人を許し、受け入れ優しく見守ってあげてください。

大きな大きな「愛の目」を持って見守ってあげる事。

生まれて来た目的(仕事)をさせてあげる事。

 

犬や猫、人間。

生きとし生ける生命体は、みな同じ仕組み

神さまの作ってくださった仕組みの上で生きています。

私たちの住むこの宇宙では、愛と感謝、この2つより大切なものはありません。


2022年10月18日火曜日

2853「がんじがらめの子供達」2022.10.18

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年10月13日の記事を紹介します。


「がんじがらめの子供達」


今日も木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の子供、6歳の神様、トキ君のお話を基に書きたいと思います。

私のブログでずっと書いてきたことと、同じことを話しています。

下の映像の中で、山幸彦が人間に伝えたいこととして、子供の育て方について話をしています。

トキ君はこんなことを言っています。(一部補足)

私たち親は

・勝手に子供の先回りをして

・勝手に心配をして

・勝手に期待して

・勝手に親のエゴを押し付けてきました

きっと、そんな親に子供たちの魂はどんなに悲しんでいることでしょう。

何故なら、地球への誕生をワクワクと目を輝かせて

期待に胸を膨らませて生まれてきた子供たちの人生ストーリーは、

・決して親のエゴやミエのため、

・親の思い通りの人間になるため

の人生とは全然違っているかもしれないからです。

子供たちの魂は、きっとこう言っていることでしょう。

お願いです。

神さまと約束してきた花をここで咲かせてもいいですか?

・子供たちは自分の力で生きていく力を、予め神様から頂いて生まれて来ている

・親が自分のエゴやミエで心配し、先走りし、レールを引いて教えてしまうと、

 自分で考えることができず、計画してきた経験もできず、魂の糧にもならい。

 考える力、感じる力が身に付かない

 教えれば教えるほど、これからの長い人生航路を渡っていく力がそがれてしまう

・自分で経験するからこそ、魂の糧となり、教訓を身に着けることができる

・そのために、生まれる前に、その経験を人生に計画してきた

・親は、子供を信じ、子供のやりたいことを、周りで愛を持って見守るだけ

・親は親で自分の人生を笑顔で楽しむこと

・親が自分勝手な考えで子供を誘導しなくとも

 計画してきた時期になれば、子供は気づき、行動を始める時が必ず来る

・親が先回りしてしまうと、それが出来なくなってしまう。弱い魂になってしまう。 

では、同じテーマで以前書いた記事を掲載します。 

東京家庭教育研究所を創設した小林謙策氏(故人)という方の手記があります。

小林さんが、家庭における子どもの教育がいかに大切かを、身にしみて感じたのは 

昭和30年6月ただ一人の娘に突然、自殺された時からだそうです。

小林さんは長野で中学校の校長をしていました。

人さまの大切な子どもをあずかって教育しなければならないという立場の者が、自分の娘の教育さえ満足にできなかったのはなぜか。

19年間の娘に対する教育のどこが間違っていたのか。

平和で楽しかったはずの家庭に突然襲った悲しみ、苦しみが厳しく、小林さんは自問自答しました。

「私は家庭における子どもの育て方に 大変な間違いを犯しておりました」

と小林さんは言います。

自身が、勝気で負けず嫌いだったので、娘に対しても、小さい時から「えらくなれ」といって育ててきました。

大きくなると、さらにその上に「人よりえらくなれ」と言いました。

「娘は小学校、中学校、高等学校までは、 自分の思い通りに伸びていったが、東京の大学に行ってからは、そうはいきませんでした。

あらゆる努力をしても、自分よりすぐれているものが幾多あることを知ったとき、もはやわが人生はこれまでと、生きる望みを失い、新宿発小田原行の急行電車に投身自殺をしてしまったのです」

