松江城を車窓から眺めて、向かう目的地は佐太神社です。
佐太神社は出雲二之宮で、出雲国三大社の一つで佐陀大社といわれ、神有月に八百万の神が集まり色々な神事がなされる処で、神在の社とも言われます。御祭神は佐太御子神であったものが色々な複雑な事情で今は、本殿には三段12座が祀られています。立派な大社造りの三殿には以下の神々が祀られています。
正殿:佐太御子大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。
北殿:天照大神及び瓊々杵尊の二柱。
南殿:素盞嗚尊及び秘説四柱の計五柱。
佐太御子大神は「出雲国風土記に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。」とされ後世では佐太御子大神は猿田彦大神と同一神とされています。何とも沢山の手が加わり多くの天津神と国津神と言われる出雲のスサノウ始め秘説四柱の神々と怪しげな祀り方です。
佐太神社は早朝で参拝者はほとんどいません。平成28年の遷宮の為の工事が成されています。仮拝殿でお詣りしました。ここでも神在祭が行われます。
「秋の神在祭は11月20日夜の神迎神事から始まる。
本殿周囲には注連縄(しめなわ)が張り巡らされている。神職が南口から入り、礼拝後、傍らで佐太独特の礼拝方法である「四方拝」を行う。そして一旦外に出て、直会殿にて秘儀。再び注連縄内にひもろぎを捧げ持って入り、殿内に安置する。以後25日の神等去出神事まで一切誰も注連縄内に入ることはできない。
25日夜に神等去出神事が行われる。祝(はふり)が包丁で青木柴の縄を切ることから始まり、神迎えの際と同様の儀式が行われる。中殿前からひもろぎが下げられ、祈祷所内で秘儀。その後ひもろぎを捧持して神職が出場し、行列を組んで神送りの場となる「神目山」へ向う。
神目山にて神送りの儀式を終え、神社に帰ると「お忌み」の終了となる。30日にも、帰り残った神々をお返しするために止神送神事として同じ神送りを行う。」
佐太神社と神無月、出雲国譲りについて、原田常治著「古代日本正史」の中で以下のように書かれています。
「武御名方尊(たけみなかたのみこと)は、出雲の神君、素佐之男の末子須世理姫と、養子の大国主との間に生まれた三人の中の末子で、出雲の正統相続人である。・・それが、父の大国主が、日向の邪馬台国西都で、日向妻の多紀理姫の許で亡くなった。その多紀理姫の生んだ二男一女の末子、事代主が、日向、出雲全体の相続人ということになったが、まだ幼なかったから九州のほうは、祖母の大日霊女尊が代わりに政治をして女王になった。そして、出雲の相続権も主張して、出雲を事代主に明け渡すようにと度々交渉があった。しかし、父の大国主は養子であるから、出雲の素佐之男の血統は、武御名方が正しいと考える母の須世理姫とともに、出雲は絶対に渡せないと、頑として拒否した。・・日向側は、あくまで末子相続権を主張して、平和裡に話が進まないなら、仕方がない武力に訴えても相続すると、最後には天児屋根、タケミカヅチ、経津主の三軍を動員し、幼い事代主と母の多紀理姫を擁して出雲へ乗り込んできた。」
「その時、出雲半島の突端、関の五本松の下の今の美保ガ関に、事代主、多紀理姫の母子を待機させて、松江の方へ乗り込んでいる。日向軍は全部松江大橋川の北岸に上陸している。・・松江大橋川を挟んだ決戦は簡単に終わったようである。むしろ、武御名方は、ある程度手兵を温存して脱出したのではないかと思われる。」
「武御名方を出雲から追放した後、誰が出雲の政治をやったか。これが驚いたことに、大国主時代に九州統治の責任者として出雲から西都に出張していた猿田彦を逆に抜擢して当たらせたのである。・・ 猿田彦は、まだ気持ちの上で納得できずにいる出雲族のタカ派たちを刺激しないように、一族の住んだ松江の南側から、はるかに遠い松江駅から八キロも北の、現在の鹿島町宮内に出雲政庁をおいた。そして当時としては最高の民主政治であると思われる、族長議会政治を行った。その議会は十月に行われた。当時の出雲と隠岐の神(部族長)は、百八十六名と伝わっている。それが一堂に集まるから、ここを神在社といい、他の出雲中には、神がいないということで、「神無月」といった。十月を神無月というのは、出雲、隠岐だけの神無月で、これを日本全国のようにデッチあげたのは、それから四百年も後に日本書紀ができたあとの霊亀二年に、現在の出雲大社を造ってからの話である。」
何とも明解な見解です。原田恒治氏の「古代日本正史」は記紀に記されている内容に囚われずに古の神社の記録などをあたって調べ上げた独自の歴史観でとても興味深い世界です。先の須佐雲太1で触れた美保神社での国譲りについても原田氏の見解の方が事実のように思えます。それらについては後でまとめたいと思います。
次の目的地は「菅谷たたら」です。http://www.tetsunorekishimura.or.jp/sugatani.html
雲南市吉田にある菅谷たたらは、映画「もののけ姫」に登場する「たたら場」のモデルになったところです。
「出雲地方は、古来より「たたら」と呼ばれる伝統技法による製鉄が盛んに行われていました。明治以降、近代洋式製鉄法にその位置を譲るまで、島根県は全国の製鉄の中心地だったのです。1751年から1921年まで 170年間にわたって操業が続けられ、最盛期の文政年間(1818~1829年)には年間 200トンもの鉄を生産しました。高殿様式の現存するものとしては全国唯一で、昭和42年に国の重要民俗文化財に指定されています。」
