出雲大社の祖神様と崇敬されていますが、その縁起は以下です。
「下の本社(日沈の宮・日沉の宮、ひしずみのみや)は天暦2年(948年)、村上天皇勅命により祀り、上の本社(神の宮)は安寧天皇13年(紀元前536年)、勅命により祀られ、総称して日御碕大神宮とされた。「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社、である事による。
御祭神は下の本社/日沈の宮は 天照大御神。上の本社/神の宮 は神素盞嗚尊」
「昔、日沈の宮はアメノフキネノミコトが経島にいた時、アマテラスオオミカミが降臨し、「吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん。汝速かに吾を祀れ」との勅命を受け経島と言う島に鎮座しました。
スサノヲノミコトが熊成の峰に上り、「私の神魂はこの柏葉が止まった所に住もう」と、柏葉をなげると風に舞い今の日御碕神社の背後の「隠ヶ丘」に止まったため神魂の鎮まるところとして日御碕神社の神の宮に祀られました。」
この神社はそもそもは上の本社/神の宮は出雲風土記にいう「美佐伎の社(みさき)」で神素盞嗚尊が祀られていました。そこに1500年も後に出雲風土記にいう「百枝槐の社(ももえだみたま)」、延喜式神名帳では「御碕神社」が下の本社/日沈の宮として天照大御神が祀られていて、近世では「日御崎大神宮」、明治以降は「日御碕神社」と言われています。出雲大社よりも前に祀られているようです。
さらに以下の記載があります。
「出雲風土記(733)に美佐伎社・百枝槐社の名があることから、8世紀初頭、当地に二つの神社(規模不明)があったのは確かといえるが、その始まりが何時まで遡れるかは不明。
また
・アマテラスあるいはスサノヲという神統譜の中心に位置する神を祀るにしては、社格順に並べたとする風土記の神社において、美佐伎社が出雲郡所属の神社122社中の12番目、百枝槐社は最後であり、重視されていた痕跡はないこと
・出雲風土記・出雲郡の条に、アマテラス・スサノヲにかかわる伝承が見えないこと(スサノヲと出雲との関係は深く、関連伝承は出雲国のほぼ全域に見えるが出雲郡・楯縫郡には見えない。また、出雲国風土記にアマテラス関連の伝承は見えない)
から、風土記編纂当時の祭神は異なっていた可能性が強く、
・美佐伎社--隠れヶ丘に坐す山の神といった素朴な自然神を祀る小祠(古代の当地一帯が所謂・御碕海人の根拠地であったことから、これら海人達が信仰したミサキ神ではなかったかともいう)
・百枝槐社--日本海に沈む夕陽を崇拝する古代の人々が、経島に日神を祀った小祠(当社および出雲大社からみて、夏至日の夕陽は経島の方角に沈むという)
というのが当初の姿ではないかと思われる。
両社の創建にかかわるとされるアメノフキネ命とは、
・古事記--スサノヲ5世の孫・天之冬衣神(アメノフユキヌ)、オオクニヌシ(オオナムチ)の父神
・日本書紀・8段一書4--ヤマタノオロチの尾から出た剣(草薙の剣)を、スサノヲが「これは私のものにすることはできない」として、五代の孫・アメノフキネを遣わして、天に奉られたとあるが、他にこれといった事蹟は知られていない。神話上での話とはいえ世代的に平仄があわず、記紀編纂時の創作であろう。
なお、アメノフキネは当社の宮司・小野家の遠祖という(但し、傍証となる資料等はみえない)。」
柏葉が止まったと言われる隠ヶ丘が神社近くにありますが以下の記載があります。 http://blogs.yahoo.co.jp/fudasyosanpai/31759555.html
「神蹟 隠ケ丘
神代の昔、素盞嗚尊、高天原より出雲に降り斐の川上に八岐の大蛇を退治し国津神の娘櫛稲田姫を后とし給う。これ天津神と国津神の婚姻の始めなり。
かくて尊は出雲の国造りを始められ国土経営の御神功を終えられるや、その後を大国主命に譲られ根の国にわたり熊成の峯に登り給い柏葉を取り
「 吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まわむ。」
とお投げになったところ、葉は風のまにまに遂に美佐伎なる隠ケ丘に止まる。
ここに於いて御子天葺根命 ( 天冬衣命とも申す ) ここを尊の御神魂の鎮ります処として
斎き祀り給うという。
後、安寧天皇十三年、命の五世孫、御沼彦尊 ( みぬまひこのみこと ) 勅を奉じ今の宮地に神殿を建て遷し祀らえる。 これが延喜式にみる美佐伎社なり。
後、天暦二年、村上天皇の勅により上下両本宮を併せて日御碕大神宮と称へられることとなり、永くこの称号は続きしも明治より後は日御碕神社と改められる。
尚、以前にはこの付近から海馬の化石が出現し、これらを神紋石と申せり。また日御碕神社の御紋章 「 三ツ柏葉 」 はこれに由来するものなり」
現在は「日御碕神社は素盞嗚尊の神魂の鎮まります霊地として、根の国の根源として中央より厚く遇せられ、神の宮は素盞鳴尊をお祀りする日本の総本社」として崇敬されています。ですから元々, 素盞嗚尊をお祀りしていたところに天照大神を強引に祀りあげたような印象があります。
