2014年5月26日月曜日

309「須佐、雲太12」2014,5,26

 スサノウの子供で大和の初代王となったニギハヤヒは記紀神話から抹殺されています。しかしそのニギハヤヒはスサノウと同様に多くの別称を持ち各所の神社で祀られています。
 幼少は大歳と言われ、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)が讃え名で、「先代旧事本紀」では天火明命(アメノホアカリ)と同一と伝わっています。
 原田常治は、大神神社の主祭神である大物主、上賀茂神社の主祭神である加茂別雷大神、熊野本宮大社の祭神である事解之男尊、大和神社の主神である日本大国魂大神、石上神宮の祭神である布留御魂、大歳神社の主祭神である大歳神(大歳尊)と同一だといいます。

 「古代史復元」の第25節 スサノオ・ニギハヤヒの抹殺で以下のように記されています。

「初期の大和朝廷はスサノオ・ニギハヤヒの神威を利用して政治を行っていた。気候が寒冷化し,生活が苦しい時期は,苦しいときの神頼みで信仰が強かった。この時代の大和朝廷は,神の力を使って巨大な古墳を築造し,その神の力を利用することで政権の安定に努めた。六世紀になると長かった寒冷期は終わり,温暖な時代がやってきた。温暖期になると作物もよくとれ生活が安定してくる。人心も収まってくるので,神の力を使った政治をする必要もなくなり,人々も神をあまり意識しなくなってくる。そのため,権威を誇示するための巨大な古墳は必要なくなり,また,古墳を作るからといって多くの人々を神の力でかき集めるのも難しくなってきて,古墳は次第に小さくなっていった。そして,それまで特別な階層の人物のみ作っていた古墳であるが,生活が豊かになってきたために,あまり力を持っていなかった多くの豪族が古墳を作るようになり,古墳の築造数は増えていくことになった。古墳時代後期の始まりである。
 古墳時代後期になってから生活が楽になってくると,神威は低下してきて,人々はスサノオ・ニギハヤヒをそれほど意識しなくなってきた。そして,そのシンボルである三角縁神獣鏡や前方後円墳も姿を消していった。このようなときに中国から仏教が入ってきたのである。あまり意識されなくなっていた日本古来の神々に変わって登場した仏教は,当時の朝廷人にとって魅力的なものと写った。
スサノオ・ニギハヤヒの抹殺
 スサノオ・ニギハヤヒ祭祀はニギハヤヒの長男であるウマシマジの直系の物部氏が司っていた。ところが仏像崇拝をめぐって物部氏と蘇我氏との争いが起き,物部氏が滅ぶに及び,朝廷の有力者は神武天皇と共に日向からやってきた一族(蘇我氏・藤原氏)が占めることになった。
 日向一族はスサノオが南九州進攻したときに煮え湯を飲まされており,さらに,日向一族の祖である日向女王は,大和では関係がない存在であるから,日向女王を畿内に祭ることができなかった。肩身の狭かった日向一族は物部氏が滅んだのを機会として出雲勢力の抹殺をし,日向一族の歴史を輝くものにしようと謀った。
 まず,スサノオ,ニギハヤヒの国家統一事業は,日向族の祖であるイザナギ・イザナミの業績に置き換え,出雲一族との関連で無視できないところは,出雲族でも日向に関係の深かったオオクニヌシの業績に置き換えた。次に,ニギハヤヒの妻である卑弥呼を抹殺し,卑弥呼及びニギハヤヒが持っていた天照大神の称号を,日向女王に与え,天上に上げた。スサノオはその業績を奪われ,日向女王の弟で高天原の乱暴者にされた。ニギハヤヒは大和の創始者であることを抹殺することができなかったので,ニニギの兄にされ,神武天皇以前に大和に天降ったことにした。スサノオ・ニギハヤヒの業績はすべて抹殺し,全国の彼を祭っている神社から彼らの名を消すよう指示した。
 この歴史改竄事業を人々に知らしめるため,出雲にオオクニヌシを祭った巨大な出雲大社を作ることになった。信仰の対象を変えさせるわけであるから,出雲大社は巨大である必要があった。出雲大社が古代において奈良の大仏殿よりも巨大だったのはこういった理由によるものであった。そして,日本国を統一したのはスサノオではなく,日向一族であることを神話化して残し,それを,古事記・日本書紀としてまとめ,全国の神社からスサノオ・ニギハヤヒの伝承を抹殺させた。このように地方からこの二柱の信仰を弱めた上で,国分寺を全国に建立し,仏教を広めることができた。人々は出雲大社の巨大さに圧倒されてオオクニヌシ信仰に走り,巨大な国分寺に圧倒されて仏教信仰に走ったものと考える。
 このように抹殺された伝承であるが,当然のごとく人々の抵抗は激しく,スサノオ・ニギハヤヒの名を抹殺せず,訳の分からない神の名として残した。出雲大社本殿の真後ろにスサノオの祠があり、大国主命は本殿内で西向きに祭られているそうである。人々が北向きに本殿に拝礼したとき、それは、本殿を素通りして背後のスサノオに拝礼したことになるのである。オオクニヌシの巨大な出雲大社の建立を命じられたときも,出雲大社の本殿の後ろにスサノオの社を造り,朝廷にわからないようにスサノオ祭祀ができるようにしたのである。また天皇自身は正式な歴史の元で皇室行事を行っており,伊勢神宮に参拝をせず,大和の神社に参拝を続けた。
 このような人々の抵抗があったために,抹殺漏れが各地に存在し,全国の神社をつぶさに調べることにより,この古代史は復元できたのである。」

 布施泰和氏による「正統武内文書」による超訳日本神話による紐解きは異色です。「誰も知らない世界の御親国日本」から紹介します。

「宿禰さんが口承伝授された正統竹内文書も、神々が地球に降臨したところから始まります。神々は北極星、昴、オリオンの三ツ星からやってきたことになっていますが、宿禰さんは天孫降臨=宇宙人飛来説はとっていません。生命の元となる魂がそうした宇宙からやってきたと解釈しているそうです。
 途中の歴史は端折って、何度かの天変地異を経て現代の地球文明が始まった時代に進みます。今から1万2000年ほど前、世界各地で大洪水が起きた後、最初の文明を築いたのは日本であったと宿禰さんは言います。「縄文文化」と呼ばれていますが、確かに実質的には世界最古の文明であった可能性が強いですね。
 やがて最初の文明を築いた人たちは世界中に散って行き、文明を広めて行きます。
日本から大陸に渡った人たちは、理想の国を大陸に求めたのだそうです。大陸に渡った人たちの中には、のちに出雲族となるグループと、のちに大和族となるグループがいました。彼らは別々のルートでメソポタミアにたどり着き、合流。太陽を信仰するスメル族、すなわちシュメール人と呼ばれ、そこに古代文明を築きます。

 シュメール人の最大都市はスサと呼ばれ、スサの王をスサノオと呼んだそうです。スサノオは政治・軍事をつかさどる王として君臨し、のちにこの政治・軍事グループは出雲族となります。一方、それとは別に祭司をつかさどる者たちをスメラミコトと呼んだそうです。スメラミコトの祭司グループはのちに大和族となります。
 そのあと、突然シュメール人たちは姿を消すのですが、どうやら一部は中東まで行きユダヤとなったグループもいたみたいです。
 なぜシュメール人たちは、メソポタミアの地を去ったのか。それは自然と共生するという彼らの古神道的な理念や信仰が、厳しい砂漠の風土に馴染まなかったのだと宿禰さんは言います。砂漠の地方では自然は人間に敵対するものでしかなく、理想とは程遠い地であった――。失望したシュメール人たちは、再び二手に分かれて日本に戻ることにしたのだそうです。」
「あくまでも私の推測ですが、スメル族の2グループが日本へ戻る道のりは、紆余曲折の連続だったのではないかと思います。なぜなら、シュメール人が突然消えたのは、紀元前2000年ごろとされています。そして彼らがようやく日本にたどり着いたのは、どうやら紀元前4、5世紀ごろなんですよね。その間、1500~1600年間もシュメール人(スメル族)はあちこちを放浪していたことになります。まあ、中にはもっと早くに日本に戻ってきた人たちもいたのかもしれませんが、それについてはよくわかりません。
 第73世武内宿禰さんの話に戻ります。スサノオのグループ(後の出雲族)は陸路日本へ向かい、北九州に上陸します。一方、スメラミコトたち(後の大和族)は、海路日本に向かい、九州の南にある高千穂に上陸(天下り=海下り)しました。そしてそれぞれのグループは、当時日本にいた「原日本人」たちをどんどん征服していくんですね。
 
やがて紀元前4世紀ごろ、この二つのスメル族のグループの間で戦いが勃発。一進一退の攻防が続きます。そのころの出雲族は日本海側を支配、大和族は瀬戸内海を海路東進し、近畿地方に入ります。一時は出雲族スサノオと大和族アマテラスの間で政略的な結婚をするなどして和睦がありますが、大国主の息子の事代主が王の時代に再び戦争となり、大和族が出雲族を制圧します。
 その結果、大和族の王であった神武(サノ彦)が事代主の娘を娶り、大和朝廷が確立します。紀元50年のころだと言います。このとき大和族の武内宿禰は、出雲族の物部から八雲叢雲十種神宝の行法を奪ったので、いまでも正統竹内家にこの行法が伝わっているそうです。
 敗れた出雲族は関東・東北地方に逃げ、のちに蝦夷(エゾ、エミシ)となります。最初から日本にいた人たち(縄文人、原日本人)は、サンカとなりました。」
興味のある方はお読みください。以下のブログ「天の王朝」でも読めます。
http://plaza.rakuten.co.jp/yfuse/14000/

 またスサノウはイザヤの子、マヘル・シャラル・ハシュバスでイスラエルの救世主ともいわれます。その名の意味は「急いで略奪し、速やかに捕獲する者」だと言います。イスラエルとの繋がりからスサノウの正体を語り、日本人のルーツ、建国の神として記されているものもあります。興味のある方は読んでみてください。
「日本とユダヤのハーモニー」http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=67

 今回の出雲巡りの旅をとおして、先人の出雲、古代日本への歴史見解を学ばせて頂きました。その一端を紹介させて頂きましたが私には確たるものと明確に出来ません。しかし我々は歴史、史実の中で教育され、神話化されている世界は、ある意味で時の為政者の思惑、改竄の結果であり、果たして真実はどこにあるのか未だ解き明かされていない実態を改めて知る事が出来ました。継続されている神事の意味も含めて起源はどこなのか、日本人の原点は何なのか。更なる探訪が続きそうです。今色々な事がアラハバカレていますので隠された世界がますます明らかになる事と思います。
 我々には弥生時代以前の縄文世界の文化、精神性があり、その上に培われてきた大和、やまと、タイワ、そして現代日本が存在しています。自の感応を磨き、因果を紐解き、真理を会得でき、これからの想造に活かして行け、宇宙人類自然に必要とされるような営みがこれから出来る事を願っています。

