幼少は大歳と言われ、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)が讃え名で、「先代旧事本紀」では天火明命(アメノホアカリ)と同一と伝わっています。
原田常治は、大神神社の主祭神である大物主、上賀茂神社の主祭神である加茂別雷大神、熊野本宮大社の祭神である事解之男尊、大和神社の主神である日本大国魂大神、石上神宮の祭神である布留御魂、大歳神社の主祭神である大歳神(大歳尊)と同一だといいます。
「古代史復元」の第25節 スサノオ・ニギハヤヒの抹殺で以下のように記されています。
「初期の大和朝廷はスサノオ・ニギハヤヒの神威を利用して政治を行っていた。気候が寒冷化し,生活が苦しい時期は,苦しいときの神頼みで信仰が強かった。この時代の大和朝廷は,神の力を使って巨大な古墳を築造し,その神の力を利用することで政権の安定に努めた。六世紀になると長かった寒冷期は終わり,温暖な時代がやってきた。温暖期になると作物もよくとれ生活が安定してくる。人心も収まってくるので,神の力を使った政治をする必要もなくなり,人々も神をあまり意識しなくなってくる。そのため,権威を誇示するための巨大な古墳は必要なくなり,また,古墳を作るからといって多くの人々を神の力でかき集めるのも難しくなってきて,古墳は次第に小さくなっていった。そして,それまで特別な階層の人物のみ作っていた古墳であるが,生活が豊かになってきたために,あまり力を持っていなかった多くの豪族が古墳を作るようになり,古墳の築造数は増えていくことになった。古墳時代後期の始まりである。
古墳時代後期になってから生活が楽になってくると,神威は低下してきて,人々はスサノオ・ニギハヤヒをそれほど意識しなくなってきた。そして,そのシンボルである三角縁神獣鏡や前方後円墳も姿を消していった。このようなときに中国から仏教が入ってきたのである。あまり意識されなくなっていた日本古来の神々に変わって登場した仏教は,当時の朝廷人にとって魅力的なものと写った。
スサノオ・ニギハヤヒの抹殺
スサノオ・ニギハヤヒ祭祀はニギハヤヒの長男であるウマシマジの直系の物部氏が司っていた。ところが仏像崇拝をめぐって物部氏と蘇我氏との争いが起き,物部氏が滅ぶに及び,朝廷の有力者は神武天皇と共に日向からやってきた一族(蘇我氏・藤原氏)が占めることになった。
日向一族はスサノオが南九州進攻したときに煮え湯を飲まされており,さらに,日向一族の祖である日向女王は,大和では関係がない存在であるから,日向女王を畿内に祭ることができなかった。肩身の狭かった日向一族は物部氏が滅んだのを機会として出雲勢力の抹殺をし,日向一族の歴史を輝くものにしようと謀った。
まず,スサノオ,ニギハヤヒの国家統一事業は,日向族の祖であるイザナギ・イザナミの業績に置き換え,出雲一族との関連で無視できないところは,出雲族でも日向に関係の深かったオオクニヌシの業績に置き換えた。次に,ニギハヤヒの妻である卑弥呼を抹殺し,卑弥呼及びニギハヤヒが持っていた天照大神の称号を,日向女王に与え,天上に上げた。スサノオはその業績を奪われ,日向女王の弟で高天原の乱暴者にされた。ニギハヤヒは大和の創始者であることを抹殺することができなかったので,ニニギの兄にされ,神武天皇以前に大和に天降ったことにした。スサノオ・ニギハヤヒの業績はすべて抹殺し,全国の彼を祭っている神社から彼らの名を消すよう指示した。
この歴史改竄事業を人々に知らしめるため,出雲にオオクニヌシを祭った巨大な出雲大社を作ることになった。信仰の対象を変えさせるわけであるから,出雲大社は巨大である必要があった。出雲大社が古代において奈良の大仏殿よりも巨大だったのはこういった理由によるものであった。そして,日本国を統一したのはスサノオではなく,日向一族であることを神話化して残し,それを,古事記・日本書紀としてまとめ,全国の神社からスサノオ・ニギハヤヒの伝承を抹殺させた。このように地方からこの二柱の信仰を弱めた上で,国分寺を全国に建立し,仏教を広めることができた。人々は出雲大社の巨大さに圧倒されてオオクニヌシ信仰に走り,巨大な国分寺に圧倒されて仏教信仰に走ったものと考える。