遺された手紙には

「両親の期待に沿うことができなくなりました。人生を逃避することは卑怯ですが、

いまの私にはこれよりほかに道はありません」

と書かれ、さらに、

「お母さん、ほんとうにお世話さまでした。いま私はお母さんに一目会いたい。

お母さんの胸に飛びつきたい。お母さん、さようなら」

と書いてありました。

「それを読んだ妻は気も狂わんばかりに子どもの名前を呼び続け、たとえ1時間でもよい、

この手で看病してやりたかった と泣きわめくのでした」

小林さんは言います。

考えてみれば、子どもは順調に成長してゆけば、誰でも「先に進みたい」と思うもの。

這えば立ちたくなり、立てば歩きたくなり、歩けば飛びたくなる。

これが子どもの自然の姿。

子どもは無限の可能性を持って伸びよう伸びようとしている。

 

「それなのに自分は愚かにも娘に『人よりえらくなれ』といい続けてきた。

『自分の最善をつくしなさい』だけで、娘は十分伸びることができたはず。

私は娘の死によって、家庭教育の重要性を痛感しました」

以後の人生を小林さんは家庭教育の探究と普及に捧げる人生を生きられ、平成元年に亡くなられました。

自分に出来ることでいい、自分の最善をつくせば、それでいい

坂村真民さんという詩人の詩があります。

「小さい花でいいのだ

人に褒められるような大きな美しい花ではなく、

誰からも足をとめて見られなくてもいい

本当の自分自身の花を咲かせたらいいのだ

それを神さま仏さまに見てもらえればいいのだ」 

・勉強しなさい

・あれはダメ、これもダメ

・あれをしなさい、これをしなさい

・貴方にはムりだから止めときなさい

お子さんに、そんな言葉、掛けていませんか? 

産婦人科医の 池川明医師は、子供たちに対する大規模な調査を行い、その1/3もの子供たちが、中間世記憶を持つことが分かりました。 

彼らが 教えてくれた生まれて来た目的とは・・・ 

ほとんどのお子さんが、こう答えたそうです。

・お母さんを助けるため

・人の役に立つため

・魂を磨くため

そんな優しい心を持って生まれて来てくれた子供たち

彼らに、

・詰め込みの教育

・本人の希望や適性を無視した親の引いたレール

・人をけ落としてでも、競争に勝ち抜いて生きろ

は必要でしょうか?そんなことを言えるでしょうか?

勉強が出来ない子供は不幸でしょうか?

学校はそれほど大切な所でしょうか?

人と同じでいる必要はあるのでしょうか?

子供たちには一人一人個性があります。

得意分野も異なるでしょう。 

興味や志向も異なることでしょう。

親の一方的な思い。

教師たちの一律的な対応

そんなものは、もしかしたら、この優しい子供たちには糞くらへかもしれないですね。

彼らは、

・お母さんを助けるため

・人の役に立つため

・魂を磨くため

この世に生まれてきました。

姿かたちが子供だからと言って、魂までも子供ではありません。

私達大人たちよりもはるかに愛に溢れた存在かもしれません。

お母さんを助けるために生まれてきました。

決して、お父さんや、お母さんの思い通りに生きるために生まれて来たわけではありません。

それでも、子供を自分の思い通りにしたいと思う親御さん。

お子様の心や体がボロボロになって、自分の元に戻って来た時、きっと気付きます。

生きていてくれてるだけで良かった。 

そのままで愛しているよ。 

私の元に生まれて来てくれてありがとうって・・・

 

子供が、美しい「スミレの花」を咲かせようと、この世に生まれて来たのに、

華やかな「バラの花」になれと、無理強いはしていませんか?

 

子供の心を、生きながら殺してはいませんか?


2022年10月17日月曜日

2852「人間だけではなく、この社会の「物質」の波動やエネルギーも変わってしまったのだろうか」2022.10.17

 今回はInDeepさんの2022年10月12日の記事を紹介します。

人間だけではなく、この社会の「物質」の波動やエネルギーも変わってしまったのだろうか - In Deep


情熱の消失

先日、「2021年以来、人間のエネルギーは変わってしまったのだろうか」という記事を書かせていただきました。アメリカのナオミ・ウルフ博士のサブスタック記事をご紹介させていただいたものです。その後、読者様からいくつかのお便り等をいただきまして、ナオミ・ウルフ博士同様に、「世の中の人々(のエネルギーのようなものが)著しく変化している」ことを感じ続けてらっしゃる方がいらっしゃることを知りました。