308「須佐、雲太11」2014,5,25

 古代出雲歴史博物館には沢山の国宝の銅剣、銅鐸、銅矛が展示されています。弥生時代に花開いていた出雲文化、権力、祭祀のあり様が如何であったか知る貴重なものです。神話シアターでスサノウ神話が上映されていたので見ましたが記紀に忠実な内容で面白味が薄い物でした。



 出雲空港に車を飛ばしてぎりぎり飛行機に間に合いました。慌ただしい盛り沢山な出雲巡りも無事に終える事が出来ました。今回の旅をきっかけに20冊程の本に目を通し新たな発見も頂けました。雲太は確認できました。しかし須佐、スサノウは未だはっきりしません。諸説があり時代も含めて良く分かりません。

 原田常治氏はスサノウは122年頃に島根県平田市平田町(現在は合併して出雲市)で生まれたと言います。原田氏の歴史の読みを関裕二氏が以下にまとめています。

「スサノオは、西暦122年ごろ、出雲国沼田郷で生まれた。スサノオが20歳ごろ、出雲第一の豪族・ヤマタノオロチを討ち倒し、35歳ごろには、出雲で頭角を現す。やがて出雲を統一したスサノオは、西暦173年ごろには九州遠征を決行し、これを平定、アマテラス (『魏志倭人伝』のヒミコ)と出会い、両者はここで同盟関係となる。
 いっぽう、スサノオの第五子・ニギハヤヒは、西暦150~151年ごろの生まれで、20歳をすぎたころスサノオとともに九州に遠征し、183年ごろ、スサノオの命で大和に向かった。ニギハヤヒは、それまで大和を支配していたナガスネヒコをたたかわずして臣下におさめ、その妹の三炊屋媛を娶る。さらにニギハヤヒは休む間もなく、瀬戸内沿岸を次々に攻略、出雲王朝の基礎を築いたのである。
 ところが、九州から大和に至る一大勢力となった出雲王朝も、スサノオの死後、あっけなく衰退していく。相続問題のこじれを、ヒミコの九州王 朝(天皇家)につけ込まれたのである。この結果、九州王朝は出雲からの独立に成功する。ちなみにこの事件が、“出雲の国譲り神話”もとになったという。
 さて、王朝の中心を大和に遷した出雲王朝では、やがてニギハヤヒも亡くなり、末子が幼少であったため(この当時は末子相続であったと原田氏は説く)長子のウマシマチが代理人として政務を司っていた。
 西暦230年ごろ、九州王朝は大和の出雲王朝に、あるひとつの提案をもち込んだ。両国を合併させようという大同団結を提唱したのである。幸い出雲王朝の相続人は、「伊須気依姫」という女子、かたや九州王朝の相続人は、ヒミコの孫で、末子の「伊波礼彦」(のちの神武天皇)、どちらも正統な相続人であった。
 ここに、両朝は合併に合意した。これが、『日本書紀』に記された神武東遷の真相であったと原田氏はいう。そして新王朝誕生と同時に、両朝は重大な取り決めを交わした。
 それは、代々の天皇は九州王朝の男子とし、その正妃は出雲王朝の女子から選ぶこと、そしてその正妃の親族が天皇を補佐し、政治の実験を握る、というものであった。
 このように、出雲・九州両朝の合併によって成立したのが大和朝廷であり、ニギハヤヒの末裔・物部氏が衰弱した七世紀、出雲王朝の実像は天皇家の手によって抹殺されてしまったと、原田氏は説くのである。」
 
 スサノオは、大和朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させてい日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言いいます。熊野の大神です。
また、小椋一葉著「消された覇王」ではその別名が
「午頭天王」(ごずてんのう)、
「大山祗神」(おおやまつみのかみ)、
「高龍(注)神」(たかおのかみ)、
「雷神」(いかずちのかみ)、
「大海津見神」(おおわたつみのかみ)、
「八大竜王」(はちだいりゅうおう)、
「八千矛神」(やちほこのかみ)、
「軻遇突智神」(かぐつちのかみ)
など、「山・海・火・水・雷」という、おおよそ、自然に関係する神は、すべてスサノオの別名で、まさに日本建国の始祖に相応しいばらしい神だ。と記述しています。

 原田常治氏は「古代日本正史」の中でスサノオは神話でいわれているようなアマテラスの弟のならずものなどではなく「理想の男性」と表現して以下のように述べています。
「この素佐之男という人は、調べれば調べるほど、素晴らしい魅力のある男性であることが分かってきた。まず、非常に勇猛で強かった。一生涯戦って敗れたという記録がない。非常に頭が良くて出雲、隠岐を百八十六カ村に分けてそれぞれに神(村長)をおき、自分が住んでいた須賀から離れている西出雲には支庁をおいて時々そちらに出張していた。そのあとを祀ったのが須佐神社。隠岐の島は水若酢尊(みずわかすのみこと) に支配させていた。隠岐の島は外交ルートの重要なところだったから有能な人だったらしい。水若酢神社として祀られている。スサノオがどこでも仁慈の名君と慕われたことは、出雲地方ばかりでなく、九州の占領地のほとんど全域、特に筑前、筑後、豊前、豊後地方で1800年たった今でも、八阪神社、祇園社、牛頭宮などの名で、或いは熊野神社の名でスサノオを氏神様として祀っている町村が多いことからもわかる。九州占領政治の期間は僅かであったのに、住民にこれだけ慕われているのを見ても、よほど優れた名君であったのだろう。また、家庭にあっては、8人の子が全部稲田姫の産んだ子で、皆優秀でその子孫がたいへん栄えたというので、弥栄神社という名で祀られ、それが8という数字に結びついていつの間にか夫婦と8人の子を祀った社を八阪神社という名になって現在全国到る所に祀られてもいる」

 そのスサノウを祀る神社は以下です。
 八坂神社(八阪神社)、弥栄神社、祇園神社、素盞嗚神社(素戔嗚神社)、感神社、彌劔神社(八剣神社)、広峯神社(広峰神社)須佐神社、八雲神社、須賀神社、津島神社、天王神社、氷川神社、熊野神社

 「私説日本統一国家の誕生」で片桐新自氏は「スサノオが日本の最初の大王」として以下のように述べています。http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~katagiri/JPstate.htm

「神話上はアマテラスの弟とされ、あまりの乱暴さ故に高天原を追放され、出雲に来たとされるスサノオだが、全国にある彼を祀る神社の多さなどを考えると、彼こそ古代日本に最初に大きな勢力を築きあげた大王であったと考えるのが妥当である。スサノオという名前も長姉のアマテラス(天照)や次姉のツクヨミ(月読)が、太陽神と月神のわかりやすい表示名であるのに対し、まったく違う名のつけ方であり、まったく別種の神と考えざるをえない。普通に考えれば、「荒(すさ)の王」と字を当てたくなる。
出雲は朝鮮半島から船出して、海流に乗ってたどり着きやすい地域であるので、スサノオは朝鮮半島から渡ってきた勢力のリーダーあるいはその子孫と考えられる。その後の任那(伽耶国)への大和朝廷の固執ぶりを考えると、伽耶から渡ってきた勢力である可能性が高い。出雲を出発点として、越前、伯耆、因幡、但馬、丹波(丹後を含む)、若狭、近江、山城、瀬戸内の吉備、播磨、摂津、河内、大和、紀伊、尾張、美濃などにまで勢力を拡大したと考えられる。
 スサノオの逸話でもっとも有名なヤマタノオロチは、「越」(越前?朝鮮半島からたどりつきやすい地域のひとつ)から毎年やってきて娘たちを奪っていったという話であるから、これは当時出雲が越前に対して劣位の立場にあったのを、スサノオの力で逆転したと読むことができる。
 紀伊の熊野大社も源流は出雲の熊野大社と言われているし、京都の八坂神社を筆頭に各地に存在する祇園神社はすべてスサノオを祀っている神社である。(備後のえのくまで蘇民将来と出会った逸話があり、スサノオに礼を尽くした蘇民将来一家を助けるために、茅の輪を贈り疫病から逃れさせたことから、全国各地の祇園神社では夏に「茅の輪くぐり」という行事を行うようになっている。)
 出雲勢力との関係が深いと考えられる物部の地名が北部九州周辺に多くあることから、出雲勢力が北部九州に進出した後、畿内に移動し、一大勢力になったという見方を取る論者もいるが、元伊勢神社の位置などから考えると、出雲勢力は出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後、丹波、摂津、河内、大和というルートと、出雲、吉備、播磨、摂津、河内、大和というルート(ともに陸上ルート)のいずれかあるいは両方を辿って、畿内に入ったのではないだろうか。(この出雲勢力は大和には入らず、河内に拠点を据えていた可能性もある。)
筑紫は朝鮮半島に近く高度な文化の取り入れ口になっていたため、進出あるいは協力関係構築の必要性があっただろうが、出雲神話の逸話には、海上ルートを利用するようなエピソードはなく、スサノオを中心とする出雲勢力は、西は出雲・備後から、東は尾張・美濃・越前あたりまでを影響力下に置いていたのではないかと推測する。

