「『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来須佐之男命の本宮とされた。社家の須佐氏は、須佐之男命の子の八島篠命を祖とすると伝える。」
「明治になるまでに何度か社の名が変わり、奈良時代には須佐社、平安時代には須佐神社、室町時代には十三所大明神、天文年間には大宮大明神、近世では須佐大宮、また出雲大宮、そして明治4年に今の須佐神社と制定。」
須佐神社は須佐之男命の終焉の地で御魂鎮めの御社として神戸川の支流の須佐川のほとりにあります。境内には、樹齢1200年以上という大杉がそびえ、須佐の七不思議に数えられる「塩井」が湧出して数々のスピリチャルな伝説が残されています。有名な霊能者に現代に残る聖地と言われ、パワースポットとしても取り上げられています。
須佐之男命を主祭神とし、妻の稲田比売命、稲田比売命の両親の足摩槌命・手摩槌命を配祀しています。しかし、何故に何度も社名が変わるのか、祭奉する側、時の支配者の思惑、意図に翻弄されていたところと思えます。
参拝者の方も多く居ましたが、のんびりとお詣りできました。何度も参拝していますが大社造りの本殿は重厚ですが、やはり裏の大杉のエネルギーは素晴らしいものでした。
次の目的地は出雲の国の西隣り、石見の国一之宮の島根県太田市にあります物部神社です。名前の通り古代の有力な豪族の物部氏所縁の神社です。御由緒には以下のように記載されています。
「御祭神 宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)は、物部氏の御祖神として知られております。御祭神の父神である饒速日命(にぎはやひのみこと)は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命(みかしきよひめのみこと)を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。
神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)
その後、御祭神は天香具山命(あめのかぐやまのみこと)と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮(いつへ)を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。」
社殿創建に付いては以下です。
「最初は神体山である八百山を崇めていました。 後に、天皇の勅命により継体天皇八年(513年)社殿を創建し、その後、石見銀山争奪の兵火などで三度消失しました。
宝暦三年(1753年)再建され、文政元年(1818年)の修理を経て、安政三年(1856年)宝暦時の規模で改修され現在に至っています。(現在、県指定文化財)春日造では全国一の規模です。」
物部神社の御神紋は「ひおい鶴」ですがとても珍しいものです、鶴が太陽を背景にしているのは、物部氏の祖神である饒速日命が、太陽信仰と深い関わりを持っていたものと考えられます。以下が神紋についての神社の説明です。
「物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。 この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。」
宇摩志麻遅命の母親の御炊屋姫命は大和の土着の首長の長髓彦の妹です。神武が九州からヤマトに来たと言われる神武東征はその実、饒速日命亡き後、饒速日命の末娘の伊須気依姫の婿に来たのが事実の様です。当時は末子相続で行われていて、モンゴルの風習の様です。神武の婿入りに反対していたのが長髓彦でした。饒速日命の長男の宇摩志麻遅命が長髓彦を殺して、二男の天香具山命(高倉下尊)は八咫烏として神武を紀州から導いた方で、共に神武のヤマト王権の立役者です。
宇摩志麻治命は大和最大の豪族、物部氏の祖神ですが、何故に宇摩志麻遅命がこの石見に鎮座し、尾張氏の祖の天香具山命が越国(新潟県)の弥彦神社に鎮座したのか。それは出雲の国譲りに深く関係がありそうです。
「この物部神社は大和建国と同時に、大和と敵対した出雲の「お目付け役」として監視するかのように、出雲の隣国の地である石見の地に建てられたのではないか。」とも言われていますが、以下参考になる記載を紹介します。
「石見から出雲を見張る、地域の民人を物部に組み込んだ、など、何故、この石見の地に物部の準本拠のような神社が鎮座しているのか、色々と問われてきたようだ。この時代に各地に勢力を伸ばしたとする各地の物部氏の伝承が後世に出来てきたのであろう。平家の落人伝説のようなものだったのかも知れない。
天武政権は自分達の皇統は天照大神を始祖とする日向系氏族の正当性を謳いあげ、素佐之男命を始祖とする出雲一族である饒速日尊―宇摩志麻治尊―物部氏への血脈を史書より抹殺したことに端を発している。
