2013年12月18日水曜日

263「大和2」2013.12.16

 11月30日朝7時半、仙台駅からバスは一路、北の地を目指します。今回のテーマは「二つの宮を糺す」です。この件については先のこのブログの「霜月1~5」に記載していますのでお読みいただければと思います。
 更にそこに東北の地で繰り広げられた数々の史実、物語を追いながら、二つの対極を和合させることを意図して目的地を選定して、あわ歌を響かせて各所を巡る予定をしています。
 
 東北の地も縄文の物の考え方、生き方から弥生の物の考えへとゆっくりと変化して行きました。更に弥生から大和朝廷が成立して更にその変化は激しくなります。
 豊かな東北の地を支配しようとする大和朝廷と、この地を安らかに長く治め暮らしていた蝦夷との争いがやがて起こります。その象徴が坂上田村麻呂とアテルイです。
 
 坂上田村麻呂については以下の記載があります。
 「793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。797年に弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を降した。いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこでアテルイ(阿弖利為、阿弖流為)とモレ(盤具公母礼)ら五百余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、二人を処刑した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。」
 在る方にお聞きしたところによると実際は以下の様だったそうです。
「田村麻呂の父の苅田麻呂が東北の地に赴任時にこの地の女性に産ませたのが田村麻呂とも言われています。故にこの地の蝦夷の事を理解出来て、アテルイと和議が出来た。更に当時のこの地の豊かな精神性を大和の考えと和合させて新たな国造りの試みを成そうと田村麻呂は考えて京都にアテルイとモレを連れて行った。しかし、朝廷は恐れおののいて彼らを殺してしまった。」
 田村麻呂がアテルイを弔うために清水寺を創建したと言われています。平安遷都1200年を記念して、1994年11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されています。
 アテルイは今の奥州市水沢区辺りに住んでいた蝦夷を治めていた部族長です。地元の羽黒山の山頂には2005年にアテルイの忌日の9月17日に慰霊碑が建立されています。
 
 更に時代が進み、地方豪族としてこの地を治めていた安倍氏が朝廷勢力、源頼義により滅ぶる、前九年の役があります。
 安倍氏については以下の説があります。
「神武天皇に殺された畿内の王長脛彦の兄安日彦をその始祖とする説。
 奥州に下った中央豪族である安倍氏のいずれかが任地で子孫を残したとの説。秋田の蝦夷の帰順を得た阿倍比羅夫につながる系図もある。
朝廷に従った蝦夷(俘囚)とする説。」
「安倍氏は北上川流域の奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる広大な地域に影響力を発揮していた。」
 
 前九年の役・後三年の役以降にこの地を治めた藤原氏は、平泉に浄土王国を築いていましたが、そこを滅ぼしたのは源頼朝です。源氏の武門の流れについて以下の記載があります。
 
「前九年の役における頼義・義家の戦勝は、河内源氏が武門の家の中でも最高の格式を持つ家である根拠として、中世以降、繰り返し参照されるようになった。実際、頼義・義家の家系からは後に源頼朝が出て鎌倉幕府を開いただけでなく、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏であった。彼らが武門の棟梁の象徴として征夷大将軍を名乗った背景には、頼義が蝦夷を征討した形となったこの戦役がある。頼朝は源義経及び奥州藤原氏の征討に際し、自身が前九年の役を意識し、平泉滅亡後もさらに北上して、父祖戦勝の地、厨川(厨川柵)へ赴き、義家が同地で行なった鉄釘の故事を再現したと記されている。」