 先にも述べた大神神社は、日本一古いと言われているが、ここに祀られているのが出雲系の神である大物主大神である。箸墓古墳や崇神天皇陵などがある三輪地域にあり、初期大和朝廷発祥の地でもあるが、そこに出雲系の神が最初の神として祀られているのは興味深い。
 大和の地は、瀬戸内海を東に東にと進んでくるとたどりつく地であるため、九州からは幾度も東遷してきた勢力があったと考えられる。『古事記』では、イワレビコ(神武?崇神?)が日向から東遷してきたことになっているわけだが、そこにはすでにニギハヤヒという王がおり、その王に仕えるナガスネヒコが激しく抵抗したため東からは入れずに、南の熊野から北へ上がる形で入っていく。しかし、ナガスネヒコは戦いで打ち破られたのではなく、ニギハヤヒとイワレビコが同じ神から遣わされたものだと知り、困惑しているうちに、ニギハヤヒによって殺害され、ニギハヤヒはイワレビコに国を譲るという形で戦いは終息を迎える。同じ神から遣わされたものとわざわざ記されているのは、出雲勢力も日向勢力ももともとは朝鮮半島南部にあった伽耶国(任那)から渡ってきた同族であることが暗に語られているのではないかと考えられる。(ちなみに、4世紀後半にやってきて応神朝を作り上げる勢力は、百済系勢力であり出自をやや異にすると推測している。)
ニギハヤヒを祖神とする物部氏の由来を示した『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒは娘をイワレビコに嫁がせている。『古事記』では、神武東征の前にオオクニヌシ(スサノオの子孫で出雲勢力のシンボル的存在)の国譲りの話があり、これとの類似性が気になるところである。ニギハヤヒをオオクニヌシ(大国主)という名で登場させ、日向勢力が大和に定着する以前の国の主だったことを示しているという解釈は十分可能な気がする。
 神武と崇神は和名が同じで同一人物ではないかという説も根強いし、そうでなくとも大和入りの経緯はどちらかのものであろう。いずれにしろ、九州から入ってきた勢力がすでに大和に勢力を持っていたニギハヤヒとナガスネヒコの勢力と戦わざるをえなかったことは確かである。私はかつて闕史8代(2代~9代)を架空の存在と見る立場に賛同していたが、崇神が神武の事跡(神武東征)をなした王であると考えるなら、それ以前に強大な勢力が大和にあったことは確かなので、その勢力の存在を神武以下の9代として描いていると考えることもできるだろう。そして、この勢力が出雲系である可能性は大きいのである。
 ニギハヤヒの正体は明確ではないのだが、『日本書紀』や古代神社の伝承などを総合的に考えると、出雲系の王であったことはほぼ間違いないだろう。このニギハヤヒの子孫が物部氏であるということは、実は物部氏自身が最初に畿内強力な勢力を確立した王であったと考えることもできるのである。」

2014年5月23日金曜日

307「須佐、雲太10」2014,5,22

  祟る出雲神。果たして日本の源流と言われる古代出雲は如何だったのか。出雲大社の東隣にある島根県立古代出雲歴史博物館を訪れました。こちらも沢山の見学者で溢れていました。http://www.izm.ed.jp/
 中央ロビーには2000年に出雲大社境内から出土した本殿の巨大柱の宇豆柱(うずばしら)の本物が展示されています。

直径3mの巨大なものです。雲太と言われて当時の日本一の巨大建造物を裏付ける貴重な出土品です。展示物は巨大な出雲大社の推定模型が何種も展示されています。現在の出雲大社高さ24メートルですがど、その前 48メートル、更に 最初に建てられた時には 96メートルも あったと 言われています。
山陰中央新報2000.10.8)に以下の記載があります。
平安後期から鎌倉(十一-十三世紀)にかけての本殿の柱が見つかった、島根県大社町杵築東の出雲大社境内遺跡で、九本柱の中央に位置する心の御柱(しんのみはしら)と、南東にある側柱(がわばしら)の根元部分(柱根)が出土した。今年四月に出土した宇豆柱(うずばしら)と同様、三本の巨木の丸太を束ねていた。柱の間隔から本殿の遺構は、類例の少ない横長の長方形と判明。束ねた丸太の配置では、設計図とされる「金輪(かなわ)造営図」と食い違いが見られた。本殿の形状や建築様式をめぐり、新たな議論に発展しそうだ。同町教委が七日発表した。

 心の御柱と側柱は、宇豆柱と同じ平安期の地層から出土。だ円形の杉材が三本束ねられ、これまでの計測では、心の御柱に使われていた丸太一本の最大径は上層部で一・二メートル、側柱は〇・八五メートル。地中部分を想定すると心の御柱は最大三・二メートル前後で、宇豆柱(三メートル)、側柱より大きい。

何故三柱なのかについては巨大な建造物を支える以外に以下のように言われています。心御柱の三柱とは、神様を呼ぶときに柱と言いますがここでは大国主神、スサノウ命、クシ稲田姫の三神を言い、更に造化三神であるとも。
そもそも何故に巨大な神殿を出雲に作ったのか。神話の世界では大国主神が国譲りの時に出した条件があります。古事記によるとそれは以下です。

大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言った。

しかし果たしてすんなりと国譲りが成されたのかは疑問です。倉橋日出夫氏は「古代出雲と大和朝廷の謎」で以下のように述べています。

出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。

 高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ))が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。

オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。

 そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。
 いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけです。

 ところが、『日本書紀』の第二の一書は、国譲りに関して独特の話を載せています。
 オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけます。すると、高天原の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、オオナムチのことばをもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示すのです。
 その一番の条件は、オオナムチは以後冥界を治めるというものです。さらに、オオナムチの宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えます。オオナムチはその条件に満足し、根の国に下ってしまうのです

こうした出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。

 これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。
 ところが、『出雲国風土記』はまったく別のニュアンスを伝えています。
 国譲りにさいして、オオクニヌシ(『出雲国風土記』では大穴持命(おおなもちのみこと))は、次のようにいうのです。
「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」
 つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。

 このように『出雲国風土記』では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。
 これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。


出雲の古代文化圏とは以下です。
オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。

 葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。
 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。
 出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。
 オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。
 また、『日本書紀』の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

 『出雲国風土記』には有名な国引きの説話があります。出雲は細い布のように狭い土地なので、新羅、高志の国(北陸)、隠岐など四つの地方のあまった土地を引いてきたというのです。大山と三瓶山を杭にして縄で引っぱったという。これはおそらく山陰から北陸にいたる地域、そして、朝鮮半島の新羅にもつながる出雲族の活動範囲を示していると考えられます。また、天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子のひとりは、長野の諏訪まで逃げている。これは出雲族がすでに東日本にも深く及んでいたことを示しています。

一方、出雲系の神社の分布についてみると、『延喜式』(927年)の神名帖に記されたものだけでも、出雲の名を冠する神社は丹波、山城、大和、信濃、武蔵、周防、伊予に及んでいます。大国主命を祀る神社も、能登、大和、播磨、筑前、大隅にあるということです(「出雲神社祭の成立」『古代出雲文化展』図録)。

 これはもちろん、中世に多くの神社が勧請を行い全国展開をみせる前のことで、このように広い分布はまったく異例だということです。つまり、出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいる。大和に多いのも大変重要です。
 こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシ、すなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになります。
 これを古代の日本列島の状況に照らして考えてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる最初の動きだったのではないか、ということができます。それが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていったようなイメージが見えてくる。おそらく、縄文文化ともつながる呪術を基盤にした共通の宗教文化圏のようなものが列島には出来あがっていったのではないでしょうか。いわば、出雲文化圏とでもいうべきものです。


当時の日本の状況、国譲りの事も、少しすっきりと全体をイメージできる様に思います。古代出雲王国とは現在の出雲地方だけでなく東北地方を除くほぼ全国を網羅する世界でした。その創始者がスサノウであり大国主神がそれを引き継いで国造りをしたのでしょう。
しかしその影響は東北にも及んでいたように思います。それは出雲地方の言葉と青森県津軽地方の言葉はとても似ています。そこには何らかの交流があったと思われます。
松本清張の推理小説「砂の器」でその方言がキーになりました。加藤剛主演の映画もとても印象深いものでした。ズーズー弁でカメダの言葉が鍵で津軽弁と同じような方言がある島根の亀嵩(かめだ)が浮かびます。ここで亀が出てきましたが日御碕沖の海底遺跡の亀石が気になります。

2014年5月21日水曜日

306「須佐、雲太9」2014,5,19

 日御碕灯台から出雲大社に向かいます。いよいよクライマックスに近づいてきました。海岸沿いの道を日本海を右に見ながら西に向かいます。
 先に訪れた日御碕神社の西方100mにある経島(ふみしま)はウミネコの繁殖地で、かつて日御碕神社の下の宮が祀られていて現在も神職以外上陸できない島です。そこで古から夕日の神事が成されていたと言われます。日出でる伊勢神社と日沈む日御碕神社は対と言われます。
 10数年前に日御碕の先の海底のボンクイと言われるエリアの岩礁に人工的な階段等が見つかり、更に岬よりの海底のサドカセのエリアで亀石や滝様に水路等も発見され、祭祀場の様で古代の海底遺跡と注目されています。
 経島の鳥居のある先のタイワと言われるエリアの海底にも、参道の様な階段と玉砂利が敷き詰められた洞窟が発見されていて、石組が沖縄の斎場御嶽に似ていて、一帯がかつての神殿であったのではないかと言われていいます。紀元880年の出雲大地震で水没してしまいそれ以降、夕日の神事が経島で行われたのではないかと言われています。しかし未だはっきりしたことは分かっていません。
 以下はその映像です。
「神々の海日御碕」海底遺跡   http://www.youtube.com/watch?v=qET62Ij33jA
 神々の海 日御碕に眠る「海底遺跡」  http://www.youtube.com/watch?v=16hD1c5Hy34
「日御碕に海底遺跡か」 http://www.san-in-tabi.net/travel/44.html

 出雲大社については以下の紹介があります。
「杵築(きずき)大社ともいう。祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)『記紀』に載っているのは、国譲りの代償として、高天原(たかまがはら)では大国主命に対し、底つ石根に太い宮柱を深く立てた壮大な宮殿を造り与えたが、これが出雲大社の始まりという。国譲りの神話だが、たとえ史実の反映であったとしても、具体的年代は分からない。従って、出雲大社の建物がいつごろ創設されたか明らかでない。しかし、『出雲国風土記』には杵築大社が載っており、大国主命のために、大勢の神々が集まって宮を杵築(きず)いたという地名伝承を記している。したがって、少なくとも8世紀初期には、この社は大社(おおやしろ)と呼ばれ、大きな社殿が建てられていたと思われる。平安時代中ごろの『口遊(くちずさみ)』に、「雲太、和二、京三」という大建造物の歌謡をあげている。すなわち、出雲大社がもっとも大きく、次いで大仏殿、大極殿の順だというのである。出雲大社本殿の高さは、太古は32丈(96.96m)、中古は16丈、近古は8丈という伝えがあるが、平安時代の大仏殿が15丈といわれるから、雲太といわれたころの出雲大社は16丈(48.48m)の壮大な建物であったろう。これが8丈に縮小されたのは、鎌倉時代宝治2年(1248)の造営からであるといわれる。現在の本殿(国宝)は延享元年(1744)造営されたものである。」



 出雲大社は流石に縁結びの神様と国民的な人気で、大勢の参拝客で賑わっていました。昨年の60年の平成の大遷宮が行われて本殿も新しくなりありがたいことです。駐車場から拝殿、更に左手に回って正面から本殿大国主神が向いている西方の正面で参拝しました。



出雲大社は多くの神社と異なり二拝四拍手一拝の作法で拝礼するのです。
 真後ろのスサノウを祀る素鵞社は未だ遷宮の影響で東側に仮殿になっていました。こちらは参拝者は少なくあまり知られていないのでしょうか。
 しかし出雲大社の名で呼ばれるようになったのはごく最近のことです。

