出雲空港に車を飛ばしてぎりぎり飛行機に間に合いました。慌ただしい盛り沢山な出雲巡りも無事に終える事が出来ました。今回の旅をきっかけに20冊程の本に目を通し新たな発見も頂けました。雲太は確認できました。しかし須佐、スサノウは未だはっきりしません。諸説があり時代も含めて良く分かりません。
原田常治氏はスサノウは122年頃に島根県平田市平田町(現在は合併して出雲市)で生まれたと言います。原田氏の歴史の読みを関裕二氏が以下にまとめています。
「スサノオは、西暦122年ごろ、出雲国沼田郷で生まれた。スサノオが20歳ごろ、出雲第一の豪族・ヤマタノオロチを討ち倒し、35歳ごろには、出雲で頭角を現す。やがて出雲を統一したスサノオは、西暦173年ごろには九州遠征を決行し、これを平定、アマテラス (『魏志倭人伝』のヒミコ)と出会い、両者はここで同盟関係となる。
いっぽう、スサノオの第五子・ニギハヤヒは、西暦150~151年ごろの生まれで、20歳をすぎたころスサノオとともに九州に遠征し、183年ごろ、スサノオの命で大和に向かった。ニギハヤヒは、それまで大和を支配していたナガスネヒコをたたかわずして臣下におさめ、その妹の三炊屋媛を娶る。さらにニギハヤヒは休む間もなく、瀬戸内沿岸を次々に攻略、出雲王朝の基礎を築いたのである。
ところが、九州から大和に至る一大勢力となった出雲王朝も、スサノオの死後、あっけなく衰退していく。相続問題のこじれを、ヒミコの九州王 朝(天皇家)につけ込まれたのである。この結果、九州王朝は出雲からの独立に成功する。ちなみにこの事件が、“出雲の国譲り神話”もとになったという。
さて、王朝の中心を大和に遷した出雲王朝では、やがてニギハヤヒも亡くなり、末子が幼少であったため(この当時は末子相続であったと原田氏は説く)長子のウマシマチが代理人として政務を司っていた。
西暦230年ごろ、九州王朝は大和の出雲王朝に、あるひとつの提案をもち込んだ。両国を合併させようという大同団結を提唱したのである。幸い出雲王朝の相続人は、「伊須気依姫」という女子、かたや九州王朝の相続人は、ヒミコの孫で、末子の「伊波礼彦」(のちの神武天皇)、どちらも正統な相続人であった。
ここに、両朝は合併に合意した。これが、『日本書紀』に記された神武東遷の真相であったと原田氏はいう。そして新王朝誕生と同時に、両朝は重大な取り決めを交わした。
それは、代々の天皇は九州王朝の男子とし、その正妃は出雲王朝の女子から選ぶこと、そしてその正妃の親族が天皇を補佐し、政治の実験を握る、というものであった。
このように、出雲・九州両朝の合併によって成立したのが大和朝廷であり、ニギハヤヒの末裔・物部氏が衰弱した七世紀、出雲王朝の実像は天皇家の手によって抹殺されてしまったと、原田氏は説くのである。」
スサノオは、大和朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させてい日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言いいます。熊野の大神です。
また、小椋一葉著「消された覇王」ではその別名が
「午頭天王」(ごずてんのう)、
「大山祗神」(おおやまつみのかみ)、
「高龍(注)神」(たかおのかみ)、
「雷神」(いかずちのかみ)、
「大海津見神」(おおわたつみのかみ)、
「八大竜王」(はちだいりゅうおう)、
「八千矛神」(やちほこのかみ)、
「軻遇突智神」(かぐつちのかみ)
など、「山・海・火・水・雷」という、おおよそ、自然に関係する神は、すべてスサノオの別名で、まさに日本建国の始祖に相応しいばらしい神だ。と記述しています。
原田常治氏は「古代日本正史」の中でスサノオは神話でいわれているようなアマテラスの弟のならずものなどではなく「理想の男性」と表現して以下のように述べています。