実は、先ほどの記事のウルフ博士の文章で、私自身が最も感じていたことは以下の部分でした。

 

> 全体的なエネルギーがなくなっただけではありません。マンハッタンの人々の性的エネルギーもなくなっていることに気付きました。

> 男と女――女と女、男と男――今はほとんど顔を見合わせていない。

先ほどの記事にも書きましたけれど、私自身は今はもう人のたくさんいる場所に行くこともなく、組織とも無縁で、飲みに行くこともやめたこともあり、「大勢の人たちの変化」を見られることはないのですが、ごく普通の日常の中で、

「男性が女性に興味を失っている気配」はとても感じていました。

なお、これは「性的な欲求」とは関係のないことです。

女性の方には理解しにくいことかもしれないですが、男性というのは、基本的にその興味の対象は、終生ほぼ女性です。性的な対象としての意味ではない「存在としての女性」です。

性的なものだけなら、ジイサンになったら女性への興味は失せるはずですが、実際には、年老いるほどに、「存在としての女性」の存在(変な言い回しですね)は大きくなります。

そのあたりは、具体的に作家名は挙げないですが、日本の文豪と呼ばれるような小説家たちのヨボヨボになった頃の作品だとか、そういうものにも、異常なほどの女性への一種の執着が見られたりします。(省略)


結局、「死ぬまで続く」のですよ。男性の女性への希求は。

日本の長寿の方というと、私は、和泉重千代さんしか覚えていないのですけれど、40年前くらいになるのですかね、テレビで、泉重千代さんが最高齢者としてインタビューを受けた場面を見たことがあるのです。……おお、探したら、そのやり取りが残されていました。

泉重千代さんの年齢には諸説あるらしいですが、その際は 120歳ということになっていました。

(120歳の長寿の記録でギネスブックに載ることになり、女性レポーターが取材した時の問答)

レポーター 「長寿の秘訣はなんですか?」

泉重千代  「酒と女かのぉ」

レポーター 「では、女性はどういうタイプがお好きですか?」

泉重千代  「やっぱり、年上の女かのぉ」

これを見ていたのは十代か二十代だと思いますが、「ジイサン、言うじゃん」と、あっぱれと見ていました。この「好きなタイプは、年上かのぉ」というのが当時話題と笑いになっていましたが、100歳を超えても、意識に常に女性があるだなあ、と、当時の私はつくづく思いました。

 

長々と変な例を挙げてしまいましたが、 「こういう情熱が社会から消えた」気がしていたのです。くどいようですが、「性的な部分」とは関係のない話です。

存在としての女性の存在(やっぱり変だ)の話です。それを、心の中だけでも執拗に追い求める情熱が社会から消えてきている気がしていたのです。

どんな点からそれを思うのか、ということは説明が難しいです。

ナオミ・ウルフさんがマンハッタンで感じた「違和感」と似た感覚なのかもしれません。

つまり、所詮は「あいまいな話」です。でも、どうしてもそれを感じてしまうのです。

とはいっても、確かにあいまいな話でしかありません。

もうひとつ、「やはり、あいまいではあるけれど、それはあり得るのかもしれない」

ということを最近の読者様からのお便りで知りました。

それは、 「モノのエネルギーも変化してしまった」ということなのです。

その読者様は、それを強く感じているとおっしゃっていたのですが、それを言われて私は気づいたのですけれど、私自身は、「人間の変化よりも、物質の変化をかなり感じていた」のでした。

 

人間のエネルギーが変化すると物質のエネルギーも変化する理屈

この「モノが変化してしまった」というのも、また具体的には、どうにも言えないことですので、私自身が何をどう感じているかはここではいいとして、仮に、「社会の人々のエネルギーや波動が低下しているとしたなら」、それが、「物質のエネルギーや波動の低下につながるものかどうか」ということに関して、「それはある」とは思うのです。 

科学的な部分としては、たとえば、量子力学では、「人間が観察するまでは、この世の現実は存在しない」ということが、繰り返し行われた実験で明らかになっています。以下の記事など何度かご紹介したことがあります。 