「古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。」
「明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。」
 国造家は天皇家と血縁を持つ家柄です。古代の役職名ですが他では廃止されているのに何故か出雲だけがその名を未だ使用しています。記紀、出雲国風土記にも登場する由緒ある家柄です。
 出雲国風土記は以下のものです。
「編纂が命じられたのは和銅6年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年)2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれている(異説あり)。「国引き神話」を始めとして出雲に伝わる神話などが記載され、記紀神話とは異なる伝承が残されている。現存する風土記の中で一番完本に近い。」
「713年(和銅6年)に太政官が発した風土記編纂の官命により、出雲国国司は出雲国庁に出雲国造の出雲臣果安(いずもおみはたやす)を招き、出雲国風土記の編纂を委嘱した。733年(天平5年)になって、出雲国造の出雲臣広島の監修のもと、秋鹿郡(あいかのこおり)の人、神宅臣金太理(かんやけのおみかなたり)の手によって出雲国風土記は編纂された。
「風土記(ふどき)とは、奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があった。中国の事例に倣い、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。」
 
 出雲国風土記は記紀の編纂とほぼ同時期に編纂されそれをまとめたのが出雲国造家です。更に出雲国造家は「出雲国造神賀詞」を天皇に奏上することが義務づけられています。
「出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。
『延喜式』にその文章が記述され、『貞観儀式』に儀式の内容が記されているが、前者の文章は8世紀中期以後の内容であると推定されている。内容は天穂日命以来の祖先神の活躍と歴代国造の天皇への忠誠の歴史とともに、天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられている。」  http://www.ookuninushiden.com/newpage22.html

 出雲国造家は何時頃からこの出雲国造神賀詞を奏上するようになったのかはっきりしていません。天武・持統朝の頃、8世紀と思われます。その内容は出雲の国譲りを述べ、出雲が天皇家に恭順することを誓うもので屈辱的なものです。続日本書紀では奏上した時に元正天皇ではなくその代理人に向かって奏上したと記されていますので更に屈辱的な扱いを受けています。
 出雲国造神賀詞の奏上を義務づけられ、更にそのころには、意宇の熊野大社を最重要視していたのに、意宇の地から杵築に移されて杵築大社の祭祀をするようになっています。この後に出雲国造の出雲臣広嶋の位階が約二年で七階上昇していて、異常な昇級をしています。朝廷に懐柔され何らかの代償として与えられたものの様です。そしてその後に編纂されたのが出雲国風土記です。ですからその内容はかなり政治的な意図が反映されていて純粋な地元の神話とは言えないと指摘されています。
 これらの一連のことは出雲国造の意図ではなく朝廷から強制されたことであり、8世紀に朝廷に「荒御魂としての出雲神」を鎮める必要があったと思われます。

 当時の朝廷は祟る出雲におびえていたと言われます。祟る出雲神を封印する為に、出雲の神々は出雲国造家と共に、出雲の地に流竄(るざん)され杵築(出雲)大社に封印されたのでしょうか。朝廷では藤原鎌足と藤原不比等の権力独占で政敵が追い落とされ数々の粛清がなされその祟りがあったのでしょう。その政敵の多くは出雲と深い縁で繋がっていた。そこで巨大な祟り神を鎮めるために巨大なものが必要になった。それが巨大神殿、杵築大社建造で、平安時代の口遊で「雲太、和二、京三」という言葉があるほどに日本一の建造物を作り、出雲国造家にしっかりと祀らせたのが真相のように思えます。

2014年5月15日木曜日

305「須佐、雲太8」2014,5,14

 日御碕神社は朱色の社殿が道路の橋から遠方に見下せます。

出雲大社の祖神様と崇敬されていますが、その縁起は以下です。
「下の本社(日沈の宮・日沉の宮、ひしずみのみや)は天暦2年(948年)、村上天皇勅命により祀り、上の本社(神の宮)は安寧天皇13年(紀元前536年)、勅命により祀られ、総称して日御碕大神宮とされた。「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社、である事による。
 御祭神は下の本社/日沈の宮は 天照大御神。上の本社/神の宮 は神素盞嗚尊」
「昔、日沈の宮はアメノフキネノミコトが経島にいた時、アマテラスオオミカミが降臨し、「吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん。汝速かに吾を祀れ」との勅命を受け経島と言う島に鎮座しました。
 スサノヲノミコトが熊成の峰に上り、「私の神魂はこの柏葉が止まった所に住もう」と、柏葉をなげると風に舞い今の日御碕神社の背後の「隠ヶ丘」に止まったため神魂の鎮まるところとして日御碕神社の神の宮に祀られました。」



 この神社はそもそもは上の本社/神の宮は出雲風土記にいう「美佐伎の社(みさき)」で神素盞嗚尊が祀られていました。そこに1500年も後に出雲風土記にいう「百枝槐の社(ももえだみたま)」、延喜式神名帳では「御碕神社」が下の本社/日沈の宮として天照大御神が祀られていて、近世では「日御崎大神宮」、明治以降は「日御碕神社」と言われています。出雲大社よりも前に祀られているようです。
 さらに以下の記載があります。
「出雲風土記(733)に美佐伎社・百枝槐社の名があることから、8世紀初頭、当地に二つの神社(規模不明)があったのは確かといえるが、その始まりが何時まで遡れるかは不明。
 また
・アマテラスあるいはスサノヲという神統譜の中心に位置する神を祀るにしては、社格順に並べたとする風土記の神社において、美佐伎社が出雲郡所属の神社122社中の12番目、百枝槐社は最後であり、重視されていた痕跡はないこと
・出雲風土記・出雲郡の条に、アマテラス・スサノヲにかかわる伝承が見えないこと(スサノヲと出雲との関係は深く、関連伝承は出雲国のほぼ全域に見えるが出雲郡・楯縫郡には見えない。また、出雲国風土記にアマテラス関連の伝承は見えない)
から、風土記編纂当時の祭神は異なっていた可能性が強く、
・美佐伎社--隠れヶ丘に坐す山の神といった素朴な自然神を祀る小祠(古代の当地一帯が所謂・御碕海人の根拠地であったことから、これら海人達が信仰したミサキ神ではなかったかともいう)
・百枝槐社--日本海に沈む夕陽を崇拝する古代の人々が、経島に日神を祀った小祠(当社および出雲大社からみて、夏至日の夕陽は経島の方角に沈むという)
というのが当初の姿ではないかと思われる。
 両社の創建にかかわるとされるアメノフキネ命とは、
 ・古事記--スサノヲ5世の孫・天之冬衣神(アメノフユキヌ)、オオクニヌシ(オオナムチ)の父神
 ・日本書紀・8段一書4--ヤマタノオロチの尾から出た剣(草薙の剣)を、スサノヲが「これは私のものにすることはできない」として、五代の孫・アメノフキネを遣わして、天に奉られたとあるが、他にこれといった事蹟は知られていない。神話上での話とはいえ世代的に平仄があわず、記紀編纂時の創作であろう。
 なお、アメノフキネは当社の宮司・小野家の遠祖という(但し、傍証となる資料等はみえない)。」

柏葉が止まったと言われる隠ヶ丘が神社近くにありますが以下の記載があります。 http://blogs.yahoo.co.jp/fudasyosanpai/31759555.html

「神蹟 隠ケ丘
 神代の昔、素盞嗚尊、高天原より出雲に降り斐の川上に八岐の大蛇を退治し国津神の娘櫛稲田姫を后とし給う。これ天津神と国津神の婚姻の始めなり。
かくて尊は出雲の国造りを始められ国土経営の御神功を終えられるや、その後を大国主命に譲られ根の国にわたり熊成の峯に登り給い柏葉を取り
「 吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まわむ。」
とお投げになったところ、葉は風のまにまに遂に美佐伎なる隠ケ丘に止まる。
ここに於いて御子天葺根命 ( 天冬衣命とも申す ) ここを尊の御神魂の鎮ります処として
斎き祀り給うという。
後、安寧天皇十三年、命の五世孫、御沼彦尊 ( みぬまひこのみこと ) 勅を奉じ今の宮地に神殿を建て遷し祀らえる。 これが延喜式にみる美佐伎社なり。
後、天暦二年、村上天皇の勅により上下両本宮を併せて日御碕大神宮と称へられることとなり、永くこの称号は続きしも明治より後は日御碕神社と改められる。
尚、以前にはこの付近から海馬の化石が出現し、これらを神紋石と申せり。また日御碕神社の御紋章 「 三ツ柏葉 」 はこれに由来するものなり」

 現在は「日御碕神社は素盞嗚尊の神魂の鎮まります霊地として、根の国の根源として中央より厚く遇せられ、神の宮は素盞鳴尊をお祀りする日本の総本社」として崇敬されています。ですから元々, 素盞嗚尊をお祀りしていたところに天照大神を強引に祀りあげたような印象があります。
 社殿は、徳川三代将軍家光公の命により再建された権現造りの建物ですが、素盞嗚尊を祀る、上の本社/神の宮の本殿の千木が内削ぎで水平ですから本来は女神の社です。片や天照大御神を祀る、下の本社/日沈の宮は千木が外削ぎで垂直で、鰹木が三本で奇数ですから男神のはずです。しかしここでは男女神は反対です。これはどういう意味があるのでしょうか。



 関裕二氏によると以下の記載があります。
「日御碕神社の神官を務める小野氏は別名を検校家(けんぎょうけ)といいます。検校とは神宝の支配権をはく奪することです。かつて第十代崇神天皇の時代に出雲の神宝をヤマト朝廷が検校しています。だとすると日御碕神社は出雲大社を封じ込めるために建てられたのだろうか。事実、二つの神社は昔から仲が悪いという。」
 日御碕神社だけでなく石見国一宮物部神社も出雲大社と仲が悪いといいます。果たして如何なのでしょうか。
 
 大和朝廷がその権威をもって、地方の豪族や由緒ある神社などの宝物を調べただすことを、「神宝検校(ケンギョウ)」といいます。出雲大社の検校について調べてみると以下の様です。