「この素佐之男という人は、調べれば調べるほど、素晴らしい魅力のある男性であることが分かってきた。まず、非常に勇猛で強かった。一生涯戦って敗れたという記録がない。非常に頭が良くて出雲、隠岐を百八十六カ村に分けてそれぞれに神(村長)をおき、自分が住んでいた須賀から離れている西出雲には支庁をおいて時々そちらに出張していた。そのあとを祀ったのが須佐神社。隠岐の島は水若酢尊(みずわかすのみこと) に支配させていた。隠岐の島は外交ルートの重要なところだったから有能な人だったらしい。水若酢神社として祀られている。スサノオがどこでも仁慈の名君と慕われたことは、出雲地方ばかりでなく、九州の占領地のほとんど全域、特に筑前、筑後、豊前、豊後地方で1800年たった今でも、八阪神社、祇園社、牛頭宮などの名で、或いは熊野神社の名でスサノオを氏神様として祀っている町村が多いことからもわかる。九州占領政治の期間は僅かであったのに、住民にこれだけ慕われているのを見ても、よほど優れた名君であったのだろう。また、家庭にあっては、8人の子が全部稲田姫の産んだ子で、皆優秀でその子孫がたいへん栄えたというので、弥栄神社という名で祀られ、それが8という数字に結びついていつの間にか夫婦と8人の子を祀った社を八阪神社という名になって現在全国到る所に祀られてもいる」
そのスサノウを祀る神社は以下です。
八坂神社(八阪神社)、弥栄神社、祇園神社、素盞嗚神社(素戔嗚神社)、感神社、彌劔神社(八剣神社)、広峯神社(広峰神社)須佐神社、八雲神社、須賀神社、津島神社、天王神社、氷川神社、熊野神社
「私説日本統一国家の誕生」で片桐新自氏は「スサノオが日本の最初の大王」として以下のように述べています。http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~katagiri/JPstate.htm
「神話上はアマテラスの弟とされ、あまりの乱暴さ故に高天原を追放され、出雲に来たとされるスサノオだが、全国にある彼を祀る神社の多さなどを考えると、彼こそ古代日本に最初に大きな勢力を築きあげた大王であったと考えるのが妥当である。スサノオという名前も長姉のアマテラス(天照)や次姉のツクヨミ(月読)が、太陽神と月神のわかりやすい表示名であるのに対し、まったく違う名のつけ方であり、まったく別種の神と考えざるをえない。普通に考えれば、「荒(すさ)の王」と字を当てたくなる。
出雲は朝鮮半島から船出して、海流に乗ってたどり着きやすい地域であるので、スサノオは朝鮮半島から渡ってきた勢力のリーダーあるいはその子孫と考えられる。その後の任那(伽耶国)への大和朝廷の固執ぶりを考えると、伽耶から渡ってきた勢力である可能性が高い。出雲を出発点として、越前、伯耆、因幡、但馬、丹波(丹後を含む)、若狭、近江、山城、瀬戸内の吉備、播磨、摂津、河内、大和、紀伊、尾張、美濃などにまで勢力を拡大したと考えられる。
スサノオの逸話でもっとも有名なヤマタノオロチは、「越」(越前?朝鮮半島からたどりつきやすい地域のひとつ)から毎年やってきて娘たちを奪っていったという話であるから、これは当時出雲が越前に対して劣位の立場にあったのを、スサノオの力で逆転したと読むことができる。
紀伊の熊野大社も源流は出雲の熊野大社と言われているし、京都の八坂神社を筆頭に各地に存在する祇園神社はすべてスサノオを祀っている神社である。(備後のえのくまで蘇民将来と出会った逸話があり、スサノオに礼を尽くした蘇民将来一家を助けるために、茅の輪を贈り疫病から逃れさせたことから、全国各地の祇園神社では夏に「茅の輪くぐり」という行事を行うようになっている。)
