2014年5月9日金曜日

304「須佐、雲太7」2014,5,8

 物部神社のある石見の国は石見銀山が有名です。
「島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めていたという。」 
 豊かな資源の地であれば権力者の争奪が世の常です。江戸時代になり幕府がこの地を摂取して大久保長安が派遣され銀山奉行として開発が進み増産されます。しかし次第に採堀量が減って行き、やがて幕末に長州藩が支配し明治に至ります。最期は自然災害で昭和18年閉山になります。
 銀山にある歴史的な建造物や遺構は市・県・国などによって文化財に指定・選定され保護され1969年(昭和44年)には国から「石見銀山遺跡」として史跡に指定されています。そして2007年に世界遺産に登録されています。http://ja.wikipedia.org/wiki

 物部神社から石見銀山に向かいました。世界遺産センターには観光バスが沢山入り込んでいて大賑わいです。今では出雲大社に次ぐ観光客が訪れる名所になっているそうです。
 私が学生時代に毎年来て長逗留していたユースホステルからバスで30分ほどの処でしたので何度も徘徊したところです。昔は大森銀山と言って、閑散なのんびりした町で、大久保間歩などに懐中電灯持参で入り異次元のスリルを楽しんでいました。
 今は見違えるように街並みがきれいに整備されています。雨の中多くの方々が散策していました。私は代官所前の蕎麦屋で暫し若かりし青春の時を思い出しながら食事をしてきました。時間があればYHに寄ってと思いましたが道を間違えて山道に入ってしまい大田市に抜けてしましました。どうやら今回はスルーでオッケーだったようです。

 出雲巡りも後半です。次の目的地は日御碕神社です。出雲大社前を通って稲佐の浜を眺めて島根半島西端の日御碕灯台を目指します。
 稲佐の浜は国譲りで有名な場所です。稲佐の浜http://www.izumo-shinwa.com/
 国譲りの内容は以下です。

「昔々、出雲の国は大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)という神様が治めていました。
しかし高天原(天上の神々の国)を治めていた天照大神(アマテラスオオミカミ)はその様子をご覧になり、「葦原中国(あしはらのなかつくに)は我が子が統治すべき」とお思いになりました。
 そこでアマテラスは「先に行って地上の神たちを服従させなさい」とおっしゃってアメノホヒを遣わし下しましたが、アメノホヒはオオクニヌシを尊敬し家来になってしまい、そのまま帰ってくることはありませんでした。
 アマテラスは新たにアメノワカヒコを遣わしましたが、この神はオオクニヌシの娘に心を奪われ、御殿を建てて住みついてしまいました。アマテラスは様子を見てくるようにと鳴女(なきめ)と呼ばれるキジを送りましたが、キジはアメノワカヒコに射殺されてしまいました。
 使者が誰も帰ってこないので、アマテラスは力自慢のタケミカヅチと足の速いアメノトリフネ(日本書紀ではフツヌシ)の二神を差し向け、武力で解決しようと考えました。
 二人の神は出雲の国の伊耶佐(いざさ)の小浜(現在の稲佐の浜)に降り立つと、剣を抜き逆さまにして柄を下にして突き立て、その剣の切っ先の上にあぐらを組んで座りましたそしてオオクニヌシに「私たちはアマテラス様の命令できた。 葦原中国は我が子が統治すべきだとアマテラス様はおっしゃっているが、お前はどう思うか?」と強い口調で言いました。
 オオクニヌシは「私の一存ではお答えできません。息子のコトシロヌシがお答えいたしましょう。ですがあいにく美保の岬に鳥や魚を取りに遊びに行っております。」と答えました。
 タケミカヅチはアメノトリフネを迎えに行かせ、国譲りについて尋ねたところ、コトシロヌシは「おっしゃるように、アマテラスのお子様に差し上げましょう」と答えました。
 するとそこへオオクニヌシのもう一人の息子で力持ちのタケミナカタが大きな岩を抱えて戻ってきました。 タケミナカタは「この国が欲しいのなら力比べだ」と言って大岩を投げ捨て、タケミカヅチの腕をぐいとつかみました。