「出雲の神宝が古くから注目されていたことは、たとえば、『日本書紀』の崇神天皇六十年七月の条や垂仁天皇二十六年八月の条の、出雲の神宝の貢上あるいは出雲の神宝の検校などの伝承にもうかがうことができます。
 さて、『日本書紀』に出てくる話とは、日本書紀崇神天皇六十年の条に、「崇神天皇は天穂日命(アメノホヒ)の子武夷鳥(タケヒナトリ)が天から持ってきたと伝えられ、出雲大神の宮に納められている出雲の国の神宝の提出を、武諸隅(タケモロスミ)を遣わして出雲に要求します。
 神宝を司っていた出雲振根(イズモフルネ)が筑紫へ出かけて留守の間に、弟の飯入根(イイイリネ)は、神宝を我が子鵜濡渟(ウカツクヌ)と弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)に持たせて朝廷に貢上してしまいます。
 筑紫から帰ってこのことを知った出雲振根は怒って弟飯入根を止屋(ヤムヤ)の渕でだまし打ちで殺してしまいます。飯入根の子と弟がこのことを詳さに朝廷に奏上すると、朝廷は軍を派遣して出雲振根を誅殺した」という話です。
 次に、垂仁二十六年秋八月の条には、物部十千根(トチネ)大連が、出雲の神宝を検校した話が出てきます。十千根大連は、古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、大和朝廷の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている石上神宮(いそのかみじんぐう)で、神宝も管理することになったといわれています。 
 大和朝廷は二度も出雲の神宝を検校したことになります。この二つの関係を、「崇神六十年の時に既に神宝は出雲から朝廷に提出されているはずなのに、垂仁二十六年に物部十千根を神宝の検校のために出雲へ行かせるのは矛盾点がある。」とすべきか、そうではなく、「まだ他の神宝も持っていた。」とするか見解が分かれます。」

「古事記にも,倭健命(やまとたけるのみこと)が出雲建(いずもたける)を討伐したとあるが,倭健命は人々の尊敬が厚く,この人物の行動の跡には必ずと言っていいほど神社があり具体的な行動を伝えている。しかし,出雲にこのような神社は存在しない。これは,この物語が,何か別の事件をここに移したものであることを意味している。古事記の記事は日本書紀の出雲神宝検校事件と殺害方法がよく似ていることから,この二つの事件は同じことを意味していると考えられる。古事記の方が古いのであるから,どちらも実際の事件を時代を変えて移したものと考えられる。
 ここに記録されている出雲大神の神宝とはいったい何であろうか。出雲大神とはスサノオ以外に考えられない。出雲風土記の神庭郷の条に「出雲大神の神宝を積み重ねておいたところ」と記録されている。神宝は,スサノオに関係した何かと考えられる。スサノオの祭器といえば,国家統一時にシンボルとした銅剣・銅矛である。これと,神庭郷のすぐ近くの荒神谷から,358本の銅剣と,16本の銅矛と,6個の銅鐸が,出土していることとの関連が考えられる。出雲大神の神宝とは,この銅剣・銅矛ではあるまいか。」

 国譲りと言いながら、大国主を葬り、神宝をだせと検校が成されているようですが、神話ではヤマトタケルの命のイズモタケルをだまし討ちがあまりにも相似しているようです。記紀作成時期にあの手この手で事実が歪められて伝えられてきているようです。
実は「大国主命」が架空の人物であり、平安から江戸時代にかけて、出雲大社の祭神がスサノオノミコトであったことも指摘されています。更には聖徳太子も架空の存在だったとも・・・。

 日御碕神社参拝後は日御碕灯台に行きましたが沢山の観光客で賑わっていました。高さ43.65m、石積みの灯台としては東洋一の高さ灯台に登る事が出来ますが遠く海の彼方に隠岐の島がみえますが、韓国がまじかに感じられる地です。夕陽の景色は格別なようです。海岸の遊歩道を散策して心地良い潮風を浴びてきました。


2014年5月9日金曜日

304「須佐、雲太7」2014,5,8

 物部神社のある石見の国は石見銀山が有名です。
「島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めていたという。」 
 豊かな資源の地であれば権力者の争奪が世の常です。江戸時代になり幕府がこの地を摂取して大久保長安が派遣され銀山奉行として開発が進み増産されます。しかし次第に採堀量が減って行き、やがて幕末に長州藩が支配し明治に至ります。最期は自然災害で昭和18年閉山になります。
 銀山にある歴史的な建造物や遺構は市・県・国などによって文化財に指定・選定され保護され1969年(昭和44年)には国から「石見銀山遺跡」として史跡に指定されています。そして2007年に世界遺産に登録されています。http://ja.wikipedia.org/wiki

 物部神社から石見銀山に向かいました。世界遺産センターには観光バスが沢山入り込んでいて大賑わいです。今では出雲大社に次ぐ観光客が訪れる名所になっているそうです。
 私が学生時代に毎年来て長逗留していたユースホステルからバスで30分ほどの処でしたので何度も徘徊したところです。昔は大森銀山と言って、閑散なのんびりした町で、大久保間歩などに懐中電灯持参で入り異次元のスリルを楽しんでいました。
 今は見違えるように街並みがきれいに整備されています。雨の中多くの方々が散策していました。私は代官所前の蕎麦屋で暫し若かりし青春の時を思い出しながら食事をしてきました。時間があればYHに寄ってと思いましたが道を間違えて山道に入ってしまい大田市に抜けてしましました。どうやら今回はスルーでオッケーだったようです。

 出雲巡りも後半です。次の目的地は日御碕神社です。出雲大社前を通って稲佐の浜を眺めて島根半島西端の日御碕灯台を目指します。
 稲佐の浜は国譲りで有名な場所です。稲佐の浜http://www.izumo-shinwa.com/
 国譲りの内容は以下です。

「昔々、出雲の国は大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)という神様が治めていました。
しかし高天原(天上の神々の国)を治めていた天照大神(アマテラスオオミカミ)はその様子をご覧になり、「葦原中国(あしはらのなかつくに)は我が子が統治すべき」とお思いになりました。
 そこでアマテラスは「先に行って地上の神たちを服従させなさい」とおっしゃってアメノホヒを遣わし下しましたが、アメノホヒはオオクニヌシを尊敬し家来になってしまい、そのまま帰ってくることはありませんでした。
 アマテラスは新たにアメノワカヒコを遣わしましたが、この神はオオクニヌシの娘に心を奪われ、御殿を建てて住みついてしまいました。アマテラスは様子を見てくるようにと鳴女(なきめ)と呼ばれるキジを送りましたが、キジはアメノワカヒコに射殺されてしまいました。
 使者が誰も帰ってこないので、アマテラスは力自慢のタケミカヅチと足の速いアメノトリフネ(日本書紀ではフツヌシ)の二神を差し向け、武力で解決しようと考えました。
 二人の神は出雲の国の伊耶佐(いざさ)の小浜(現在の稲佐の浜)に降り立つと、剣を抜き逆さまにして柄を下にして突き立て、その剣の切っ先の上にあぐらを組んで座りましたそしてオオクニヌシに「私たちはアマテラス様の命令できた。 葦原中国は我が子が統治すべきだとアマテラス様はおっしゃっているが、お前はどう思うか?」と強い口調で言いました。
 オオクニヌシは「私の一存ではお答えできません。息子のコトシロヌシがお答えいたしましょう。ですがあいにく美保の岬に鳥や魚を取りに遊びに行っております。」と答えました。
 タケミカヅチはアメノトリフネを迎えに行かせ、国譲りについて尋ねたところ、コトシロヌシは「おっしゃるように、アマテラスのお子様に差し上げましょう」と答えました。
 するとそこへオオクニヌシのもう一人の息子で力持ちのタケミナカタが大きな岩を抱えて戻ってきました。 タケミナカタは「この国が欲しいのなら力比べだ」と言って大岩を投げ捨て、タケミカヅチの腕をぐいとつかみました。

 するとタケミカヅチの腕が氷の柱や鋭い剣に変わりました。 タケミナカタが驚きひるんでいると、今度はタケミカヅチがタケミナカタの腕をつかみ、葦の若茎のように軽くひねって投げ飛ばしてしまいました。 タケミナカタは恐ろしくなり、逃げ出しました。
 タケミカヅチは逃げるタケミナカタを追いかけ、とうとう信濃の国(現在の長野県)の諏訪湖辺りまで追いつめて組み伏せてしまいました。
 タケミナカタは「私は諏訪の地から外には出ません。葦原中国は全部お譲りしますから助けてください」と命乞いをしました。
 タケミカヅチが出雲に帰り、オオクニヌシにそのことを伝えると、オオクニヌシは「仰せのとおりこの国をお譲りします。そのかわり、高天原の大御神様の御殿のような神殿を建てていただきたい。」と答えました。 タケミカヅチは願いを聞き、オオクニヌシのために大きな神殿を建てました。」

 果たして出雲の国譲りについては古事紀、日本書紀で表記に違いがあります。さらに出雲風土記の内容にも違いがあります。神話の内容についていろいろの見解がありますが、真実のところはどうだったのでしょうか。
 須佐、雲太5に紹介した原田常治著「古代日本正史」や須佐、雲太6の神武東征の理解の方が私にはしっくりきます。さらに倉橋日出夫氏の「古代出雲と大和朝廷の謎」も参考になります。
「出雲の国譲りとは」http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai11.html

 稲佐の浜は旧暦10月の出雲大社の神在月神事でも重要な地として有名です。全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まる月で、他の土地では神様が留守になるので神無月といいますが、ここ出雲では神在月と呼びます。その神事は以下です。

「全国からの神々がこの海から浜に上がってくるとされます。この浜から、出雲大社まで一言も口をきかずに、出雲大社まで神々をお連れします。
 その時、灯りは神々を先導するちょうちんの灯りのみ。出雲大社へ向かう道を「神迎えの道」と言いますが、この道に面した家々は、表には出ず、音も立てずに息を潜めていることが子供からの慣わしです。
 現代にも息づく神々への敬意と畏れがあります。稲佐浜が出雲の人々に特別な場所であるのは、国譲りでオオクニヌシノカミと高天原の使者建御雷神(タケミカヅチ)が話し合った場所だと言うこともひとつの原因かもしれません。
 オオクニヌシノカミは、国譲りの際に「それではこの国は献上いたしましょう。ただ私の隠遁(いんとん)する住み家をご用意ください。そこは天の住居のように高くそびえ立ち、太い柱の ある家にしてほしいのです」と答えました。
 天にも届きそうな高い建物であったことは、出土した宇豆柱からもわかるように、オオクニヌシノカミの大きさを物語っています。
 神迎祭(かみむかえさい)は神在祭の前夜、旧暦の10月10日夜19時に稲佐浜(いなさのはま)から始まります。毎年、全国各地の神々がこの出雲の地に集まって、国の運営について会議をする為で、全国の神々は竜神(海蛇)の先導で海を渡り、この稲佐浜に到着されます。それをお迎えするのが神迎祭となるわけです。稲佐浜で「神迎神事」が終了後、出雲大社までの約、3Kmの道のりを、神々が乗り移った「ひもろぎ」を絹垣(きぬがき)で覆い、それを神職が左右からガードするような隊列を組んで出雲大社にお連れします。 大社に着かれると、神楽殿において再度、神迎祭が執り行われ、これが終わると神々は東西の十九社に鎮まられます。 順序としては(1,稲佐浜-2,神楽殿-3,東西十九社)
 神在祭(かみありさい)旧暦の10月11日から17日まで、全国の神々が出雲大社に集い、神議りをされるので、他の地方ではこの月を神無月といい、出雲地方では、神在月と呼びます。神在祭は稲佐浜で神迎祭が行われた翌日から始まり、旧暦:10月11~17日までの7日間行われます。その間に神事(幽業、かみごと)、人生諸般の事どもを神議り(かむはかり)にかけて決められるといわれています。神々の会議処は上宮(かみのみや、大社の西方800m)にあり、そこで神在祭を執り行います。
 神等去出祭(からさでさい)出雲地方では大社の神在祭が終わると、引き続いて佐太神社で旧暦:10月17から神在祭が始まります。そして最終日の26日には万九千社で一連の行事を締めくくり、神々たちはそれぞれの国に御帰りになります。神等去出祭は旧暦10月17日と26日に執り行いますが、17日は大社からお立ちになる日、26日は出雲の国を去られる日になります。」
「神在月」 http://www.izumo-kankou.gr.jp/1275