「たたら製鉄は、粘土で築いた炉に砂鉄と木炭を交互に装入し、「ふいご」と呼ばれる送風機で風を送り木炭を燃焼させ、砂鉄を分解、還元して鉄を得る方法です。出雲地方を含む中国地方一帯では、古くから「たたら」による製鉄が盛んに行われ、江戸時代の最盛期には全国の鉄生産量の約7~8割を出雲地方で産出しました。その中心的な役割を担ったのが雲南市吉田町を拠点にたたら経営を行った「田部(たなべ)家」ですたたら製鉄とは粘土製の炉の中に、原料(砂鉄)と、燃料(木炭)を交互に装入し、砂鉄を溶かして鉄の塊を得る技術です。」
山の中の小さな集落の中に菅谷たたらはありました。しかし残念ながら改修作業中で見学できませんでした。うろうろしていたら係りの方がお出でになって特別に工事中の内部を見学させて頂ける幸運に恵まれました。24年から5年間かけての大改修です。写真で改修前の姿を観ましたが木造の凄い建築物です。たたらの脇にある桂の木の巨木はご神木で、4月の芽吹きの時に3色に変えていくと言います。
古事記に登場するスサノウのヤマタノオロチ伝説は有名ですがその解釈はいろいろあります。その中で以下の内容を紹介しておきます。
「ヤマタノオロチ退治の神話は、出雲地方や備中地方に伝わる神楽の最後のクライマックスとして演じられることが多く、今も人々の生活の中に生き続けているのだが、いったいこの神話は何を物語るものなのか。
いろいろ説はあるが、斐伊川は大蛇のように蛇行して宍道湖に注いでおり、オロチとは斐伊川そのものだといわれている。八つの頭と八つの尾はその数多い支流や分流を表しているというわけ。そのうえこの斐伊川は大雨のたびに氾濫する暴れ川である。氾濫のため下流の農耕民が稲田を失うこともしばしばだった。したがってスサノオ命がオロチを退治して娘の命を救ったのは、斐伊川という暴れ川を鎮めた、つまり、大治水工事をして下流の農耕民を救ったことを神話的に表現したものと考えられる。
ここではこの説をさらに一歩進める。
かつて斐伊川上流は、日本の代表的な砂鉄の生産地だった。山を切り崩した土砂を水とともに流して比重の重い砂鉄を「かんな流し」という方法で選別採取したあと、この砂鉄を土で固めた炉の中で木炭とともに高温で溶融して鉄を取り出す、いわゆる「たたら製鉄」は、すぐれた刀剣や土木農耕具をつくってきた。
しかし、一方で、山を崩し、斐伊川の下流に赤く濁った砂鉄の水を流したために、農耕民の稲田に大きな被害を与えた。日本の公害第一号である。山を崩すとともに、木炭をつくるため山林を伐採し、土砂を川に流して川底を押し上げる、そのような長年にわたる砂鉄生産の営みは、古代の自然破壊の先例で、斐伊川の災害をより大きなものにした。単なる自然災害ではなく、それは明らかに人災だった。
とすれば、ヤマタノオロチとは、実は斐伊川に拠って砂鉄生産に携わっていた古代製鉄集団ではなかったか。
「眼は赤いホオズキの如く」とは「たたら製鉄」の炎のこと、「腹はことごとく血ただれたり」とは赤く濁った川底の砂鉄のこと。オロチの尾から天叢雲剣が出てきたというのも、オロチが製鉄集団であることを物語っている。
このオロチを退治したスサノオ命は、出雲の砂鉄採取権を手に入れるとともに、大土木工事をして農民をも掌握したことを意味している。
紀元前十七世紀に栄えた古代小アジアのヒッタイト帝国に起源をもつとされる古代の製鉄技術は、やがて中国に伝えられたが、その中国では大きく二つの流れがあった。そのうち江南地方では砂鉄を原料とする鍛造品が主体になっているのに対して、華北では鉄鉱石を原料にした鋳造品が中心となっており、製鉄文化のうえで、明らかに異なる様相を示している。日本には稲作とともに最初に江南の製鉄技術が導入され、出雲など各地に広がった。これがヤマタノオロチ集団である。
これに対してスサノオ命に代表される製鉄グループは、華北から朝鮮半島を経由して日本へやってきた後続の鋳造鉄技術集団と考えることができる。
ともあれ、古代において鉄は最も重要な資源であり、それを作り出す集団は、当時最高のハイテク技術集団だった。スサノオ命は、砂鉄の大産地・出雲で先住の製鉄集団・オロチを退治し、さらに大治水工事をして農民をも掌握、製鉄というハイテク技術集団を統括する大政治家になったのである。
スサノオ命は高天原から出雲の鳥上山に天降ったとされている。
しかし、これは高天原神話と出雲神話を結びつけるため、『古事記』と『日本書紀』の編集者が都合良く創作したもので、スサノオ命は天から降って湧いたものでもなんでもなく、実は、朝鮮半島の古代三国の一つである新羅(しらぎ)から渡ってきたというのが本当の姿である。
『日本書紀』の一書に曰くとして次のようなことが書かれている。
「スサノオ命は高天原を追放されたとき、その子の五十猛命(いそたけるのみこと)を率いて新羅の国に降り、ソシモリという所にいた。だが、この地には住みたくないと埴土の舟に乗って出雲へ渡り、斐伊川の鳥上山にやってきた」
ソシモリとは、三世紀から七世紀の間に朝鮮半島で栄えた新羅の王都・慶州を意味する言葉であり、スサノオ命はその慶州から日本にやってきた渡来人ということになる。」
神話と現実の世界は如何様に創作され虚構化されているのか。私達の固定概念を改めることが必要かもしれません。