即ち日本書紀には大物主命は大己貴命(大国主命)と同一人物と苦し紛れの嘘を書いているが、実際は全くの別人である。具体的に云えば、3世紀初頭、素佐之男命は出雲地方全体を統治し、その後、息子の大物主命(饒速日尊)及び末娘、須世理姫の入婿に当たる大己貴命(大国主命)を伴って九州地方も制圧した。
魏志倭人伝にある“往七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃、共に一女子を立てて王となす、名を卑弥呼と曰う”はこの時の事である。勿論、卑弥呼は大日霊女(天照大神)である。
「大物主命」とは素佐之男と奇稲田姫との間に生まれた8人兄弟(5男3女)の三男「饒速日尊」(大物主命)のことである。因みにこの大物主奇饔玉饒速日尊(大物主命)の諡号は「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」であり、別名としては「大国魂大神」、「大歳御祖大神」等がある。
素佐之男が九州西都原で没した後、大日霊女(卑弥呼)を大王位につけ、大物主自身は統治の実務を大国主命に任せて自分は大和平野を制すれば、出雲、九州を含め西日本全体を制することになると大和に乗り込む。
その時(183年頃)大和を支配していた長髄彦の妹である「三炊屋姫」を娶って戦わずして大和の地も従属させ自分は三輪山の麓に居を構えた。大物主命(饒速日尊)が出雲の須賀にある三室山の近くに永く住んでいたことから、この大和の山を三室山と名付けた。今は「古事記」に書かれた三輪山神話から「三輪山」が正式名称として定着しているが、今でも三室山とか三諸山とも呼ばれるのは、上記の事情から「三室山」が最初の名前だったからである。
饒速日尊は三炊屋姫との間に2男1女をもうけるが、その長男が後の物部氏の先祖となる「宇摩志麻治尊」である。次男は「天香山尊」(高倉下尊)で末娘が「伊須気依姫」である。饒速日尊は大和地方の完全掌握に成功した後、近隣の山城、摂津、河内、和泉を従属させ、続いて現在の和歌山、兵庫、四国の阿波、讃岐まで順次遠征して全国統治へと地域を拡大して行った。その後、饒速日尊(大物主)は九州地方では大日霊女女王が統治するようになった220年頃この世を去った。
然し、当時は末子相続の時代であったため、大和は伊須気依姫が正式相続人であるが未だ幼いため兄の宇摩志麻治尊が政治を取り仕切っていた。一方、九州日向では大日霊女も相当な高齢であり相続人と言えば「鵜茅草葺不合尊」の末子「伊波礼彦尊」(大日霊女の孫)で、後の「神武天皇」である。そこで九州の智慧袋として大日霊女を補佐していた「高皇産霊神」が全国を大同団結して一本化する最善策として伊波礼彦尊を大和の相続人、伊須気依姫に婿入りさせることになった。
これが世に言う「神武の御東征」であるが、此処に述べた事情から正しくは「御東征」ではなく「御東遷」であるべきだと思う。然し、伊波礼彦尊(神武天皇)が難波から生駒山系を越えて大和入りしようとした際、長髄彦と激しい戦闘となり九州から介添え役として同伴した長兄「五瀬尊」も傷つき和歌山で亡くなっている。この事実を捉え飽くまでも「御東征」ではないかと反論が出るかも知れないが、確かに伊須気依姫の叔父に当たる長髄彦一人だけがこの婿入りに最後まで反対したに過ぎない。
結局はこのルートでの大和入りを諦め、船で紀伊半島を迂回し熊野から入ったわけだが、この時は宇摩志麻治尊の弟である天香山尊(高倉下尊)が道案内をして大和に迎え入れたことを見ても御東遷であることが分る。「古事記」「日本書紀」は飽くまでも皇祖を天照大神とし、神武が初代天皇として武力を持って全国統一を成し遂げ大和朝廷が成立したとの筋書きを作り上げたものである。
では何故歴史的事実まで歪曲しなければならなかったのか。その答は日本史の中で唯一と言える宗教戦争である。仏教の伝来以降、時の天皇家を中心に仏教が広まるにつれ、勢力を増してきていた崇仏派の蘇我一族と日本古来の神道を奉じる出雲系の物部氏との確執が抜き差しならぬ処となり、589年、蘇我・物部戦争を経て神武以来権力の座にあった物部氏は滅びる。
物部氏没落後、蘇我が実権を掌握し仏教勢力の力が盛り上がるにつれ、天皇家の先祖がその仏教に反対した物部氏ではどうしても困る。幸い神武天皇は日向の系統である。そこで出雲の系統を日本の正史から抹殺しようと試み書き上げられたのが「日本書紀」である。それは物部氏没落後、約100年後のことである。以上が日本書紀以前の日本古代史の真相であり、従って「大神神社」の主祭神は大和朝廷の基礎を築かれた饒速日尊(大物主命)その人である。」
小雨が降り始めて寒さ身に沁みる中、物部神社を参拝しました。参拝者も少なく閑散としていますが立派な春日造りの社殿は目を見張るものです。