 神々はなぜ出雲に集まるかについて以下の記載があります。
「大国主大神が天照大神に「国譲り」をなさったとき、「私の治めていますこの現世(うつしよ)の政事(まつりごと)は、皇孫(すめみま)あなたがお治めください。これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と申された記録があります。この「幽れたる神事」とは、目には見えない縁を結ぶことであり、それを治めるということはその「幽れたる神事」について全国から神々をお迎えして会議をなさるのだという信仰がうまれたと考えられます。」
 しかし神在祭の起源は不明で、中世以降から行われたようです。先の佐太神社で触れたように原田氏の見解がありますが如何なる意図で国譲りの出雲神話と絡めて出雲大社で催行されたのか疑念が残ります。

 更に八月十四日の深夜に執り行われる神幸祭、別名「身逃げの神事」と呼ばれるものが稲佐の浜、出雲大社で行われますが、これも不思議な内容です。以下紹介します。

「八月十一日(旧暦七月四日)の夕方からはじまる。出雲大社のすぐ近く、稲佐の浜で禰宜(ねぎ)が海水で身を清め、潔斎所に籠る。十三日の晩には、出雲大社の摂社で櫛八玉神を祀る湊社(みなとのやしろ)に参拝し、さらに稲佐の浜の塩掻島に参拝する。この一連の行事は「道見」(みちみ)という。
 八月十四日の深夜。出雲大社境内のありとあらゆる門が開かれ、狩衣を着込んだ禰宜が右手に青竹の杖、左手に真菰の苞(しぼ)と火縄筒をもって、裸足に足半草履(あしなかぞうり)の格好で姿を現すと、祝詞をあげ、神幸をはじめる。道順は「道見」で下見したとおりで、それぞれの神社をめぐって行く。
 禰宜の役回りは、大国主神のお供で、大国主神は「透明人間」のように、そこにいて、大国主神が神幸していることになっている。
 この祭りの一番の謎は、なんといっても、神幸する禰宜の姿を、だれ一人見てはいけない、ということなのである。もし見られたら、「穢れた」として、もう一度本殿に引き返し、はじめから神幸をやり直すという徹底ぶりである。そのため、この日はどこの氏子の家も、堅く扉を閉ざし、外出を控え、息をこらしているのだという。
 また、この神事を身逃げの神事と称する理由は、次のようなものだ。すなわち、本来ならば神幸に奉仕しなければならない国造が、この間、館を出て別の一族の館に移り、潔斎するからだという。そして、神幸が終わった時点で、すぐに館にもどるのだという。」

 この夜逃げの神事を関裕二氏は以下のように読み解いています。
「出雲国造家は天穂日命(あまのひほこ)の末裔で大国主神を祀り大国主神そのものと言うのに神幸に加わらずになぜ身逃げしているのか。なぜ人々が神幸を見てはいけないのか。
 出雲神話の周辺には「死んだ神が出雲神にそっくりだった」「そっくりな人間が犠牲になって死んだ」という話が散見できる。これは現実に出雲で起こっていて、だからこそ、出雲国造家は秘密の祭りを今も続けているのではあるまいか。
 殺されるべき主役は実は身を潜め、生きていたのではなかったか・・・。つまり、殺されたのは大国主神のそっくりさん、身代わりだった・・。これこそ、身逃げの神事の本当の意味ではなかったか。
 あるいは、主役が入れ替わる祭りの中に「歴史そのものが入れ替わった」ことが暗示されているかもしれません。ここにいう歴史とは出雲国造家が出雲に同化したという神話の設定そのものが、嘘だったのではないか、ということであり、出雲国造家こそ出雲神を裏切った主犯だったのではないかという疑いである。」
「大国主神は、出雲の国譲りを果たしたあと、幽界に去ったと神話には描かれる。政争に消えて無くなったということは、ようするに殺されたのだろう。だが、本物の大国主神はどこかに生きていたのではなかったのか。そして、何者かが身代わりとなった・・。これが身逃げの神事の歴史的背景ではないかと思えてくる。そうでなければ、この様な奇怪な神事を編み出した理由が分からなくなるのである。」
 
 いよいよ出雲の世界は神話に描かれたこと、神事にみられるその内容も複雑、奇怪な様相が色濃くなってきました。全容が徐々に明らかになって、その核心に近づいて来たようです。

2014年5月7日水曜日

303「須佐、雲太6」2014,5,6

 菅谷たたらから次の目的地は須佐神社です。
「『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来須佐之男命の本宮とされた。社家の須佐氏は、須佐之男命の子の八島篠命を祖とすると伝える。」
「明治になるまでに何度か社の名が変わり、奈良時代には須佐社、平安時代には須佐神社、室町時代には十三所大明神、天文年間には大宮大明神、近世では須佐大宮、また出雲大宮、そして明治4年に今の須佐神社と制定。」
 須佐神社は須佐之男命の終焉の地で御魂鎮めの御社として神戸川の支流の須佐川のほとりにあります。境内には、樹齢1200年以上という大杉がそびえ、須佐の七不思議に数えられる「塩井」が湧出して数々のスピリチャルな伝説が残されています。有名な霊能者に現代に残る聖地と言われ、パワースポットとしても取り上げられています。
 須佐之男命を主祭神とし、妻の稲田比売命、稲田比売命の両親の足摩槌命・手摩槌命を配祀しています。しかし、何故に何度も社名が変わるのか、祭奉する側、時の支配者の思惑、意図に翻弄されていたところと思えます。
 参拝者の方も多く居ましたが、のんびりとお詣りできました。何度も参拝していますが大社造りの本殿は重厚ですが、やはり裏の大杉のエネルギーは素晴らしいものでした。

 次の目的地は出雲の国の西隣り、石見の国一之宮の島根県太田市にあります物部神社です。名前の通り古代の有力な豪族の物部氏所縁の神社です。御由緒には以下のように記載されています。
「御祭神 宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)は、物部氏の御祖神として知られております。御祭神の父神である饒速日命(にぎはやひのみこと)は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命(みかしきよひめのみこと)を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。
神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)
その後、御祭神は天香具山命(あめのかぐやまのみこと)と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮(いつへ)を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。」

 社殿創建に付いては以下です。

「最初は神体山である八百山を崇めていました。 後に、天皇の勅命により継体天皇八年(513年)社殿を創建し、その後、石見銀山争奪の兵火などで三度消失しました。
宝暦三年(1753年)再建され、文政元年(1818年)の修理を経て、安政三年(1856年)宝暦時の規模で改修され現在に至っています。(現在、県指定文化財)春日造では全国一の規模です。」

 物部神社の御神紋は「ひおい鶴」ですがとても珍しいものです、鶴が太陽を背景にしているのは、物部氏の祖神である饒速日命が、太陽信仰と深い関わりを持っていたものと考えられます。以下が神紋についての神社の説明です。

「物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。 この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。」

 宇摩志麻遅命の母親の御炊屋姫命は大和の土着の首長の長髓彦の妹です。神武が九州からヤマトに来たと言われる神武東征はその実、饒速日命亡き後、饒速日命の末娘の伊須気依姫の婿に来たのが事実の様です。当時は末子相続で行われていて、モンゴルの風習の様です。神武の婿入りに反対していたのが長髓彦でした。饒速日命の長男の宇摩志麻遅命が長髓彦を殺して、二男の天香具山命(高倉下尊)は八咫烏として神武を紀州から導いた方で、共に神武のヤマト王権の立役者です。
 宇摩志麻治命は大和最大の豪族、物部氏の祖神ですが、何故に宇摩志麻遅命がこの石見に鎮座し、尾張氏の祖の天香具山命が越国(新潟県)の弥彦神社に鎮座したのか。それは出雲の国譲りに深く関係がありそうです。
「この物部神社は大和建国と同時に、大和と敵対した出雲の「お目付け役」として監視するかのように、出雲の隣国の地である石見の地に建てられたのではないか。」とも言われていますが、以下参考になる記載を紹介します。

「石見から出雲を見張る、地域の民人を物部に組み込んだ、など、何故、この石見の地に物部の準本拠のような神社が鎮座しているのか、色々と問われてきたようだ。この時代に各地に勢力を伸ばしたとする各地の物部氏の伝承が後世に出来てきたのであろう。平家の落人伝説のようなものだったのかも知れない。

 天武政権は自分達の皇統は天照大神を始祖とする日向系氏族の正当性を謳いあげ、素佐之男命を始祖とする出雲一族である饒速日尊―宇摩志麻治尊―物部氏への血脈を史書より抹殺したことに端を発している。
 即ち日本書紀には大物主命は大己貴命(大国主命)と同一人物と苦し紛れの嘘を書いているが、実際は全くの別人である。具体的に云えば、3世紀初頭、素佐之男命は出雲地方全体を統治し、その後、息子の大物主命(饒速日尊)及び末娘、須世理姫の入婿に当たる大己貴命(大国主命)を伴って九州地方も制圧した。
 魏志倭人伝にある“往七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃、共に一女子を立てて王となす、名を卑弥呼と曰う”はこの時の事である。勿論、卑弥呼は大日霊女(天照大神)である。
「大物主命」とは素佐之男と奇稲田姫との間に生まれた8人兄弟(5男3女)の三男「饒速日尊」(大物主命)のことである。因みにこの大物主奇饔玉饒速日尊(大物主命)の諡号は「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」であり、別名としては「大国魂大神」、「大歳御祖大神」等がある。
 素佐之男が九州西都原で没した後、大日霊女(卑弥呼)を大王位につけ、大物主自身は統治の実務を大国主命に任せて自分は大和平野を制すれば、出雲、九州を含め西日本全体を制することになると大和に乗り込む。