 するとタケミカヅチの腕が氷の柱や鋭い剣に変わりました。 タケミナカタが驚きひるんでいると、今度はタケミカヅチがタケミナカタの腕をつかみ、葦の若茎のように軽くひねって投げ飛ばしてしまいました。 タケミナカタは恐ろしくなり、逃げ出しました。
 タケミカヅチは逃げるタケミナカタを追いかけ、とうとう信濃の国(現在の長野県)の諏訪湖辺りまで追いつめて組み伏せてしまいました。
 タケミナカタは「私は諏訪の地から外には出ません。葦原中国は全部お譲りしますから助けてください」と命乞いをしました。
 タケミカヅチが出雲に帰り、オオクニヌシにそのことを伝えると、オオクニヌシは「仰せのとおりこの国をお譲りします。そのかわり、高天原の大御神様の御殿のような神殿を建てていただきたい。」と答えました。 タケミカヅチは願いを聞き、オオクニヌシのために大きな神殿を建てました。」

 果たして出雲の国譲りについては古事紀、日本書紀で表記に違いがあります。さらに出雲風土記の内容にも違いがあります。神話の内容についていろいろの見解がありますが、真実のところはどうだったのでしょうか。
 須佐、雲太5に紹介した原田常治著「古代日本正史」や須佐、雲太6の神武東征の理解の方が私にはしっくりきます。さらに倉橋日出夫氏の「古代出雲と大和朝廷の謎」も参考になります。
「出雲の国譲りとは」http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai11.html

 稲佐の浜は旧暦10月の出雲大社の神在月神事でも重要な地として有名です。全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まる月で、他の土地では神様が留守になるので神無月といいますが、ここ出雲では神在月と呼びます。その神事は以下です。

「全国からの神々がこの海から浜に上がってくるとされます。この浜から、出雲大社まで一言も口をきかずに、出雲大社まで神々をお連れします。
 その時、灯りは神々を先導するちょうちんの灯りのみ。出雲大社へ向かう道を「神迎えの道」と言いますが、この道に面した家々は、表には出ず、音も立てずに息を潜めていることが子供からの慣わしです。
 現代にも息づく神々への敬意と畏れがあります。稲佐浜が出雲の人々に特別な場所であるのは、国譲りでオオクニヌシノカミと高天原の使者建御雷神(タケミカヅチ)が話し合った場所だと言うこともひとつの原因かもしれません。
 オオクニヌシノカミは、国譲りの際に「それではこの国は献上いたしましょう。ただ私の隠遁(いんとん)する住み家をご用意ください。そこは天の住居のように高くそびえ立ち、太い柱の ある家にしてほしいのです」と答えました。
 天にも届きそうな高い建物であったことは、出土した宇豆柱からもわかるように、オオクニヌシノカミの大きさを物語っています。
 神迎祭(かみむかえさい)は神在祭の前夜、旧暦の10月10日夜19時に稲佐浜(いなさのはま)から始まります。毎年、全国各地の神々がこの出雲の地に集まって、国の運営について会議をする為で、全国の神々は竜神(海蛇)の先導で海を渡り、この稲佐浜に到着されます。それをお迎えするのが神迎祭となるわけです。稲佐浜で「神迎神事」が終了後、出雲大社までの約、3Kmの道のりを、神々が乗り移った「ひもろぎ」を絹垣(きぬがき)で覆い、それを神職が左右からガードするような隊列を組んで出雲大社にお連れします。 大社に着かれると、神楽殿において再度、神迎祭が執り行われ、これが終わると神々は東西の十九社に鎮まられます。 順序としては(1,稲佐浜-2,神楽殿-3,東西十九社)
 神在祭(かみありさい)旧暦の10月11日から17日まで、全国の神々が出雲大社に集い、神議りをされるので、他の地方ではこの月を神無月といい、出雲地方では、神在月と呼びます。神在祭は稲佐浜で神迎祭が行われた翌日から始まり、旧暦:10月11~17日までの7日間行われます。その間に神事(幽業、かみごと)、人生諸般の事どもを神議り(かむはかり)にかけて決められるといわれています。神々の会議処は上宮(かみのみや、大社の西方800m)にあり、そこで神在祭を執り行います。
 神等去出祭(からさでさい)出雲地方では大社の神在祭が終わると、引き続いて佐太神社で旧暦:10月17から神在祭が始まります。そして最終日の26日には万九千社で一連の行事を締めくくり、神々たちはそれぞれの国に御帰りになります。神等去出祭は旧暦10月17日と26日に執り行いますが、17日は大社からお立ちになる日、26日は出雲の国を去られる日になります。」
「神在月」 http://www.izumo-kankou.gr.jp/1275