 頼朝の弟の源義経は平泉の藤原氏には深い繋がりがあります。
 藤原秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い、義経は若き時代を藤原氏の庇護の元で過ごしています。やがて頼朝挙兵の後、義経は兄の元に駆け参じて数々の武勲を建てて平家を滅ぼします。
 やがて頼朝と義経兄弟の不仲をきっかけで文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われます。しかし秀衡は頼朝からの引渡要求を拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡す事で頼朝との和平を模索しました。 
 しかし、関東の後背に独自の政権があることを恐れた源頼朝は同年7月、義経を長らくかくまっていた事を罪として奥州に出兵し藤原氏を滅ぼします。実際は義経は自害しておらずに北へ逃れたという北帰行伝説がその後に東北各地に残されています。大陸に渡ってジンギスカンと成ったとも言われます。
 更には九戸政実の乱です。中央政権の豊臣秀吉と蝦夷の魂の戦いともいえます。
 九戸政実の乱については以下です。
 「天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。」
 仕置き軍は名だたる武将が参加して総勢6万人、対する九戸軍は5千人です。
「九戸以外にも、大規模な奥州での一揆鎮圧のため、秀吉は同年6月20日に号令をかけて、奥州再仕置軍を編成した。白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進し蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。8月23日、九戸政実輩下の小鳥谷摂州は50名の兵を引き連れて、美濃木沢で仕置軍に奇襲をかけ480人に打撃を与え、これが緒戦となった。9月1日には九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ち、これに抗した九戸政実は九戸城に籠もり、9月2日には総勢6万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返した。」
「九戸政実はこれら再仕置軍の包囲攻撃に少数の兵で健闘したが、城兵の半数が討ち取られた。そこへ浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させた。九戸政実はこれを受け入れて、弟・九戸実親に後を託して9月4日、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏する。」
「浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行った後、しかし助命の約束は反故にされて、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられた。その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている。政実ら主だった首謀者達は集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。」
 これら一連の争いの根底にあるものは何なのでしょうか。日高見の地、蝦夷の民がまつろわぬものとして化外の地の民と忌み嫌われていたのでしょうか。更には蝦夷が信仰していた土着の神であるアラハバキ神、自然の神とそこを支配しようとした大和の神々の争いなのでしょうか。
 アラハバキ神についてはいろいろな見解があります。その中で「神のはじめの神」との記載があります。http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page007.html
 以下、関係部分を引用してみました。
「アラハバキ神は記紀、宮下文書、上記などには現れてこないが、東北で祭られている。東北のアラハバキ神は、宇宙人と見間違える大きな眼鏡をつけた遮光式土偶として、亀が岡文明に出現した神である。
 環状列石に囲まれた、中心の立石(メンヒル)がその顕現である。
「ハハキ」をハハ・キと分けて、ハハは母、キはチ「地(シュメール語)」と解釈した。アラは、顕現のアラではなく、荒蝦夷の荒(アラ)である。これは、シュメール語で、獅子神のアラであるという。
 即ち、アラハバキは父である獅子神(アラ)と、蛇の地母神(ハハ・キ)の合成神で
ある。 シュメールの神系に当てはめれば、天神アンと母神キの子エンリルであり、ギルガメッシュになる。
 アラ・ハバ・キ神族は、「獅子神」族と「蛇の地母神」族である。阿蘇部は獅子神族、津保化は竜女神即ち蛇神族であったとしている。
 そして、東三河に照らしてみれば、照山東南に賀茂族(獅子神族)、石巻山に三輪族(蛇神族)がいて、その2族の結合によって、大国主(大巳貴尊)が生まれ、そのアラ御魂が「アラハバキ神」なのであった。本宮山に大巳貴尊とアラハバキ神が祭られているのは、やはり同一神であるからなのだ。即ち、アラハバキ神は天の御中主霊神が、地母神と結合して、地上に産まれた天地を造り替える力をもった父神と同格の創造神(神の始めの神)と推定される。
 アラビア半島のヤマン(イエーメン)から、絶対神を信奉する民族が、陸上ルートと海上ルートの2つを通り、縄文時代末期から弥生時代初期に日本に辿り着き、その信奉する神が、各種の変貌を起こして、種々の「アラハバキ神」となったとされている。
 つまり、日本の神社で最高の地位を占める、伊勢神宮の内宮に関して、天照大御神を祭る前からの地主神が「アラハバキ神」ではないかという。
 伊勢の内宮横に祭られている荒祭宮は、古来アマテラスの荒魂だということになっているが、内宮と同格の扱いを受けて他の別宮とは断然格式が異なっている。
 伊勢神宮にはもう一つ「太一」信仰がある。 太一を表に出したのは伊雑宮(いぞうのみや)(原出雲系のイサワトミを祭る神社)である。「太一」は皇大神宮の外部のみに表れていることと、伊雑宮が関係していることは磯部氏の信奉するところである。
 従来の諸説では「アマテラス=太一」であったが、度会神道すなわち太一であり、大元とすると納得する。
 太一は中国の陰陽五行思想から名付けられた名前で、最高の神、その居所は北極中枢だとされ、北極星の神霊化であり、宇宙の大元である。
 この中国の思想は道教に反映し、古代インドの密教と習合して「大元帥明王」になった。したがって伊勢の太一信仰は、陰陽五行思想だけによるのではなく、太一という隠れ蓑を着た最高神である「アラハバキ神」のことであった
 丹後国の篭神社社務所発行の「元伊勢の秘法と国宝海部氏系図」という本の奥宮・真名井神社の項に「トヨウケノ大神の亦の名はアメノミナカヌシ(天御中主)・クニトコタチ(国常立)で、その顕現の神をウカノミタマ(倉稲魂=稲荷大神)と申し、アメノミナカヌシは宇宙根源の大元霊神である」と明記してある。
「海部氏勘注系図」には歴代秘伝として「天御中主とは亦の名神魂、国常立、天照皇大神、豊受大神で、すべて同神の異名である」ことを伝えており、「天照大神は国常立尊すなわち大元神の所顕であらせられる」とアマテラスが人格神でないことと、国常立は大元神すなわちアラハバキであることを明記してある、という。
「アラハバキ神は、天孫族がわが国に渡来する以前に、先住民族によって祭られた神、則ち、地主神(じすしん)である。」という指摘をされている。」
 
「謎の神アラハバキ」http://act9.jp/fan/report/ai/ryuh/arahabaki.htmにも詳しく述べられています。アラハバキは「竜の柩」の中でのキーワードですが、青森県五所川原市の十三湖、そして偽書と言われる「東日流外三郡誌」から展開して行きます。興味のある方は読んでみてください。
 
 このような背景を抱いての今回の日高見・縄文・アラハバキの旅でした。