中山博さんと巡る旅は目出度く終える事が出来ました。今回も沢山のお言葉と共に数々の体験をさせて頂けました。中山さんからも今回の旅の目的は達成できたとおっしゃっていただきました。ありがたいことです。
まずはこの旅で頂いたお言葉をまとめてみますが、要約すると以下のようになります。
最初にあったお言葉は今回の旅の意図、目的です。
「この度、お集まりの皆々様には、各所でそれぞれしっかり響き、天地繋ぎて、大きなる光と繋ぎて下され。
この北の大地を、限りなき嬉しきへ戻されて、この国の基と成りますようにお頼み申す。」
これはとても大きな課題です。それを受けて各所で響かせ、繋ぎを成す中に以下の言葉がありました。
「この大きなる地を皆々共に守り来たり。多くを失いたるが、今ここに再びの光差し来る時迎え、共に皆々参るは嬉しきなり。
この地を元へ還し行き、再び大きなる地と為さり、光を配りて、変え行かん。是より、北の力を得て渦作り、その時を知らせ行く。
皆々様方の響き、大いなる天空に届き行くは嬉しきなり。それぞれ皆々大いなる響き続けなされ。進みは次第に速きと成るなり。
光を届け、皆々様の大きなる力をいただきて、元へと還す時至る。どうぞこのことしっかりと、その思いにお留め下され。
再びあの頃の地へと戻る時は迫り来たり。これより変わりゆくこの地は、新しきと成ります。
この地の大きなる気を受けて、広き原には多くの喜び生まれてありたるなり。再びのこの時、永き時待ちたり。響きて、光を是よりは、共に致して参ろうぞ。」
そして最後に今回の巡りに対して、多分、最初に現れた同じお方からと思われますが以下のお言葉を頂きました。
「ぐるりと回りて次々伝え、光と響きを共々に、配りて頂きありがたき。
是よりも響きを発して、天地繋ぎて、大きな柱と成られませ。
新しきへ向かうご用意、くれぐれもお頼み申す。」
今回の巡りに対する感謝のお言葉です。更に大きな柱と成って新しきへ向かう用意を成す事を促されています。これから本番、まだまだ続くようです。まずは次回の3月3日の大和での大きな渦作る集いが大事な事です。ご縁の方々お集まり頂き、大きな渦作る始原をしっかり成して行きたいと思います。
その時の集いに向けて更に繋ぐ意味もあり、翌日は中山さんと大和農場に行き、白石に昨日までの報告をさせて頂きました。更にこの北の地の力を呼び戻し繋げるために、磐井、、気仙地方の以下の地に足を運んで頂きました。
岩手県一関市:田村神社、八幡神社、瀧神社
宮城県気仙沼市:早馬神社、業除神社、舞根神社、
岩手県陸前高田市:冰上神社、
岩手県大船渡市:尾崎神社、三陸大王杉
大和農場は穏やかな中に有りました。白石であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「新たなるへと向かうこの時、この地と定めて集う方々、喜び嬉しき地を作る。
その渦を大事に育て行き、知らせて伝えて参りましょう。
夢遙か、たなびく雲と共々流れ来て、つゆ滴りて、光を配り、暖かき地を作る、皆の喜び共に嬉しき。
今ここに、白き光を降り注ぎ、大いなる嬉しきへ。
友よ参られ、光を見よや。あ〜。」
ありがたきお言葉です。喜び嬉しき地とこの地と定め集う皆様方、大きな渦を3月3日に作り、育てて行きましょう。是非ともお集まりください。
高速道路を北上して岩手県に向かいます。一昨日の巡りは平泉町からスタートして北に向かいましたが、今回のこっそりの旅は一関市で下車し、東に向かい、太平洋、陸中海岸の気仙地区です。最初の目的地は一関市内の釣山公園の山頂にある田村神社です。
そこに向かう車中でお言葉がありました。
「下り来て、光なし。
この地と共にありたるは、大きなる夢果たす事。
その夢はこの星を新たなるへ進め行く事。古きと成り来た、この地の多くを動かし、軽きと成して、新た成るを始めます。
動きを始めること成れば、多くの皆々、只々、驚き、なす術無しの時を迎えます。
再び、三度、この星繰り返し、篩て参りたるが、是よりは、全てを篩てこの地の振動と合わざれば、そこにある事かたしと成るなり。
先にこの事知らせ行くは、音の響きでその身の振動変えてあれば、たちまち新しきへと参る。
御用意為さるはその事ぞ。只々、響けば自ずと変わる。申しておる事なり。
よくよくこの事成し行かれませ。」
この地の振動が変化して行き、その振動と合わないと新しきへ向かう事が難しいので身の振動を変える事を必要、とのお伝えを頂いています。
更に続いて以下のお言葉です
「来る日、迎える皆々様方、御用意怠りなきように申しております。
