2022年10月17日月曜日

2852「人間だけではなく、この社会の「物質」の波動やエネルギーも変わってしまったのだろうか」2022.10.17

 今回はInDeepさんの2022年10月12日の記事を紹介します。

人間だけではなく、この社会の「物質」の波動やエネルギーも変わってしまったのだろうか - In Deep


情熱の消失

先日、「2021年以来、人間のエネルギーは変わってしまったのだろうか」という記事を書かせていただきました。アメリカのナオミ・ウルフ博士のサブスタック記事をご紹介させていただいたものです。その後、読者様からいくつかのお便り等をいただきまして、ナオミ・ウルフ博士同様に、「世の中の人々(のエネルギーのようなものが)著しく変化している」ことを感じ続けてらっしゃる方がいらっしゃることを知りました。

実は、先ほどの記事のウルフ博士の文章で、私自身が最も感じていたことは以下の部分でした。

 

> 全体的なエネルギーがなくなっただけではありません。マンハッタンの人々の性的エネルギーもなくなっていることに気付きました。

> 男と女――女と女、男と男――今はほとんど顔を見合わせていない。

先ほどの記事にも書きましたけれど、私自身は今はもう人のたくさんいる場所に行くこともなく、組織とも無縁で、飲みに行くこともやめたこともあり、「大勢の人たちの変化」を見られることはないのですが、ごく普通の日常の中で、

「男性が女性に興味を失っている気配」はとても感じていました。

なお、これは「性的な欲求」とは関係のないことです。

女性の方には理解しにくいことかもしれないですが、男性というのは、基本的にその興味の対象は、終生ほぼ女性です。性的な対象としての意味ではない「存在としての女性」です。

性的なものだけなら、ジイサンになったら女性への興味は失せるはずですが、実際には、年老いるほどに、「存在としての女性」の存在(変な言い回しですね)は大きくなります。

そのあたりは、具体的に作家名は挙げないですが、日本の文豪と呼ばれるような小説家たちのヨボヨボになった頃の作品だとか、そういうものにも、異常なほどの女性への一種の執着が見られたりします。(省略)


結局、「死ぬまで続く」のですよ。男性の女性への希求は。

日本の長寿の方というと、私は、和泉重千代さんしか覚えていないのですけれど、40年前くらいになるのですかね、テレビで、泉重千代さんが最高齢者としてインタビューを受けた場面を見たことがあるのです。……おお、探したら、そのやり取りが残されていました。

泉重千代さんの年齢には諸説あるらしいですが、その際は 120歳ということになっていました。

(120歳の長寿の記録でギネスブックに載ることになり、女性レポーターが取材した時の問答)

レポーター 「長寿の秘訣はなんですか?」

泉重千代  「酒と女かのぉ」

レポーター 「では、女性はどういうタイプがお好きですか?」

泉重千代  「やっぱり、年上の女かのぉ」

これを見ていたのは十代か二十代だと思いますが、「ジイサン、言うじゃん」と、あっぱれと見ていました。この「好きなタイプは、年上かのぉ」というのが当時話題と笑いになっていましたが、100歳を超えても、意識に常に女性があるだなあ、と、当時の私はつくづく思いました。

 

長々と変な例を挙げてしまいましたが、 「こういう情熱が社会から消えた」気がしていたのです。くどいようですが、「性的な部分」とは関係のない話です。

存在としての女性の存在(やっぱり変だ)の話です。それを、心の中だけでも執拗に追い求める情熱が社会から消えてきている気がしていたのです。

どんな点からそれを思うのか、ということは説明が難しいです。

ナオミ・ウルフさんがマンハッタンで感じた「違和感」と似た感覚なのかもしれません。

つまり、所詮は「あいまいな話」です。でも、どうしてもそれを感じてしまうのです。

とはいっても、確かにあいまいな話でしかありません。

もうひとつ、「やはり、あいまいではあるけれど、それはあり得るのかもしれない」

ということを最近の読者様からのお便りで知りました。

それは、 「モノのエネルギーも変化してしまった」ということなのです。

その読者様は、それを強く感じているとおっしゃっていたのですが、それを言われて私は気づいたのですけれど、私自身は、「人間の変化よりも、物質の変化をかなり感じていた」のでした。

 