[記事] 繰り返し行われる量子力学実験により「この世に客観的な現実は存在しない」ことがさらに明確になり、そして「この世は人間の主観で成り立っている」ことが否定できない状況に In Deep 2019年11月19日 

あるいは、「人間の意識が物質の根幹 (素粒子)に干渉する」ことも実験で確認されています。これは以下の記事に書いています。 

[記事] 私たち人間の「意識」で「社会と地球と宇宙」を変える具体的な方法 Part.2

 In Deep 2019年7月21日

 

では、この「意識」というものは何かというと、それはわかりません。意識は見えないものです。しかし、たとえば、温度計は「温度を見るわけではない」ですし、体重計も「体重を見ているわけではない」です。温度も重さも「見えません」。代替の水銀や数値を見ている。

このような代替の測定の方式から見れば、素粒子に意識が干渉するということが実験で示されているということは、物質ではなくとも「意識はエネルギーである」ことが証明されている実験だと思います。

そもそも、私たちが「この世」とか言っているこの世は、かなり根源は「あいまい」です。

たとえば、「電子と陽子は《何もない無の場所》から突然出現する」ことがわかっています。以下は、「無 - Wikipedia」からです。

 

(物理学における無)

> 古典物理学において、物理的に何も無い空間を真空と呼び、真空は完全な無であると考えられてきたが、現代物理学においては、真空のゆらぎによって、何も無いはずの真空から電子と陽電子のペアが、突然出現することが認められている。

> このことによって、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在しないとされている。 

なお、この「無から生じる電子」は、「必ずペアであらわれ」ます。消滅する時も、「必ずペアで消滅する」のです。これを知った時に、「この世はすべてペアなんだなあ」と、つくづく思いましたけれど、先ほど書いた、女性と男性というのも、そういう原則のひとつでもあるのかもしれないとも思います。

まあしかし、このペアの問題については、どんどん話がそれてしまいますので、その話はいいとして、「人間の意識、精神、あるいは魂と呼ばれるようなものは、すべて物質に干渉する」ことはかなり厳格な事実です。

 

現代の社会では、「唯物論」というものから、「モノはモノであり、心は心 (あるいは意識は意識)である」というのが、基本的な考えとなっていますが、私自身は「そうではない」と思い続けています。 

まあ……たとえば、これは比喩としてはややズレたものとなるかもしれないですが、「芸術」というものがあります。たとえば、絵そのものはどこからどうみても「モノ」であり、そこには魂も意識も精神もありません。

しかし、ふと違和感をお感じになるのではないでしょうか。何らかの名画に対して、「この絵には、魂も意識も精神もない」という言い方は。その絵に対して、多くの人たちが、魂や意識や精神を感じることのほうが多いように思うのですけれど、それは、「作者の魂や意識や精神が転写されている」ということになりますが、しかし、実際には見えるようなものは転写されていません。「絵そのものはどこまでいっても単なるモノ」です。

音楽も、私たちは音楽として聞きますが、その根源は「振動」であり、存在しないようなものです。

日常で感じる重要なこととして、たとえば、好きな音楽の曲があったとします。

そのリズムでもメロディでも歌声でもいいのですが、「頭の中で音やリズムを思い返して繰り返したり、音にならないように口ずさむ」というようなことはよくあると思います。

頭の中で、ある曲が思い浮かんでから「あの曲を聴こう」というようになることは普通にあることだと思います。しかし、「頭の中には、元々のその音楽の音波の振動は存在しない」のです。その曲に対する記憶だけが存在します。

それでも、少なくとも自分の頭の中では、かなり忠実に音楽が鳴り響いていたりします。

作曲家の方などは、「頭の中で」曲を作り出します。クラッシックの作曲家なら、楽器の音色も頭の中で流れているはずです。

それはその後、音階として示され、さまざまな楽器による演奏となり、メロディとして、その音波の振動として再現され、「音楽」ができます。

しかし、最初の作曲の部分には、どこまで遡っても、「現実の音波の振動は存在しない」のは、さきほどの、曲を頭の中で思い出すという例と同じです。これは音楽にとどまりません。

