2022年10月23日日曜日

2858「坐禅会運動について2」2022.10.23


では、「日の理念」を実現してゆくには、どのような「形」がふさわしいのでしょうか。

そこで、再びよみがえってきたのは、道元禅師でした。

道元禅師は「悟り」ではなく、「坐禅」を根本に据えていらっしゃいます。「普勧坐禅(ふかんざぜん)」とおっしゃって、すべての人に坐禅を勧めていらっしゃいます。出家だけ、エリートだけに坐禅を勧めておられるわけではありません。どんな資質の人でも坐禅さえしていれば、すべてが「おさまる」んだよ、「ととのう」んだよとおっしゃっています。

また、「典座教訓(てんぞ きょうくん)」や「知事清規(ちじ しんぎ)」で、禅道場で、各人が担当するさまざまな役割に、価値の大小や軽重、上下などはないということ。そのそれぞれがなくてはならない尊い役割なのだということを説いていらっしゃいます。

そのような、道元禅師の根本の教え(理念)を再発見して、これは私に届いた天のメッセージとそっくり同じであるという事を知り驚喜しました。

ただ道元禅師は、時代の制約があって、禅の道場という閉ざされた集団のなかでしか形に出来なかった「日の理念」を、人類の進化の段階が進んだ時代に生きる私たちには、「開かれた共同体」の中で、もっと自由で大らかな形で「日の理念」を実現してゆけるようになってきたのです。


では、「日の理念」をどういう「形」で建設してゆけばいいのでしょうか。

まず、道元禅師と同じく、「悟り」ではなく、「坐禅」を本尊に据えて、その「坐禅」に癒やし、養い、導いていただく。

そして、仲間が寄り添って、ツラい時も、悲しい時、脱落しそうになった時、お互いに支え合いながら、励ましあいながら歩んでゆく。そんな小集団(坐禅会)を全国各地に作ってゆく。

その坐禅会は悟りを開いて師の免許状を得たリーダーによって導かれるというのではなく、一同平等の立場で、一緒に「坐禅」し、その「坐禅」をリーダーにして共に成長してゆく。坐禅会を設けてお世話する方は、指導者ではなくお世話役という役割を果たしているのだということを忘れないで、決して坐禅会を支配しよう、リードしようとはしないこと。

自分には悟りの目がないから、坐禅会は開けないなどとは考えないこと。

「坐禅こそが悟りの目」で、「坐禅」していれば、すべてが「おさまり」、「ととのう」のです。あなたはただ、ご縁のある人を「坐禅」に導いてあげればいいのです。そうすれば「坐禅」がその人を導いてくださいます。人を「坐禅」に勧誘してあげ、「坐禅」が習慣となり、生活の中心軸となるよう導いてあげる。それは素晴らしい布施行で、あなたは大変大きな功徳を積むことになります。


「坐禅会運動」は以上のような、何十年にも及ぶ模索、経験の末にたどり着いた結論です。

コロナのせいもあって、はじめは一人坐りしているという方が多かったのですが、月に一度は仲間で集まって一緒に坐ろうという方が増えてきて、その実施報告が届くようになってきました。有難く、嬉しいことです。

しかし、私にあせりはありません。私は「一の時代」の戦士ですし、ゴールは35世紀なのですからね。すでにゴールインできるということは分かっているし、「三の時代」を担当する戦士たちもスクスク育っています。

青空ひろばの事務局でも、さらに仲間の「連帯」がしっかりしてくるように、いろいろ案を練って下さっているようなのでお楽しみに…。

坐禅会の運営にあたっては、<「お日さまの仲間」の信条>を基本方針にしてください。再録しておきます。

<「お日さまの仲間」の信条>

(1)明るくて、温かくて、潤いがある「安心できる場」を作ろう

(2)リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう

(3)「あなたがあなたであること」以上に尊いことはない、ということを知ろう

(4)菩薩としての自覚を持って、分に応じて「ダーナ行」を粘り強く実践してゆこう。他のために生きることの喜びを体験しよう。 


<「お日さまの仲間」の信条>の4箇条の説明を、順次しておきましょう。

(1)明るくて、温かくて、潤いがある「安心できる場」を作ろう

(2)リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう

この二つは最も大切な条項です。

明るくて、温かくて、潤いがある坐禅を、みんなで繰り返すうちに、次第に「安心できる場」が育ってゆきます(この「場」は時空を超えて広がってゆきます)。

参加するだけで病気が治りました。いや、坐禅会に参加しようと思っただけで楽になりましたという人が出てきます。少人数でも黙々と坐禅会を続けてゆくと、このような「安心できる場」が育ってゆくのです。 