人間のエネルギーが変化すると物質のエネルギーも変化する理屈

この「モノが変化してしまった」というのも、また具体的には、どうにも言えないことですので、私自身が何をどう感じているかはここではいいとして、仮に、「社会の人々のエネルギーや波動が低下しているとしたなら」、それが、「物質のエネルギーや波動の低下につながるものかどうか」ということに関して、「それはある」とは思うのです。 

科学的な部分としては、たとえば、量子力学では、「人間が観察するまでは、この世の現実は存在しない」ということが、繰り返し行われた実験で明らかになっています。以下の記事など何度かご紹介したことがあります。 

[記事] 繰り返し行われる量子力学実験により「この世に客観的な現実は存在しない」ことがさらに明確になり、そして「この世は人間の主観で成り立っている」ことが否定できない状況に In Deep 2019年11月19日 

あるいは、「人間の意識が物質の根幹 (素粒子)に干渉する」ことも実験で確認されています。これは以下の記事に書いています。 

[記事] 私たち人間の「意識」で「社会と地球と宇宙」を変える具体的な方法 Part.2

 In Deep 2019年7月21日

 

では、この「意識」というものは何かというと、それはわかりません。意識は見えないものです。しかし、たとえば、温度計は「温度を見るわけではない」ですし、体重計も「体重を見ているわけではない」です。温度も重さも「見えません」。代替の水銀や数値を見ている。

このような代替の測定の方式から見れば、素粒子に意識が干渉するということが実験で示されているということは、物質ではなくとも「意識はエネルギーである」ことが証明されている実験だと思います。

そもそも、私たちが「この世」とか言っているこの世は、かなり根源は「あいまい」です。

たとえば、「電子と陽子は《何もない無の場所》から突然出現する」ことがわかっています。以下は、「無 - Wikipedia」からです。

 

(物理学における無)

> 古典物理学において、物理的に何も無い空間を真空と呼び、真空は完全な無であると考えられてきたが、現代物理学においては、真空のゆらぎによって、何も無いはずの真空から電子と陽電子のペアが、突然出現することが認められている。

> このことによって、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在しないとされている。 

なお、この「無から生じる電子」は、「必ずペアであらわれ」ます。消滅する時も、「必ずペアで消滅する」のです。これを知った時に、「この世はすべてペアなんだなあ」と、つくづく思いましたけれど、先ほど書いた、女性と男性というのも、そういう原則のひとつでもあるのかもしれないとも思います。

まあしかし、このペアの問題については、どんどん話がそれてしまいますので、その話はいいとして、「人間の意識、精神、あるいは魂と呼ばれるようなものは、すべて物質に干渉する」ことはかなり厳格な事実です。

 

現代の社会では、「唯物論」というものから、「モノはモノであり、心は心 (あるいは意識は意識)である」というのが、基本的な考えとなっていますが、私自身は「そうではない」と思い続けています。 

まあ……たとえば、これは比喩としてはややズレたものとなるかもしれないですが、「芸術」というものがあります。たとえば、絵そのものはどこからどうみても「モノ」であり、そこには魂も意識も精神もありません。

しかし、ふと違和感をお感じになるのではないでしょうか。何らかの名画に対して、「この絵には、魂も意識も精神もない」という言い方は。その絵に対して、多くの人たちが、魂や意識や精神を感じることのほうが多いように思うのですけれど、それは、「作者の魂や意識や精神が転写されている」ということになりますが、しかし、実際には見えるようなものは転写されていません。「絵そのものはどこまでいっても単なるモノ」です。

音楽も、私たちは音楽として聞きますが、その根源は「振動」であり、存在しないようなものです。

日常で感じる重要なこととして、たとえば、好きな音楽の曲があったとします。

そのリズムでもメロディでも歌声でもいいのですが、「頭の中で音やリズムを思い返して繰り返したり、音にならないように口ずさむ」というようなことはよくあると思います。

頭の中で、ある曲が思い浮かんでから「あの曲を聴こう」というようになることは普通にあることだと思います。しかし、「頭の中には、元々のその音楽の音波の振動は存在しない」のです。その曲に対する記憶だけが存在します。