社殿は、徳川三代将軍家光公の命により再建された権現造りの建物ですが、素盞嗚尊を祀る、上の本社/神の宮の本殿の千木が内削ぎで水平ですから本来は女神の社です。片や天照大御神を祀る、下の本社/日沈の宮は千木が外削ぎで垂直で、鰹木が三本で奇数ですから男神のはずです。しかしここでは男女神は反対です。これはどういう意味があるのでしょうか。
関裕二氏によると以下の記載があります。
「日御碕神社の神官を務める小野氏は別名を検校家(けんぎょうけ)といいます。検校とは神宝の支配権をはく奪することです。かつて第十代崇神天皇の時代に出雲の神宝をヤマト朝廷が検校しています。だとすると日御碕神社は出雲大社を封じ込めるために建てられたのだろうか。事実、二つの神社は昔から仲が悪いという。」
日御碕神社だけでなく石見国一宮物部神社も出雲大社と仲が悪いといいます。果たして如何なのでしょうか。
大和朝廷がその権威をもって、地方の豪族や由緒ある神社などの宝物を調べただすことを、「神宝検校(ケンギョウ)」といいます。出雲大社の検校について調べてみると以下の様です。
「出雲の神宝が古くから注目されていたことは、たとえば、『日本書紀』の崇神天皇六十年七月の条や垂仁天皇二十六年八月の条の、出雲の神宝の貢上あるいは出雲の神宝の検校などの伝承にもうかがうことができます。
さて、『日本書紀』に出てくる話とは、日本書紀崇神天皇六十年の条に、「崇神天皇は天穂日命(アメノホヒ)の子武夷鳥(タケヒナトリ)が天から持ってきたと伝えられ、出雲大神の宮に納められている出雲の国の神宝の提出を、武諸隅(タケモロスミ)を遣わして出雲に要求します。
神宝を司っていた出雲振根(イズモフルネ)が筑紫へ出かけて留守の間に、弟の飯入根(イイイリネ)は、神宝を我が子鵜濡渟(ウカツクヌ)と弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)に持たせて朝廷に貢上してしまいます。
筑紫から帰ってこのことを知った出雲振根は怒って弟飯入根を止屋(ヤムヤ)の渕でだまし打ちで殺してしまいます。飯入根の子と弟がこのことを詳さに朝廷に奏上すると、朝廷は軍を派遣して出雲振根を誅殺した」という話です。
次に、垂仁二十六年秋八月の条には、物部十千根(トチネ)大連が、出雲の神宝を検校した話が出てきます。十千根大連は、古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、大和朝廷の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている石上神宮(いそのかみじんぐう)で、神宝も管理することになったといわれています。
大和朝廷は二度も出雲の神宝を検校したことになります。この二つの関係を、「崇神六十年の時に既に神宝は出雲から朝廷に提出されているはずなのに、垂仁二十六年に物部十千根を神宝の検校のために出雲へ行かせるのは矛盾点がある。」とすべきか、そうではなく、「まだ他の神宝も持っていた。」とするか見解が分かれます。」
「古事記にも,倭健命(やまとたけるのみこと)が出雲建(いずもたける)を討伐したとあるが,倭健命は人々の尊敬が厚く,この人物の行動の跡には必ずと言っていいほど神社があり具体的な行動を伝えている。しかし,出雲にこのような神社は存在しない。これは,この物語が,何か別の事件をここに移したものであることを意味している。古事記の記事は日本書紀の出雲神宝検校事件と殺害方法がよく似ていることから,この二つの事件は同じことを意味していると考えられる。古事記の方が古いのであるから,どちらも実際の事件を時代を変えて移したものと考えられる。
ここに記録されている出雲大神の神宝とはいったい何であろうか。出雲大神とはスサノオ以外に考えられない。出雲風土記の神庭郷の条に「出雲大神の神宝を積み重ねておいたところ」と記録されている。神宝は,スサノオに関係した何かと考えられる。スサノオの祭器といえば,国家統一時にシンボルとした銅剣・銅矛である。これと,神庭郷のすぐ近くの荒神谷から,358本の銅剣と,16本の銅矛と,6個の銅鐸が,出土していることとの関連が考えられる。出雲大神の神宝とは,この銅剣・銅矛ではあるまいか。」
国譲りと言いながら、大国主を葬り、神宝をだせと検校が成されているようですが、神話ではヤマトタケルの命のイズモタケルをだまし討ちがあまりにも相似しているようです。記紀作成時期にあの手この手で事実が歪められて伝えられてきているようです。
実は「大国主命」が架空の人物であり、平安から江戸時代にかけて、出雲大社の祭神がスサノオノミコトであったことも指摘されています。更には聖徳太子も架空の存在だったとも・・・。
日御碕神社参拝後は日御碕灯台に行きましたが沢山の観光客で賑わっていました。高さ43.65m、石積みの灯台としては東洋一の高さ灯台に登る事が出来ますが遠く海の彼方に隠岐の島がみえますが、韓国がまじかに感じられる地です。夕陽の景色は格別なようです。海岸の遊歩道を散策して心地良い潮風を浴びてきました。