このように抹殺された伝承であるが,当然のごとく人々の抵抗は激しく,スサノオ・ニギハヤヒの名を抹殺せず,訳の分からない神の名として残した。出雲大社本殿の真後ろにスサノオの祠があり、大国主命は本殿内で西向きに祭られているそうである。人々が北向きに本殿に拝礼したとき、それは、本殿を素通りして背後のスサノオに拝礼したことになるのである。オオクニヌシの巨大な出雲大社の建立を命じられたときも,出雲大社の本殿の後ろにスサノオの社を造り,朝廷にわからないようにスサノオ祭祀ができるようにしたのである。また天皇自身は正式な歴史の元で皇室行事を行っており,伊勢神宮に参拝をせず,大和の神社に参拝を続けた。
このような人々の抵抗があったために,抹殺漏れが各地に存在し,全国の神社をつぶさに調べることにより,この古代史は復元できたのである。」
布施泰和氏による「正統武内文書」による超訳日本神話による紐解きは異色です。「誰も知らない世界の御親国日本」から紹介します。
「宿禰さんが口承伝授された正統竹内文書も、神々が地球に降臨したところから始まります。神々は北極星、昴、オリオンの三ツ星からやってきたことになっていますが、宿禰さんは天孫降臨=宇宙人飛来説はとっていません。生命の元となる魂がそうした宇宙からやってきたと解釈しているそうです。
途中の歴史は端折って、何度かの天変地異を経て現代の地球文明が始まった時代に進みます。今から1万2000年ほど前、世界各地で大洪水が起きた後、最初の文明を築いたのは日本であったと宿禰さんは言います。「縄文文化」と呼ばれていますが、確かに実質的には世界最古の文明であった可能性が強いですね。
やがて最初の文明を築いた人たちは世界中に散って行き、文明を広めて行きます。
日本から大陸に渡った人たちは、理想の国を大陸に求めたのだそうです。大陸に渡った人たちの中には、のちに出雲族となるグループと、のちに大和族となるグループがいました。彼らは別々のルートでメソポタミアにたどり着き、合流。太陽を信仰するスメル族、すなわちシュメール人と呼ばれ、そこに古代文明を築きます。
シュメール人の最大都市はスサと呼ばれ、スサの王をスサノオと呼んだそうです。スサノオは政治・軍事をつかさどる王として君臨し、のちにこの政治・軍事グループは出雲族となります。一方、それとは別に祭司をつかさどる者たちをスメラミコトと呼んだそうです。スメラミコトの祭司グループはのちに大和族となります。
そのあと、突然シュメール人たちは姿を消すのですが、どうやら一部は中東まで行きユダヤとなったグループもいたみたいです。
なぜシュメール人たちは、メソポタミアの地を去ったのか。それは自然と共生するという彼らの古神道的な理念や信仰が、厳しい砂漠の風土に馴染まなかったのだと宿禰さんは言います。砂漠の地方では自然は人間に敵対するものでしかなく、理想とは程遠い地であった――。失望したシュメール人たちは、再び二手に分かれて日本に戻ることにしたのだそうです。」
「あくまでも私の推測ですが、スメル族の2グループが日本へ戻る道のりは、紆余曲折の連続だったのではないかと思います。なぜなら、シュメール人が突然消えたのは、紀元前2000年ごろとされています。そして彼らがようやく日本にたどり着いたのは、どうやら紀元前4、5世紀ごろなんですよね。その間、1500~1600年間もシュメール人(スメル族)はあちこちを放浪していたことになります。まあ、中にはもっと早くに日本に戻ってきた人たちもいたのかもしれませんが、それについてはよくわかりません。
第73世武内宿禰さんの話に戻ります。スサノオのグループ(後の出雲族)は陸路日本へ向かい、北九州に上陸します。一方、スメラミコトたち(後の大和族)は、海路日本に向かい、九州の南にある高千穂に上陸(天下り=海下り)しました。そしてそれぞれのグループは、当時日本にいた「原日本人」たちをどんどん征服していくんですね。