 その時(183年頃)大和を支配していた長髄彦の妹である「三炊屋姫」を娶って戦わずして大和の地も従属させ自分は三輪山の麓に居を構えた。大物主命(饒速日尊)が出雲の須賀にある三室山の近くに永く住んでいたことから、この大和の山を三室山と名付けた。今は「古事記」に書かれた三輪山神話から「三輪山」が正式名称として定着しているが、今でも三室山とか三諸山とも呼ばれるのは、上記の事情から「三室山」が最初の名前だったからである。
 饒速日尊は三炊屋姫との間に2男1女をもうけるが、その長男が後の物部氏の先祖となる「宇摩志麻治尊」である。次男は「天香山尊」(高倉下尊)で末娘が「伊須気依姫」である。饒速日尊は大和地方の完全掌握に成功した後、近隣の山城、摂津、河内、和泉を従属させ、続いて現在の和歌山、兵庫、四国の阿波、讃岐まで順次遠征して全国統治へと地域を拡大して行った。その後、饒速日尊(大物主)は九州地方では大日霊女女王が統治するようになった220年頃この世を去った。
 然し、当時は末子相続の時代であったため、大和は伊須気依姫が正式相続人であるが未だ幼いため兄の宇摩志麻治尊が政治を取り仕切っていた。一方、九州日向では大日霊女も相当な高齢であり相続人と言えば「鵜茅草葺不合尊」の末子「伊波礼彦尊」(大日霊女の孫)で、後の「神武天皇」である。そこで九州の智慧袋として大日霊女を補佐していた「高皇産霊神」が全国を大同団結して一本化する最善策として伊波礼彦尊を大和の相続人、伊須気依姫に婿入りさせることになった。

 これが世に言う「神武の御東征」であるが、此処に述べた事情から正しくは「御東征」ではなく「御東遷」であるべきだと思う。然し、伊波礼彦尊(神武天皇)が難波から生駒山系を越えて大和入りしようとした際、長髄彦と激しい戦闘となり九州から介添え役として同伴した長兄「五瀬尊」も傷つき和歌山で亡くなっている。この事実を捉え飽くまでも「御東征」ではないかと反論が出るかも知れないが、確かに伊須気依姫の叔父に当たる長髄彦一人だけがこの婿入りに最後まで反対したに過ぎない。
 結局はこのルートでの大和入りを諦め、船で紀伊半島を迂回し熊野から入ったわけだが、この時は宇摩志麻治尊の弟である天香山尊(高倉下尊)が道案内をして大和に迎え入れたことを見ても御東遷であることが分る。「古事記」「日本書紀」は飽くまでも皇祖を天照大神とし、神武が初代天皇として武力を持って全国統一を成し遂げ大和朝廷が成立したとの筋書きを作り上げたものである。

 では何故歴史的事実まで歪曲しなければならなかったのか。その答は日本史の中で唯一と言える宗教戦争である。仏教の伝来以降、時の天皇家を中心に仏教が広まるにつれ、勢力を増してきていた崇仏派の蘇我一族と日本古来の神道を奉じる出雲系の物部氏との確執が抜き差しならぬ処となり、589年、蘇我・物部戦争を経て神武以来権力の座にあった物部氏は滅びる。
 物部氏没落後、蘇我が実権を掌握し仏教勢力の力が盛り上がるにつれ、天皇家の先祖がその仏教に反対した物部氏ではどうしても困る。幸い神武天皇は日向の系統である。そこで出雲の系統を日本の正史から抹殺しようと試み書き上げられたのが「日本書紀」である。それは物部氏没落後、約100年後のことである。以上が日本書紀以前の日本古代史の真相であり、従って「大神神社」の主祭神は大和朝廷の基礎を築かれた饒速日尊(大物主命)その人である。」

 小雨が降り始めて寒さ身に沁みる中、物部神社を参拝しました。参拝者も少なく閑散としていますが立派な春日造りの社殿は目を見張るものです。




2014年5月4日日曜日

302「須佐、雲太5」2014,5,3

 二日目は朝早く目覚め、元気回復して早くから活動開始で、7時にはホテルを出発です。



松江城を車窓から眺めて、向かう目的地は佐太神社です。

 佐太神社は出雲二之宮で、出雲国三大社の一つで佐陀大社といわれ、神有月に八百万の神が集まり色々な神事がなされる処で、神在の社とも言われます。御祭神は佐太御子神であったものが色々な複雑な事情で今は、本殿には三段12座が祀られています。立派な大社造りの三殿には以下の神々が祀られています。
正殿:佐太御子大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。
北殿:天照大神及び瓊々杵尊の二柱。
南殿:素盞嗚尊及び秘説四柱の計五柱。
佐太御子大神は「出雲国風土記に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。」とされ後世では佐太御子大神は猿田彦大神と同一神とされています。何とも沢山の手が加わり多くの天津神と国津神と言われる出雲のスサノウ始め秘説四柱の神々と怪しげな祀り方です。




 佐太神社は早朝で参拝者はほとんどいません。平成28年の遷宮の為の工事が成されています。仮拝殿でお詣りしました。ここでも神在祭が行われます。
「秋の神在祭は11月20日夜の神迎神事から始まる。
本殿周囲には注連縄(しめなわ)が張り巡らされている。神職が南口から入り、礼拝後、傍らで佐太独特の礼拝方法である「四方拝」を行う。そして一旦外に出て、直会殿にて秘儀。再び注連縄内にひもろぎを捧げ持って入り、殿内に安置する。以後25日の神等去出神事まで一切誰も注連縄内に入ることはできない。
25日夜に神等去出神事が行われる。祝(はふり)が包丁で青木柴の縄を切ることから始まり、神迎えの際と同様の儀式が行われる。中殿前からひもろぎが下げられ、祈祷所内で秘儀。その後ひもろぎを捧持して神職が出場し、行列を組んで神送りの場となる「神目山」へ向う。
神目山にて神送りの儀式を終え、神社に帰ると「お忌み」の終了となる。30日にも、帰り残った神々をお返しするために止神送神事として同じ神送りを行う。」
佐太神社と神無月、出雲国譲りについて、原田常治著「古代日本正史」の中で以下のように書かれています。
「武御名方尊(たけみなかたのみこと)は、出雲の神君、素佐之男の末子須世理姫と、養子の大国主との間に生まれた三人の中の末子で、出雲の正統相続人である。・・それが、父の大国主が、日向の邪馬台国西都で、日向妻の多紀理姫の許で亡くなった。その多紀理姫の生んだ二男一女の末子、事代主が、日向、出雲全体の相続人ということになったが、まだ幼なかったから九州のほうは、祖母の大日霊女尊が代わりに政治をして女王になった。そして、出雲の相続権も主張して、出雲を事代主に明け渡すようにと度々交渉があった。しかし、父の大国主は養子であるから、出雲の素佐之男の血統は、武御名方が正しいと考える母の須世理姫とともに、出雲は絶対に渡せないと、頑として拒否した。・・日向側は、あくまで末子相続権を主張して、平和裡に話が進まないなら、仕方がない武力に訴えても相続すると、最後には天児屋根、タケミカヅチ、経津主の三軍を動員し、幼い事代主と母の多紀理姫を擁して出雲へ乗り込んできた。」
「その時、出雲半島の突端、関の五本松の下の今の美保ガ関に、事代主、多紀理姫の母子を待機させて、松江の方へ乗り込んでいる。日向軍は全部松江大橋川の北岸に上陸している。・・松江大橋川を挟んだ決戦は簡単に終わったようである。むしろ、武御名方は、ある程度手兵を温存して脱出したのではないかと思われる。」
「武御名方を出雲から追放した後、誰が出雲の政治をやったか。これが驚いたことに、大国主時代に九州統治の責任者として出雲から西都に出張していた猿田彦を逆に抜擢して当たらせたのである。・・ 猿田彦は、まだ気持ちの上で納得できずにいる出雲族のタカ派たちを刺激しないように、一族の住んだ松江の南側から、はるかに遠い松江駅から八キロも北の、現在の鹿島町宮内に出雲政庁をおいた。そして当時としては最高の民主政治であると思われる、族長議会政治を行った。その議会は十月に行われた。当時の出雲と隠岐の神(部族長)は、百八十六名と伝わっている。それが一堂に集まるから、ここを神在社といい、他の出雲中には、神がいないということで、「神無月」といった。十月を神無月というのは、出雲、隠岐だけの神無月で、これを日本全国のようにデッチあげたのは、それから四百年も後に日本書紀ができたあとの霊亀二年に、現在の出雲大社を造ってからの話である。」
 何とも明解な見解です。原田恒治氏の「古代日本正史」は記紀に記されている内容に囚われずに古の神社の記録などをあたって調べ上げた独自の歴史観でとても興味深い世界です。先の須佐雲太1で触れた美保神社での国譲りについても原田氏の見解の方が事実のように思えます。それらについては後でまとめたいと思います。

 次の目的地は「菅谷たたら」です。http://www.tetsunorekishimura.or.jp/sugatani.html
雲南市吉田にある菅谷たたらは、映画「もののけ姫」に登場する「たたら場」のモデルになったところです。
「出雲地方は、古来より「たたら」と呼ばれる伝統技法による製鉄が盛んに行われていました。明治以降、近代洋式製鉄法にその位置を譲るまで、島根県は全国の製鉄の中心地だったのです。1751年から1921年まで 170年間にわたって操業が続けられ、最盛期の文政年間(1818~1829年)には年間 200トンもの鉄を生産しました。高殿様式の現存するものとしては全国唯一で、昭和42年に国の重要民俗文化財に指定されています。」
「たたら製鉄は、粘土で築いた炉に砂鉄と木炭を交互に装入し、「ふいご」と呼ばれる送風機で風を送り木炭を燃焼させ、砂鉄を分解、還元して鉄を得る方法です。出雲地方を含む中国地方一帯では、古くから「たたら」による製鉄が盛んに行われ、江戸時代の最盛期には全国の鉄生産量の約7~8割を出雲地方で産出しました。その中心的な役割を担ったのが雲南市吉田町を拠点にたたら経営を行った「田部(たなべ)家」ですたたら製鉄とは粘土製の炉の中に、原料(砂鉄)と、燃料(木炭)を交互に装入し、砂鉄を溶かして鉄の塊を得る技術です。」
 山の中の小さな集落の中に菅谷たたらはありました。しかし残念ながら改修作業中で見学できませんでした。うろうろしていたら係りの方がお出でになって特別に工事中の内部を見学させて頂ける幸運に恵まれました。24年から5年間かけての大改修です。写真で改修前の姿を観ましたが木造の凄い建築物です。たたらの脇にある桂の木の巨木はご神木で、4月の芽吹きの時に3色に変えていくと言います。