それでも、少なくとも自分の頭の中では、かなり忠実に音楽が鳴り響いていたりします。

作曲家の方などは、「頭の中で」曲を作り出します。クラッシックの作曲家なら、楽器の音色も頭の中で流れているはずです。

それはその後、音階として示され、さまざまな楽器による演奏となり、メロディとして、その音波の振動として再現され、「音楽」ができます。

しかし、最初の作曲の部分には、どこまで遡っても、「現実の音波の振動は存在しない」のは、さきほどの、曲を頭の中で思い出すという例と同じです。これは音楽にとどまりません。

頭の中では、猫の声も人の声も電子レンジのチンも、かなり正確に思い出せると思いますが、頭の中にそれらは存在しないし、何より「もともと音というのは存在しないようなもの」です。しかし私たちは音楽もさまざまな音も頭の中だけで成立させています。

 

話が逸れすぎましたので、「モノが変化している」という話に戻ります。

この「モノが変化している」ということに関して読者様からお便りをいただいた後、いろいろ調べている中で、興味深い論文を見つけました。

中国の北京中医薬大学の教授であり、気功の専門家であるらしい劉天君さんという方によるもので、論文は以下にあります。

人体の「エネルギーシステム」の科学的仮説

The scientific hypothesis of an “energy system” in the human body

ものすごく長い論文なのですが(昨日はこれを読んでいて一日が終わってしまいました)、これは中国伝統医学 (TCM)の観点からのものであり、つまり、どのように古代からの中国医学が、身体などの症状や状態に作用しているかということを考察したものです。

この論文の中程に以下のような記述があります。太字はこちらでほどこしています。


人体のエネルギーシステムを提案する必要があるのはなぜか?

物質とエネルギーの基本的な違いの 1つは、前者は目に見え、後者は目に見えないことだ(光の可視部分を除く)。

人間の体には目に見える部分と見えない部分(エネルギーや意識など)がある。

たとえば、ミトコンドリアのアデノシン三リン酸(ATP)は目に見えるが、ATP エネルギーの放出は目に見えない。脳細胞は目に見え、意識は目に見えない。

目に見えないことは、存在しないことと同じではない。人間の体と宇宙を理解しようとするために、古代の人々はそれらを 2つの部分に分けた。これは、現代物理学が宇宙を、物質と暗黒物質に分ける方法に似ているようにもみえる。

目に見える部分だけに焦点を当て、目に見えない部分を無視する人体への研究アプローチは、部分を全体と見なす不完全な身体モデルにつながる。

さらに、多くの研究者たちは、身体の目に見える部分の変化を、目に見えない部分を示していると解釈する傾向がある。たとえば、脳のニューロンとニューラル・ネットワークの目に見える変化が、意識の形成を説明すると想定されている (今なお説明は不十分だ)。

客観的現象は主観的現象を直接説明しない。人体の目に見えない部分が目に見える部分の変化によって完全に説明できる場合、人体のエネルギーシステムの仮説は不必要だ。そうなるまでは、そのような仮説には実際的な意味がある。

エネルギーと物質は同等である可能性があるが、それらの性質が異なるため、それらを研究する方法も当然異なる。 sciencedirect.com

もう少し続けます。

論文より


では、古代の人々はどのように気やエネルギーを研究していたのだろうか。

基本的な方法の 1つは、内向的、つまり主観的な観察だ。

気功とは、気やエネルギーを直接体験することで、人体、宇宙、自然を学ぶ方法だ。エネルギーを直接見ることはできないが、体験することはできる。

エネルギーの変化を体験し、これらの変化をコントロールすることが可能だ。これは、エネルギーの観点から人体の生理学的および病理学的プロセスを理解することにつながる。

エネルギーまたは「気」は、意識と呼吸によって直接導かれる。このような誘導スキルを使用して、気功は自分の体、心、および呼吸を統合し、人体のエネルギーシステムを調整することができる。

エネルギーを研究する別の方法は、「顕現による分類」と呼ばれる。この方法は、外向的観察と内向的観察を組み合わせたものであり、現代科学における客観的観察とは異なる、より全体論的で具現化された観察モードだ。

顕現方法による分類は、外見の類似性だけでなく、内部エネルギーと外部エネルギーの共鳴にも基づいている。「同種の気は引き合う」という表現は、エネルギーの相互共鳴を意味する。

外向的観察は、類似した現象がどのように見えるかにのみ焦点を当てる。さらに、観察の代替モードは、エネルギーの共鳴を調査することであり、これが顕現による分類方法の主な目的であり、焦点だ。 sciencedirect.com

 