その事は、響きを発する母なる音を受けとり、その音、発して行けば、その身が動き、その身の全ての振動が変わりて、身体が変わり行き、降り来る光と一つに成ります。
この事を伝えるは来る年に致します。まずもってこの身を変えて発しましょう。」
来年にはあわ歌の歌い方が変わるようです。中山さんは1月1日から10日まで一人籠り、歌い続けられる行を成されるとのこと。新たな響きはその後に示されるようです。
「たちまち参るぞその時は、皆々発する音変わり、柱と成りて、それぞれが光て参るを望みたり。
ゆうやく参る大きなるその時は、ハタレもユダも皆共なれば、光と響きを与え行く。
頑固に守るその古き、捨て為され。
共にあるは、この大きなる宇宙なり。ただか人の申す小さな事にためらず、宇宙のすべてにある一つの事なれば、その事、神と思うべし。
作りて参りた人の神、是より無に為さりませ。」
更に厳しいお伝えです。
釣山公園かつて一関城であったところです。小高い山一帯が公園として綺麗に整備されています。その山頂まで歩道を登って行くとかつて使われていた狼煙(のろし)台があります。その東側に坂上田村麻呂を祭る田村神社があります。
この地は以下の記載があります。
「一関城は坂上田村麻呂が築いたといわれています。天善年中に安倍貞任の弟磐井五郎家任が砦を築きました。また、源頼義、義家親子も陣を張ったと言われています。奥州藤原氏滅亡後は葛西氏の領地となりました。
戦国時代、一関城は葛西氏の家臣の小野寺道照が城主であったといわれています。葛西氏は豊臣秀吉の奥州仕置で改易され、一関は木村吉清の領地となりますが葛西大崎一揆の後には伊達政宗の領地となります。
慶長9(1604)年には政宗の叔父留守政景が北東山麓に居館を造営し、城下町の基礎を築きますが政景の子伊達(留守)宗利が金ヶ崎城に移った後、万治3(1660)年に伊達宗勝が城主となりますが、伊達騒動(寛文事件)で土佐に流罪となり、天和2(1682)年に岩沼から田村建顕が移り、幕末まで田村氏が一関藩としてこの地を治めました。ちなみに田村氏は坂上田村麻呂を先祖としています。」
この地であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「届けました、この響きと光り、打たれて眠りし多くの方々、奮い立ちて出でませ、開きませ。思いは全て承り、ここより出でて光と成りて、さあさ、参られませ。(拍手)
是よりの新しき地へ光を送りませ。嬉しきと成りませ。」
この地は重要な拠点として何度も戦の地と成り、滅ぼされ支配が変わっています。目覚めて光と成り、嬉しき世界へ進むことを促されています。
釣山公園を下り、山の東側にある八幡神社に向かいました。立派に整備された参道を
すすみます。御祭神は誉田別命、坂上田村麻呂、坂上禅定です。由緒は以下です。
「当神社は延暦年間(782〜806)坂上田村麻呂が東夷平定の際館山(現釣山公園)に陣営を敷き、諏訪の大神(長野 諏訪大社)に勝利を祈願したのが紀元とされ、その後、康平四年(1061)源頼義、源義家が安倍貞任征伐【前九年の役】の折、田村麻呂と同じく館山に陣を敷いた際、合戦の祈願のため伊勢の神宮、京都の石清水八幡宮へ、中原大夫清房を奉幣使として使わせたところ両宮の大御神の御神託を賜り、この地域の八方に八幡宮を勧請した内のその第一社である。
天正二年(1574)相殿に八雲神社、文禄(1593)諏訪神社を再奉し寛文二年(1662)藩主伊達宗勝により現在の地へ遷座され以来現在の地に奉斎されている。
元禄七年(1694)初代田村藩主、田村建顕は一関に赴任した際、この地に坂上田村麻呂を慕う人々が多いことから伊勢へ伊藤惣助を代拝参宮へ使わした折、土山(滋賀県甲賀市)に鎮座する田村社の御分霊を田村神社として当社の相殿へ併せ祀り以来藩主田村氏の崇敬神社また一関(現市街地)の総鎮守としてお祀りされている。また現在千畳敷(釣山公園)へ鎮座している田村神社は、大正時代に田村家江戸屋敷邸内へ祀られていた御社を遷座したものである。明治四年郷社、明治八年村社、昭和五年再び郷社に列する。
昭和四六年十二月 社殿が全焼し貴重な文化財(田村建顕公、射的奉納弓矢、算額等)を焼失してしまったが、当時オイルショックの不況下の中、氏子崇敬者の篤い奉賛により昭和四八年現在の御社殿が再建された。」
ここではあわ歌を響かせること無く以下のお言葉がありました。
「ここに祀られしは、元の元なる大きなる光と共に身を下し大いなる地、作り来た。
晴れ晴れと致す元の気は、北より受ける。生み出だす力持ちたり。
ただ、今、全てを封じられ何も無しは口惜しき。光と共と成り成って新たなるへと向かう。(拍手)
お〜、いざ参られよ。素晴らしき成るなり。」