出雲勢力との関係が深いと考えられる物部の地名が北部九州周辺に多くあることから、出雲勢力が北部九州に進出した後、畿内に移動し、一大勢力になったという見方を取る論者もいるが、元伊勢神社の位置などから考えると、出雲勢力は出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後、丹波、摂津、河内、大和というルートと、出雲、吉備、播磨、摂津、河内、大和というルート(ともに陸上ルート)のいずれかあるいは両方を辿って、畿内に入ったのではないだろうか。(この出雲勢力は大和には入らず、河内に拠点を据えていた可能性もある。)
筑紫は朝鮮半島に近く高度な文化の取り入れ口になっていたため、進出あるいは協力関係構築の必要性があっただろうが、出雲神話の逸話には、海上ルートを利用するようなエピソードはなく、スサノオを中心とする出雲勢力は、西は出雲・備後から、東は尾張・美濃・越前あたりまでを影響力下に置いていたのではないかと推測する。
先にも述べた大神神社は、日本一古いと言われているが、ここに祀られているのが出雲系の神である大物主大神である。箸墓古墳や崇神天皇陵などがある三輪地域にあり、初期大和朝廷発祥の地でもあるが、そこに出雲系の神が最初の神として祀られているのは興味深い。
大和の地は、瀬戸内海を東に東にと進んでくるとたどりつく地であるため、九州からは幾度も東遷してきた勢力があったと考えられる。『古事記』では、イワレビコ(神武?崇神?)が日向から東遷してきたことになっているわけだが、そこにはすでにニギハヤヒという王がおり、その王に仕えるナガスネヒコが激しく抵抗したため東からは入れずに、南の熊野から北へ上がる形で入っていく。しかし、ナガスネヒコは戦いで打ち破られたのではなく、ニギハヤヒとイワレビコが同じ神から遣わされたものだと知り、困惑しているうちに、ニギハヤヒによって殺害され、ニギハヤヒはイワレビコに国を譲るという形で戦いは終息を迎える。同じ神から遣わされたものとわざわざ記されているのは、出雲勢力も日向勢力ももともとは朝鮮半島南部にあった伽耶国(任那)から渡ってきた同族であることが暗に語られているのではないかと考えられる。(ちなみに、4世紀後半にやってきて応神朝を作り上げる勢力は、百済系勢力であり出自をやや異にすると推測している。)
ニギハヤヒを祖神とする物部氏の由来を示した『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒは娘をイワレビコに嫁がせている。『古事記』では、神武東征の前にオオクニヌシ(スサノオの子孫で出雲勢力のシンボル的存在)の国譲りの話があり、これとの類似性が気になるところである。ニギハヤヒをオオクニヌシ(大国主)という名で登場させ、日向勢力が大和に定着する以前の国の主だったことを示しているという解釈は十分可能な気がする。
神武と崇神は和名が同じで同一人物ではないかという説も根強いし、そうでなくとも大和入りの経緯はどちらかのものであろう。いずれにしろ、九州から入ってきた勢力がすでに大和に勢力を持っていたニギハヤヒとナガスネヒコの勢力と戦わざるをえなかったことは確かである。私はかつて闕史8代(2代~9代)を架空の存在と見る立場に賛同していたが、崇神が神武の事跡(神武東征)をなした王であると考えるなら、それ以前に強大な勢力が大和にあったことは確かなので、その勢力の存在を神武以下の9代として描いていると考えることもできるだろう。そして、この勢力が出雲系である可能性は大きいのである。
ニギハヤヒの正体は明確ではないのだが、『日本書紀』や古代神社の伝承などを総合的に考えると、出雲系の王であったことはほぼ間違いないだろう。このニギハヤヒの子孫が物部氏であるということは、実は物部氏自身が最初に畿内強力な勢力を確立した王であったと考えることもできるのである。」