頭の中では、猫の声も人の声も電子レンジのチンも、かなり正確に思い出せると思いますが、頭の中にそれらは存在しないし、何より「もともと音というのは存在しないようなもの」です。しかし私たちは音楽もさまざまな音も頭の中だけで成立させています。

 

話が逸れすぎましたので、「モノが変化している」という話に戻ります。

この「モノが変化している」ということに関して読者様からお便りをいただいた後、いろいろ調べている中で、興味深い論文を見つけました。

中国の北京中医薬大学の教授であり、気功の専門家であるらしい劉天君さんという方によるもので、論文は以下にあります。

人体の「エネルギーシステム」の科学的仮説

The scientific hypothesis of an “energy system” in the human body

ものすごく長い論文なのですが(昨日はこれを読んでいて一日が終わってしまいました)、これは中国伝統医学 (TCM)の観点からのものであり、つまり、どのように古代からの中国医学が、身体などの症状や状態に作用しているかということを考察したものです。

この論文の中程に以下のような記述があります。太字はこちらでほどこしています。


人体のエネルギーシステムを提案する必要があるのはなぜか?

物質とエネルギーの基本的な違いの 1つは、前者は目に見え、後者は目に見えないことだ(光の可視部分を除く)。

人間の体には目に見える部分と見えない部分(エネルギーや意識など)がある。

たとえば、ミトコンドリアのアデノシン三リン酸(ATP)は目に見えるが、ATP エネルギーの放出は目に見えない。脳細胞は目に見え、意識は目に見えない。

目に見えないことは、存在しないことと同じではない。人間の体と宇宙を理解しようとするために、古代の人々はそれらを 2つの部分に分けた。これは、現代物理学が宇宙を、物質と暗黒物質に分ける方法に似ているようにもみえる。

目に見える部分だけに焦点を当て、目に見えない部分を無視する人体への研究アプローチは、部分を全体と見なす不完全な身体モデルにつながる。

さらに、多くの研究者たちは、身体の目に見える部分の変化を、目に見えない部分を示していると解釈する傾向がある。たとえば、脳のニューロンとニューラル・ネットワークの目に見える変化が、意識の形成を説明すると想定されている (今なお説明は不十分だ)。

客観的現象は主観的現象を直接説明しない。人体の目に見えない部分が目に見える部分の変化によって完全に説明できる場合、人体のエネルギーシステムの仮説は不必要だ。そうなるまでは、そのような仮説には実際的な意味がある。

エネルギーと物質は同等である可能性があるが、それらの性質が異なるため、それらを研究する方法も当然異なる。 sciencedirect.com

もう少し続けます。

論文より


では、古代の人々はどのように気やエネルギーを研究していたのだろうか。

基本的な方法の 1つは、内向的、つまり主観的な観察だ。

気功とは、気やエネルギーを直接体験することで、人体、宇宙、自然を学ぶ方法だ。エネルギーを直接見ることはできないが、体験することはできる。

エネルギーの変化を体験し、これらの変化をコントロールすることが可能だ。これは、エネルギーの観点から人体の生理学的および病理学的プロセスを理解することにつながる。

エネルギーまたは「気」は、意識と呼吸によって直接導かれる。このような誘導スキルを使用して、気功は自分の体、心、および呼吸を統合し、人体のエネルギーシステムを調整することができる。

エネルギーを研究する別の方法は、「顕現による分類」と呼ばれる。この方法は、外向的観察と内向的観察を組み合わせたものであり、現代科学における客観的観察とは異なる、より全体論的で具現化された観察モードだ。

顕現方法による分類は、外見の類似性だけでなく、内部エネルギーと外部エネルギーの共鳴にも基づいている。「同種の気は引き合う」という表現は、エネルギーの相互共鳴を意味する。

外向的観察は、類似した現象がどのように見えるかにのみ焦点を当てる。さらに、観察の代替モードは、エネルギーの共鳴を調査することであり、これが顕現による分類方法の主な目的であり、焦点だ。 sciencedirect.com

 

これは、「外部も含めた(見えない)エネルギーが、身体に及ぼす影響、あるいは作用について書かれたもの」ですが、これをご紹介したのは、「人間から外部への逆のエネルギーの流れも存在しているはず」 だということからです。