 神々はなぜ出雲に集まるかについて以下の記載があります。
「大国主大神が天照大神に「国譲り」をなさったとき、「私の治めていますこの現世(うつしよ)の政事(まつりごと)は、皇孫(すめみま)あなたがお治めください。これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と申された記録があります。この「幽れたる神事」とは、目には見えない縁を結ぶことであり、それを治めるということはその「幽れたる神事」について全国から神々をお迎えして会議をなさるのだという信仰がうまれたと考えられます。」
 しかし神在祭の起源は不明で、中世以降から行われたようです。先の佐太神社で触れたように原田氏の見解がありますが如何なる意図で国譲りの出雲神話と絡めて出雲大社で催行されたのか疑念が残ります。

 更に八月十四日の深夜に執り行われる神幸祭、別名「身逃げの神事」と呼ばれるものが稲佐の浜、出雲大社で行われますが、これも不思議な内容です。以下紹介します。

「八月十一日(旧暦七月四日)の夕方からはじまる。出雲大社のすぐ近く、稲佐の浜で禰宜(ねぎ)が海水で身を清め、潔斎所に籠る。十三日の晩には、出雲大社の摂社で櫛八玉神を祀る湊社(みなとのやしろ)に参拝し、さらに稲佐の浜の塩掻島に参拝する。この一連の行事は「道見」(みちみ)という。
 八月十四日の深夜。出雲大社境内のありとあらゆる門が開かれ、狩衣を着込んだ禰宜が右手に青竹の杖、左手に真菰の苞(しぼ)と火縄筒をもって、裸足に足半草履(あしなかぞうり)の格好で姿を現すと、祝詞をあげ、神幸をはじめる。道順は「道見」で下見したとおりで、それぞれの神社をめぐって行く。
 禰宜の役回りは、大国主神のお供で、大国主神は「透明人間」のように、そこにいて、大国主神が神幸していることになっている。
 この祭りの一番の謎は、なんといっても、神幸する禰宜の姿を、だれ一人見てはいけない、ということなのである。もし見られたら、「穢れた」として、もう一度本殿に引き返し、はじめから神幸をやり直すという徹底ぶりである。そのため、この日はどこの氏子の家も、堅く扉を閉ざし、外出を控え、息をこらしているのだという。
 また、この神事を身逃げの神事と称する理由は、次のようなものだ。すなわち、本来ならば神幸に奉仕しなければならない国造が、この間、館を出て別の一族の館に移り、潔斎するからだという。そして、神幸が終わった時点で、すぐに館にもどるのだという。」

 この夜逃げの神事を関裕二氏は以下のように読み解いています。
「出雲国造家は天穂日命(あまのひほこ)の末裔で大国主神を祀り大国主神そのものと言うのに神幸に加わらずになぜ身逃げしているのか。なぜ人々が神幸を見てはいけないのか。
 出雲神話の周辺には「死んだ神が出雲神にそっくりだった」「そっくりな人間が犠牲になって死んだ」という話が散見できる。これは現実に出雲で起こっていて、だからこそ、出雲国造家は秘密の祭りを今も続けているのではあるまいか。
 殺されるべき主役は実は身を潜め、生きていたのではなかったか・・・。つまり、殺されたのは大国主神のそっくりさん、身代わりだった・・。これこそ、身逃げの神事の本当の意味ではなかったか。
 あるいは、主役が入れ替わる祭りの中に「歴史そのものが入れ替わった」ことが暗示されているかもしれません。ここにいう歴史とは出雲国造家が出雲に同化したという神話の設定そのものが、嘘だったのではないか、ということであり、出雲国造家こそ出雲神を裏切った主犯だったのではないかという疑いである。」
「大国主神は、出雲の国譲りを果たしたあと、幽界に去ったと神話には描かれる。政争に消えて無くなったということは、ようするに殺されたのだろう。だが、本物の大国主神はどこかに生きていたのではなかったのか。そして、何者かが身代わりとなった・・。これが身逃げの神事の歴史的背景ではないかと思えてくる。そうでなければ、この様な奇怪な神事を編み出した理由が分からなくなるのである。」
 
 いよいよ出雲の世界は神話に描かれたこと、神事にみられるその内容も複雑、奇怪な様相が色濃くなってきました。全容が徐々に明らかになって、その核心に近づいて来たようです。