これは、「外部も含めた(見えない)エネルギーが、身体に及ぼす影響、あるいは作用について書かれたもの」ですが、これをご紹介したのは、「人間から外部への逆のエネルギーの流れも存在しているはず」 だということからです。

つまり、「人間の内部の意識から、その気やエネルギーが、外部に物理的な作用を及ぼす」ということもあるのだと認識します。

宇宙のエネルギーの法則には「一方的」というものはあまりありません。ほとんどが相互作用となる。相互作用というのか、「循環している」というのか、そのあたりはわからないですが、一方的なエネルギーの作用はないはずです。そして、この「集団の人間の意識」の「変化」から考えてみますと、少し最近の状況から、懸念される側面もあります。

  

人間にとってのDNAという存在

関係のないことになるかもしれないですが、以前、 mRNA の「逆転写」について、スウェーデンの研究をご紹介したことがありました。 

[記事]ワクチンmRNAのDNAへの「逆転写」がスウェーデンの研究で確認される。しかも接種後「6時間」という早さでヒトDNAを修飾することが示されるIn Deep 2022年2月28日

 

この時、思い出したことは、「骨髄移植の後、移植を受けた人の DNA が、すべて提供者の DNA に変換されている」ことが判明したことでした。

以下の記事で、米ニューヨークタイムズの記事をご紹介しています。 

[記事] 「本人」とは? : 骨髄移植の後、移植を受けた人の血液のDNAがドナーのDNAに完全に置換されることが判明。特に「精子」は100パーセントがドナーの遺伝子となっていた In Deep 2019年12月24日

 

もし、スウェーデンの研究者たちが見出したように、ワクチン mRNA が、逆転写して DNA に統合される可能性が少しでもあるとするなら、

「この骨髄移植の事例と同じようなことになってしまうのかなあ…」と、当時思いました。

時間の経過と共に、DNA が「本人ものではない DNA に変換されていく」ということです。

これは、「本人だけど、本人ではなくなる」ということにもなります。 

さらには、「この世の大部分の人々の DNA が同じになったら、この世はどうなるのだろう」

なんていう SF 的なことさえ考えましたけれど、「絶対にあり得ないか」というと、スウェーデンの研究を見る限り、「絶対あり得ない」とは言えないのかなと思っています。

そして、「この世に他人がいなければ、この社会はなり立たない」はずです。

相手を愛したり、憎んだり、相手に同調したり、不満を持ったり、羨んだり尊敬したり、という、ごく普通の「人間の情感」が少しずつ消えてしまう。

自分とまったく同じ相手には「実際には何の感情も湧かない」、あるいは「理解できすぎて、感情の対立がまったく起きない」はずです。

何より、先ほどの論文にあったエネルギーという観点から、この世は、すべて異なる気や感情やエネルギーが交錯しているからこその世の中だとも思います。少なくとも人間の世の中は、良いも悪いも高いも低いもなく、さまざまなエネルギーが無数に交錯している。それがこの世そのものを作り出している。エネルギーの種類が単純化していくと、新しいエネルギーは生まれ得ない。この世も死んでしまう。

もしかすると、現在、ある程度の数の方々が感じられている「エネルギーの消失」や「セクシャリティー的エネルギーの消失」、あるいは「モノの変化」といったものも、これと関係する可能性もあるのかもしれません。

 

この世界は、基本的に全員が他人であるわけで、そこに社会が成立する根源があります。

そこにはじめて、正も負も含めた強いエネルギーが生じます。

先ほど量子力学での「意識の素粒子への介入」の概念を書きましたように、

「その人間のエネルギーあるいは意識がモノを作り出し、あるいは変化させている」

わけです。

その人間の集団に現在、意識とエネルギーの著しい変化が仮に起きているのだとした場合、モノが大胆に変化することは不思議ではないと感じます。

読者様方にも、自分の周囲のすべてのものに対しての、あらゆる違和感に注意深くなられることをおすすめしたいと思います。マンデラエフェクト的な違和感を感じられることもあるかもしれません。

そこから、人々の意識や情熱やエネルギーだけではなく、「実際の物質的世界も同時に変わりつつあるのかもしれない」ということが、もしかすると、認識されていくのではないかという気がします。

世の中の今後のあり得ないような物質的な変転は、もはやオカルトでもサイエンスフィクションでもなくなってきたと感じます。