つまり、「人間の内部の意識から、その気やエネルギーが、外部に物理的な作用を及ぼす」ということもあるのだと認識します。

宇宙のエネルギーの法則には「一方的」というものはあまりありません。ほとんどが相互作用となる。相互作用というのか、「循環している」というのか、そのあたりはわからないですが、一方的なエネルギーの作用はないはずです。そして、この「集団の人間の意識」の「変化」から考えてみますと、少し最近の状況から、懸念される側面もあります。

  

人間にとってのDNAという存在

関係のないことになるかもしれないですが、以前、 mRNA の「逆転写」について、スウェーデンの研究をご紹介したことがありました。 

[記事]ワクチンmRNAのDNAへの「逆転写」がスウェーデンの研究で確認される。しかも接種後「6時間」という早さでヒトDNAを修飾することが示されるIn Deep 2022年2月28日

 

この時、思い出したことは、「骨髄移植の後、移植を受けた人の DNA が、すべて提供者の DNA に変換されている」ことが判明したことでした。

以下の記事で、米ニューヨークタイムズの記事をご紹介しています。 

[記事] 「本人」とは? : 骨髄移植の後、移植を受けた人の血液のDNAがドナーのDNAに完全に置換されることが判明。特に「精子」は100パーセントがドナーの遺伝子となっていた In Deep 2019年12月24日

 

もし、スウェーデンの研究者たちが見出したように、ワクチン mRNA が、逆転写して DNA に統合される可能性が少しでもあるとするなら、

「この骨髄移植の事例と同じようなことになってしまうのかなあ…」と、当時思いました。

時間の経過と共に、DNA が「本人ものではない DNA に変換されていく」ということです。

これは、「本人だけど、本人ではなくなる」ということにもなります。 

さらには、「この世の大部分の人々の DNA が同じになったら、この世はどうなるのだろう」

なんていう SF 的なことさえ考えましたけれど、「絶対にあり得ないか」というと、スウェーデンの研究を見る限り、「絶対あり得ない」とは言えないのかなと思っています。

そして、「この世に他人がいなければ、この社会はなり立たない」はずです。

相手を愛したり、憎んだり、相手に同調したり、不満を持ったり、羨んだり尊敬したり、という、ごく普通の「人間の情感」が少しずつ消えてしまう。

自分とまったく同じ相手には「実際には何の感情も湧かない」、あるいは「理解できすぎて、感情の対立がまったく起きない」はずです。

何より、先ほどの論文にあったエネルギーという観点から、この世は、すべて異なる気や感情やエネルギーが交錯しているからこその世の中だとも思います。少なくとも人間の世の中は、良いも悪いも高いも低いもなく、さまざまなエネルギーが無数に交錯している。それがこの世そのものを作り出している。エネルギーの種類が単純化していくと、新しいエネルギーは生まれ得ない。この世も死んでしまう。

もしかすると、現在、ある程度の数の方々が感じられている「エネルギーの消失」や「セクシャリティー的エネルギーの消失」、あるいは「モノの変化」といったものも、これと関係する可能性もあるのかもしれません。

 

この世界は、基本的に全員が他人であるわけで、そこに社会が成立する根源があります。

そこにはじめて、正も負も含めた強いエネルギーが生じます。

先ほど量子力学での「意識の素粒子への介入」の概念を書きましたように、

「その人間のエネルギーあるいは意識がモノを作り出し、あるいは変化させている」

わけです。

その人間の集団に現在、意識とエネルギーの著しい変化が仮に起きているのだとした場合、モノが大胆に変化することは不思議ではないと感じます。

読者様方にも、自分の周囲のすべてのものに対しての、あらゆる違和感に注意深くなられることをおすすめしたいと思います。マンデラエフェクト的な違和感を感じられることもあるかもしれません。

そこから、人々の意識や情熱やエネルギーだけではなく、「実際の物質的世界も同時に変わりつつあるのかもしれない」ということが、もしかすると、認識されていくのではないかという気がします。

世の中の今後のあり得ないような物質的な変転は、もはやオカルトでもサイエンスフィクションでもなくなってきたと感じます。