 古事記に登場するスサノウのヤマタノオロチ伝説は有名ですがその解釈はいろいろあります。その中で以下の内容を紹介しておきます。
「ヤマタノオロチ退治の神話は、出雲地方や備中地方に伝わる神楽の最後のクライマックスとして演じられることが多く、今も人々の生活の中に生き続けているのだが、いったいこの神話は何を物語るものなのか。
いろいろ説はあるが、斐伊川は大蛇のように蛇行して宍道湖に注いでおり、オロチとは斐伊川そのものだといわれている。八つの頭と八つの尾はその数多い支流や分流を表しているというわけ。そのうえこの斐伊川は大雨のたびに氾濫する暴れ川である。氾濫のため下流の農耕民が稲田を失うこともしばしばだった。したがってスサノオ命がオロチを退治して娘の命を救ったのは、斐伊川という暴れ川を鎮めた、つまり、大治水工事をして下流の農耕民を救ったことを神話的に表現したものと考えられる。

 ここではこの説をさらに一歩進める。
 かつて斐伊川上流は、日本の代表的な砂鉄の生産地だった。山を切り崩した土砂を水とともに流して比重の重い砂鉄を「かんな流し」という方法で選別採取したあと、この砂鉄を土で固めた炉の中で木炭とともに高温で溶融して鉄を取り出す、いわゆる「たたら製鉄」は、すぐれた刀剣や土木農耕具をつくってきた。
しかし、一方で、山を崩し、斐伊川の下流に赤く濁った砂鉄の水を流したために、農耕民の稲田に大きな被害を与えた。日本の公害第一号である。山を崩すとともに、木炭をつくるため山林を伐採し、土砂を川に流して川底を押し上げる、そのような長年にわたる砂鉄生産の営みは、古代の自然破壊の先例で、斐伊川の災害をより大きなものにした。単なる自然災害ではなく、それは明らかに人災だった。
とすれば、ヤマタノオロチとは、実は斐伊川に拠って砂鉄生産に携わっていた古代製鉄集団ではなかったか。
「眼は赤いホオズキの如く」とは「たたら製鉄」の炎のこと、「腹はことごとく血ただれたり」とは赤く濁った川底の砂鉄のこと。オロチの尾から天叢雲剣が出てきたというのも、オロチが製鉄集団であることを物語っている。
このオロチを退治したスサノオ命は、出雲の砂鉄採取権を手に入れるとともに、大土木工事をして農民をも掌握したことを意味している。

 紀元前十七世紀に栄えた古代小アジアのヒッタイト帝国に起源をもつとされる古代の製鉄技術は、やがて中国に伝えられたが、その中国では大きく二つの流れがあった。そのうち江南地方では砂鉄を原料とする鍛造品が主体になっているのに対して、華北では鉄鉱石を原料にした鋳造品が中心となっており、製鉄文化のうえで、明らかに異なる様相を示している。日本には稲作とともに最初に江南の製鉄技術が導入され、出雲など各地に広がった。これがヤマタノオロチ集団である。
これに対してスサノオ命に代表される製鉄グループは、華北から朝鮮半島を経由して日本へやってきた後続の鋳造鉄技術集団と考えることができる。

ともあれ、古代において鉄は最も重要な資源であり、それを作り出す集団は、当時最高のハイテク技術集団だった。スサノオ命は、砂鉄の大産地・出雲で先住の製鉄集団・オロチを退治し、さらに大治水工事をして農民をも掌握、製鉄というハイテク技術集団を統括する大政治家になったのである。

 スサノオ命は高天原から出雲の鳥上山に天降ったとされている。
しかし、これは高天原神話と出雲神話を結びつけるため、『古事記』と『日本書紀』の編集者が都合良く創作したもので、スサノオ命は天から降って湧いたものでもなんでもなく、実は、朝鮮半島の古代三国の一つである新羅(しらぎ)から渡ってきたというのが本当の姿である。
『日本書紀』の一書に曰くとして次のようなことが書かれている。
「スサノオ命は高天原を追放されたとき、その子の五十猛命(いそたけるのみこと)を率いて新羅の国に降り、ソシモリという所にいた。だが、この地には住みたくないと埴土の舟に乗って出雲へ渡り、斐伊川の鳥上山にやってきた」
ソシモリとは、三世紀から七世紀の間に朝鮮半島で栄えた新羅の王都・慶州を意味する言葉であり、スサノオ命はその慶州から日本にやってきた渡来人ということになる。」

 神話と現実の世界は如何様に創作され虚構化されているのか。私達の固定概念を改めることが必要かもしれません。

2014年5月2日金曜日

301「須佐、雲太4」2014,5,1

 熊野大社と出雲大社は共に出雲一之宮ですが、かつては何事も熊野大社の方の格が上位であったようです。この地には出雲大社を超える2つの神社がありますがその一つが熊野大社で、もう一つは神魂(かもす)神社です。かつては熊野大社が一之宮で杵築神社(出雲大社)が二之宮でしたが、出雲国造家が熊野から杵築に移り、共に一之宮になり現在に至っています。
 しかし熊野大社は現在も出雲一之宮として、出雲国造の世継ぎの儀式の火継式(神火相続式)や新嘗祭等の重要な儀式は出雲大社宮司の出雲国造家が熊野大社に出向いて行われています。
 火継式(神火相続式)については以下の記載があります。
「火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。
 前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もて潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。
 その後、神魂神社において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了する。この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存される。国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外はたとえ家族であってもこれを口にすることは許されないという。
 火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされている。」

 熊野大社から須我神社に向かう予定で居ましたが、なぜか参拝して急に元気が失せて疲れてしまいました。時間も16時半ですのでこれから須我神社往復40キロは気力が湧きません。兎に角、早くホテルで横になり休みたい感じになりました。何かによるエネルギー収奪が起きたようです。今日のホテルは松江市内の宍道湖大橋近くです。松江へ向かう途中にある神魂(かもす)神社には寄ろうと思いハンドルを取りました。
 
 失礼した須我神社は是までも何度か訪れていましたが、スサノウと所縁が深い処です。
「『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれます。」
 この宮は須賀の宮と言われます。そしてスサノウは歌を詠みました。
「この社を建てる時、美しい雲の立ち昇るのを見て、「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる この八重垣を」と歌われ、これが「出雲」の国名の語源となると共に、日本で一番古い三十一文字の歌として、この地は「和歌発祥の地」とされています。」
 
 神魂神社は出雲で私のお気に入りの処です。八雲立つ風土記の丘の近くにあります。
「社伝によれば、天穂日命(あめのほひのみこと)がこの地に天降って創建したものと伝えられるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、実際の創建は平安時代中期以降とみられている。
 当社は出曇国府に近い古代出雲の中心地であり、社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで当社に奉仕したという。出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家であるが、現在でも国造家の代替わりのときの「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、明治初年までは当社に参向して行われていた。」
 天穂日命は以下の記載があります。
「天照大神とスサノオが誓約をしたときに、天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実の持ち主である天照大神の第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。」
 
 神魂神社と出雲国造家は深い繋がりがあります。この地は出雲国造家の屋敷近くにあり国造家の祖神の天穂日命が降臨したところですが神社創建は平安時代まで下ります。神社が建てられるまで国造家は熊野大社も祀っていて、国造家が出雲大社に遷った後に熊野大社で行っていた神事をここでするようになっています。
 先に触れた火継式の神事、神火相続(おひつぎ)はここ神魂神社で行われます。天皇は太陽神の霊を引き継ぐ(日継ぎ)のですが出雲国造家は神火を継承します。国造は祖神の天穂日命の神霊を代々継承して天穂日命そのものになるのです。また大国主神を祀り、大国主神そのものになり同体と成ると言います。出雲国造家はそのように神霊を継承するので死なないと言われます。
 ですから国造が亡くなってもその死は隠され、亡くなっても衣冠を整えられて坐らされ食膳が供えられます。そうして嫡子が裏門から熊野大社に40キロを走り、神火(別火)を起こして国造館の斎火殿に灯して、新国造が亡くなるまで大切に守り続けると言います。
 
 出雲国造家についてはまた後で触れるとして神魂神社を参拝しました。鳥居からの参道を進むと男坂、女坂に分かれ右に折れて男坂の階段を登ると直ぐに本殿の拝殿です。本殿は現存する最古の大社造りで昭和27年3月に国宝に指定されています。なんと私の生年月です。御祭神についてのイザナミ神は中世末期になってからで、出雲大社が出来て遷るまでは大国主命(大己貴命)と言われています。








 主祭神は伊弉冊大神(イザナミ)で伊弉諾大神(イザナギ)が合祀されています。神紋は二重亀甲に有です。出雲の神有月の十月の、「十と月」で有でこの地に神がいますと言う意味とか。亀甲は出雲系の神社に用いられるものが多いです。
http://bell.jp/pancho/travel/izumo/kamosu%20jinja.htm 
http://09270927.at.webry.info/201207/article_4.html

 こじんまりした敷地に収まるこの雰囲気が心地良いものがあります。参拝者もほとんどいないのでゆっくりできました。参拝して暫し留まり、古の世界と繋がる異界の時空に浸りました。1昨年ここを参拝した時に本殿を写真に撮ったところ、なぜか色が変色して撮影されていました。不思議な世界です。その写真も上げておきます。


 少し元気が回復してきましたので直ぐ近くの八重垣神社に参拝しました。この神社は以前は佐久佐神社と言われていたようで、八重垣神社が須賀から移されています。スサノウと妻のクシイナダ姫の良縁にあやかり縁結びの神様として有名です。流石に若い女性の参拝者が沢山でした。
「素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神とし、社伝によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで櫛稲田姫との住居を構えたという須賀(現在の雲南市大東町須賀)の地(須我神社)に創建され、後に、青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座したという。」
 奥の院は、鏡の池と呼ばれる神池や夫婦杉と呼ばれる2本の大杉、連理の椿があり、鏡の池では半紙を水に浮かべると文字が浮かび、半紙が沈む場所で吉凶を観る、良縁占いが行われています。私もやってみましたが果たして占いは如何なるものでしたでしょうか。
 まずは今日1日、朝早くから各所を巡ることが出来て、無事にホテルに夕暮れ時に着きました。