また、この「安心できる場」は、時空を超えて広がってゆくので、苦しい状態に拘束されて動けないでいるご先祖も包みこんで、その苦悩から解放してあげられます。ご先祖が開放されると、それに連なって存在しているあなたにまで、その開放の喜びが届いて、あなたの人生も重苦しいものから、軽やかで、自由な、可能性に満ちた人生に転換してゆきます。

また、この「安心できる場」は、未来の子孫にまで届いて、子孫たちがしあわせな人生を生きることをサポートします。このように、坐禅によって徳を積み、「安心できる場」を作るというのは、とても大切なことです。

「安心できる家庭(場)」に育つ子供はスクスク素直に育ち、特別な努力はしていないのに、なぜか順調でしあわせな人生を生きることが出来ます。これは時空を超えてその子供を包み込み、護る「安心できる家庭(場)」のおかげなのです。

浄土宗や浄土真宗でも、そのような「安心できる場」を説いています。

法蔵菩薩は黙々と、何度も生まれ変わって修行を続け、ついに阿弥陀仏という仏になり、菩薩の時の誓願を実現して「極楽浄土」という、時空を貫いて作用する「安心できる場」を完成されたのです。

そして、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、誰でも(エリートでなくても、アタマがよくなくても、体力や精神力がなくても)その「浄土」という「安心できる場」に送り届けられる。そのような送迎システムを阿弥陀様がすでに完成して下さったのです。ですから、私たちは阿弥陀様を信じて、その移動システムを信じて、ただお念仏を称えましょうというのが、浄土の教えです。

そして、その「極楽浄土」という「安心できる場」に入りさえすれば、その「場」の力によって、今まで身心の病を抱えていた人は、その苦しみから解放され、向上心がなかった人でも、学びたい、成長したいという意欲が湧いてくるようになる。そして、しっかり学び、成長できるようになるとされています。 

私たちの「坐禅会運動」では、阿弥陀様にあたるご本尊が、「坐禅」で、お念仏にあたる行が「坐禅を行ずる」ことです。

そして、「坐禅」さえ繰り返してゆけば、自然と極楽浄土にあたる「安心できる場」が形作られてゆき(あなたも法蔵菩薩のように、「安心できる場」を作る主体となるのです)、またあなたは、今生でも、また滅後も、その全国の坐禅会一同で協力し合って育ててきた「安心できる場」に入って憩い、イノチのクセや強ばりをほどくことができるのです。


法然上人が最晩年に書かれた「一枚起請文(いちまい きしょうもん)」という文章があります。

この文章の「念仏」を「坐禅」に読み変えると、私たちの「坐禅会運動」に参加する人が大切にするべき心得となります。現代語訳しておきますから、お読みください。

「一枚起請文」

インドから始まって、中国の唐や日本の高僧たちが、実践して来られた念仏は、アミダ仏のお姿を克明に観想(イメージ)する念仏(仏の相を観念する)であったが、私が君たちに教えている「念仏」はそうではない。

また、経典や論書をしっかり学んで納得した上で称えなければ効果はないという「念仏」でもない。

ただ、極楽浄土に往生(往って生まれる)するためには、『南無阿弥陀仏』と繰り返し称えればいいのだという教えを信じて、ひたすら称えること以外には、なにものも(集中力も、頭のよさも、お金も、地位も身分も、仏壇も、仏具も・・・)一切不要なのだ。

『三心四修』という心構えと行のあり方が、往生のためには必要である、その要件が揃わない念仏では決して極楽浄土に往生出来ないなどとうるさく言って、経典・論書を学んだことがない俗世の信者たちを惑わせている僧もいるようであるが、そんな要件は『南無阿弥陀仏』をひたすら称えて往生するぞと決心して実践している行の中に自然とこもってくることなのだから、あげつらう必要はまったくないのだ。

この、ひたすら『南無阿弥陀仏』を称えるという一行のほかに、往生のためには、これが必要だ、実はこれも必要なのだと、世俗の信者たちを惑わせる者がいたら、その者は、苦悩の世界に沈んで抜け出せないでいるすべての人を、「念仏」を称えるだけで、一人残らず救い出し、極楽浄土に往生させたいという、釈迦や阿弥陀仏の慈悲の心に背いている罪人なのだ。