やがて紀元前4世紀ごろ、この二つのスメル族のグループの間で戦いが勃発。一進一退の攻防が続きます。そのころの出雲族は日本海側を支配、大和族は瀬戸内海を海路東進し、近畿地方に入ります。一時は出雲族スサノオと大和族アマテラスの間で政略的な結婚をするなどして和睦がありますが、大国主の息子の事代主が王の時代に再び戦争となり、大和族が出雲族を制圧します。
その結果、大和族の王であった神武(サノ彦)が事代主の娘を娶り、大和朝廷が確立します。紀元50年のころだと言います。このとき大和族の武内宿禰は、出雲族の物部から八雲叢雲十種神宝の行法を奪ったので、いまでも正統竹内家にこの行法が伝わっているそうです。
敗れた出雲族は関東・東北地方に逃げ、のちに蝦夷(エゾ、エミシ)となります。最初から日本にいた人たち(縄文人、原日本人)は、サンカとなりました。」
興味のある方はお読みください。以下のブログ「天の王朝」でも読めます。
http://plaza.rakuten.co.jp/yfuse/14000/
またスサノウはイザヤの子、マヘル・シャラル・ハシュバスでイスラエルの救世主ともいわれます。その名の意味は「急いで略奪し、速やかに捕獲する者」だと言います。イスラエルとの繋がりからスサノウの正体を語り、日本人のルーツ、建国の神として記されているものもあります。興味のある方は読んでみてください。
「日本とユダヤのハーモニー」http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=67
今回の出雲巡りの旅をとおして、先人の出雲、古代日本への歴史見解を学ばせて頂きました。その一端を紹介させて頂きましたが私には確たるものと明確に出来ません。しかし我々は歴史、史実の中で教育され、神話化されている世界は、ある意味で時の為政者の思惑、改竄の結果であり、果たして真実はどこにあるのか未だ解き明かされていない実態を改めて知る事が出来ました。継続されている神事の意味も含めて起源はどこなのか、日本人の原点は何なのか。更なる探訪が続きそうです。今色々な事がアラハバカレていますので隠された世界がますます明らかになる事と思います。
我々には弥生時代以前の縄文世界の文化、精神性があり、その上に培われてきた大和、やまと、タイワ、そして現代日本が存在しています。自の感応を磨き、因果を紐解き、真理を会得でき、これからの想造に活かして行け、宇宙人類自然に必要とされるような営みがこれから出来る事を願っています。
興味のある方はお読みください。以下のブログ「天の王朝」でも読めます。
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またスサノウはイザヤの子、マヘル・シャラル・ハシュバスでイスラエルの救世主ともいわれます。その名の意味は「急いで略奪し、速やかに捕獲する者」だと言います。イスラエルとの繋がりからスサノウの正体を語り、日本人のルーツ、建国の神として記されているものもあります。興味のある方は読んでみてください。
「日本とユダヤのハーモニー」http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=67
今回の出雲巡りの旅をとおして、先人の出雲、古代日本への歴史見解を学ばせて頂きました。その一端を紹介させて頂きましたが私には確たるものと明確に出来ません。しかし我々は歴史、史実の中で教育され、神話化されている世界は、ある意味で時の為政者の思惑、改竄の結果であり、果たして真実はどこにあるのか未だ解き明かされていない実態を改めて知る事が出来ました。継続されている神事の意味も含めて起源はどこなのか、日本人の原点は何なのか。更なる探訪が続きそうです。今色々な事がアラハバカレていますので隠された世界がますます明らかになる事と思います。
我々には弥生時代以前の縄文世界の文化、精神性があり、その上に培われてきた大和、やまと、タイワ、そして現代日本が存在しています。自の感応を磨き、因果を紐解き、真理を会得でき、これからの想造に活かして行け、宇宙人類自然に必要とされるような営みがこれから出来る事を願っています。