また、『南無阿弥陀仏』とさえ称えてくれたならば、そのコトバを船として、その念仏者を浄土まで運ぶという誓い(本願)を立てて、その極楽浄土への航路を完成させて下さった阿弥陀如来のご苦労を無にし、妨害する行為なのだ。

念仏を信じ実践しようと思う人は、たとえあなたが釈迦一代の教えをことごとく学んだエリート秀才だとしても、そんな大量の知識はことごとく打ち捨てて、文字も読めず、仏教の「ぶ」の字も分からない「愚鈍の身」に立ち返って、尼や入道などの無智な仲間と一緒になってひたすら念仏を称えなさい。決してお念仏仲間の前で知識をひけらかしたり、リーダーがましい振る舞いをしてはいけない。

以上のことを証明するために、両手の手のひらの印を押しておくことにする。

浄土宗の心の置き所と行の正しいあり方は、この一紙の文章に究められている。私(源空=法然上人)が信じているところはすべて、この一紙の文章につづ約められていて、これ以外に私が秘密に保持していて、少数の弟子にだけ伝授するといった教えはまったく存在しない。

私が地上世界を去った後、弟子達が誤った方向に進んでゆかないようにするために、私が信じているところをここに記しておく。

建暦二年正月二十三日   源空花押  


以上の法然上人の御教えのように、坐禅会を開いても、先輩面したり、指導してやるなどと後輩を見下すことがないように。

浄土系の宗派では、「平座」と言って、お坊さんも信者も、同じ床の上に座って説法したり、話しあったりするのだそうです。僧侶が高座に上って、信者たちを教え諭すということはしないのだそうです。

<リーダーシップより「メンバーシップ」を大切にしよう>を形にして現しているわけですね。


(3)「あなたがあなたであること」以上に尊いことはない、ということを知ろう

(4)菩薩としての自覚を持って、分に応じて「ダーナ行」を粘り強く実践してゆこう。他のために生きることの喜びを体験しよう。

あなたは自分の力であなたとして誕生したわけではありません。神々が「あなた」という存在が地上に生まれて、「あなた」にしか歩めない人生を送ってくれることがどうしても必要なんだと、神々(大宇宙)の「霊的な力」を結集して、「あなた」を生み出したのです。

「あなた」として生きて歩んでゆけるのは、「あなた」しかいません。誰にも「あなた」変わりができる人はいません。

だから、「あなた」は自己否定したり、卑下したりしないで、「あなた」であることを誇りに思って、「あなた」を精一杯生ききってください。成功したり、実績をあげるということを神々は望んではおられません。「あなた」は精一杯「あなた」して欲しいと期待しておられるのです。

また、「坐禅会運動」は最高の布施行です。

物資やお金の布施は、有限の範囲にしか、その効果は届きません。

しかし、「坐禅会運動」に参加して、いろんな役割を分担して、仲間のお世話をすることは、「安心できる場」を育てることになり、その「場」は時空を超えて作用してゆくことになるので、その効果は無限の範囲に及ぶのです。ですから、限りない「徳」をあなたや家族や、ご先祖や子孫たちが得ることになるのです。

先は長いので(35世紀がゴール)、焦って参加者を集める必要はありません。しかし、坐禅会運動に参加したということは、「菩薩」となって世のため、人や動植物や自然環境のしあわせのために生きてゆくという覚悟を決めたということなのですから、今生でなくてもいいから、いつの日かお友達や家族や知り合いに呼びかけて、皆で一緒に坐禅会を開こうという願いを忘れないようにして下さい。

まず、手始めに青空ひろばに告知された坐禅会のうちで、自分の住む地域に近いものがあれば参加してみる。そして、一緒に坐れば、一人で坐るより、一層いい坐禅が出来るということを体験してみてください。

そして、参加した坐禅会の運営を見ておくことは、あなたが坐禅会を始める際の、とてもいい参考になると思います。

ダラダラ長く坐禅会運動の意義の説明をしてきましたが、切りがないのでこの辺で止めておきます。

「坐禅」さえしていれば、すべてが「おさまり」、「ととのう」ということ、「坐禅」にご縁のある方を勧誘し、「坐禅」を習慣にし、生活の中心軸となるように導いてあげることは、とてもいい布施行になり、徳を積むことになるのだということを忘れないようにして下さい。(完)